絶叫が夜の安寧をつんざいた。高く遠き漆黒の天蓋さえ引き裂くような悲鳴に、耐えきれず身を起こす。
 もう慣れ親しんだ寝室だ。周囲が闇に包まれていても、何がどこにあるかくらい分かる。自分の手の届く範囲ならば、なおさら。
 手を伸ばし、あたりを覆う宵闇の天鵞絨を掻き分ける。すぐさま、同じ寝台の端で丸まる小さな塊を見つけた。
「カノン、カノン落ち着いて」
「やだ、やだっ触るな!」
 優しくその肩に手をかけるも、反射的に払いのけられる。払われた腕より、胸が痛んだ。
「あたし今人を殺したの、手で首を、っ」
 喚き立てる声を押しとどめるように、叫ぶ小柄な身体を抱き締めた。不規則に痙攣する身体は、抱き締める両腕と柔らかな寝台の感触にやっと気付いたのか、徐々に落ち着いた呼吸を取り戻していく。
 奇しくもその時、雲間から零れた月光が室内へ差し込んだ。暗がりに沈んでいた衣装棚や箪笥といった調度が、ぼう、と浮かび上がり輪郭を取り戻す。同時に、眼前の少女も寝台の中の自分を抱きしめる男の姿に気付いたようだった。
「あ、え」
 大きな黒目が瞬いて、こちらの顔を映す。焦点こそ合っているが、自分の見ていたはずの景色と眼前の光景に齟齬を感じているらしい様子の彼女に、青年はなだめるように言い聞かせる。
「夢だったんだよ、カノン」
「夢? え、だって、あたし」
「またうなされてた。叫んでたよ」
 大丈夫?と、尋ねながら青年の指が彼女の乱れた前髪を払う。
 彼女が大丈夫ではないことなんて、百も承知だ。だがそれでも、彼女を思う自分という存在がいることを意識させたくて、あえて聞いた。
「大、丈夫」
 彼女は、予想通りの返事をした。
 大丈夫なんかじゃない。それは彼女だって自覚していることだ。しかし、もうどうすることもできないから、彼女はいつもそう返すのである。
 それを察しているから、青年は黙って彼女の返事を受け入れた。背中に回した手で、再度小さな背中を引き寄せる。指先の感触で、薄い夜着越しに、その肌が冷たく汗ばんでいるのが分かった。
「……ねえ」
「ん?」
「一緒に寝るの、やめない?」
 耳元で、彼女は唐突に言った。思いがけない提案に、青年は無言で彼女の表情を窺う。
 硬質な光を宿した黒い瞳を見つめ、静かに問う。
「どうして?」
「夢からうまく目が覚めなかったら。アンタにその……手を出しちゃったらどうしようって思うと、怖くて」
 怖い。
 彼女の口からその単語を聞いたのは、いつ以来だろう。少なくとも、彼女が際立ってうなされるようになってからは、初めてじゃないだろうか。
 その眼差しの硬さが不安から来るものであると察した青年は、しかし首を横に振った。
「やだよ。俺、一人じゃ寝られないもん」
「冗談言ってる場合じゃあ」
 反論の言葉は、唇を直接塞ぐことで飲みこませた。だがまだくぐもった声で何か言おうとしてくるので、その後頭部を掴み、諦めの悪い口ごと貪ってやる。
 無理矢理閉ざそうとする歯列も、両手で頬を押さえ開いてやれば、噛みつくことはできなくなる。暴れる舌を絡め取って、懇ろになぶりその柔らかさを堪能する。こうすれば大抵、彼女の方が先に息切れしてしまう。
 ーー冗談じゃない。一人でなんか、寝かせられるか。
 かつてゾーマに彼女が乗っ取られそうになった時も、そうだった。弱音を吐かない彼女は一人、じわじわと死に近付いていくことを選んだ。
 またああやって、一人きりで弱られでもしたら。
「や、めて」
 彼女が身を捩る。頬から背中、腰に回っていた手の、動きの変化に気付いたのだろう。本格的にこちらを引き剥がしにかかってきた。
「やだっ、やだってば」
「カノン」
「そういう気分じゃっ、ない、から……っ」
 必死にこちらの顔を退かし、這い回る手や絡みつく足を解こうとする。いつもなら彼女が本気で嫌がるような時は、必ずその意思を尊重してきた。
 だが。
「カノン」
 ありったけの愛しさを込めて名を呼び、力づくで搔き抱く。肺が潰れかけたのか、または驚いたのか。彼女の息が刹那止まった。
「お願いだからーー」
 抱かれてくれないか、と。切に懇願する声に含まれているのが、欲だけじゃないことを感じ取ってくれたのか。
 張り詰めた肢体から、力が抜けた。彼女が、おずおずと身体の線を添わせてくる。まだぎこちない手つきで、青年の肩をあやすように撫でる。
 何のかんのと言っても、彼女は自分に甘い。そしてまた自分も、彼女に弱い。
「名前、呼んで」
 命令より遥かに弱々しく、甘えるより有無を許さない声色で、彼女に乞う。しばしの逡巡の後、サタルと紡いだ口もとを啄ばんだ。


 彼女がうなされるようになったのは、自分と出会ったのより一年程度前、アレフガルドを出た直後からだという。だが、こんなにひどくなったのは初めてらしい。
 原因なんて、わかりきっている。魂や魔法など、神霊界に由縁を持つものに詳しいからこそ、余計彼女の現状がよく分かる。
 簡潔に言うならば、ジレンマだ。
 彼女は平穏な暮らしを送る自分を、責めているのだ。過去に数え切れぬ命を奪っておきながら、のうのうと生き延びている自分を、許すことができない。一度ゾーマとともに死ぬ覚悟をしておきながら、その間際で覆したその判断を、自分の恥ずべき弱さとして捉えている。だからその苦しみが、夢にまで現れるのだろう。
 確かな良心を持つ彼女だからこそ、己の犯した罪とその重さを負っていこうとする性格だからこそ、余計に息が詰まっている。
 夢魔や怨霊だったなら、まだ良かった。サタルにもどうにかできた。
 しかし、これは彼女の内面の問題なのだ。
 ーー君は悪くない。
 ーー許されるものではない。
 ーー罰せられることはない。
 ーー償えるものでもない。
 どれを言ったところで、彼女の己を苛む良心は鎮まらない。きっとさらにきりきりと、己を痛めつけるだろう。それこそ、彼女がもう十分だと思うような罰を受けるまで。
 ーー俺はね、君はもう納得できるような罰を受けてるんじゃないかと思うよ。
 たまに、そう言ってやろうかと思う時がある。
 ーー君は罪悪を感じ、それを償うことができないまま、一生を平穏無事に、幸せに過ごすんだろうからね。俺と違って、君は生き続ける限り、殺した命を忘れようともそこから逃げようとさえも、一度だってしないだろうから、これは結構な責め苦だよ。まあ、もしもヒトに罰を科すことのできる神がいるとするのなら、の話だけど。
 分かっている。
 そんなことを言ったら、彼女が罪悪に囚われるばかりの、慚愧の塊になってしまうだけだろう。絶対に言わない。
 ーー償い方を見つけて満足できるような人柄であったなら、あるいは神に赦しを請うことのできる図太さがあったなら、随分楽だっただろうに。
 そうはできないのがカノンだ。だからこそ、サタルは彼女に惚れたのだと思う。


 月光の下に晒された白い肌。幾度となく重ね合わせたそこへゆるやかに熱を沈め、仄かに色付かせながら、サタルは息を吐いた。間違いなく気分は恋人への欲で昂揚しているのだが、妙な冷静さが頭の片隅に残っていた。それはきっと、今まさにしどけない姿を露わにされている恋人も一緒だろう。女は意外と、こういった時理性を残しているものだ。
 今回は、それでもいい。彼女を自分に繫ぎ止めたくて、無理にと強請ったのが悪いのだから。
 だが次は。そしてその次も、そのまた次も、次も次も。
 他のことなんて考えられないくらい、無茶苦茶にしてやろう。
 肌を重ねる時以外でも、彼女の沈み込む気持ちが吹き飛ぶくらい、愉快なことをしてあげよう。
それでも楽しむ余裕を持てないこともあるだろうから、その時は傍にいてあげよう。
 それが、冥界へ逝くはずだった彼女を生かした、自分の責任だろうから。
 ーーいや。本当のところはそんな大層な理屈抜きで、一緒に楽しく生きたいだけなんだけど。
 視界に映る彼女の肢体は自分を魅了してやまず、耳に届くその甘い声は、どんな霊薬より活力を与えてくれる。
 ーー君にとっての俺も、そうなれたら。
 青年の頬に、寸刻苦い笑みが閃いた。だがまたすぐに、自分の繋いだ眼下の温もりへと沈み込んでいく。
 月が翳る。二人の輪郭が、一つに溶けた。







20160702