何かを手に入れた瞬間に、それを失くす時のことを思う癖がついたのは、何時からだっただろう。
 鎧を買う時、同程度の値段に使い勝手だがデザインの優れているものと地味なものとがあったならば、フーガは大抵後者を選んだ。地味好みなわけではない。美しい鎧など、きっと自分に似合わないだろうからという理由もある。だがそれ以上に、その鎧の美しさが戦いによって損なわれてしまったらきっと悲しいだろうから、フーガはこだわりの少なくて済む方を選ぶのである。鎧は傷を防ぐためのものだ、傷ついて当然だ。そうは思っていても、気に入っていたものを傷つけてしまえば、どうしても悲しいと感じてしまう。だからこだわりの少ない、実用的なものを、身の周りに置くようになった。フーガはそんな男だった。
 彼のそういった癖は、持ち物以外にも発揮された。故郷を失くした後傭兵の道を選んだのは、失くすものが少ないからだ。傭兵であった頃に決まった仕事仲間を作らなかったのは、一時の同僚の方が別れることが前提になっていて楽だったからだ。活動の拠点を定期的に変えていたのもそうだ。一つの土地に執着しないためだった。
 だからアリアハン王の特命が長引いて、それどころか任務が終わった後も同じ仲間と同じ旅路を辿ったのは、彼にとってかなりの異例であったし、主義に反することでもあった。彼らとの旅の最中に、いつもの癖が出なかったわけではない。だがそれ以上に、あの旅の面子は自分無しで旅をさせたら間違いなく危ないという思いが働いたので、つい目的を達成するまで同行してしまったのである。幸いにして、あの旅で得たものは旅の終了から十年が経った今でも失わずにいる。
 たった一人を除いては。
 



 
***


 
 村とも呼べない墓石だらけのこの地に、久方ぶりの旅人がやって来た。年若い僧侶である。一晩泊めていただけませんかと言う彼の手には、よれてこそいるものの新しい地図があった。もう夜が来る頃合いである。断る理由もなかったので、引き入れた。
 風呂を貸してやり、簡単ながら夕飯を作って相伴する間に、彼は様々なことを話した。信仰を求める旅の途中であること。出身はバハラタの辺りであること。まだ旅に出て日が浅いこと。この辺りには先輩神父たちと共に来たのだが、魔物に襲われてはぐれてしまったこと。
「知らない土地でたった一人になっちゃって、もう駄目かと思いました」
 彼は繰り返し礼を述べた。フーガは笑って、首を振った。
「そんなに言わなくていい。それに、まだ安心するには早いだろう」
「え?」
「先輩たちとは、どうやって合流するつもりなんだ?」
「あ」
 僧侶の顔が曇った。案の定、先の見通しは立っていないらしい。
 フーガは立ち上がり、地図を取って戻って来る。
「はぐれたのはどのあたりだったんだ?」
「えーと」
 僧侶が自身の地図を広げた。フーガがその隣に、より詳細なテドンの周辺地図を置く。僧侶は考え込み、かぶりを振る。
「すみません。森の中だったから、目立つようなものは何も」
「じゃあ、ここにはどの方角から来た?」
「あの、お墓がたくさんある方から。右手側から、月が昇って来るのが見えました」
「南だな。ならば恐らく、アンタの仲間はきっとここにいる」
 節くれだった指が、周辺地図の一点を示す。そこには森を表す記号の中に、いくつかバツ印がついている。その中の一つが迷わず指されるのを見て、僧侶は怪訝な顔をした。
「どうして、そう思うんですか?」
「アンタがここへ来たのは日が沈む間際、ほぼ夜だ。そうすると仲間とはぐれたのは、せいぜい二刻前程度だろう。そうなると移動する距離は限られるし、俺だったら仲間と──しかも旅慣れていない奴とはぐれたならば、そのはぐれた現場から大きく移動することはしない。さらに夜をこさなければならないとなれば、水場の近くがいい。アンタの持って来た地図は、仲間も持ってるのか?」
「はい。一人一枚ずつ」
「じゃあきっと、この地図にも載っている川を目指したんだろう。それなら当然、川を目指してきた道でこの小屋にも気づいただろうな」
「小屋? このバツ印は、小屋なんですか?」
「ああ。昔この辺りの人間が伐採の拠点にしていた、休憩所の一つだ。多少古くても、旅人としては建物があればそこを利用したいだろう?」
 僧侶は頷いた。
「じゃあ、そこを目指せば先輩たちに会えるんですね」
「いや、動く必要はないな」
 外に出てみろ、とフーガは促した。
 彼は言われた通りにした。辺り一面、とっぷりと夜に浸かっている。僧侶の後からついて来たフーガは、今出てきたばかりの建物の上を指す。
「この家の煙突からは、煙が出ているだろう?」
「はい」
「そしてアンタが魔物と戦って仲間とはぐれたのは、あっちの方だろう」
 次いで南を指す。墓地の向こうに森が広がっていた。鬱蒼と茂っているが、注意深く観察すると奥の方の樹々の葉を広げている様子がよく見える。つまり、墓地の向こうは傾斜のある小さな山になっているのであった。
「高い所からならば、夜でも煙が見つけられる。きっとアンタの先輩たちは、今頃この煙を見つけているだろう。煙は人がいる目印だ。だから、この煙を上げているのはもしかしたらアンタかもしれない、朝になったら行ってみようと思ってくれると思うぞ」
「それなら僕は、ここで待っていた方がいいってことなんでしょうか?」
「そういうことだな」
 フーガは僧侶に向き直る。僧侶も首をそらして、彼を見上げた。
「明日の昼まで待ってみよう。ああ、俺はいつも朝早く起きるから、アンタの先輩たちが起き出して出かける頃には、もう煙を見つけられる状態にできていると思うぞ。もしも昼まで待っても来なかったら、俺が捜しに行ってみる。アンタは下手に動かず、ここで待っていた方がいい」
 淀みなく続くフーガの言葉を聞くうちに、疲弊した僧侶の眼が、みるみるうちに年相応の輝きを取り戻していく。喋り終わる頃には、彼はすっかり尊敬の眼差しで大男を拝んでいた。
「ありがとうございます! 本当に、何から何まで……あなたがいなかったら、今頃僕は……」
「まだ礼を言うのは早いと言っているだろう」
 フーガは苦笑しながら、家の中へ戻る。若者もその後に続いた。
「何か、お礼にできることがあったらやらせてください! まだひよっこですけど、ちょっとした治療とか力仕事なら──」
 言いかけてしかし、若者は口を噤んだ。振り返った背中の逞しさに思い至ったのである。
「ち、力不足ですよね……すみません」
「いや、申し出に甘えようか」
 フーガが言うと、僧侶の顔が輝いた。よく表情の変わる若者だ。フーガはゆったりとした口調で言い聞かせる。
「だがそれはまた明日、明るくなってからでいい。今日のところは休め」
「ありがとうございます!」
「俺が手伝ってもらう側なのに、お前が礼を言ってどうするんだ」
「あっ」
 僧侶は恥ずかしげに顔を伏せた。フーガは笑った。
 それから彼らは、夜が更けるのを待つために話をした。青年はお喋りな性質らしく、自分が今年成人になったばかりの教会の息子で、近隣の同じく教会の息子たちと共に修業の旅に出ようと思ったこと、ネクロゴンド地方へ来たのは師に課された命題の一つについて考えるためだということ、実際に来てみて魔物の強さに驚いたことなど、何でもよく語った。彼の今時の若者らしい軽快な語り口は、普段全く人と話さないフーガには新鮮で、聞いているだけでも楽しかった。
「昔よりずっと弱くなったって聞いてたんですけど、でもこれまで歩いて来たところよりすっごく強くて驚きました」
「まあ、そうだろうな」
「フーガさんは強いんですね。戦士なんですか?」
「今はただの墓守だよ」
「そんなぁ、もったいない」
 何の邪気もなく言った。素直な含みのない発言に、フーガは苦笑する。成人とは言え、まだまだ若い。彼がこれから学ぶことは多そうだ。
 けれどもそれはフーガの役目ではない。墓守はそろそろ、と切り出そうとした。
「ああ、ダーマ神殿で聞いたことを信じてみて、本当に良かった。こんな所に人がいるなんてって思ってたけど、本当に人がいて、しかもこんなに親切な人で、本当に良かった」
 僧侶がしみじみと言った。フーガの口まで出かけていた台詞が引っ込んだ。
「ここに俺が住んでいると、知っていたのか?」
「いえ、そこまでは。でも、ダーマにいた頃に人から聞いたんです」
 フーガは目を細める。
「お前、ダーマ神殿にいたのか」
「はい。とはいっても、二ヶ月だけですけど」
 何でこの人は、急に食いついて来たのだろう。自分の言い方に何か妙なところでもあっただろうか。
 僧侶は疑問に思ったが、さして深く考えず答える。対する墓守は、なおも訊ねる。
「いったい、何を聞いたんだ?」
「んー。そこまでのことを話すとちょっと長くなるんですけど、なるべくかいつまみますね」
 僧侶は話した。ダーマ神殿で修業を始めて一ヶ月経った頃、師匠から僧侶の心得を体得するためにネクロゴンド地方を回って来るように言われたこと。その旅路の最後には、かつて魔王の住まいだったネクロゴンド城跡を訪れること。その話を聞いてから、自分は試練の旅への期待と不安と緊張とで、身の回りのことがそぞろになってしまったこと。それがあだとなり、ガルナの塔での修行中に転落して大怪我を負ったこと。
「大した高さじゃなかったんですけど、打ち所が悪かったみたいです」
 フーガは彼の全身を眺める。どこにも支障などありそうにない。
「どのくらいだったんだ」
「うーん。首の骨が折れたらしいです」
「打ち所が悪いなんてものじゃないな。助かっても、一生フォークも持てなかったかもしれないぞ」
「そうなんですよねぇ。僕は全然覚えてないんですけど、本当に死ぬかもしれないって、大騒ぎになったらしくて」
「そりゃあそうだ」
「でも、あの時も運が良かったんですよ」
 青年は呑気に笑って言う。
「ちょうどその日は、『女神様』がいる日だったんです」
 すぐさま、他の弟子がダーマの緊急患者棟に人を呼びに行った。さして間も置かず、すぐに癒し手が派遣されて来た。
「すごい人なんだそうです。その人が手を伸ばしたら、一瞬で僕のおかしかった首や腕、足の角度が治ったって聞きました。呼吸を乱すこともなく、妙な喀血が起こることもなく、安らかに眠ってるような状態に戻してくれたって」
 しかもその人は、とても優しかった。目立った外傷が癒えた後も、まだ目に見えぬ所に支障があるといけないからと、緊急患者棟の一室を空けて、他の患者たちを診ながらではあるが、一晩寝ずに様子を見てくれた。
「この時のことは、少しだけ覚えてます。少しだけ、夜に目が覚めたんです」
 目が覚めると、彼は真っ暗な天井を見上げていた。どこだろう、と彼は考えた。その日は新月で、月光をたよりにできないのでそこがどこの天井かすらも分からなかったのである。
「身体もどこも痛くなかったから、いつ寝ちゃったんだろうなんて思いながらぼんやりしてました。そしたら、廊下の方が少し明るくなったのに気付きました」
 ランタンの灯りだった。それを手にした誰かが、部屋の中に入って来た。
「知らない人でした。でも、凄く綺麗な女の人でした。もしもあの人が灯りを手にしてなくて、しかもあの日窓から月光が差し込んでいたなら、きっと僕、あの人のことを月の精霊か何かと勘違いしちゃったんだろうなって思います」
 僧侶の顔は真剣だった。
「本当なんです。月の精かと思っちゃうくらい色が白くて、綺麗で──現実にいるものだと思えないほどに美しく、儚い人でした」
 その人は音もなく彼の元へ近づいて、今彼がいるのは緊急患者棟の一室で、彼がどうなっていたのかを説明した。そして、現在の調子を尋ねた。
「柔らかい感じだったけど、でも思ったより凛とした声でした。聞く口調も完全にプロだったから、ああこの人、ちゃんとここで働いてるヒトなんだなって、やっとその時に思いました」
 本当に、身体に不調は無かった。それどころか、塔から落ちる前より良いくらいだ。そう正直に答えると、彼女は良かったと微笑んだ。笑う顔は意外にも、幼く見えた。
「普通問診ってその程度で終わるんですけど、その人は違いました。僕に、何か悩み事があるのか聞いて来たんです」
 彼女曰く、ガルナの塔で師匠がついていてここまでの怪我をする人は、滅多にいない。だから何か、心に迷うところでもあるのではないかと考えたのだそうだった。
「僕は正直に言いました。ネクロゴンドに行くのが怖い、いくらもう魔王が滅びて十年が経ったとは言っても、こんなひよっこの僕が未だ魔物の巣窟と言われる所に踏み込んで、帰って来られるのだろうかと」
 その人は、泣き言に近い青年の悩みを真摯に聞いてくれた。それからその手にしたランタンよりなお温かい瞳で、彼を見つめて言った。
「あなたのお師匠様は、弟子が死ぬことを前提に修業へ出すような人ではない。あなたがきっとそれを乗り越えるだろうことを信じて、その命題を与えたんだ。だから自分と仲間を信じ、今は備えなさい、と」
 誰でも言えるような、定型通りの助言だった。だがその人が言うと、自然と反感もなく胸に落ち着いた。
 さらに彼女はこうも言った。
「ネクロゴンド地方は確かに、厳しい土地です。三十年近く経った今でも、人間がまともに住もうとしません。未だに魔物の侵略の痕も、残っています。しかしその分、平和な今を生きる私達が目を逸らしてしまいがちなものが、あの地にはあります。私もあの地で、多くのことを学びました。あなたたちも、あそこで得られるものはきっと多いはずです」
 だからいってらっしゃい、一人でないならば旅はどうとでもなるはずだから。そのように、叱咤するでもなだめすかすでもなく、彼女は語った。
「あんなに綺麗な人が、魔物の巣窟って言われる所にいる様子なんて全然思い浮かばなかったけど、でもあの人が行って学んだと言うならば、僕も行ってみたいと思いました。僕はその時、自分があの人に命を助けてもらったことも、あの人がやったことが相当高度な術だったことも知らなかったんです。でも、あの人みたいになりたいと思いました」
 それで、分かりました、もう大丈夫ですと返事をした。すると、あんまりにも急に納得したのに不安を感じたのだろうか。彼女は部屋を出ていく前に、助言をくれた。
「どうしようもなくなった時は、テドンという村の跡地を訊ねなさい。そこに行けば、きっと助けを得られることでしょうって」
 古い地図を調べて、その村の位置を自分の地図に描き加えるといい。たとえ迷子になって、方角が分からなくなったとしても大丈夫。きっとその村のある方角は、宵闇の中でも仄かに輝いているはずだから。
 彼女はそう語った。そこに何があるのか。尋ねても、具体的なことは何も教えなかった。だが一言だけ、ぽつりと漏らした。
「あの場所に行けば、きっと今でも『安心』できるはず──あの人はそう言いました」
 住んでいたのか。問いかけに返って来たのは、ちぐはぐで曖昧な答えだった。
 ──住んでいたなんていうものじゃないけど、そうね。あの場所が私にくれたものは、多すぎたわ。多すぎて……全て持って帰るのが辛かった。だから、置いて来てしまった。
「その後すぐに出ていっちゃったから、俺、ここがどんな場所なのかも知らなかったんです」
 翌朝、夜に会話したその人はもう来なかった。代わりに来た神官に退院の支度を手伝ってもらい、棟を出て師匠のもとへ戻った。
「僕が会った人が誰だったのかは、その後師匠や一緒に塔に上っていた先輩たちに聞いて知りました。その人は『女神様』と呼ばれる、凄腕の賢者様だったんです。何でも昔、勇者様と一緒に魔王を倒した人で、類稀な癒し手なんだって。あの時来たのが女神様じゃなかったら、今頃僕は歩くこともかなわず、実家で養われる身になってただろうって言われました」
 僧侶は、彼女にもう一度会って礼を言いたかった。もっと話をしたい、聞きたいと思った。しかし、周りに止められた。
「あの人に近づくのはもうやめておけ、って言われました。本人が嫌がるだろうからって。何でなのか聞いても、教えてくれませんでした。それから女神様に会うことは、ありませんでした」
 青年は身を乗り出した。真正面にある墓守の顔を凝視する。その瞳にもう、無鉄砲な好奇心はなかった。
「フーガさん」
 彼は言った。
「僕、あの人が喋った内容を話したのは、今日が初めてなんですよ。僕の神に誓って、本当です。何でかって聞かれたら困っちゃうんですけど、何となく、誰にも話しちゃいけない気がしたんです」
「なら、何故俺に話したんだ」
 フーガは問う。青年は考え込み、考え込み、言いづらそうに口を開いた。
「僕、新参者だから確証はないんですが……女神様のことは、あの神殿に住む人間には話しちゃいけないんです」
「どうしてそう思う」
「一つは、女神様の着物の色です」
 青年は遠くを見つめる目をした。
「見間違いじゃなければ、女神様は浅葱色の外衣を羽織っていました。浅葱色は、僕よりもたった一個上の位の神官が着る色です。女神様の実力に、合っていません」
「でも僕の師匠は、僕が死にかけて女神様が現場に駆けつけた時、慌てて頭を下げたそうです。僕の師匠は、神官長の一人です。女神様より位は上なんです。だけど、こんなことを言ったら怒られるかもしれないけど、お師匠様より女神様の方がレベルが上だと僕は思いました」
「それでもお師匠様は女神様のことを敬っているような口ぶりで、なのに女神様の位は下で──何だか、変な感じなんです。そう、お師匠様だけじゃない。他の話を聞いてみた人達も、みんなまるで、女神様の話になると腫れ物に触るかのような感じがして」
 何だか、ひどく嫌でした。
 青年は呟いた。
「もう一つは、この場所の話をした時の女神様の表情です」
 僧侶の眼差しが、フーガの上に戻ってくる。彼はぴくりとも動かなかった。
「女神様はずっと微笑んでました。僕の体調を尋ねる時も、僕が泣きそうになってる時も、僕にアドバイスをくれる時も。ずっと、綺麗に笑ってたんです。でも、この場所の話をしている時のあの人は」
 僧侶は目を伏せた。
「あんなに凄いヒトでも、癒せない傷がある。僕にはそう、思えました」
 墓守は何も言わない。唇を固く引き結んで、ただ青年から返ってくる質問の答えを聞いていた。
 沈黙。静寂。耐えかねたのだろう。僧侶が口火を切った。
「フーガさんは、あの人を知ってるんですか」
 墓守が初めて、目を動かした。思考の一片どころか向かい合う青年の顔すら映さない、真っ暗な瞳孔である。それを青年の上に据えて、返事をした。
「いや。『女神様』なんていうのは、知らないな」
 そうですか。青年はあっさりと納得した。
 柱時計が、鐘を鳴らして刻限を告げる。フーガが立ち上がった。
「もう夜も十分更けた。粗末なものしかないが、そこの部屋にベッドがある。使うと良い。朝は起こすから、薪木を運ぶのを手伝ってもらえるとありがたい」
「ありがとうございます。何から何まで、すみません」
 僧侶も席を立ち、客室に向かう。フーガはその背を見送る。
「なあ」
 僧衣が木の扉に吸い込まれる寸前、墓守は口を開いた。僧侶は動きを止め、律儀に彼の方へと身体の向きを変えた。
「寝る前に一つ、教えてくれ。その人の髪は、何色だった?」
「暗かったのではっきりとは言えませんが」
 僧侶はしばし考え込んで、答えた。
「ランタンの光がなかったなら、月光を織ったように見えたでしょうね。そう、きっと──綺麗な銀色の髪だったんだと思います」
 





 僧侶の一団を見送った後、フーガは畑の世話をしていた。鋤を操り、土を弄りながら、その間思考はずっとあらぬ方へと向かっていた。
「女神様、なあ」
 その末端が口から漏れる。
 女神様などと呼ばれる人間は、知り合いにはいない。勇者の仲間であった銀髪の女賢者──アリア・アーベントロートは確かに美しかったが、女神なんて呼ばれることをよしとする性格でもなければ、浮世離れした雰囲気の女でもなかった。彼女はどこまでも可愛らしい少女だった。最後に会った三年前のあの時でさえ、彼女は既に妙齢の女性となっていたが、それでも決して少女らしい愛らしさをなくさなかった。
 アリア・アーベントロート。そうだ、主なる神の祝福を受けられぬ勇者サタルのために一行に加わったルビス教の賢者は、そういう人間だった。己の使命を呪い、嗤いながら行進する勇者。それに殺されるという目的を隠した武闘家。そして、滅びた村に心を囚われた自分。誰もがまともに己の明日さえ考えようとしなかったあのパーティーで、彼女だけが全員で迎える明日を信じていた。明るく曇りなき眼で彼らを見つめ、彼らのために笑い、時には涙を流した。
 フーガ達もしばしば、その愚かしいほどの純真さに呆れぬこともなかったではない。だが、それでも決して、彼女のもたらす情が不快ではなかった。いつだって一途に、目の前の屈折した仲間や困難な旅路と向き合ってきた彼女を、どうして嫌いになどなれただろう。
 ああそうだ。どうしたならば彼女のことを──己へと向けられるひたむきな赤い瞳を、厭うことなどできただろう。
 いつだったか、朝帰りの言い訳に人間と快楽について語った勇者がいた。彼曰く、人間とは苦痛より快楽に弱い生き物である。だから平素から快楽に慣れることで、人を知ろうとしているのだ。また快楽に溺れることで、それに身を任せない術を学ぼうとしているのだ。そうして胆力をつけているのであるというのが、当時の彼の理論だった。
 無論、屁理屈である。本人も本気では言っていなかった。現にフーガは、後に彼が「快楽主義者は日常のどんな些細なことにでも悦楽を見出す」と言うのを聞いている。
 だが「人間は苦痛より快楽に弱い」というフレーズだけは、妙に頭に残った。
 もしもアリアのあの眼差しを不快だと感じる人間がいるならば、フーガはその者の頭の中身をもらいたかった。あんな目で見られて、はにかんだ笑顔を向けられて、まったくもって揺らがない男がいるならば見てみたい。
 フーガだってもちろん、最初から彼女の慕情に気付いていたわけではない。彼女がいつからそんな思いを抱くようになってしまったのかは知らないが、きっと彼女がそれを自覚するよりも、自分の悟る方が遥かに遅かったのだと思う。何せ、自分が何となくそれらしきものを向けられていると明確に気付いたのは、アレフガルドに降りてきてからだったのだから。
 彼女はまた、純真なばかりになんという錯覚を抱いてしまったのだろう。早く目が覚めてくれればいいのだが。
 そう、当時のフーガは憂いた。だがその一方で、彼女を愛しいと感じている自分がいることもやがて認めざるをえなくなった。その眼に映る世界に合わせてくるくると表情を変える彼女が、可愛くて仕方がない。慈しみとも恋慕とも知れぬその感情に、フーガは随分と苦悩した。
 どうしたならば、こんな思いを抱かずに済んだだろう。
 どう言えば、旅を終えたはずだった彼女をテドンに縛り付けさせずに済んだだろう。
 どうして、彼女を──泣かせてしまったのだろう。
 抜いても抜いても生えてくる雑草を抜き取りながら、フーガは何度目になるか分からぬ反問をする。結局のところ、いつだって彼の物思いはそこへ返ってくるのだ。
 いつぞやに勇者が言ったように、突き放してしまえば良かったのだろうか。自分には他に好きな人がいると、だからどうしてもお前を同じような眼で見ることはできないと、嘘でも言ってしまえば、彼女も早々にあの可哀想な錯覚から解き放たれたのだろうか。
 しかし嘘を吐いたところで、あんなにも誠実に真摯に迫ってくる彼女には通用しない気がした。真実にできない嘘を吐くほど、フーガは軽率でも愚かでもない。だから嘘を吐かず、中途半端な真実だけを告げて突き放した。
 真実にすべきことだけを、フーガは言葉にした。
 彼女は若いのだから、もっとたくさんの人やものに囲まれて生きるべきだ。
 彼女にとって、テドンに留まることは良くない。
 彼女の助けは、自分には必要ない。
 どれも真実。
 真実の、一部だ。
 ──君の優しさも誠実さも、本当に残酷だよ。
 しばらく聞いていない声が鼓膜に甦る。真実を暴く男は、この数ヶ月姿を見せていない。
「お前に何が分かる」
 三年前の残響に、フーガは言い返した。
 自分があと十若くて、かつネクロゴンドの出身でなかったならば、きっとアリアの手を引くことに躊躇いはなかっただろう。二人で仲睦まじく、世間の荒波を越えようとしたかもしれない。
 しかし彼は亡国の、老いゆく戦士だった。もう新しい時を築き上げることに疲れ、刻まれた時の崩れた跡を、その虚を見つめることを知ってしまった男だった。
 彼女を、愛おしく思っていた。だからこそ、やがて彼女か自分かに訪れるだろう虚を思わずにはいられなかった。
 彼女がそこまで自分を大切に思うだろうか。分からないが、たとえ自分を大切に感じられなかったとしても、その場合は自分などにかまけてしまった時間を虚無と感じることになるはずだ。
 彼女にそんなものを覚えさせたくない。新しい世界を知る度に、真紅の瞳は特等星のように煌めいた。あの煌めきが損なわれるなど、あってはならない。ましてやあの生き生きと鮮やかな赤に虚無が漂うなど、考えられない。
 そのためにフーガは、真実を告げる一方で、また別の真実を胸にしまったのだ。
 フーガは黙々と草を抜く。新しい根を摘んで引き抜く。脳中を、聞いた言葉がぐるぐると木霊する。
 ──月の精かと思っちゃうくらい色が白くて、綺麗で……現実にいるものだと思えないほどに美しく、儚い人でした。
 草の根を掻き分けて、抜く。抜いたものを捨てる。
 ──何だか、変な感じなんです。
 ──みんなまるで、女神様の話になると腫れ物に触るかのような感じがして。
 ──女神様のことは、あの神殿に住む人間には話しちゃいけないんです。
 草の根を摘む。
 彼女のためにしたのだ。彼女は、こんな場所に留まっていい人間じゃなかった。
 ──私もあの地で、多くのことを学びました。あなたたちも、あそこで得られるものはきっと多いはずです。
 ──あの場所に行けば、きっと今でも『安心』できるはず……あの人はそう言いました。
 ──他の場所にどんな男性がいようが、私にはどうでもいいんです。
 抜いて、捨てる。
 フーガの言ったことは、全て真実だったはずだ。自分は真実を言ったのだ。
 ──俺を誤魔化せると思うなよ?
 ──あの場所が私にくれたものは、多すぎたわ。多すぎて……全て持って帰るのが辛かった。
 ──苦しいです。
 産毛のような根を指で辿って、丁寧に抜く。
 もう、生えてこないように。
 ──魔王を討伐した一行の一員だなんて、あの業界では完全に目の上のたんこぶだよ。
 ──あんなに凄いヒトでも、癒せない傷がある。
 ──ひどい。
 繰り返し。
 何度でも抜く。
 ──弱虫。絶対後悔するよ。
 摘んで。
 ──絶対後悔するよ。
 手が止まった。





***

 



 昼過ぎのダーマ神殿は人でごった返していた。魔物の弱体化により平和になった世界は、より多くの人々に人生の転機を与えた。鎧、修練着、法衣が悠々と歩く。あたりに立ちのぼる熱気にあてられそうだった。

 人々が忙しなく歩き回るのを眺めながら、フーガはどうしてここまで来てしまったのだろうと自問していた。

 今日の分の野良仕事を終えたのが正午の半刻前、適当に昼食を済ませ、墓掃除をしたのがつい先程のことである。買い出しに出かけようと思って、気付いたらここにいた。そしてこのダーマの門から先へと進むべきか退くべきか、長いこと考えていた。

(確かに、アリアのことは気にかかっていた。あの僧侶の話を聞く前から、ずっとだ。だがここに来て、俺は一体何をしようと言うのだろう?)

 フーガは悩んでいた。会ったところで彼女を困らせてしまうことになるのは目に見えている。かつて仲間だったとはいえ、自分を手ひどく突き放した男となど、今更誰が会いたいと思うだろう。だからと言って、彼女の様子を確かめないまま帰るのは、フーガが嫌だった。

 言葉を交わせずとも良い。一目だけでも、彼女の姿を見てから帰りたい。

 やっと決意したフーガは、緊急患者棟を目指す。あの僧侶の話だと、彼女は外来患者専門の治癒僧として働いているようだった。ならば、その周辺に行けば姿を見かけることくらいはできるかもしれない。

 緊急患者棟は医療棟の一階にある。記憶を頼りに、戦士は医療棟へ向かう。

 ダーマ神殿は大小合わせて五つの施設から成り立っているが、主要でありよく知られているのはそのうちの二つである。中央に建つ転職の社と、その周囲を囲む医療・研究棟だ。二つの建物はそれぞれ色彩、形状ともに対照的である。まず人々がダーマ神に人生の伺いを立てる転職の社は、正方形状の本館を四つの尖塔が囲む小さな漆黒の館である。そして神官や僧侶たちが訪れた人々の病や傷を癒し、自ら術の研究に励む医療・研究棟は、橙の丸屋根をいくつも掲げる巨大な白亜の外郭だった。

 この一対は人間の生を追究する叡智と繁栄の象徴とされ、己の生き様を探すためにこの地を訪れる旅人達は、人海から離れた深いダーマの森にそびえ立つこの橙の丸屋根の鮮やかさを見て涙するというのが、ダーマ神殿を謳う吟遊詩人の常套句だった。

 ところでこの医療・研究棟の出入口は一つではない。緊急患者棟の受付に近い出入口は、正面玄関から転職の社の方へ抜けて、中庭を右手側に回り込み左へ曲がった所にあったはずだ。

 フーガは正面玄関を突っ切る。しばらくぶりの景色に、最後にここを訪れた時のことが脳裏に甦って感慨深く思う。

 そう、最後にここを訪れた時も緊急患者棟に用があったのだった。十年と少し前、意地っ張りの死にたがりの自称「病」を治す方法を求めて来たのである。緊急患者棟の受付では深い話ができなくて、その奥の神官詰所までお邪魔して人を手配してもらった。その結果、病を治すことこそできなかったが、かけがえのない仲間と出会うことはできた。

 会えて、良かったのだと思う。フーガは少なくとも、ずっとそう思って生きてきた。

 昨日まではずっと、自分の判断は間違いではなかったと考えていた。

 フーガは物思いに耽りながらも、自分の辿るべき道順の通りに歩いていく。記憶に違わず、両開きの扉があった。そこをくぐってすぐ正面が、緊急外来受付のはずだった。

 フーガは少し躊躇ってから、その扉を押した。

「ん?」

 開けた先の光景に、フーガは首を傾げる。

 記憶にある景色と違う。以前訪れた時は、本当に目と鼻の先にカウンターがあって、その右手側が緊急処置室、入院患者棟へ続く階段のある廊下となっており、左手側が待合室および研究棟に繋がる道が連なっていたはずだった。

 だが今、眼前にはカウンターなどない。ただただ真白の廊下が左右に伸びている。たまに通りかかる聖職者たちが訝しげにフーガを眺めて、しかし何も声はかけずに去っていく。

 フーガはまたしても立ち尽くした。狐につままれたような気分だった。

「何か、お探しですか?」

 声を掛けられた。金髪の男である。フーガより遥かに年齢は下のようだが、それなりの地位にあるのだろう。身に纏うのは智者の証である梟の法衣だった。

「すいません、緊急外来はこの辺りじゃなかったでしょうか?」

「ああ。それなら、去年移動したんですよ。緊急ならもっと正門に近いところが良いだろうって話で、この建物の正面玄関左手の方に」

 男は話しながら、フーガの過ぎてきた方角を指した。フーガは軽く礼を言って去ろうとする。だが男は引き止めた。

「どこか具合が悪いのですか? それとも、どこか別の所に具合の悪い方が?」

「ああ、いや」

 フーガは口ごもった。

 しまった。急患であるわけでもないのに、どうして緊急患者棟に入れるだろう。

 不審者に間違われないうちに、帰ろうか。ちょっと懐かしくなったから、などと言い訳して撤退しようか。

 いつもならば多少言いよどんでも形になる言い訳が、今日に限ってすんなりと出て来ない。フーガがしどろもどろになっているのを凝視していた賢者が、口を開いた。

「もしかして、フーガさんじゃないですか?」

「え?」

「覚えてませんよね」

 男は自分の胸に手を当てた。フーガは彼の、鋭く整った顔立ちを見つめる。キリリとした細い眉、引き結んだ口からは涼やかながら気の強そうな印象を抱く。幼い頃は腕白坊主だったのかもしれない。しかし垂れがちな眸だけは優しげな形をしており、その瞳孔の白兎の如き透明な紅と相まって、彼に仄かな甘い雰囲気を与えていた。

「俺、ビクトールです。オルヴィス・アーベントロートの次男です」

 フーガは唖然とした。すぐにガルナに住んでいたルビス教一家の末っ子と、目の前の男とが重なっていく。

「そうか」

 戦士は溜め息を吐いた。

「もう、十年も経っていたか」

「身体だけはこの通り、デカくなりましたよ」

 中身は相変わらずのクソガキですけどね、とビクトールは飄々として嘯く。本当にアリアに似ていない。そう言えばあの家の四兄妹は、透き通るほどの色素の薄さと美しさ以外は、何一つとして似ていなかった。

「しばらくぶりですね。何か、この地に御用でも?」

「ああ、それなんだが」

 フーガは逡巡した。このかつての仲間の弟は、自分の姉とフーガの関係を知っているのだろうか。あのアリアが、旅を終えてからテドンにいたことを隠していたとは思えない。ならば、昔からませた子供だった彼のことだ。気づいていてもおかしくないだろう。

 非常に言いづらい。だが他に手掛かりもない。フーガは思い切って、訊ねることにした。

「アリアは今、どうしている?」

「姉ですか」

 ビクトールの瞳孔が、再びぴたりとフーガに定まった。これは明らかに、何か思うところのありそうな目である。だが今更後には引けない。

 フーガは耐えた。ビクトールはしばし彼の顔を観察していたが、やがて首を傾けて視線をずらした。

「姉なら、この神殿のどこかにいると思いますよ。ただ、今日は姉の当番日ではなかったはずだから、緊急患者棟にはいないんじゃないかと思いますけどね」

「家にはいないのか?」

「実家にはいないはずです。離婚したんだから戻ってくればいいのにって、ノーラなんてやきもきしてるんですけど。まあ、アリアは頑固だし無駄に気を遣うから、姉夫婦が継いだ家に居候なんてできないって思ってるんでしょう」

 離婚。

 フーガは固まった。ビクトールは眼前の男をとくと眺める。

「フーガさん、もしかしてアリアから何も聞いてないんですか?」

 もしかしてとは言うが、何も意外に思う様子のない声色だった。

「姉は昨年結婚したんです。でも、先月離婚しました」

「どうして」

「それは、俺の口からは何とも。知りたければ、本人と話してくださいよ」

 会えてよかったです。俺のところで良ければ、また遊びに来てください。

 そんなことを言いながら、ビクトールは自分の所在を告げて立ち去ろうとする。フーガは我に返り、その法衣の袖を掴んだ。

「アリアはどこにいるんだ?」

「さあ。俺も最近会えてませんから」

 ビクトールは返しながら、掴まれている自分の袖を凝視していた。フーガが手を離すと、紅眼が彼の顔を仰ぐ。姉にそっくりな形の、しかし冷静に過ぎる眸だった。

「俺、今でもフーガさんのこと尊敬してるんですよ」

 唐突な告白。その意図が読めないフーガに、ビクトールは言う。

「ここで会ったのが俺で良かったですね。ノーラだったら、ビンタの一発じゃ済まなかったと思いますよ」

 一礼して、ビクトールは踵を返す。フーガには、遠ざかる背中を見送ることしかできなかった。

 








 それからどこをどう歩いていたのかは、いまいち思い出せない。気付けば外郭の白壁に寄りかかって、ダーマの森を眺めていた。

 「離婚」の音が、耳から離れない。

 もう、結婚はしているだろうと思っていた。だが離婚していたなんて、どうして想像できただろう。

 誰からも好かれそうな、あのアリアが。どうして。

 神殿内部を彷徨いながら、フーガは最後に彼女を見た時のことを回顧した。フーガが別れを告げると、アリアは眦から一筋だけ涙を流した。そして部屋から鞄を取ってくると、詠唱もせずに転移した。泣き声さえ漏らさなかった。

(鞄が、ひどく歪んでいた)

 握り締めた鞄の皮に、皺がよっていた。物静かな彼女の内側に渦巻くものの大きさに、フーガはひどい罪悪感を覚えた。だが内心穏やかでないのは、フーガも同じだった。

 教会の入り口で彼女を見送りながら、フーガは腕組みした手で腕を押さえていた。誤って、手を伸ばすことがないように。引き止めることがないように、なけなしの自制心を持って堪えていた。今自分が耐えさえすれば、彼女はやがてもっと相応しい人を見つけて幸せになる。自分とのことなんて、どうでもよくなるだろう。

 あの時はそう思っていた。確かに、それが彼女の幸せだと思ったのだ。先の限られた自分より、ダーマの地に集う未来ある若者の方が、遥かに自分より相応しい。ダーマの地に仕える伴侶ならば、彼女を置いていくことなどしないだろう。いつか彼女も、その幸福に気付くはずだ。

(そのはずだったんだ)

 どうして離婚なんて、したのだろう。

(元気にやっていくだろうと、思ったんだ)

 彼女の笑顔が脳裏に浮かんだ。それにすぐ、別れ際の泣き顔が重なって消えた。

 彼女はまた、傷付いただろうか。フーガに突き放された時のように、泣いただろうか。それとも涙を堪えたのだろうか。

 彼女への懸念が膨らむほど、見たこともない彼女のもと伴侶への怒りが募っていく。同時に、煮え切らない態度で彼女の人生を惑わした挙句に傷付けた自身への自責の念も大きくなる。じわじわと重みを増してのしかかってくるそれのために、フーガは身動きが取れなかった。

 アリアが心配だ。 その姿を見て無事を確かめたい。だが居場所も分からなければ、自分ごときが会って何になるという気もする。それにしても何故、こんなことになってしまったのだろう。まさか離婚だなんて。

 とりとめもない思考の迷路に惑いながら、フーガはダーマの森を眺めるともなしに眺めた。木々の常緑が次第に赤みがかった光を帯びていき、やがて宵闇の色に濃く染まっていって幹と見分けがつかなくなっても、フーガは気付かなかった。

 彼が我に返ったのは、視界の端、白くちらつくものが目についた頃である。訝しく思い目を落とすと、暗い下草に己の手が白く浮き上がっていた。

 フーガは天を仰いだ。厚い雲から、月が覗いていた。彼はやっと時を思い出した。

 もう、真っ暗だ。アリアの居場所は分からない。どうしたらいいだろう。

 アリアを捜すためにもう一度歩き回ろうかと考えかけて、やめることにした。この暗い中で、今の戦士らしくもない自分が徘徊したら、きっと不審者扱いされるだろう。これ以上ここに座っていても、何にもならない。今日は帰ろう。

 フーガは立ち上がった。キメラの翼を使うならば、きちんとした転移場所に設定されている正門へ向かった方がいい。精度の高い転移ができる。壁伝いに左手側へ進もうとした。

 下草の擦れる音が、鼓膜をくすぐった。

 戦士の耳はそのささやかな音の中に、体重をかけられた草の折れる気配を感じ取った。誰か、踏み分けて来る者がいる。視界で捉えるより先に、戦士の習性が働いた。

 剣の鞘走りが終わるのとフーガが振り向くのが同時だった。現れた刃が月光を跳ね返し、その切っ先に怯んだ人物を照らす。

 姿を視界に捉えた途端、一瞬にしてフーガの殺気が収まった。

「アリア?」

 思わず呼んだ。切っ先の向こうに、覚えのある人影が佇んでいた。白兎に似た赤の双眸。雪を欺く肌。春を待つ蕾の唇。サークレットに、月光を織り成したような銀の髪。肩で息を切る度、そこへかかった髪と光沢が散る。

「フー、ガさん」

 鈴のようなその声が、名を呼んだ。相変わらずの澄んだ声。姿形も多少落ち着きを増したかのように思えるが、三年前とほぼ変わらない。フーガの知る、少女のような女性がそこにいた。

 アリアは茫然としている。フーガは剣を収め、歩み寄る。

「どうしてここに」

「私は、ちょっと。フーガさんこそ、どうして?」

「いや、その」

 お前の様子が気になったんだ。元気にしているか心配で、来てしまった。

 そんなことは言えない。フーガは口籠る。

「まあ、ちょっと所用で」

「こんな夜更けに?」

「今何時なんだ」

「もうお夕飯の時間もとっくに終わって、先程外来者向けの施設は全て閉まりました」

 ああ、それで人通りが少ないのか。

 フーガは今頃になって、自分がどれだけの間ここに座り込んでいたかを悟った。だがそれも、もうどうでも良い。

 フーガは彼女を凝視した。凝視しながら、己の内面の変化を静観する。彼女がとりあえず五体満足でいるらしいことへの安堵。かつての自分の業から来る罪悪。そしてそれらを遥かに上回る、彼女との再会への喜び。記憶ではなく現実の彼女を前にして昂ぶる気持ちの振れ幅に、フーガは戸惑っていた。戸惑いながらも、彼女を見つめるのをやめられなかった。

 それを、どう捉えたのか。最初こそ呆気にとられてフーガを眺めていたアリアも、やがて目を逸らした。それでもなお、戦士は視線を外さない上に言葉を発しない。アリアは身動ぎをして、ぎこちなくフーガの顔を上目遣いに見た。

「何か、深い事情でもあるのですか?」

 深いのだろうか。フーガが返しあぐねていると、アリアは溜め息を吐いた。

「立ち話もなんです。フーガさんさえよろしければ、落ち着いて話せるところに移動しませんか?」

 フーガは頷いた。





 

 フーガの予想していたのよりずっと穏やかな再会は、彼の感覚を狂わせた。この、眼前に現れた銀髪の女は確かにあのアリアだろう。だが長い間会えず、また見つけるのにも手間取ったために、なかなか再会したという実感が湧かない。

 医療研究棟を抜けて、転職の社へと入っていく。辺りに人の目はほぼない。夜のお勤めの時間だからですと、そう言うアリアが導くのに従いながら、戦士は彼女を観察する。

 雰囲気が少し変わった。淑やかな物腰は出会った頃からそのままだが、何というか、空気が違うのである。落ち着きは勿論増したと思う。だがそれとは違う何かがあった。背中までだった髪が、腰のところまで伸びたせいだろうか。はたまた、美しい銀髪を受け止める身体の線が、以前より細くなったせいだろうか。

(冗談じゃないぞ。前だって、肉付きなんてほぼなかったじゃないか)

 確かにこれなら、儚いと言われてもおかしくない。

 彼女は本殿の回廊を進み、北西の尖塔を上る。最上階まで辿り着き、そこにあった扉の中へと戦士を誘った。

 丸い部屋だった。所謂屋根裏部屋というものだろう。綺麗に整理されているが、暖色のラグや丸い衣装の愛らしいテーブルやソファー、書庫のものとは明らかに異なるラフなデザインの書棚は、どうしても客室のものとは思えない。どちらかと言うと、居住スペースのような。

「この部屋は何なんだ」

「私の部屋です」

 入ってから訊ねたことを、後悔した。だが既に遅い。アリアは扉の鍵を閉めて、微笑みながら、立ち尽くすフーガをソファーへと促した。

「大丈夫ですよ。この辺りには滅多に人は寄り付きません。もともとは大神官様のお持ちになっているお部屋の一つなのですが、今はご厚意に甘えて、間借りさせていただいているんです」

 彼女の大丈夫が何を指すのかさっぱり分からなかったが、複数の意味でまずいということは分かった。

 特に、この部屋が大神官の持ち部屋だというのが気にかかる。ダーマの主である大神官の持ち部屋とは、国で言えば国の共有地に値する。そんな部屋を貸り、しかも場所が尖塔の最上の屋根裏部屋で、というのはどういう状況なのだろう。

 フーガは、若い僧が言っていたことを思い出した。彼の勘も満更間違っていなそうだ。何かあったのである。

 あれこれと考えている間に、アリアが茶を淹れてきた。使うカップも、彼女の好みらしい意匠である。ここが彼女の住まいであることは確実なようだ。

「フーガさん、お久しぶりですね。元気にしてらっしゃいましたか?」

「ああ」

 フーガの右向かいのソファーに腰掛けて、アリアは尋ねた。フーガが躊躇いがちに頷くと、彼女は微笑んだ。少女のような微笑み。笑うと意外と幼く見えると、あの僧も称していたことを思い出した。やはり彼女は、年が下の者から見てもそうなのだ。少し鳩尾が痛んだ。

「その、お前はどうしてたんだ?」

 よく言えたものだと内心自身を皮肉りながら、それでも彼女のことを聞きたくて尋ねた。

 アリアは微笑んだまま、少し黙った。同じ笑顔のはずなのに少女らしさは失せ、代わりに妙齢の女性の謎めいた雰囲気が現れていた。

「ここの暮らしも悪くないです。今は特に、こうして自分のお部屋をいただけてますし、自分のやりたい仕事もやらせていただけています」

 賢者は語った。患者に関わる仕事を続けさせてもらっていること。主に外傷の治癒を専門にしていること。ここでは回復呪一つですぐ完治させられるような生命力のある患者は少なく、大半が少しずつ薬や弱い治癒の呪いを用いて治療を行っていくこと。元気になった患者を見るのが、楽しみであること。

 語るのは、仕事のことばかりだった。ビクトールが語り、今日半日フーガの頭を支配していたあの一言は、一切その口から出て来ない。

 フーガは相槌を打ちながら、部屋の様子をそれとなく見渡した。部屋の奥三分の一は、敷居で分けられている。アリアがそこから茶と菓子を持って現れたことから察するに、台所なのだろう。だがその左方面には、さらに上へと伸びていく階段が見えた。この部屋の天井は尖塔の形ではなく、真平である。ならば、あの階段の先こそ、屋根裏部屋だろうか。

 屋根裏には何があるのだろう。そもそもこの空間は、本当に彼女の一人部屋なのか?

「狭い部屋でごめんなさい」

 フーガの目が時折部屋のあちこちに向かっていることに気付いたのだろう。アリアが詫びた。フーガがそういうわけではないと訂正する前に、彼女は言葉を続ける。

「愛想のない空間に思えるかもしれませんが、結構人も来てくれるから、最低限のおもてなしのためのものもそれなりにそろえなくちゃいけなくて。だからちょっと狭いんです」

 とは言っても、この部屋に来るのは身内と、サタルとカノンと、それからキラナくらいなんですけど。

 アリアはフーガも予想していた面子の名前をあげて、付け足した。

「今日も末の弟が来て、散々お菓子を食べ散らかして、さらにお昼ご飯を食べてから去っていきました」

「ビクトールが?」

 思わず声を上げてしまった。アリアは小首を傾げる。

「弟が何か?」

「来た時に会ったんだ」

「まあ。そう言えば、今日は午後からのお勤めだって言って、お昼ご飯を食べた後に渋々行きましたね。じゃあ、その後会ったのかしら」

 あいつめとフーガは思った。何が居場所は知らない、だろう。思い切り会っているではないか。

 だが逆の立場だったなら、フーガもそうしただろう。昔姉を傷つけた相手に、その姉の居場所を教えるなんて、誰がするものか。当然の仕打ちなのである。

 フーガは俯く。アリアは話し続ける。

「ビクは外仕えのお仕事をしてるんですよ。あの子は昔から霊の相手をするのが得意で、小さい頃は森やお墓から何か連れて帰って来ちゃうことが多くて大変でした。今は悪魔祓いを専門にしてるんですけど、相変わらずやんちゃしてるみたいで」

 赤い瞳は生き生きとしている。とっくに成人しているとはいえ、弟が可愛いのだろう。フーガはその瞳の輝きを見つめていた。

「あの子のこと、腕白で困るって兄や姉はしきりに言うんです。外仕えのお仕事でやりすぎた時に、二人のところに苦情が行くんですって。でも、本当は優しい子なんですよ。私のところに遊びに来る時は、必ず何かお菓子を持ってきてくれるんです。『俺が食べたくて買ったんだけど、姉さんもついでにどうか』って、そう言いながら私にいっぱい何かくれるんですよね。あれでも、私のことを気遣ってくれてるんです」

 そうだろう。フーガだって、血縁でもないのに彼女のことが気にかかって仕方ないのだ。血縁の、それもこの穏やかすぎる美人を姉に持ったならば、きっと気苦労が絶えないだろう。

 ビクトールの立場を思いやっていたフーガは、ふと、アリアがこちらを見つめていることに気付いた。視線を彼女に戻す。フーガさん、と彼女は語りかけてきた。

「ビクが何か言いましたか? それともサタルたちから、何か聞いたんですか?」

 フーガは驚く。アリアはまた、唇に薄く笑みを浮かべた。

「フーガさんって、結構思ってることが顔に出るんですよね」

「分かりづらいと言われることの方が、多いんだが」

「カノンよりは分かりやすいですよ」

 それで、どうしたんです?

 アリアは話題を逸らさせてくれない。こういう時の彼女は強い。フーガは素直に口を割るしかなかった。

 しかし、何をどう言えばいいだろう。ここに来ようと思ったきっかけは、そのどちらでもない。サタルもカノンも時折フーガのところに顔を出しに来るが、三年前の一件以降、アリアの話はとんとしなくなった。二人がたまに訪れていることなんて、今初めて知ったくらいである。

 テドンにやって来た若い僧の話をしようか迷った。だが彼が話した内容を、アリア本人に今語るのは何となく気が引けた。

 日中、ビクトールから聞いたことを当たり障りのない範囲で言うのがいいだろう。フーガは考えながら、口を開いた。

「お前が、どこにいるのか聞いた。緊急患者棟で働いていて、家には帰ってない、と。それで」

「離婚したんです」

 予想していたより遥かに早く、気にしていた単語が出てきた。

 アリアは紅茶を口にして、カップを置く。平然としていた。今度こそ驚きが隠せていないだろうフーガを見て、微笑むことができるほどに。

「そこまで聞いたなら、知ってますよね? 私、去年結婚した人とお別れしたんです」

「どうして」

「うまくいかなかったから、ですね」

 三人目の方でした。

 アリアは臆することなく、語っていく。

「気さくな、良い方でした。最後まで、喧嘩をすることもなければ、言い争いさえすることもありませんでした。私が別れ話を切り出さなければ、多分ずっと一緒にいたんだと思います」

「それなら、何で」

「あちらに、別のお相手がいたんです。気付いたのは、結婚して半年後くらいだったでしょうか。いつからそうだったのかは、知りません。だけど、私はそれでも良かったんです」

 アリアは緩やかに、首を横に振る。

「確かにあの方のことは好きでした。けれど、浮気相手がいると気付いても、私は傷付きませんでした。驚きはしましたけど、それで怒ったりとか、悲しくなったりとか、そういう気持ちは全く起こらなかったんです。ただ、周りにばれたら面倒だなとは思いました」

 周囲の同い年達は、アリアが旅を終える頃には既に結婚している。だからもう二桁の年になる子供達を持つダーマの同い年達の中で、長らくどこかへ行っていて結婚もしていなかったアリアは異様だった。

「この歳になってやっと結婚できたのに、また独り身になったらすぐにあれこれ言われます。だから最初のうちは、気付かないふりをしてました」

 ティーカップの淵をなぞる細い指は、震える素振りもない。アリアは琥珀の水面を少し眺めて、それからフーガに微笑みかけた。

「薄情ですよね。結婚した相手に浮気されて、思うことがそれだったんです。私、あの方のことを、程々に好感の持てる都合の良い方としか思ってなかったんですね。この時になって、やっと結婚する前までにお付き合いしてきた方々に言われたことを実感しました」

 フーガさん。

 アリアはソファーから僅かに身を乗り出して、呼んだ。下から覗き込んでくる瞳を、フーガは反射的に見返した。

「つまらないお話になりますが、聞いてくださいませんか」

 やっとのことで頷く。アリアはそのまま、語りを続けた。

「テドンからこちらに本拠地を移した後、私は三人の方とお付き合いしました。はじめてお付き合いした方は、とっても優しい人でした。私が好きなものは何でも贈ってくださいましたし、行きたいところに一緒に出掛けてもくれました。あまりお付き合いに積極的でなかった私を、辛抱強く待って愛してくださいました」

「尽くしてくださるあの方にお返しがしたくて、私も色々頑張りました。好きなものは何か、どういう本が好きなのか、調べて贈り物をしました。お出掛けする時に、同伴を申し出るようにしました。お仕事の手助けも、できることがあるようならやらせていただきました。そうしてるうちに、その方に惹かれ始めて、この人となら結婚しても良いかも、とまで思えたんです」

「でも、一年と少し経った頃。一緒にお出掛けした時に、別れようって言われました。『君は僕には過ぎた人だ。僕が欲しいのは同情じゃない』って」

「ふられたことよりも、私の行動が同情からだと解釈されていたことの方がショックでした。確かに最初はそういう考えもなかったことはなかったんですけど、その頃にはその人のことが好きになってましたから」

「どうしてって、もちろん訊きました。彼は言いました。『君は、僕が君にしたこと、僕がしてほしいと思ったことを必ずやってくれる。嫌な顔一つしないで、僕が君にしてあげたこと以上のクオリティーで、平然としてくれる。初めは嬉しかったよ。でもだんだん、君が僕にとことん合わせてくれてることに気付いてしまってから、辛くなった。君の方が仕事も魔法も出来る。ぼくが君にしてあげられることは、何もないんだ』……良かれと思ってしたことが、裏目に出たんですね。恋人として、相手を尊重することは当たり前です。そう言っても、もう通じませんでした」

「二人目の方は正反対で、とても情熱的な方でした。前の方のことも知ったことかって感じで、『それより俺と楽しくやろう』って、落ち込んでる私をあちこち引っ張り出してくれました」

「マイペースで無茶苦茶なところもある人でしたけど、楽しかったんです。ふふ、サタルにちょっとだけ似てたかも。だから『型にはまりすぎててつまらない』って理由でお別れすることになった時は、悲しくはなかったですけど、寂しかったですね。三ヶ月だけでしたけど、私の知らないことをたくさん教えてくれました」

「三人目の方とは、他人からの勧めで出会って、トントン拍子で結婚しました。私もあの方のことを都合の良い方だと思っていましたけど、あちらもそうだったんだと思います。あちらに他の良い人ができて、これがまたダーマ勤めの方で、三ヶ月前くらいに大騒ぎになって……職場が荒れるのが嫌で、私からお願いしてお別れしてもらいました」

 アリアは視線を落とした。彼女の視線が外れて、やっとフーガは緊張の糸が切れたかのように、伸ばしたまま固まっていた背中の筋肉を緩めることができた。しかし、彼女の顔に引き寄せられた視線はそのままだった。

 「…………」

「この部屋は、その騒ぎの頃に新居から出て、外の森の中に居を構えようとした時に、大神官様が貸してくださいました。静かで人が来なくて、ダーマで一番休める場所です」

 中には私が囲われているのではないかとあらぬ勘繰りをする人もいますけれど、大神官様にはいつだってお付きの方がいらっしゃいます。潔癖であることは、皆さんよく考えれば分かるはずですし、好きに言わせることにしています。

 アリアは視線を戻した。フーガと一瞬目が合い、また睫毛を伏せる。

「つまらないお話をお聞かせして、ごめんなさい。フーガさんに聞いていただいたのは、教えて欲しいことがあったからなんです」

 なんだ、とフーガは促した。アリアは目を上げた。

「私は、どうしたら良かったんでしょうか。三人目の方の時、浮気に気づいた後にすぐ縁を解消すれば良かったのでしょうか。それとも、二人目の方にもう少しお縋りして、つまらなくない人間になれば良かったのでしょうか。それよりも前に、一人目の方をもっと愛することができればよかったのでしょうか。どうしたら、人をそんなにすぐに愛することができるのでしょう」

「アリア」

 「私は薄情な女です。誰一人として、まともに愛することができませんでした。普遍の愛を説くルビス教の僧侶としても、人間としても失格です」

「そんなことはない」

 フーガは否定した。声が大きくなりすぎたことに気付き、すぐ調子を和らげる。

「お前は優しい。優しすぎるくらいだ」

「過ぎた優しさは、人をダメにします」

 アリアの言葉は厳しかった。笑みの一つも見せず、毅然として言う。

「私がそうです。人に尽くすのは、私にとって当たり前でした。でもそれは、体裁を繕っただけの愛だったんです。私が相手のことを大事にしているという、それを表明するための行動だったんです」

 彼女の、苦しげに狭められた瞳。細く、張り詰めた背すじ。フーガは胸に、えも言えぬ哀しみが広がるのを感じた。儚く、美しい人。そう称された彼女の雰囲気の変化を理解したのである。

 人に愛されて、愛を返そうにも返せなかった。己の情と他人の情が通わないことを知ってしまった。彼女を変えたのは、孤独の自覚だった。

 何が、「彼女のためを思って」だろう。思い上がりも甚だしい。フーガは俯き、額を押さえる。

「俺は」

 この少女に、何をしてしまったのだろう。罪悪感で、息が詰まりそうだった。

「お前と過ごしてきて、そんな風に感じたことはなかった」

 息を飲む音がした。フーガでは、勿論ない。

「ひどいですね、フーガさん」

 アリアの声が震えていた。顔を上げる。その表情が強張っていた。

「私の気持ちも知らないで」

 わななく唇。瞳が、不規則に揺らいでいた。泣くのだろうか。泣いてくれればいいとフーガは思う。

 彼女を傷つけたくないという気持ちは、今も変わらない。だが、傷ついたのに泣かず、平然としている彼女は、もっと痛々しくて見ていられなかった。

「そうだな。知ろうとして来なかったし、今更こんなことを言う俺こそ、酷い人間だろうな」

 もう、いい。

 彼女はフーガのせいで、酷い目にあった。彼女の悲劇の発端はフーガだ。

 だから存分に、お前のせいで負った傷が痛いと泣けば良い。

 彼女が泣けるならば──フーガは、彼女の乾いた眸に告げる。

「ずっと……お前があの日、思いを告げようとする前から。お前を愛しいと思っていた」

 アリアは絶句した。二の句が継げず、言葉を発しようにもできない彼女の唇が開いたり閉じたりするのを、フーガは眺めていた。そして彼女が唇を噛み締めた時──その眸に涙が溢れるのを見て、フーガは罪悪と安堵とを同時を覚えた。

「だったら何故、言わせてくれなかったんですか!」

 彼女は激昂した。身を乗り出して、卓を叩く。ティーカップが跳ねて溢れる。フーガはもう目を反らさない。

「私は幸せだったんです。結婚できなくても何もなくても、あなたの傍にいられるだけで良かった。満たされてたんです! なのに、必要ないって、私がいると迷惑だって」

「あの時は、そう言うのが最善だと思っていた」

「私の幸せは私が決めます!」

「すまない」

「そう言うことを言って欲しいわけじゃありませんッ!」

 アリアがかぶりを振るたびに、長く伸びた髪が散る。斜めに座ったフーガの膝を叩く。鈍い痛みが走っても、それでいいと思った。彼女に与えられる痛みならば、いくらでも耐えよう。

 彼女は、卓を叩いた形のまま首を垂れた。顔を片手で覆い、荒れる呼吸を殺そうと、呼気を落ち着けようとする。

 フーガは黙って待った。アリアは力無く首を振り、まだ涙に濡れた声で言った。

「何でいまさら、そんなこと言うんですか。もう私……若くもないし、純粋でも綺麗な体でもなくなっちゃったのにッ……」

「綺麗だ」

 意識せず、出た声だった。

 フーガは片手を差し伸べる。顔の横に現れたそれに、アリアは戸惑ったようにその節くれだった手と戦士の顔とを見比べる。露わになった目元は赤く腫れている。色が白いから、少し涙を流すだけで朱を差したようになってしまうのだ。出会った頃からそうだった。彼女の眸が潤むだけで、眦も頰も色付いた。日が射して冬が和らぎ、流れ落ちた雪解け水が春を呼ぶように。

 繊細な彼女の肌に触れないよう、フーガは彼女の頬が纏う空気を指で愛でて言う。

「お前は昔から、ずっと綺麗だったよ」

 アリアの顔が歪んだ。

「何でなんですか。だから」

 しゃくり上げて、アリアは両手に顔を伏せた。

「だからフーガさんのことなんて、好きになりたくなかったんです……っ」

 彼女は泣いた。

 紅い眸が飴玉のように、溶けて無くなってしまうのではないかと心配になるほどに泣いた。

 しかしフーガは、彼女の涙を流れるがままにさせておいた。止めることもなく、途中冷やしたタオルを持ってきて目元を冷やすように言っただけで、後は彼女の涙が自然と止まるのを待った。

 やがて涙の止まったアリアは、すんすんと鼻を鳴らしながら唇を尖らせる。

「フーガさんって、本当に酷い」

「そうか」

「私のこと、いつだって子供扱いするんだもの。十年前に会った時なんて、私十九歳だったんですよ? 立派な成人女性なのに、いつも無理はするなよとか、若いからとか、そういうことばっかり言って」

「労わるのは当たり前だし、お前が若いのも事実だろう。俺とお前と、何歳差があると思ってるんだ」

「そういう話じゃありません!」

 ぷりぷりと怒りながらも、もう温くなってしまったタオルを律儀に目に押し付けている。だからもう三十に近くても少女に見えるのだと思ったが、言うと話が逸れそうなので止すことにした。

 なあ、アリア。フーガは問い掛けた。

 「また、俺と一緒に暮らさないか」

 アリアはタオルを目頭に当てたまま、じいっと彼を見つめた。フーガはいささか緊張しながら続ける。

「俺は、テドンから離れることはできない。あの場所には墓石があるだけで、何もない。楽しい思いも贅沢もさせてやれないかもしれないが、それでもお前がいいなら──」

「フーガさんって、本当に馬鹿ですね」

 台詞を遮って、アリアが笑った。もう陰などない、晴れやかな笑みだった。

「最初から言ってるじゃないですか。私はずっと、あなたの傍に行きたかったんです」

 これからも、『また』、お供させて下さい。

 アリアは妙な言い方をした。フーガは怪訝な顔をする。だが、『あること』を思い出した途端、急に目を白黒させた。

「は? や、でも、まさか、お前そんな」

「そのまさか、なんです」

 アリアは照れたように言った。顔が赤いのはあの時と同じだ。だが違うのは今回の彼女のそれは泣き過ぎから来ていることと、それから。

「フーガさんのそういう顔、初めて見たかもしれません」

「頼むから、どんな顔かは言わないでくれ」

 ハイ、とアリアは嬉しそうに返事をした。男の情けない様を見てそんな表情をするなんて、とんだ趣味である。だが今回ばかりは、フーガも自分に呆れるしかなかった。

「俺は、本当に馬鹿だな」

「本当ですね。でも、そんなフーガさんのこと、ずっと諦められなかった私も同じくらい馬鹿だから、お似合いです」

 そう言って、アリアは笑う。








***




「で、本当にこのちっちゃな教会で式挙げるの?」

「だって、他にアテがないもの。見せたい人もいないし、やらなくたっていいんだけどね。私もドレスなんて着てもって感じだし、フーガさんだって本気で嫌そうだったんだけど、姉さんがこれまでの罰だって譲らなくて」

 言い方の割に幸せそうなアリアに、カノンはふーんとだけ返した。それでもアリアはうっとりとして両指を組み、溜息を吐く。

「でも、フーガさんの晴れ姿は私も見たかったから、姉さんには感謝してるの。ああ、フーガさんカッコいいだろうなあ。こんなの俺には似合わないって顰め面するフーガさん、すっごく楽しみだなあ」

 アリアって、こんな子だったっけ。

 カノンは思う。歪んでいる。どこへ出しても遜色のない才色兼備の優等賢者をこうさせているのがあの冴えない戦士だなんて、世界はどうしてこんなにも歪んでいるのだろう。違うか。世界のせいではなく、フーガのせいか。十年も片思いを拗らせた弊害か。フーガの罪は重い。

 今から七日前。夫の仕事の都合やら自分の用事やら子供の病気やらで、なかなか訪れられずにいたダーマ神殿に足を運んだ時の衝撃といったらなかった。友人の住まう尖塔の屋根裏部屋に行ってみたら、そこで待っていたのは可憐な友人ではなく、卓上すごろくで遊ぶ友人の弟と大神官だったのである。しかも二人が遊びに興じながら言うことには、友人はついに片思いを成就させ、廃村で新婚生活を営んでいるのだという。

 あまりの急展開におかしくなった夫が、自分と子供を抱えて尖塔の窓からダイビングルーラした時は死ぬかと思った。絶対に許さない。

 そんな経由でテドンに飛んで戦士の家の戸を叩いてみると、本当に中から友人が出てきた。しかも、赤いギンガムチェックのエプロン姿である。

 おめでとうと言うより先に、どっちの趣味ですかと聞いた夫のことは絶対に許さない。

「まあ、みんなアリアのドレスの方を楽しみにすると思うけどね」

「あら。じゃあ私がその分、フーガさんにカッコいいですよって言ってあげなくちゃ」

 とことん嬉しげな友人は、ずっとこんな調子である。七日前に急遽友人のお宅訪問から結婚式準備手伝いへと目的を切り替えた日から今日に至るまで、カノンはその時間の大部分をこの友人と共に過ごしているが、この間に何回「フーガさん」の音を聞いただろう。もう夫という肩書きを持つ者が全て「フーガさん」という名前のような気がしてきて、ついに昨夜夫のことを「フーガさん」と呼んだ。正確には呼ぶ途中で我に返ったので「フー……あっ」だったのだが、無駄に過敏な夫は悟った。嫉妬から、いい歳こいてこの己へ向けて襲撃しようとしてきたので、「喧嘩なら表へ出ろ」と深夜の一騎打ちと相成った。カノンが勝った。良い汗をかけたので、許してやることにした。

「それより、この教会で式を挙げるなら、少し掃除した方がいいよね。レッドカーペットは、洗ってもいまいち明るさが戻らなかったなら、新しく買ってくるか作った方がいいかも」

 今日は式の時の会場準備について、アリアと二人で考えていた。結婚式は、以前アリアが住んでいたテドンの新教会にて行う。ここはアリアが出て行ってから三年間、全くの封鎖状態だったので、壊れている箇所こそないが埃だらけだった。

「そこまでしなくてもいいわ。もう出戻りの身だし、ヴァージンロードを歩くのだって恥ずかしいのに」

 恥じらう友人は、母になった自分より二つ年上なのによっぽど若々しく可愛らしい。カノンは窘める。

「そういう問題じゃないでしょ。肝心のフーガとは初めてなんだから、ちゃんとしないと」

「うふふ、そうね。ヴァージンロードを歩くのは、初めてね」

 意味深な笑みを浮かべる友人。カノンはおやと思った。

「フーガももう歳だからって思ってたけど、意外と手が早いんだね」

「うーん」

「え?」

 カノンは目を瞬かせた。友人の笑顔の意味深度合いが上がっている。

 いや、そんなまさか。嘘でしょと問うと、月日は人を変えるわねという返事が来た。あのアリアの口から、こんなことを聞く日が来るなんて、誰が思うだろう。やはりフーガの罪は重い。いや、重いのか?

「あっ、誤解しないでね? フーガさんはちゃんとカッコよかったの」

「分かった分かった」

 何で勇者や賢者といった連中は、こうもアグレッシブなのだろう。自分の周りがおかしいのか。きっとそうだ。

 カノンは憶測で片付けた。真実を明らかにするのが恐ろしかったのだ。

 アリアとカノンは、そこからはさっさと教会の点検を進めた。掃除すべき箇所、買い換えるべきものを挙げていく。ただしオルガンの音の調律だけは素人の二人には厳しかったので、かつての仲間の誰かに、知り合いの音楽家を手配してもらおうという話になった。勇者か商人あたりが順当だろう。

 教会内の点検をあらかた終えた頃には、天井の薔薇窓から差し込む光が場内いっぱいに広がり、オフホワイトの壁や床を一面ステンドグラスにしたかのように、豊かに彩っていた。日が落ちてきたのだ。このくらいでいいかなとカノンがふると、アリアが大きく頷く。

「あとは色々、必要な小道具をしまうための部屋だけど……」

 カノンが、祭壇横にある小部屋へと入る。アリアもそれに続いた。中には書架が三つに、ベッドとタンス、文机が一つずつ置かれている。

 まだ思いを打ち明けていなかった頃、アリアが暮らしていた部屋である。

「このままでいいかしら」

「そうだね。必要な広さはあるし」

 カノンは歩幅で、何もない空間の広さを測る。やはり、十分なようだ。当日まで宴会の飾り物などをここに置き、その後は新郎控え室として使ってもいいだろう。

 新郎。カノンは以前、夫が戦士をそう呼んだ時のことを思い出す。戦士は物凄く難しい顔をして、「有難いがその呼び方はやめてくれ」と言っていた。新しいなんて歳じゃない、とも。それに対して夫は、何でもいいじゃないか二人が幸せならばと言っていた。何とも彼ららしい会話だと思いながら聞いていた。夫のようなお気楽さがあれば、戦士も賢者も苦労しなかったろうに。

 カノンはふと当人を振り返って、眉を顰めた。

先程まで天井の蜘蛛の巣を見つけたり、四角の埃などを取っていたアリアが、ぼんやりと立ち尽くしていたのである。彼女の前には、使い込まれた文机があった。

「どうかした?」

「あ、ごめんなさい」

 体調が悪いのか、疲れたのか。

 カノンが聞くと、アリアは弾かれたように首を横に振った。

「違うの、全然そういうわけじゃなくって」

 そうじゃないなら、なんだと言うのだろう。カノンが心配な顔を崩さないと、アリアは申し訳なさそうに微笑んだ。そして、呟いた。

「何だか、夢みたいだなって思って」

 言葉に詰まった。

 先程までの浮かれた様子で言ったならば、はいはいと流していただろう。だが睫毛を伏せて、あまりにも静かに、ひっそりと言うものだから、流すなんてできなかった。

 十年。その月日も、その間募らせていたのだろう思いも、カノンには想像できない。

「良かったね」

 労うと、アリアはありがとうカノンと相好を崩した。そして視線を文机へ落とし、さりげなく触れていたそれを細い指で辿った。

「その引き出し、何か入ってるの?」

 目敏く、彼女の所作を見たカノンが問う。アリアは指を離して、彼女に向き直った。

「何も。昔使ってたものが、入ってるだけよ」

 ふーん。カノンはそれだけ返した。










20170918