考古学の知識を買われ、商人ギルドに雇われてから十五年。
雇い主の女商人と地下世界に落ちてから十四年。
二人で商売を始めたのもおよそ同じ時期であるわけだから、実質コンビを組んでそろそろ十五年ということになる。
「もうそんなに経ったか」
俺は柱時計を見上げた。かなり重々しい古典主義的なデザインのそれは、文字盤の周囲をめぐる二つの円で日付を示すことができるという優れものだ。示された日付を見ながら、そんなことを考えた。
この店に入った時はまだおやつの時間に近いかというくらいだったのに、いつの間にか宵も深まっている。下の酒場は大賑わいらしく、階を一つ挟む距離があるはずのこの個室にまで、歓声が届いている。だが、それも絶えず啜り上げる鼻水の音に負けて、何を言っているのかすら聞き取れない。目の前で女がぐずっているのだ。この上なく潤む黒い瞳は時折滂沱の涙を流し、健康的なハリを持つ肌を彼女の髪と同じピンクパールに染めていたが、今はもうすっかり止まっている。それでもまだ目を烟らせて鼻をすすっているのは、単純にものすごく酔っているからだ。
「聞けー! 聞ーけー! 私を置いてくなー!」
そうして喚きながら手にしたロックグラスを卓に叩きつける彼女こそ、かつての雇い主で現在の相棒な訳だが、ここまで荒れるのを見るのは初めてかもしれない。今や真っ赤に染まったその顔に、割るなよと俺は釘を刺した。
「ちゃんと聞いてるだろ」
「復唱!」
「支援してた恋人にまんまと逃げられた。お前もホンット、学ばねえよな。何度目だろうな」
「うるひゃいっ!」
呂律の回らない舌で、もう二桁を越すほど繰り返してきた話をもう一度始める。
「わたしがっ! 実質そーこーのつまってヤツやってきたのっ! らのに何で今更っ、別の女なんかと結婚するのぉ?」
「そういうところがダメだったんじゃねえの」
「どこよぉー」
「いつものだよ」
「出たっ、男に好かれない女の法則三つー?」
「そうそう。気が強くて、頭良くて、社会的地位が高い。お前、三拍子そろってるからな」
「何でー? 何でー! あんだけ甘えといてー!」
納得いかないだの、都合が良すぎるだのとぼやいている。まあ、ごもっともなところもある。
長い付き合いの俺から見ても引くほど頭の切れるキラナだが、その分コミュニケーションが上手く、更に元来面倒見のいい気さくで親しみやすい性格なのもあって、年下の同業者によくモテる。
だが頼りたい女と添い遂げたい相手とは別物だ──否、だったのだろうというのが、今回の俺の見解である。
「お前、前の奴にも言われたって自分で言ってただろ。かーちゃんっぽさが強すぎなんだって。いい加減、相手を助けてやり過ぎる癖、直せよ」
「スランのクセに生意気ーっ! 女の子のお手々の繋ぎ方で相談してきたクセにーっ!」
「ばっ、あんな前の話引っ張ってくんな!」
「なぁ、俺手汗かいちゃったらどうしよぉ〜? いひひ」
「うっせー!」
手を叩き、きゃらきゃらとした笑い声を上げる。癪だったので手放したロックグラスの中身を飲み干してやったが、しかし奴は俺の仕事を見ることなくソファの上に倒れた。
「おい。寝るなよ」
「いひひ」
間の抜けた笑い声だけ返ってきた。立ち上がって様子を見てみると、焦点の合わない目で天井を見つめて、ニタニタ笑っていた。これは駄目だ。帰ろう。ちょうど俺も、家に帰って研究がしたい。
俺はまだ何か言っている酔っ払いを担いで──体が小さいので、俵担ぎ同然でいける──ボーイに一言つけてさっさと店を出る。まさかここまで酔うとは思わなかったが、念のため俺たちの投資する店で飲んでおいて良かった。贔屓の店は、こういう財布を出すのが面倒な時に便利だ。
「世界がぁー、たかーい」
酔っ払いは上機嫌である。空を見ようとしたのか、体を回そうとしたので思い切り掴んだ。
「落ちるぞ」
「風サイコー。さわやかー」
キラナは俺の肩の上で上半身をぐるぐると回している。俺に担がれているのを分かっているのかすら怪しい。
「お前は風車なのか?」
「すーらーんー」
キラナの腕が首に巻きついてきた。乱雑な指が髪の根元をかき混ぜる。
「スランはいい子だねぇ。おおよしよし」
「雑に撫でるな。髪抜いたら承知しねえぞ」
「あたし、ずっと一人かなー」
「知らねえよ。結婚したいのか?」
「んー、微妙」
「はっきりしねーな。前は結婚なんてしなくていいって言ってただろ」
自分は一生結婚しなくていい、商売の道に生きるのだとずっと言っていたはずだ。
キラナは、鼻声で唸っている。
「そー、なんだけどねぇ」
「子供が欲しいとか?」
「それは無い。あたし、子育て無理そうだから」
「お前に出来ないことなんてあるのか?」
「ばーか。あるよ」
喉を震わせて笑う振動が、背中から伝わってきた。
「仕事で動き回らないあたしなんて、考えらんなーい。ずっと子供の世話なんて参っちゃうよ。しかも母親って、何をしたらいいかわからないし」
「そんなの」
自分の母親の真似をすれば──そう言う前に気づいて良かった。キラナの母親は、彼女を産んですぐに亡くなっている。
「カノンはすごいよぉ。子供と普通な顔して接してる様子なんて、見てると感心するわ」
振り返って彼女の顔を見ようとしたが、仰け反っていて胸までしか見えなかった。さすがにずっとそこを眺めているわけにもいかないので、正面に向き直る。
「でも触るだけはしてみたーい。だからぁ、スランに子供ができたら、抱かせてね。あ、その前に彼女いたっけ? 家、少しはまともになったの?」
「わざと言ってるだろ。おい、こっち見ろ」
もう一度顔を見ようとしたが、今度は頭にしがみつかれて不可能だった。思い切り掴まれて頭が痛い。こいつ絶対わざとだ。
辺りの家はもう火を落としている。人通りの少ない道を選んだ甲斐あって、アホみたいな格好をしたラダトーム随一の商人の姿を見る人間はいなくて済みそうだ。深夜で良かった。
「だってぇー、家にあげようとした途端振られた話なんて一週間笑ったから」
「忘れろ」
「家の中、本と収集物だらけだもんね。実質物置でしょ」
「せめて史料館って言え」
「遺物オタク気持ち悪い」
「なあ、お前の足を今抱えてるのは誰だと思う?」
「スラン様はイケメン。超最高。顔だけね」
足を持ってぶん回してやった。思い切り悲鳴を上げられそうになったので、三周でやめた。さすがに他人の安眠を妨げることはしたくない。
しかし担いだ商人は、他人の古傷を思い出してまだ笑っている。
「もっと深い仲になる前で良かったじゃない」
「うるせーわ」
「でもぉー、スランって冗談抜きで良い物件だよねぇ? 顔良し頭良しスタイル良しでぇ、コイン探しもできるぅー」
「最後の、お前しか求めねえだろ」
「けどねぇー、遺跡オタクだから全部台無しィー! ひゃははっ!」
「酔いがさめたら覚えてろ」
このやりとりも何度目だろう。ここまでキラナが酔っていたことこそ無かったが、彼女が恋人と別れるたび、もしくは仕事で上手くいかないことがあった時などに、繰り返し言われてきた。
──スランはいい人だよね。
──遺跡オタクなのが玉に瑕だけど。
その度に、商売の奴隷に言われたくねえと言い返してきた。
「もー、スランでいっかなぁー? ねぇー結婚するぅ? しちゃうー? 給料はぁ、あたしが総取りでぇー」
「ふざけんな。もっと癒し系な性格になってから出直して来い」
「あたしも商売の相棒と結婚とか無理ー! 息詰まるー!」
派手に笑った彼女が体をのけぞらせた。その拍子にずり落ちてきたので担ぎ直す。
「きゃー、どこ触ってんのよー!」
「今更純情ぶるんじゃねーよ」
そう、今更だ。冒険中、お互いに引っ張ったりおぶったりなんてことを散々してきた。傷の手当てのために服を脱がせたことだって、何度もある。
「うっ、気持ち悪くなってきた……」
「騒ぐからだろ。俺の服に吐くなよ」
「ケチ」
「すぐ吐こうとするから、振られるんじゃねえの」
「カンケーないもーん。アイツの前で吐いたことなかったもーん。大体すぐっていうほど吐いてないから! アンタよりは絶対吐いてない!」
「俺だって彼女の前で吐いたことねえよ」
くだらない、本当にどうしようもない話をしてるうちに、目的地が近づいてきた。彼女と俺の家だ。とは言っても同居しているわけでも、一軒家をシェアしているわけでもない。れっきとした別の家に住んでいるが、隣り合っているから近いのだ。
俺はキラナの家のドアを開いた。棚に飾ってある小綺麗な花瓶に、床を彩るマットレス。俺の家だったらありえない。
「ここでいいか」
「ケチ! 風呂場まで!」
「こんだけ酒入ってんのに風呂入るなよ。せめてベッドにしろ」
「ふーろーそーうーじー!」
「後でしろ。俺は帰ってマイラの笛の研究がしたい」
リビングを抜けた先がベッドルームだ。もう勝手も何も知り尽くしているので、さっさとベッドに投げ込んだ。
「スラン……そうやってみんな……みんな私を置いていく……置いて……」
キラナはまだ何か口を動かしていたが、酔っ払いに付き合っているとキリが無いので、構わず家を出た。
やっと重い荷物から解放され、軽くなった腕で愛しの我が家を開く。玄関の飾りなんてここには無い。各地を回って集めた古書や遺物があれば十分だ。その他のものの入る余地などない。
とは言え、酒と汗臭い体で大切な史料達に触れるわけにはいかないので、風呂は済ませておく。キラナの言う通り、住居というより史料を収納するスペースに近い我が家だが、生活に必要な最低限の設備くらいはある。それに風呂は遺物の洗浄によく使う。
シャワーを浴びる。手際よく全身を清めながら、先ほど風呂風呂言っていた女のことを思い出した。風呂に入りたがっていたアイツがまだ今頃酒の匂いをまとっていて、史料を見たい俺が風呂に入るなんて変なものだ。アイツも恋人がよそ見さえしてなければ、今頃世話を焼いてもらえただろうに。やきもちも焼かれただろうけど。
「ははっ」
我ながら無意識にうまいことかけていたのに気づいて、一人で笑ってしまった。
キラナは頭がいいくせに何故か気づかない。こういうことばかりしているから、周囲の人間が何故か俺たちを良い仲だと勘違いするのだ。アイツの前の恋人もその前の恋人も、アイツを店に迎えに来ては、何度刺すような目で俺を見たことか。その度に俺は笑って言いたくなった。
──そいつはお前らのこと、ちゃんと好きだよ。だからみっともねーところなんて見せねえんだろ。
そういうことをしなければ、もう少し前の恋人とも続いただろうに。だが俺は何も言わない。キラナのことだ、どうせすぐにまた恋人ができる。明るくノリのいいアイツに惹かれる奴は多い。そしてまた、アイツについていけなくなり、離れていく。
「置いていく、か」
アイツは一人になりたくないのだろうか。商売に生きるのだと言うのも、そのくせ恋人も絶えず作るのも、一人になりたくないからなのか。
シャワーを止めた俺は、いつの間にか自分がくつくつと笑っていることに気づいた。
馬鹿だな。
そっちが巻き込んで、引きずりながら突き進んでおいて、何が置いていくだ。
アイツは一人になりたくない。一方の俺は依然として人付き合いが苦手、興味と好奇心を追求するのが第一優先なので、一人で自由に生きていきたい。そのためには一人になりたくないアイツの協力が必要だ。
つまり、一人になりたくない上に商売の相棒には恋をしない主義のアイツには、絶対恋できない相手がいつだってついてくることになる。そしておそらく、俺がいる限りアイツは結婚できない上に、同じ恋人と長続きしない。男というのは時として、恋人よりライバルを気にかけるものだ。
風呂を出て、鏡に映る自分を眺めながら髪を拭く。盗賊として仕事をしてきた年月は伊達でないらしく、近頃俺と視線が合った人間はさっと目をそらすようになった。昔からの知り合いに言わせると「盗賊っぽくなって、近寄り難くなった」らしい。
そういえばその知り合いに会ったのが、アイツと会うきっかけたったか。俺は出会いを想起する。
たとえばの話。
俺が考古学にロマンを抱かない性格か、コイツが商売に入れ込む情熱も才能も持ってない女だったら、少しはこの距離感も変わったんだろうか。
変わったかもしれない。だがそうして出会った俺たちは、俺たちではないような気もする。
男女の仲なんてやわく艶めいた響きの言葉は、俺たちには似合わない。
だから結婚なんて、冗談だろ。
鼻歌交じりに史料棚へ向かう。マイラの土でできた笛は癒しの効果があるらしい。気持ちよすぎて寝てしまうこともあるのだとか。
土の成分が突き止められたら、実地調査に向かってもいいだろう。勿論アイツを、今度こそ入りたがっていた風呂に連れていくのもいいかもしれない。
俺は一人笑みをこぼす。研究のしがいがありそうだった。
20190524