黒霧を纏う雲を、天の槍が二つに引き裂いた。いつも頼りにしているはずのそれに、今はどうしようもない胸騒ぎを覚えた。

 湿った風が鉄の匂いを運ぶ。響く剣戟が雷鳴すら凌駕する。

 稲光を跳ね返し、天空の剣が鞘から迸りでた。

「ふざけんなッ! 仲間でも邪魔すんなら容赦しねえぞッ!」

 緑髪を猛る風に躍らせ、ソロが激昂する。相対する魔物の群れを睨み付ける双眸は、その紫電で今にも射殺さんばかりだった。

「頼む、どいてくれ! お前達の主人が危ないんだよ!」

 レックは一歩前に進み出て懇願する。しかしそこにキラーパンサーが牙を剥いて襲い掛かる。間髪入れずに躱して振り向くと、信じられないといった顔のナインと目が合った。

「まさか、本当に覚えてないんですか……? あのアベルさんを?」

「ちっ、ここもかよ!」

 ソロがスライムナイトの剣を受けて流し、力づくで捩じって振り切り騎手を剣の腹で殴り飛ばした。スライムが、ドラキーが、ブラウニーが彼へ飛びつき攻撃する。端正な顔を歪めて、ソロは乱雑にそれらを振り払おうと暴れる。

 ナインがゴーレムのパンチを跳ねて躱し、その拳を足場代わりに蹴って逃げる。太い雷が空を走る。眩い光が視界を白く染めて、いくつかの影が怯んだのを見た。

 レックは叫んだ。

「今だ、走れ!」

 地を揺らす怒りの声に構わず、三人は戦場を駆け抜けた。森に飛び込み、暗闇に目が慣れるのを待たず走る。ナインが先頭に躍り出た。

「すぐそこです! 急いで!」

 追手は来ていない。それに気味悪さを感じながら彼らは地を強く蹴る。

 気味が悪いのは追手が来ないだけではない。この状況全ての得体が知れない。しかし、彼らは進まねばならなかった。

 森の凸凹道に慣れた頃、彼らは暗がりから脱出した。そして息を飲んだ。

 獣道の中央に、紫のマントを羽織った男が倒れている。

 脇目もふらず駆け寄り、しゃがみ込む。ナインは唇を噛んだ。胸の中央に大きな穴が開いている。しかも、ここ数日で何度も見て来た形のものが。

「これは……」

 レックが青ざめる。さすがに見覚えがあるようだ。当然だろう。何せ、これまでの戦いで自分の得物を刺す度、飽きるほど目にしてきたのだから。

 ソロが回復呪を唱えながら傷に両手をかざす。男の瞼が開いた。ぼんやりとした不思議な虹彩に、自分の周りを取り囲む男達が映る。喋ろうとして咳き込み、唇の端を赤が伝った。

「アベル!」

「ははは、びっくりしたよ……反抗期かな」

「馬鹿野郎ッ! 何で戦わなかったんだよ!?」

「できるわけないよ」

 自分の、子供だよ? 掠れた声でそう言い、アベルは微笑む。

 レックは歯噛みする。この優しさが彼最大の武器で魅力だった。しかし、その武器は彼自身を殺したのだ。

「せめて、あと少しもってくれてれば」

「くそっ何でだッ」

 ソロが翳していた手を握り、地面を殴りつけた。

「回復呪文が効かねえ!」

「僕がやります」

 ナインがソロを押しのけ、掌をアベルの上に翳した。

「ベホマ」

 しかしいつもならすぐ掌に集うはずの癒しの光は、五回瞬きをしても現れなかった。ナインは落ち着いて全詠唱に切り替える。

「栄えある光の神々よ、傷つきし者を癒したまえ――ベホマ」

 地面を伝った血の流れが、少年の膝を濡らす。回復しない。それを確認するとナインはまた詠唱を切り替えた。

「光輝たる癒しの女神よ、傷つきし者を癒したまえ――ベホイム」

「ねえ、お願いがあるんだ」

 アベルの声から力が失せつつあった。ナインはまた詠唱を変える。

「母なる大地の女神よ」

「喋るな! もう少し」

 レックが叱咤し、アベルの手を握る。

 しかし彼は微笑んで、青年の肩に手を置く。

「僕が死んでも」

「傷つきし者を癒したまえ」

「待てって言ってるだろ!」

「ベホイミ」

「家族や魔物達」

「大地の精霊よ」

「アベル!」

「城のみんなのこと」

「傷つきし者に」

「やめろ!」

「癒しを」

「怒らないで」

「ホイミ」

 何を唱えようと、精霊文字は光を持って流れ出ない。傷口も一向に塞がらない。

 アベルの双眸からみるみるうちに色が褪せていく。ナインはもう焦燥を隠せなかった。

「そんな。回復呪文が、全て効かないなんて」

 彼は腰に下げた小袋を探る。中から細い小瓶を取り出して、男の口元へ持っていき中身を垂らす。世界樹の雫は傷を癒し始めたが、零れ落ちる命の砂時計はもう止まらなかった。

「ぼ、くは」

 ずるり、と。掌が肩を滑る。

 言葉半ばにして、男の瞳から光が消え去っていた。

「嘘だろ」

 レックは竦んだ。見たものを受け入れられなかった。あの、自分が知る誰よりも優しく、同時に誰よりも強い男が、こんな簡単に死ぬはずがなかった。

 沈黙が重くのしかかる。彼らはまるで縫い付けられたように、そこから動くことができなくなった。

「ザオリク」

 少年の詠唱する声が空しく響く。アベルは動かない。

「世界樹よ、女神セレシアよ。我が願いを叶えたまえ。冥界より我らが友アベルの御魂を今、ここに――ザオリク」

 ナインはじっと、目を凝らして待つ。死者の身体は浮き上がらない。

「ザオリク……ザオリク、ザオリクザオリクザオリクッ」

 もと天使の口はまるでそれしか言えなくなったかのように詠唱を繰り返した。だが何度唱えても世界樹の葉をすりつぶして与えても、アベルの瞳がまた輝きを取り戻すことはなかった。

「どうして……どうしてなんですか。魔法が、効かない……?」

 ナインは横たわる男の肩にそっと手を置き、優しく揺すりながら語り掛ける。

「アベルさん、嘘でしょう? 起きてください」

 小さな唇がわななく。声が震える。

「アベルさんっ……アベルさん!」

 揺すっても揺すっても男の目は真上を見据えたまま、揺すられたままの動きをする。それは、「もの」の動き方だった。

 悲痛な声を上げながら、それでもアベルを揺さぶりつづけるナインの腕をソロが掴む。俯いた彼の噛み締めた唇から、一筋の血が流れる。

 レックは天を仰いだ。

 マスタードラゴン、ゼニス王、あるいは、いるならばこの世界の創造主――誰でもいいから答えて欲しい。

「俺達が、何したって言うんだよ!」

 雨粒が一つ、額に弾けた。

 その時彼は、生まれて初めて声を放ち泣いた。

 

 


 

 

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