初めて見た時は、黒炭を練りこんだ造花かと思った。
アッサラームの都市より北、そこそこ賑わいのある宿場町で訪れた郭に、その花は飾ってあった。部屋の戸を開ければ、焚き込められたアロマの香りが熱気と共に肌へまとわりつく。昼間ならば壮麗な極彩色でもって人々をを驚かせるアッサラーム調の一室は、日が暮れて抑えられた照明をその身に浴びた途端、一転して淫靡な本性を露わにした。
しかしそういった華麗な調度より先に、不思議と目はある一点へ吸い寄せられた。シルクの枕元にぽつねんと挿された、漆黒の薔薇。これだけ煌びやかで享楽的な一室において、色という色を一切映さず頑なに背筋を伸ばして佇んでいるその花は、明らかな異彩を放っていた。
この花は何だろう。すぐに聞きたかったが、隣に連れ立つ花に別の花について尋ねるのは無粋である。だから実際にそれについて言及できたのは、やることを全て終えてからのことだった。
「お客さん、見るの初めてなのね。これ、黒薔薇っていうのよ」
見た通りでしょ? と、その夜の華は言った。彼女の長い赤銅の髪が浮き出た鎖骨に影を落とす様子や、そのおざなりに巻かれた薄いブランケットに収まりきらない奔放な体は、いくら眺めていても飽き足りないようだった。だが見たことのないものに格別な興味を示す性質のサタルは、関心を抑えきれずつい枕元へ視線をやってしまう。それでも、女は愛想よく教えてくれた。
「造り物じゃないのよ。れっきとした天然モノなの。世界でも、この地域でしか咲かないらしいわ」
「へえ、だから見たことなかったのか」
「ええ。他の土地だとね、同じ種類のものでもこういう真っ黒にはならないのよ」
「え、違う色になるの?」
「そう。黒みがかった赤になっちゃうの」
その昔、珍物好きのポルトガ王がこの花を持ち帰って自国の風土に根付かせようとしたことがあったらしい。しかし領土のどこに植えても、その花弁は漆のような黒にはなりきらなかったという。原生地の特別な土壌、さらにある夏の一時期でないと駄目なのだ。
「だから、奇跡の花なんて呼ばれてるのよ」
そう語る女の声を聞きながら、サタルはその眼前にある奇跡を見つめた。朧げな燈明に照らされる黒は、確かにつややかで美しい。けれど「奇跡」とはまた、随分希望的な呼び方だ。初めてそう呼んだ人間は、きっとよほどのオプティミストだったに違いない。
サタルの目には、この花がそのような楽観的な美しさを備えているようには映らなかった。何せその花弁はビロードの如き貞淑な輝きを湛えているくせに、黒なのである。しかも、薔薇である。まだ硬さの残る芯にふっくらと柔らかに反る花弁が一枚一枚寄り添っている様は、まるで貴婦人のドレスだ。それが、黒に染まっているのである。ドレスの中で幾重にもなっているチュール生地の一枚一枚さえ、気品と色香を漂わせる漆黒なのだ。
「薔薇の花言葉は知ってるかしら」
女が訊ねる。サタルはそれを見据えたまま答えた。
「薔薇全般は、『愛』と『美』だよね。あとは、色によって別の花言葉があるんだろ?」
赤ならば「情熱」、「熱烈な恋」、「あなたを愛しています」。白ならば「純潔」「深い尊敬」、「私はあなたにふさわしい」。ピンクなら「上品」「淑やか」で、黄色ならば「献身」や「友情」、「移り気」などの意味があると聞いたことがある。また花以外の箇所にも意味がつけられており、さらに贈る本数によってメッセージも変わるのだ。
サタルの答えに、女は満足げな笑みを浮かべて「おませさん」と囁いた。彼女は久々にやってきた年下の客が、よほど嬉しいようだった。
「黒い薔薇にもね、花言葉があるのよ。何だと思う?」
女の悪戯に煌めく瞳が自分に注がれているのを感じながらも、サタルは漆黒の薔薇から視線を外さなかった。
そもそも薔薇は、美しく慈悲深きルビスの涙が零れ落ちて生まれたと言われる花である。
「死、じゃないかな」
何とはなしに呟いて隣を窺うと、女は目を丸くしていた。
「うそ。なんで分かったの?」
「あれ、当たってた?」
「黒薔薇の花言葉は、『憎しみ』『恨み』『あなたはあくまで私のもの』『決して滅びることのない、永遠の愛』、そして」
彼女は最後の一つを口にして、サタルを凝視した。意外そうな眼差しに彼は微笑んで応え、彼女の白い肩に片手を伸ばす。
「そんな怖い花の前であなたとこうしてるなんて、何だか恐ろしいな」
「あら、怖がりなのね」
女はころころと笑うと両腕をサタルの背へ回し、身体をぴたりと添わせる。その拍子にブランケットが滑り落ちて、相手の胸の昂りが柔らかく甘くサタルの胸板をつつく。
「大丈夫よ、獲って食べたりはしないわ」
「本当に?」
サタルはそう言いながら、仰向けにされた己が身体に跨る女を見上げた。
「そう言うわりに、頂く体勢ばっちりな気がするんですけど?」
「諦めが早いのね。食べられるのが好みなの?」
女の瞳が、何かを期待するようにこちらを覗き込む。サタルはそれとなく、その向こうに見える時計を窺う。まだ宿に帰るには早い。
「いや、まさか」
腹筋で上体を起こして首筋に喰らいつくと、嬌声と共に白い花がしなった。後ろに倒れ込む花につられ、今一度身を沈めていく。
そうしてサタルは、黒い薔薇を忘れた。
次に彼がその花を思い出したのは、日の昇らない世界に降りてからのことだった。
水の都リムルダールは、愛称の通り湖に囲まれている。さらにその西以外は高い山並みに囲われており、湖畔は人間の近づきづらいほどに傾斜が激しく、しかも鬱蒼とした森に飲まれていた。
その南側の最も傾斜がきつい箇所に、サタルとスランは来ていた。明日魔王の居城に乗り込むため、腕を鈍らせないようにというのが目的だったが、森に乗り込んでいき、ある地点に着いた途端、彼らは一瞬どうして自分達がそこにいるのかを忘れた。
「見ろよ、黒薔薇だ」
闇に慣れた彼らの目は、森の中に突然現れた小さな盆地の、その一面に群生する花の正体を正確に見て取った。彼らの前に、黒い薔薇の花畑が広がっていたのだった。
「まさかこの世界にも黒薔薇があるなんてな」
「あれ、スランも見たことがあるのか?」
「まあな。前にアッサラームの辺りを調査してる時に、見に行った」
サタルは右手を握りしめ、開いた。するとその中から小さな光の玉が生じ、宙を漂い始めた。サタルが花畑に歩み寄ると、光の玉も主に追随するように飛んでいく。サタルは花畑を見渡した。仄かな白光が薔薇の群を照らすと、音もなく黒炎が燃え上がった。その慎み深くもあでやかな艶を前に、サタルは目を細めた。
「黒い薔薇は、全ての花の中で一番美しいと俺は思うよ」
「そうか?」
スランの理解しがたいといった気配の声を余所に、サタルは眼下の薔薇を見つめる。しばらく記憶の深層に忘れ去っていた黒い薔薇が、こんな時だからこそ、一層美しく愛おしく思えた。
「黒薔薇は、カノンにふさわしい」
彼は独り言ち、背後を見た。後に続いて来たスランが、顔つきを険しくしてこちらを見返した。
「そう思わない?」
「それ、褒め言葉のつもりか?」
「もちろん」
「止せよ」
スランは吐き捨てた。サタルのペースに飲まれることの多い彼にしては珍しい、尖った声色だった。
「そういうのは、花言葉までちゃんと調べてから言えよな」
「知ってるさ。『憎しみ』『恨み』『あなたはあくまで私のもの』『決して滅びることのない、永遠の愛』、そして」
サタルはやや間を置いて、かつて己が遠回しに言い当てた言葉を口にした。
「『彼に永遠の死を』」
次の瞬間、サタルは星のないアレフガルドの空を仰いでいた。視界の端で黒い花弁が、鴉の羽根のように散る。黒薔薇の花畑に倒れ込んでしまったらしい。ああ、勿体ない。
「お前」
視界の中央に、スランの怒気を曝け出した顔が現れた。こちらの胸ぐらを掴んだ手が震えている。彼の食いしばった歯の隙間から、激情を押し殺した声が漏れた。
「ふざけんなよ。キラナがどれだけ、アイツのことで悩んできたか、お前だって知ってんだろ。アイツだけじゃない、フーガさんだってアリアちゃんだって。それをお前」
「勘違いするなよ。彼女に黒薔薇をあげるわけないだろ。逆だ逆」
サタルが冷静に言い返すと、吊り上がっていたスランの双眸が丸くなった。胸ぐらにかかった手が弛むのを感じて、少年は内心溜め息を吐く。
最愛の女性に黒薔薇をあげるなんて、そんなナンセンスなことをするほど自分は無粋だと思われていたらしい。心外だ。
「逆だよ。彼女は俺にとっての黒薔薇だなって思うんだ」
「は?」
スランは、今度こそぽかんと口を開けた。サタルは彼に言い聞かせる。
「カノンは、俺にとって黒薔薇に似つかわしい人なんだ。俺はそんなカノンが欲しい。彼女が俺に黒い薔薇を手向けてくれるなら、喜んで受け取りたいんだ」
「黒、でいいのか」
「黒がいいんだ」
一番、ね。
サタルはスランの手を外し、身体を起こした。スランは呆気に取られているらしく、されるがままになっている。
「スラン。俺はね、やっぱりカノンが大好きなんだ。カノンが俺のことを自分のものだって、永遠の愛をくれるって言ってくれるならば俺は嬉しくて死んじゃうかもしれないし、そうじゃなくてもカノンが俺に憎しみや恨みをぶつけて詰ってくれるなら、喜んでその声を聞きたい。その挙句に殺し合うことになっても、俺はいいよ。相手がゾーマじゃなくて、カノンならば」
自分の倒れ込んでいた箇所を振り返る。幸い、薔薇への被害は思っていたほど深刻ではなかった。しかし二、三本倒れてしまっている。
サタルはそのうちの一本に手を添えた。花弁はさして散っておらず、開きすぎてもいなくて、悲嘆に暮れる淑女のドレスに似た上品なフォルムを保っている。
「大好きなんだ。もう一度会いたい」
指で茎をなぞり、棘の部分をつまんで手折った。茎がぷつりと切れる音と同時に、人差し指の表皮を棘が突き抜けたのを感じた。
「おい、指がっ」
スランが焦って肩を掴んできた。サタルは思わず笑ってしまう。
「なに心配してるんだよ。これくらい、いっつも戦ってるのに比べればなんてことないだろ」
微笑んで見せると、スランは目尻と眉尻を下げて身を引いた。口元が強張っている。
サタルはなるべく軽く笑って見せた。
「願掛けだよ、願掛け。無事にカノンに会えますように、ってね」
そう言って、薔薇の棘で傷ついた己の指に舌を這わせた。
ああ、カノンに会いたい。そう考えながら、サタルは手折った黒薔薇を眺める。黒薔薇は食べられるのだろうか。分からないが、宿に帰ったら一応解毒の呪をかけて食べてしまいたい。できるならばそのままの黒薔薇が食べたいけれど、大事な決戦を前に腹を下してしまったらどうしようもない。
風が吹いて、微かな薔薇の香りが鼻腔に届いた。血を舐めているのになんだか薔薇の蜜を吸っているような錯覚に陥ってしまい、サタルは口角が上がるのを抑えきれなかった。
20151122 初稿
20180215 加筆修正