◆◆◆
「無い」
審神者は霞む目をこすり、地図を凝視する。しかし、いくら見つめても捜し物は見つからない。
「何で無いんだ。もしかして、審神者部屋を探すこと自体が間違っているのか?」
「いや、探す価値はあるだろう」
ともに地図を覗き込む歌仙兼定が言う。
「青江から送られてきた映像を覚えているかい。薬研藤四郎が自分の主がいる場所としてその名前を挙げ、加えて奇妙なことを言っていた。今行けば分かる、だったかな」
「つまり、普通に探したらたどり着けない場所に審神者部屋があるってことだよね」
「ああ。そんな部屋に何もないとは思えない」
「しかし参ったな」
対面で頭を掻くのは鶴丸国永である。白い指先が手書きの地図をなぞる。
「間取りのどこをどう見ても不審な隙間が無さそうだ。ならば、どこに隠せるって言うんだ」
「こういう時こそ貴殿の出番だろう。いつもの驚きの発想で閃いてくれたまえよ」
「冗談だろ。俺はもともと墓育ちだから発想は貧困なんだ」
「地下施設の開拓者が何を言う」
歌仙と鶴丸が言葉の応酬を繰り広げている。審神者は欠伸を噛み殺した。それに目をとめた石切丸が近寄ってくる。
「主、そろそろ寝た方がいい。あとは寝ずの番の者たちの間でも考えてみるから」
柱時計を仰いだ歌仙と鶴丸も彼の提案に賛成し、審神者は半ば追い出されるような形で自室に戻ることになった。
「主さまぁ!」
作戦部屋を出るなり、小柄なものにたかられる。短刀達である。
「主君、お風呂行きましょう! 今日は『ばすろまんす』の日ですよ」
「虎徹のにーちゃんたちが、すっげえ気合い入れて泡立ててくれたんだぜ」
「お風呂は、身体と心の洗濯だよぉ」
秋田藤四郎が腰にしがみつき、愛染国俊が腕を引き、乱藤四郎が一歩先へ行く。気をつけないと転んでしまいますよと窘めるのが平野藤四郎、あとからついてくる影が二つ、ためらいがちなのが五虎退、常に距離が一定なのが小夜左文字である。愉快げな、期待に輝く幼い顔を見ていると、不思議と身体の力が抜ける。
(良かった。ちゃんと約束守ってるな)
本丸の者達には、博多の件があってから決して一人になるなと言い含めている。自分を迎えに来てくれたのもその延長で、きっと歌仙か石切丸あたりの配慮が働いているに違いない。
長い縁側を歩き、大風呂に行き着く。脱衣所にはコーヒー牛乳をあおる獅子王と鶯丸、長曽祢と浦島の虎徹兄弟がいた。
「よっ、主。お先にな」
いち早く気づいた獅子王が手を挙げる。審神者が振り返すと、素早く振り返った浦島虎徹が表情を輝かせた。
「主さん! 俺と長曽祢にーちゃんの合作泡風呂見て見てっ」
「今回も力作なのか?」
「もっちろん。名付けて『竜宮城の誘い~俺と宴しない?ver.幻灯の軌跡~』だぜ!」
「何で毎度、名前がこの上なくパーリィなんだ」
浦島と語らう僅かな間に、短刀達は勢いよく衣服を脱ぎ捨てて浴室へ飛び込んでいく。転ぶなよと声を掛け、脱ぎかける審神者の袖を鶯丸が引く。
「やあ、水出し茶はまだ常備されないのか」
「湯上がりまで茶ですか」
「歌仙の耳に入ると凝り出して大変だからやめろって言ってるだろ、爺さん」
「むむ」
「主」
長曽祢が真面目な面持ちで床に膝をついたのを見て、他の面子は一度口を噤む。両拳を地につけ、頭を下げる。
「博多の件、本当にすまない。俺が気をつけていれば、にっかり青江も一振で偵察に行かずに済んだ。どうか今後、別の働きで返させてくれ」
「仕方ないって。仲間を信じた結果なんだから」
審神者も片膝をつき、長曽祢の顔を上げさせる。硬い表情を覗き込み、眉をハの字にして微笑む。
「俺ももう少し考えていれば、防ぎようがあったなって反省してるんだ。長曽祢と厚だけのせいじゃないよ。歌仙も厳しそうなこと言ったけど、二人のせいじゃないって分かってる。今後とも俺を支えてくれ」
「誠心誠意励もう」
「なあ、その厚の話なんだけどさ」
主従が拳を交わしたところで、黙っていた獅子王が口を開く。
「今ちょうど風呂にいるんだけど、すげえ落ち込んでるんだよ」
「後藤が付いてるけど、主さんが声かけてあげるのが一番効果があると思う」
「あの粟田口の黒いのの元気が無いと、他の短刀どもも落ち着かん。君、なんとかしてくれないか」
浦島虎徹が言い、さらには鶯丸も言い添える。審神者は驚いた。
「鶯丸が言うなんて、よっぽどなんだな」
「いけるか?」
「そりゃあ、まあ」
厚藤四郎は本丸二番目に顕現された付喪神である。つまり初期刀歌仙兼定の次に古く、審神者が初めて鍛えた刀なのだ。この本丸において彼の存在は大きい。
「言えた義理じゃ無いのは承知なんだが、俺からもどうか頼む」
長曽祢も頭を下げて、それならばいよいよと審神者は風呂に乗り込むことにした。
引き戸を開けると、確かに浴場は宴だった。水色や金、薄紅の泡が宙を浮き、池ほどもある浴槽は水面が見えないほどに淡い色彩の泡であふれかえっている。さながら南海の水中、竜宮城の宴と言うのも満更でも無い、入浴剤も進化したものだと審神者は感心する。
「お背中流します」
おかっぱ髪の濡れた平野藤四郎が寄ってきた。ありがとうと声をかけ、ついて行きながら全体の様子を窺う。浴槽で愛染や乱、秋田らが談笑している。左文字兄弟は五虎退と共に虎を洗っている。和やかな彼らから離れた浴槽の隅に、蜻蛉切と後藤藤四郎、そして厚藤四郎が並んでいた。少し見ただけでも、沈んだ雰囲気であるのが伝わってくる。
「厚兄さん、日中はいつも通り振る舞ってらしたんですけど、疲れが出たみたいで」
平野が気遣わしげな視線を送りながら囁いた。審神者は頷く。真面目で面倒見が良い彼らしい。
背中を流し終わる。平野に目配せをして、審神者は立ち上がった。平野は他の兄弟達のもとへ、審神者は湯船へ足を踏み入れる。厚藤四郎は俯き、此方に背を向けている。最初に後藤が此方に気付いて軽く眼を瞠り、次に蜻蛉切が顔を上げ、それに気付いた厚が顔を上げようとしたのと時を同じくして審神者はその薄い肩を両手で掴みながら沈み込んだ。
「あてッ、た、大将?」
「厚」
唐突に肩を揉み始めた主君に戸惑っている。構わず審神者は本題を切り出した。
「博多は大丈夫だ」
厚が息を呑むのが分かった。
「日本号が言ってた。屋敷はどんな時も、捕獲対象をじわじわ浸食していく方法を続けているそうだ。屋敷の最終的な狙いは、きっと審神者だ。俺があっちに引きずり込まなければ、奴もせっかくの餌を──刀剣男士をどうこうしようとはしないよ」
「本当、か」
「ああ。あいつが折れたら俺にはすぐ分かる」
何故なら、己は彼の審神者なのだから。
顔を覗き込むと、大きな瞳とまっすぐ目が合った。其処に弱気の色は見えなくなっている。
「だから厚。俺を信じて、守ってくれるか」
目が丸くなる。それから眉に力を込め、大きく頷いた。
「当たり前だ、大将。俺は二度とはしくじらねえ」
厚は断言した。審神者は笑い、彼の頭を掻き混ぜる。
「さすが俺が初めて鍛えた刀だ。頼んだよ」
「出ようぜ、厚」
後藤藤四郎が立ち上がり、促す。厚はそれに笑顔で応えた。二人が浴場を後にすると、次第に我も我もと短刀等が続いて上がっていった。その背中にサイダーが冷えてるからみんなで飲めよと声を掛けると、心なしか安心したような笑顔が返ってきた。
「流石ですな、主殿」
蜻蛉切が言う。その隣に並んだ審神者は息を吐く。
「いや、まだだよ。厚も俺も、ここからが踏ん張り所だ」
「あんた、案外楽観的じゃあないんだな」
蜻蛉切よりがさついた声が聞こえた。審神者は其方を振り返る。日本号が鯰尾藤四郎、大倶利伽羅と共に湯船へ足を踏み入れたところだった。日本号はざぶざぶと湯をかき分け、やや離れた位置へ座った。審神者との間に鯰尾が腰掛け、反対側に大倶利伽羅が沈む。
「案外とは失礼ですね。こう見えて主さんは繊細なんですよ」
「鯰尾、お前が一番失礼だぞ」
口を尖らせている脇差の額を小突いた。日本号が笑う。
「刀の様子を見れば、審神者の人柄が分かる。あんたは随分人がいいと見た。仲間を気遣える刀が多い」
「俺だけが原因じゃないですよ。本刃達の努力です」
「気遣いのできる人間は心に負ったものも多いと聞く」
心に負ったもの。日本号の台詞に含まれたものを感じ取った審神者は、首を横に振る。
「心配しなくても、俺はそんな簡単には藤の屋敷には飲まれませんよ」
「油断するなよ。過去の連中もみんなそう言ってきた」
「日本号さんだって、僕の見てきた日本号さんの中でも特に優しいのに、呑まれてないじゃあないですか」
日本号は眉を下げた。だがすぐ、審神者がその表情の意図を確かめる前に笑って見せる。
「ははっ。こんな窶れたおっさん捕まえて、面白いこと言うなあ」
「嘘じゃないです。あなたの顔は、柘榴様を思い出させます」
顔立ちが同じだと言うわけではない。面差しが、表情の作り方が似ているのだ。柔らかく、それでいて芯の通った気高さが滲むその様は、審神者の知る女傑のものによく似ていた。
「あんた、俺の主に詳しいんだな。知り合いだったのか」
「あの方を知らない審神者なんていませんよ。まあ、俺の場合はそれに加えて、あの方の系列と兄弟系列の一門で学びましたから、面識が多少あったんですよね」
「個人の師匠に習ったのか。珍しいな」
「言ったじゃないですか。俺、落ちこぼれだったんですよ」
時の戦争が始まって以来、審神者候補生は政府の定める公的機関でその技を身につける義務がある。しかし中にはそうせずに審神者になった者もいる。大別すると、あらかじめ優れたものを持っていて個人に習えばすぐ働ける傑物か、霊的素質で言えば基準を下回るが他の点で必要なものを補える程度の落ちこぼれか、その二種に分かれる。己がどちらなのかは言うまでもない。
「審神者になる人って、ほぼスカウトなんです。国民の義務として霊力検査っていうのがあるんですけど、それで良い基準値が出れば、簡単なテストをしてそのままほぼ採用。そうじゃなければ、軍属だったけど前線で戦えなくなっちゃった人だったり、遡行軍の被害に遭っちゃったばかりにこの道に進むしかなくなっちゃった人だったり、そういう、結構な理由が過半数占めるんです。その点僕は霊力検査にギリギリ引っかからない、身体能力も並、遡行軍に関わったことも無い、ただの一般人です」
だから、屋敷に付け入られるような辛いことも何もない。兄弟子のことはあるが、それさえ気をつけていれば心配はない。
そう言うと、日本号はかえってまじまじと此方を見つめて来た。
「何であんた、審神者になろうと思ったんだ」
そう思うのも当然だ。彼の主は特に激しい人だったから、自分のような燃えるもののないままに審神者をやっているタイプは珍しいだろう。
「大した理由なんてないです」
審神者は笑う。
「ただ、付喪神になんとなく憧れていたんです。僕たち人間よりずっと長く生きる、人のようで人じゃ無い存在に」
己はとにかく執着が薄い人間だった。外見も資産も名声も恋人も、あればいいとは思うがなくても別に構わない。身の周りを取り巻くものは、いつかなべて無くなるのだ。ならば執着をするだけ無駄だろう。そうなると感情も同様で、喜怒哀楽は人並みにあるが薄れるのが早い。
「人間は百年生きればよく続いた方で、そんな僕たちが生み出すものも、なかなかそう長く続かない。でも刀の付喪神は違う。手入れさえ続けていれば、限りなく長く宿り続ける。それってすごいなって思ったんです。そんな長く続くものの心を、僕らのような儚い存在が起こせる、しかも付喪神はわざわざ心と実体を持てるようになったのに何故か人間の姿を取り、人間のような生活をすると聞きました。それで、どうしても刀剣男士と会いたい、話がしたい、共に戦いたいと思ったんです」
人間が歴史を守るという仕事内容にも興味を覚えた。それで志願した。
「良く言えば行動力がある、悪く言えば無茶するなあってところだな」
「ですよね。今の俺があの頃の俺だったら説教するところです。やめとけ、戦争職だぞって」
「主さん」
鯰尾が不安げに口を開く。審神者は彼の頭を撫で、首を横に振る。
「大丈夫」
好きで選んだ道だ。遠き日の甘やかな憧れは、苦みを知り覚悟に変わった。 人間ではないながら懸命に人に近づこうとする刀を愛そうと誓った。
だからきっと、大丈夫。まだやれる。
◆◆
夜更け、座敷牢に日本号と長谷部が向かい合っている。とは言っても相手を見ているのは日本号だけで、長谷部の方は深く俯いて彼の方を見ようともしない。
「聞いてくれよ、長谷部」
日本号が口を開く。
「この本丸の主はいい奴だぜ。もともと持ってるものはちと残念だが、刀との接し方もいいし、筋がいい。蘇芳の坊も気に入ってたんだ。そう言えば分かるだろう。アイツは見る目があったからな」
長谷部は首を垂れたままだ。日本号は頭を掻く。
「まあ、だからこんな変なもんに引っかかっちまったんだろうなあ。蘇芳の坊はあのばあさんの息子で、奴自身も努力家だ。勘のいい奴は変なもんに強いが、一方で目も付けられやすい。アイツは昔から変なもんに好かれやすかった。その度にお前もハラハラしてたよな。どうにか退けて来たが」
一度言葉を切り、溜息を吐く。
「せめて、あと十年早く引っかかってればな。ばあさんも身体が保っただろうに。人間はどうしてこうも脆いもんか」
日本号が黙ってしまえば、座敷牢は沈黙しかなくなる。牢番は日本号が長谷部に話す間は、気を遣ってくれているのか話さない。長谷部も勿論、話さない。
もうずっとそうだった。日本号と同じ時間を分かち合って来た仲間達は、皆炉へ還った。共に他愛も無い話をしたり、深刻な題を話し合える者はもう居ない。
「長谷部、なあ長谷部」
堪らなくなり、日本号は膝で距離を詰める。深く俯く肩を揺すり、呼び掛ける。
「屋敷でもいい。どっちでもいいから、答えてくれよ」
どうして俺を喰わない。
問い掛けた声は震えた。情けないだとか矜持がどうだとか、そんなことはもう考えない。矜持は己を尊ぶ者が持つものだ。惨劇を止められずただ生き残り続けるだけの己を、どうして尊ぶことが出来よう。
「俺がいて何になる。どんどん化物扱いされるお前を庇うことも出来ねえ、お前を還すことも出来ねえ、せめてお前に会って話が出来ればと、お前に喰われようと思ってもお前は俺を喰おうとしねえ。どうしてだ。どうして」
長谷部の顎を持ち上げる。瞼が閉じている。どうしても藤色の瞳孔に己の姿は映らない。日本号は唇を噛み締める。
「長谷部、頼む。何もできねえ俺を罵ってくれてもいい、滅茶苦茶に斬ってくれてもいい。俺を見てくれ。もう一回、俺を見て話をしてくれ」
身体を揺すっても、己が揺すった反動しか手に伝わらない。まるで死体のようだ。
何度目か分からぬ絶望に力が抜け、自分より遥かに細い身体に縋り付く。
「話してくれよ。何でお前、出て来ないんだよ。お前だって知ってんだろ。俺、シカトされるのが一番堪えるんだよ。この性悪野郎が。くそ」
日本号はきつく目を瞑る。
「頼むよ、長谷部」
◆
審神者部屋で師と向き合っている。
「試験に受かったか」
師の声は沈んでいる。決して自分のせいではない、彼は何時だってそうなのだ。どんな時でもこの世の終わりに響く地鳴りのような声をしている。
自分の正面向かって左に彼の手が移る。そして畳を一文字に滑った。滑る下から黒い札が五枚現れる。
「お前の紋を選んでおけ」
なるほど、己の紋様を選ぶらしい。自分がどれにしようか考えていると、右から手が伸びた。見遣ると兄弟子の笑みで細まった目とかち合った。彼は迷いなく一枚選び取り、かざして裏返す。
「僕はこれにしよう」
選び取ったのは波鉄仙である。成る程、兄弟子らしい落ち着きのある紋である。
自分には何の紋が合うだろう。そもそも裏返しの札であるから悩むだけ無駄なのだがつい考えてしまう。
「選んでやろう」
正面から手が伸び、一枚を裏返す。
変に崩れた藤の花がびっしりと書き込まれていた。
「これがいいだろう」
手が札を掴み自分に持たせようとする。突如強烈な反発心を覚え、両手を握りしめて退く。だが相手は自分の手首を万力のように締め上げて話さず、結んだ指を無理矢理解こうとする。
嫌だ、紋なんていらない。だって自分は選んだのだから。
──ならば今、自分は何をしているんだ。
審神者は跳ね起きた。上体を起こして荒い呼吸を繰り返すうち、傍らに白い影があることに気づき身が強張る。
「やあ」
鶴丸国永が覗き込んでいた。白い指が審神者の額に張り付いた髪を払い、背中を撫でる。
「魘されていたぞ。声を掛けたんだが、起きてくれて良かった。どうしたんだ」
「夢」
放心した声が出た。そうか、夢だったのか。審神者は、自分が眠っていたこと、師はもう亡くなっていること、審神者に必要な神紋選びもとっくに済ませ、もう五年目になったのだということを思い出した。そうしてやっと、先程まで見ていた景色は夢だったのだと認めることが出来た。
しかし、本当にただの夢だったのだろうか。
「それにしても君」
鶴丸が部屋を見回しつつ、凄まじいなと呟く。
「何が」
「気付かないのか」
ぱちくりとする満月の目が審神者を写す。
「この部屋、ひどく香っているぞ」
言葉にされ、審神者は初めて鼻腔の奥を満たすものがあったのに気付いた。正体を確かめようと反射的に己の袖へ鼻を近づけ、えずく。噎せ返る程の甘く涼やかな香り──藤の香が、人の柔い喉の奥を侵していた。
審神者は部屋からまろび出た。その身体が縁側を飛び越えて池へ転がろうとするのを、鶴丸は慌てて抱き止める。
「待て待て、池はまずいだろう」
「離せ! 匂いが──奴が、移る……ッ」
「なに、問題ないさ。見たところただの残り香だ」
鶴丸は審神者の旋毛に鼻を近づけて頷く。
「うん。今は何とも匂わない」
嗅いでみろと促され、渋々先程嗅いだ袖口に鼻をつける。確かに匂わない。他の箇所も嗅いでみたが、ただ清新な朝の空気と僅かに湿った己の汗の匂いを吸い込んだだけに終わった。
「昨夜、きみの部屋に匂いはなかったし、香物をした覚えもない。奴さん、きみにちょっかいをかけに来たようだな。何があった」
審神者は夢の内容について説明する。鶴丸の表情が真摯なものに変わった。
「ふぅむ。神紋選びか。なるほど。あちらの狙いは、やはり審神者だということか」
一言呟くと、立ち上がった。
「申し訳ないんだが、飯と会議同時でいいか。青江は無事で探索を続けているが、こっちもちと、妙なことが起こってな」
妙なこと。胸中がざわつく。しかしそれは強いて出さぬようにして、分かったとだけ告げて寝床を畳み、身支度を整えた。藤が未だ薄く香る部屋を開け放ち、廊下を歩き出す。審神者はすぐに異変に気付いた。
短刀等の姿が見当たらない。平時なら、この時刻は出陣もない。夜戦帰りならば寝ている頃だが、藤の本丸への対策を練っている今は一切出陣をしていないはずだった。
「きみも気にかかるだろうから、道すがら簡潔に説明しよう」
主が異変を悟ったことに気付いたのだろう。鶴丸が横に並んで言う。
「三十分前、転送ゲートに入場の形跡がついた。不寝番の者がすぐに確かめに行ったが、誰の姿も無かった。監視カメラにも何も映っていなかった」
「誤作動の可能性は」
訪ねながら、審神者にはそれはないのだろうと見当がついていた。はたして鶴丸は頭を振る。
「分からん。機械は今正常に動いているようだが、事が起きた時に如何だったかまでは俺たちでは分からなかった」
ならば自分が確かめる必要がある。本丸の機械システムは大方把握している。しかしその間、屋敷の方はどうするか。
とめどなく考え始めようとしたところに、鶴丸がもう一声発する。
「だが、この本丸にいない何者かが入ってきた可能性は高いようだ」
審神者は鶴丸を見上げる。満月の目も、此方を見下ろしていた。
「五虎退の虎が、転送ゲートから匂いを察知した。この本丸の誰のものでもないらしい」
後は直接聞いて貰うのがいいだろう。
鶴丸は辿り着いた襖を開け放つ。食卓の間には、歌仙と五虎退と石切丸、そして太刀と一部の打刀の面々が揃っていた。勿論日本号の姿もある。
「いない者には見回って貰っている。」
歌仙が言う。
審神者が上座に掛けて、朝食が始まった。握り飯と味噌汁は急いでこしらえたのだろう。腹が空だと頭が働かないので有り難い。
食事を摂りながら、鶴丸が先程自分に話して聞かせたことを復習い、そして審神者の見た夢について語った。神紋選びの下りになり、審神者が崩れた藤の紋を選択させられそうになった話になると、石切丸の顔が険しくなった。
「審神者の神紋は審神者自身の霊能と権威の象徴だ。それを親しい者の姿を借り、藤の模様に切り替えさせようとしたということは、主を奪おうとしているからに間違いない」
「化け物屋敷め。刀だけに飽き足らず、審神者自身を罠で嵌めようとしてきたか」
歌仙兼定が吐き捨てる。鶴丸が顎をさする。
「今回は主自身が夢の中で異変に気付いたのと、俺が声を掛けたことが目を覚まして逃れる切っ掛けになったようだ。今後、きみには悪いが寝る時は俺たちと一緒の方がいいかもしれないな」
「俺は構わないよ。寧ろ有り難い」
味噌汁を啜り、審神者は椀を置く。
「でも、その問題は俺が起きているうちは何ともないから大丈夫だろ。それよりゲートが心配だ。本当に、誰も何も見ていないのか」
「ああ。映像にも何も映っていないし、肉眼でも何も見えなかった」
なあ大倶利伽羅、と鶯丸が隣の男に振る。大倶利伽羅も言う。
「地面にも、誰の足跡もなかった」
転送ゲート周辺は、侵入者対策に足跡認証盤を半径三メートル程度敷き詰めてある。其処に何も残っていなかったということは、実体あるものは入って来ていないということだ。
審神者は一際小さな人影に声を掛ける。
「でも、五虎退は何か感じ取ったんだろ」
五虎退は視線を上げた。色素の薄い陶器のような肌をした彼は動かないと本当に人形でも座っているかのようだ。しかしこの本丸の短刀は、博多藤四郎を除いて練度が最上限に達し、鍛えられる能力は概ね鍛え切っている。この五虎退も例外ではない。
「嫌な匂いは感じられませんでした。でも微かに、気になる匂いがしました」
控えめに、上目遣いに琥珀の瞳が見つめてくるのを真っ向から見つめ返す。澄み切った色を湛えた彼の瞳は、そのくせ肉食獣じみた形をしている。
「死の匂いです。それと、懐かしい匂い。主さまのような『何か』の匂いでした」
「成る程な」
審神者は頷いた。
「俺に擬態出来れば、ゲートを潜ることも出来るかもしれない」
「しかしそれが出来たとして、足跡をつけないなんてこと、生身の何者かに出来るだろうか」
「生身じゃないなら出来るだろう」
歌仙に問いに答えた石切丸は、日本号の方を向く。
「これまでにこのようなことは?」
「俺が知る限りでは無いな」
「正体を決めつけるにはまだ早い。警戒はするに越したことはないけどね」
審神者は言い、一同を見渡す。
「他に何か議題はある?」
声は上がらなかった。ならば、おおよそ予め考えた通りで良いだろう。審神者からの合図を受け取った歌仙兼定が口を開く。
「本日は引き続き、屋敷の探索と分析の業務を続ける。それから長谷部の見張りと、侵入者の対策として二人一組での巡回を行う。ローテーションは瓦版に張り出す。朝議の内容は本丸掲示板に載せよう。適宜時間を見てまだ食事をしていない者に飯や情報を届けるなり、交代するなり頼む」
全員が応とこたえ、そのまま解散になった。概ねの刀は見回りと交代しに行き、日本号は五虎退と鶯丸に連れられて座敷牢へ向かう。歌仙、石切丸、鶴丸、審神者は本部に詰めに行くことにする。その道中、審神者は歌仙に尋ねる。
「そうだ、審神者部屋はどう?」
「変わりないよ。全く見つからない上に場所も思いつかない」
「困ったな。こうなったら、審神者部屋に関係なく、気になるところをとにかく確かめに行った方がいいか」
「気になるところ?」
「同田貫の幻が、何か持ってただろ。巾着みたいなもの。三日月はそれを、『壊れても役立つならば』とか言ってただろ。もしかしたら、何か本当に役立つものが残されているかもしれない」
「本当に? しかしそんなもの、屋敷が無事に残しておくだろうか」
「でも他に手がかりもない。青江に探しに行って貰いたい」
そこに石切丸が口を挟む。
「あの屋敷は広いよ。どうやってあたりをつけるんだい」
「道場で話をしてたからその周辺じゃないかと思ってるけど、どうだろう。同田貫か三日月に聞ければ早いんだが、うちにはいないからなあ。掲示板に聞きに行ってみるか」
「その前に」
審神者はぐえ、と潰れた声を出した。鶴丸が彼の襟首を掴んだのだ。
「何だよ、急に」
「ちょっと此処で一仕事していかないか」
主は怪訝な顔をして、鶴丸の指す先を見る。それからしまったという顔をした。鶴丸の指した先は、鍛刀部屋だった。
「やばい。最後の出陣で拾った刀、連結してない……!」
身を清めてくると早口で告げて、審神者は慌てて駆け出した。歌仙兼定がその背中を追いかける。
「待て。それはいいが、今一人になるな!」
「やれやれ。主の素直なところは実に美点だが、時として難点だな」
日課を忘れてしまうとは、と鶴丸は笑いながら肩を竦める。石切丸は微笑して応える。
「この非常時なのだから、仕方ないよ。では私たちは先に機械室へ戻ろうか。宗三と浦島が待っているよ」
二振は並んで歩を進める。
それを軒下から観察する目があったとは気付かずに。