夢を見た。

 今となっては懐かしい、不可思議な薄靄のかかった狭間の夢だった。

「いいえ、これは夢ではありません」

 女の声がする。

「私の名はセレシア。世界樹に連なる女神の一人です。貴方はレイドック王国のレック・ロベルト・モルドオム王子ですね?」

 足元を見下ろす。そこでレックは、自分が貴族の服ではなく着なれた旅装をまとっていることに気付いた。

 靄の一部が、聖なる光の渦へと転じた。その中から、世界樹の輪を冠した白金の乙女が立ち上がる。

「お願いがあって参りました。私の世界が危機にさらされているのです。貴方の力を貸してくださいませんか?」

 ですが、僕は何を。

「ムドーという魔族を知っているでしょう?」

 レックは拳を握りこんだ。それは、かつて己を二つに裂いた忌まわしい者の名だった。

「彼が私の世界にいるのです。戦ったことがある貴方なら攻略法を知っているはず。それを、私の愛しい子に教えてみてくれませんか」

 ムドーが? アイツは確かに倒したはず。なのにどうして。

「私の愛しい子がいずれ迎えに行きましょう。色好い返事を待っています」

 お待ちください、まだお聞きしたいことが──……

 


 




     


 

「レック、どうした」

 我に返った。向かいに座る父王がこちらの顔を覗き込んでいる。壁に自屋にはないレイドック王家の紋が刻まれたタペストリーがかかっているのを見て、レックは今自分が父の部屋におり、たった今まで一ヶ月後に迫っている収穫祭の話をしていたことを思い出した。

 まさか、居眠りか! レックは顔面が発火するのを自覚した。彼が謝ろうとした時、王が先に問いかけた。

「具合が悪いのか?」

「いえ、その」

 レックは正直になることにした。

「申し訳ございません。居眠りをしていたようです」

「そうか。まあよい、そんなにかしこまるな」

 おおらかな王は笑った。

「このところ収穫祭やバザーの件であわただしくしていたからな。たまには穏やかな昼下がりを享受したって、バチは当たらんだろう」

 そう言って手を鳴らし、扉の向こうから現れたメイドに茶と菓子の準備を促した。メイドに指示を出している間も、彼女が去ってからも、レックは身を縮こまらせていた。

「申し訳ございません、父上」

「構わん。閣議中ならばともかく、お前とワシだけの気楽な場だ。たまには息抜きも必要だぞ」

 レイドック王は立ち上がり伸びをした。窓辺へと向かっていくその背中を、レックは目で追う。

「レック、気付いているか。お前が大魔王を倒して凱旋してから、早いものでもう二年が経とうとしている」

 もう、そんなに経つのか。

 彼は窓の外を眺める王の背中を見つめる。肩に差す陽だまりは丸く、階下から伝わる笑い声や呼び声から、その向こうにある街の陽気さが伝わってくる。

「お前の働きは見事だった。魔王のことだけではない。旅をしている間もその勇姿で我が民に希望を与え続け、旅が終わってからはこうして彼らのために尽力してくれている。お前は自慢の息子だ」

「ありがとう、ございます」

「だが少し、根を詰めすぎていないか?」

 レックはすぐに答える。

「いえ、大丈夫です」

「最近公務以外で出かけないばかりか、かつての仲間たちも寄せ付けないそうではないか」

 王の思いがけない言葉に、レックは返事に詰まる。

「ご心配をおかけして、申し訳ございま──」

「咎めているわけではない」

 王は苦笑した。

「咎めているわけではないのだ、レックよ」

 王が振り返った。逆光の中でも、彼が微笑んでいるのが見えた。

「お前のそういうところは、幼い頃から変わらないな。シェーラがよく言っておった。お前は聡い子だから、何か思うところがあってもそれを表に出さないと」

 そして今でもそう言っておる。

 父は息子を見つめた。レックは目を逸らせない。

「こちらに戻って来てから、お前は堅いな」

 そんなことはありません。そもそも昔から、俺は堅い人間だったでしょう?

 そう言いたかった。しかしこの優しい父に、聡い主君に、嘘を吐きたくもなかった。

 レイドック王は口を噤んだままのレックをどう思ったか、かぶりを振った。

「確かに以前、ワシはお前を別人のようだと言った。そしてシェーラはお前を、『完全には元に戻らなかった』と称した」

 レックは目を反らしたくなるのを堪える。王はしかし、口元に笑みをたたえたまま彼の肩を叩いた。

「だがレックよ。どんなお前であろうと、お前が我が血と魂を分けた息子であることに変わりはない。お前はお前の、好きな自分でいればいい」

「父上……」

 そこへメイドが茶と菓子を運んできた。冷めた紅茶と焼き菓子を嗜みながら案件の続きを話し合い、しばらくしてレックは父の部屋を辞した。緋色の回廊を歩きながら、物思いに耽る。

 レックには二つ、生い立ちの記憶がある。

 一つはこのレイドック城で王子として育てられたもの。もう一つは北の果て、ライフコッド村で庶民として生きてきたものだ。

 魔王討伐に出たものの返り討ちにされたかつての自分は、精神と肉体を分かたれ、夢の世界と現実の世界のそれぞれに隔離された。現実の自分はライフコッドで少女に匿われながら身を潜め、夢の自分は長いこと旅をしていた。その結果、一つに戻った時、夢の人格が勝って別人のようになった。

 どちらが本当の自分の人生なのかと問われれば、答えはもちろん前者だろう。しかしかりそめとはいえ、ライフコッド村で奔放に暮らし、力を蓄え勇気を身に付けてきた青年の記憶は、あまりに鮮烈だった。それと比べてしまうと、魔王への不安に苛まれながらも身の安全を確保されて暮らしていた城での記憶は、過ぎ去りし時の向こうに佇む亡霊のようなものとしてしか思い出せない。

(俺は本当に、「レック王子」なんだろうか)

 何度目か分からぬ自問。答えは分かりきっているが、どうにも正しい気がしない。

 忙しい中でも愛してくれた母の記憶はある。戦衣装を身に纏い旅立つ、父の背中を覚えている。ままごと遊びという名の泥遊びで顔中真っ黒にした妹の笑顔が愛しかったと思う。

 しかしそれでも、夢の世界における生活は鮮烈すぎた。

 自由に身体を動かして稼ぐ喜び。気の置けない住民や友人と語らうことの楽しさ。そして家に帰ればかけがえのない家族が、温かい食事を用意して迎えてくれることの、なんと嬉しかったことか!

 この城で生活していたかつての「レック王子」は、品行方正で穏やかな青年であったという。決めた時間に必ず起きて朝食を摂り、朝から晩まで国民と己がより良く生きるための術を学ぶ。剣とペンとをかわるがわる手にし、それを手放すのは食事の時だけだ。

 レイドック王城の宮廷料理は他国に比べ質素であると言われるが、それでも庶民のものより手が込んでいる。何十という下働きたちが料理が冷めるまで毒見をし、華やかな皿に綺麗に盛って提供してくれる。

 至れり尽くせりの生活。求めるものは何でも与えられ、自分の姿を見た誰もが礼をして敬ってくれる。不満はない。

 けれどレックは。今現在の、レイドック王国第一王子レック・ロベルト・モルドオムは。

(ターニアの焼いた、ライ麦のパンが食べたいな)

 武官たちの敬礼、メイドたちの黄色い声、従僕の慌てて腰を折るのに、それぞれ笑顔で応えながら回顧する。

(旅の途中で立ち寄った時は、みんなで一緒に夕飯を作ったっけ。あらかじめ材料を集めて……ハッサンが薪を用意して、チャモロとアモスが魚を釣りに行くんだ。テリーとドランゴは狩りをして、ミレーユとバーバラが果物とか、珍しいものを取ってきてくれて、穀物は村のみんなに物々交換で分けてもらって)

 そうして集めた素材を抱えて家に帰ると、ターニアは目を丸くするのだ。

 ──すごい、こんなにたくさん……!

 そしてすぐに、彼女を知る誰もが大好きだったあの笑顔を浮かべる。

 ──今夜はごちそうね! よーし、はりきっちゃうわよ!

 狭い家に皆でぎゅうぎゅう詰めになって、やんややんやと騒いだ。騒がしく、明るく、温かかった……もう二度と繰り返されることのない、大切な思い出。

 あの旅が終わり、世界が平穏になって二年。

 レックは日々王族として何不自由のない生活を送りながら、それでもライフコッドや旅先での暮らしに焦がれている自分に気づいていた。だからこそ、それでも息子として愛してくれる両親や、次期王位継承者として尽くしてくれる城の面々に面目ないと感じている。

 己がかつてのまま、城での生活に満足していられる性格だったら。

 レックは夢想する。だがそれはありえないことだ。

 彼が旅立たなければ、そして魔王ムドーにより精神と肉体を断たれていなければ、今のこの世界自体が消滅していたかもしれなかったのだから。

(ムドー)

 レックの歩幅が、知らず大きくなる。

 先ほどの夢を思い出す。知らない女性が己とその名を呼んでいた。加えて、かの魔王がどこぞにいるとも語っていた。

 よりによってこの時期に、あんな夢を見るとは。

 レックは額を押さえた。彼がかつて旅立ったのもこの祭りの時期だった。精霊の御使いを務めた妹を通じて、精霊自らが呼び掛けてきたことにより、彼の冒険は始まったのだ。

 あの夢は何だったのだろう。

 レックは考える。ただの夢か。それとも、まさかまた?

(いや、ありえないよな)

 先ほどの夢に出てきた女性は精霊だと名乗っていたが、しかし変なことを言っていた。私のところにムドーがいるとか、攻略法を教えろとか。

 ムドーは己と仲間とで、確かに葬ったのだ。それが現実にいるわけがない。

(あんな夢を見るなんて、父上の言うとおり、俺も少し参ってるのかもしれないな)

 レックは一人、ほろ苦い笑みを浮かべる。

 父の指摘する通り、彼は近頃仲間たちを遠ざけていた。自由な庶民暮らしが恋しすぎて、気を許した面々を見たら城から出奔してしまうかもしれないと思ったからである。

 我ながらなんとも女々しい、贅沢な悩みだと思う。仲間たちがこんな自分を見たら、きっと驚くに違いない。特に旅が終わって以来ずっと会っていないあの正直な家出娘あたりは、「レックってばジメジメしちゃって、らしくないよ!」とはっきり言うかもしれない。

 バーバラ……せめて彼女が、消えないでいてくれたなら!

 レックは溜息を堪え、過去へ戻ろうとする頭を無理やりに切り替えるべく、眼前の現実へ意識を向けた。

 春を迎えたばかりのレイドック王城は、まだ肌寒い。天井までの高さも回廊の幅もたっぷりしているわりに窓が狭いから、日差しの温度が十分に伝わらないのだ。

 レイドック城はそもそもが戦のための造りとなっているので仕方ないのかもしれないが、よりよい温度が保てるならばそれに越したことはない。精霊の祭りのことが終わったら、真っ先にハッサンに会って相談しよう。レックは頼れる兄貴分を思い浮かべて頷き、右手側に見えた自室の扉を押した。

 開いた隙間から、不意に手が伸びてきた。

 叫ぶ間もない。レックは手首を掴まれ、部屋の絨毯に放られた。受身を取る彼の耳に、金属の噛み合うカチリという音が届く。

(物盗りなら、鍵を閉めずに逃げるはず)

 レックは振り返る。

 室内の日陰。薄暗がりから影が立ち上がる。

 その正体は人だった。彩度の低いターバンと長衣が、彼の黒く塗り潰したような双眸以外を覆い隠している。

 人影は懐に手を差し込んだ。暗がりと一体化していたジャケットから、短剣の白い刃が溢れる。その切っ先がこちらを向いた。

「……え?」

 レックは唖然とした。

 人影は、口を開けた彼へと突進する。刃の先が首を掠め、鮮血が散るのを認めて、ようやく彼は事態を把握した。

「もしかして俺に、挑む気なのか?」

 答えは、二度三度と閃く銀の輝きで返ってきた。

 レックは繰り出されるダガーをかわしながら、胸の内にじわじわと奇妙な感覚が広がっていくのを覚えた。

 固まった何かが融解していく。溶けたものはレックの手足を巡り、伝った先から発火したように熱くなる。体温が急激に上昇する。

 これは、戦の高揚だ。

 勝って生きるか負けて死ぬか。その二択しかない至って単純な世界から、思えば長らく遠ざかっていた。久しき興奮がレックの全身にみなぎる。跳ね起き、逆手で招いた。

「来いよッ!」

 誘いにのったのか。

 影が距離を取った。短剣に手を翳す。刃の周囲を精霊文字が回り始めた。

 影が距離を詰める。白刃が突き出される寸前、レックは身を前方へ滑らせる。

 刃を握る右手首を、左の拳で殴る。短剣が飛んだ。それが放物線を描くのを見届けず、右足を相手の膝裏へ回しこむ。傾ぐ体。倒れる前に片手で首元を掴んで叩きつけた。

 賊が呻く。叩きつけた拍子に顔半分を覆っていた布がずれた。現れた顔はレックより若く、まだ少年と呼べるあどけないものだった。

(誰かに暗殺を指示されたのか?)

 レックは手を緩めないまま、尋問する。

「誰の差し金だ?」

「素晴らしい!」

 レックの台詞に少年の感嘆が重なった。先程まで黒檀のようだった瞳が、きらきらと輝いていた。

「これこそ僕たちが求めていた火力! サポートしがいのある攻めの姿勢! あなたはガンガン自分が戦線を切り開くことで戦闘の土台を作っていくタイプのリーダーですね? 素晴らしい、素晴らしい」

 突如、暗殺者は活発に話し始めた。レックは尋ねる。

「お前、何者なんだ?」

「おや? 失礼いたしました」

 レックの首元に当てた手をどかし、少年は素早く起き上がって正座する。先ほどまでの殺気など微塵も感じさせないにこやかさで、軽やかに問いかける。

「貴方はレック・ロベルト・モルドオム王子で間違いないでしょうか?」

「ああ」

「僕はナイン・キュロスと申します。女神セレシア様の命を受け、かつて魔王ムドーを倒したという貴方をお迎えにあがりました」

 え。

 間の抜けた一音がレックの鼻を抜ける。しかしナインというらしい少年は構わず話し続ける。

「貴方の夢にセレシア様がいらっしゃってお話しになったはずです。僕達の世界に魔王ムドーがやって来てしまって困っているのです。彼は僕らの世界などに本来現れるものではないはず。ですから一度彼と戦ったことのある貴方に攻略法を教えていただきたく、またお力を貸していただきたく、こうして馳せ参じた次第なのですが……あれ、レック王子? どうかなさいましたか。まさか覚えてらっしゃいませんか?」

「いや、その夢なら多分見てると思うが」

 レックは唇を湿らせる。頭を整理する時間が欲しい。それ以前に自分の見ているものが現実かどうか確認したい。

「お前……いや、君は俺の夢か?」

 ナインの目が瞬く。瞳孔の焦点はそのままに、瞼だけが滑らかに動いた。

「おや、少し戦いを切り上げるのが早過ぎましたかね。もう少し強めに攻めておけば、痛みで目が覚めないことが分かって良かったでしょうか。それとも夢を見た直後に来るようにしたのが悪かったのでしょうか」

 彼は何を思ったかレックの手を握る。小さな身長に合った大きさながら、意外にも皮が硬く熱い。

「ほら、僕は現実ですよ。実体を持った人間の身体です。平熱三十六、五度。ぴったりでしょう?」

「ごめん、そこまでは分かんない」

 レックが言うと、彼は手を離して少し目を丸くした。

「まだ疑われるのですか。予想外です。レック・ロベルト・モルドオム王子は楽天的で単純であると聞いていたのですが、誤情報でしたか」

「失礼だな」

「困りましたね。まさか、現実であるかどうか分からないというそれだけのことが障害になるとは」

 ナインは腕を組んで考え込んでいる。何と話せばいいものか。そもそも今はどういう状況なんだ。迷いながらレックは口を開く。

「悪いんだけどな、軽はずみに約束できないんだよ。俺にはそれなりの立場もあるし、前にもえらい目に遭ったことがあったから」

「えらい目?」

「うーん。女神様の言葉に従って行ったら、現実だと思ってたことが幻だったというか」

「ああ、貴方の記憶のことですか」

 レックはぎょっとする。ナインは涼しげな顔を崩さずに言葉を続ける。

「貴方は二つの生い立ちの記憶を持っている。その片方が幻だった」

「何故それを」

「冒険の書に目を通しましたから、多少は知っています。現実の体が夢見た『ライフコッド村の青年』としての自分が大きくなり過ぎたわけですよね? 今でもそちらが主のような気がしてならないと」

 改めて眼前の少年を観察する。背丈はレックの胸程度、せいぜい見積もって年は十の前半か、やっと半ばに差しかかったところか。なかなかに愛嬌のある目鼻立ちをしているが、その年頃らしい表情の揺らぎが薄い。多少変化しても、どことなく年浅い者の感情を表したものとは思えないような。

 この少年はおかしい。レックはやっと眼前の異常を認識し始めた。

「お前、何なんだよ」

「僕はナイン・キュロス」

「それは聞いた。何者なんだ」

「セレシア様の使いです」

「女神の使い?」

「見ていただいた方が早いでしょう」

 ナインは一つ指を鳴らす。

 柔らかい光が彼を包み、徐に形を取り始めた。その形状に気付き、レックは我が眼を疑う。

「これが見えますか?」

 彼の背中に現れたもの、それは翼のように寄り集まった光だった。何となく天馬の翼を連想するが、何故それが人間の背に付いているのだろう。

「見えるけど」

 言いかけたレックは、少年の頭上に輝く光輪に気付いた。

「へ? え……ユーレイなの?」

「違います。天使です」

 正確には「もと」ですが、と彼は髪を耳に掻き上げる。その動作に合わせて、彼に付き従うように光輪も動いた。

「僕は訳あって人間の身体をこの世のよすがとしているのですが、そもそも天使なのです。だから貴方の夢の内容もわかりますし、貴方がどのような人物かも天界の記録から分かる」

 天使というものがいるとは予想外だ。レックは改めて初めて見る天使を凝視する。

「思ったよりロマンが無いな」

「やはりそうですか。男性の幽霊からはよく女型の方が良かったと言われるのですが、生身の人間もそうなのですね」

「うーん?」

 そうなのかもしれないが、そうではないと思う。

 話が逸れましたとナインは言って、本題を続ける。

「僕は魔王を討つために、天使から人間になることを選択しました。魔王によって生き方を変えられた者は貴方だけではありません。他の時間軸でも、世界でも、仔細は違いますが変化してしまった人々がいます。彼らは俗に『勇者』などと呼ばれていることが多いようです」

 レックの鼓動が一つ、大きく脈打つ。

 魔王によって、生き方を変えられた者。

 他の世界に存在する勇者。

「実は今、僕の世界にはムドーだけでなく本来現れるはずのない魔族が複数いるのです。ですからそれぞれの魔族を討った方々をお呼びして力を貸していただき、調査を進めているのです。既に僕の呼びかけに応えてくださった方もいます」

 ナインは上目がちに彼の顔を窺う。

「如何でしょう。女神様のお願いでこそありますが、報酬は出ます。宿代その他雑費は、僕が持ちます。そう長くはならない仕事になるとお約束します」

 受けていただけませんかと頭を下げた。レックは煩く鳴る鼓動を聞きながら思案する。

「父に掛け合ってみる」











 レックは、自分も挨拶にと譲らない自称天使を伴って父王のもとへ向かった。王は変わらず私室におり、しかも母まで揃っていた。今一度旅に出る許可をもらえないかと尋ねると、二人は意外にも顔色を変えなかった。

「何かあったのか?」

「あったのかまだ分からないのです。ただ不思議な夢を見ました」

 レックは丁寧に語った。夢を見たこと、天使だという少年が現れたこと、討ったはずの魔王が再臨しているかもしれないこと。

「ムドーが復活しているならば、またこの国に災いが降りかからないとも限りません。ですから、父上の許可をいただけますならば僕自身で魔王の正体を暴いて参りたく存じます。それが旅に出たい理由の一つ目です」

 後ろで聞いていたナインが首を傾げる。王は短く先を促す。

「二つ目は」

「はい。二つ目は、僕の──いえ、俺の個人的な理由からです」

 レックは敢えて言い直した。心臓が強く跳ねていた。

「俺はまだ、このレイドックの統治者となるのに迷いがあります。王とは就いてから為る者とは承知しております。ですが、俺のこの迷いはそれだけで解消できるとは思えないのです」

 半身を引き、片手でナインを指す。天使は理由こそ分からぬまでもお辞儀をする。

「このナインのいる世界には、これより他の魔王を討った勇者たちが集まると聞きました。そこに行って勇者たちと出会い、俺がこれからどう生きていけばいいのか見極めたい。これが二つ目の理由、と言いますより願いです」

 レックは理由の口上を述べ終わるまで両親から目を逸らさなかった。そして遂に片膝をつき、頭を垂れる。

「父上、母上。お二人のもとに生まれながら不肖の息子となりましたこと、まずお詫び申し上げます。僕はこのレイドックの国の王子として育ち、また心が体から離れましてもこの国の民草として生きておりました。祖国を愛しております。だからこそ、この不安定な心で王座を継ぐのに躊躇いを感じております。ですからどうか、今少し暇をいただけませんでしょうか」

 ほんの少しでいい。レックとて長くこの国を留守にしたくはない。ナインに尋ねたところ、三ヶ月あればかたがつくと言っていた。

「三ヶ月です。三ヶ月で必ず戻ります。その後はもう、我儘は申しません。この国の為に邁進して参りますことを誓います。もし戻ってきた僕が使い物になりませんでしたら、勘当でも投獄でもしていただいて構いません。ですからどうか今一度、僕を旅に行かせてくださいませんでしょうか」

 口の中が渇いている。頭を垂れたまま、レックは国王夫妻の言葉を待つ。ややあって、微かな衣擦れの音と彼らが小さく言葉を交わし合うのが聞こえた。

「面をあげよ」

 言われた通りにする。国王夫妻は優しい目で彼を見下ろしていた。

「そんなに畏まらなくてよい。お前は本当に、全く硬いな。誰に似たんだか」

「きっと私でしょうね。貴方ではないのは確かよ」

 シェーラ妃が言うと、王は肩をすくめた。それから彼は天使に視線を移す。

「その者の言うことがまことならば、ムドーが再臨したかもしれぬというのは聞き逃せぬことだ。レック、そなたはワシには出来なかったムドー討伐を成し遂げておる。そのおぬしの目で、奴の正体を見極めよ。そして必要有りと判断するならば、討ち取って参れ」

「はっ」

 レックは胸に手を添え、敬礼で応える。次いで王妃が口を開く。

「レックよ。貴方はこの国の王子である以前に、私たちの息子です。為政者として貴方に後継者の器を求めないことは出来ませんが、親としては、どんな貴方でも生きていてくれればそれだけで嬉しく思います」

 思わず頭を上げる。母は、柔らかな笑みを浮かべていた。

「このことをどうか忘れないで。必ず戻ってきてくださいね」

 胸に温かなものが広がるのを感じ、レックは深く腰を折った。

「ありがとうございます。必ず、戻って参ります」

「僕からもお約束します」

 ナインが前へ出た。丸い瞳を国王夫妻へ定め、淀みなく言う。

「僕の女神セレシアと守護天使の名にかけて、レイドック王子殿下を必ずお守りします。この約束を違えた時は、僕の世界が滅びる時。決して破りは致しません」

 言い終わると同時にその体が発光する。翼と光輪が宿った天使の姿となった彼が何事か唱えると、部屋の壁に輝く魔法陣が現れた。更にナインが手を振れば、その中央に扉が現れ、白い光の渦が広がった。

「三ヶ月後、この扉の渦から御子息は帰ってきます。他の方は連れて行けません。この扉をくぐることが出来るのは御子息のみになります」

「レック」

 王が立ち上がり、部屋の片隅にあった宝箱から何かを取り出して来た。光り輝く小さな宝珠である。

「これを持って行きなさい。お前の持ち帰ったセバスの兜、オルゴーの鎧、スフィアの盾は国宝故に持ち出すことが出来ぬ。しかし、その加護をこのオーブに込めておいた。お前が装備していれば、その三つの神器を身に付けたのと同じ効果を得られるだろう。ラミアスの剣はお前がいつも帯刀しているものだ。気にせず持ち出しなさい」

 王はレックの掌にオーブを収めた。彼が礼を言ってそれを身に付けると、王妃が目を細める。

「いつかこういう時が来ると思っていたの。宮廷魔術師たちにお願いしておいて正解だったわ」

 レックは胸が詰まる。俯く彼の肩を、王が叩いた。

「お前は昔から不思議なところがあったからな。『上』のお前が旅に出たのも、確か精霊の託宣を受けたからだっただろう?」

「はい」

「お前はよく精霊に愛される子のようだ。なに、国のことなら心配するな。老いぼれではあるが、ワシとてまだまだ現役じゃ。ドンと、大船に乗ったつもりで行って来い」

 王は頼もしく我が胸を叩いた。レックは思い切り頭を下げる。

「父上、母上。ありがとうございます。俺、行ってきます!」

 父が破顔した。母は頷いた。

 レックはナインの誘いに乗り、久方ぶりに旅の扉を潜った。


 




 





 レックの姿が消え、光の渦が収縮する。レイドック国王夫妻はその残滓の瞬き消える様を、最後の一片が失せるまで見つめていた。

「行ったようだな」

「ええ……あの子は、無事帰るでしょうか」

「ああ。彼奴の腕前は言うまでもない。それに根は真面目だ。何も心配することはないだろう」

「ああして苦悩している姿を見ていると、幼い頃を思い出します。いつも笑って王子としての務めを果たしながら、時折ふと表情に影を落とす様……あの頃から何も変わっていません」

「魔王と戦っていたとは言え、彼奴には幼い頃から多くのものを背負わせてしまったのだろうな」

「生まれついた王族のさだめからは逃れられない。ですが近頃、あの子にはそれだけではない生きる宿命があるように思われます」

「ああ。一人魔王の呪いから生き延び、聖なる声に導かれ更に巨大なる悪をも討ち取った。そして今回もまた。もしかすると、一国に収まらぬ器かもしれぬな」

「魂に、世界を駆ける翼を持っているのかもしれませんね」










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