ある種の異様な空気が石造りの祭壇を囲んでいた。祭壇を照らすのが暗褐色の太陽ならば囲むのは異形も異形、その血管に黒き血潮が流れていよう修羅共である。ある者は天を突くほどに発達した牙を曝け出し吠える、またある者は傍目には美しいはずのかんばせを醜悪に歪ませて拳を振り上げる。それぞれ形容の仕方こそ違うが、その熱狂だけは共通して彼らの胸の内を支配していた。熱に浮かされたように彼らは叫ぶ。

 祭壇には青白く痩身な男と黒き翼の描かれた法衣を纏う覆面神官の二人が相対して並ぶ。痩身の男は気弱そうに痩せ細った身体をフルフルとひくつかせ、しかし、目だけは周囲の熱気に取り入られたかのような異様な輝きを湛えて神官の手に掲げる物を凝視している。

 それは、奇妙な形をした面である。何がどう奇妙とかと問われれば答えようがない、一見するとどこかの悪趣味な防具職人が作ったかと思えるような品だ。だが、これを見た者は皆「奇怪な」と言いたくなる。けれどやはり、どこがおかしいかと尋ねられると答えようがない。そんな不思議な仮面だった。

 仮面はおぞましい光線を浴びても、また数多の視線を浴びてもなお沈黙を保っていた。しかし神官だけは得心したように、覆面の上からでは分からない眼球を眼下へと下げたようだった。

 

「ただいまより、入神の儀を始めるッ!」

 

 歓声が狂声に変わった。痩身の男が一歩前へ進み出で毅然として面を上げる。するとまるでそれを待ち詫びたかのように、仮面が男の顔へ吸い付いた。

 口がぱっくりと割れる。仮面の表面が急に命を持ったように大きく脈づく。何度も起伏し、平坦になるその様は水を飲みほす喉の動きに似た滑らかさがある。次第にその動きは緩慢になるが、しかしそれと反比例して仮面に変化が現れた。堅く引き結ばれた口元から鋭利な骨のように牙が生え、そして――開いた男の口から体内へと侵入した。

 男は、何百人もの断末魔を一人で奏でた。それは命の尽きる声であり、新しい生の始まりだった。

 貧相な体が、急に二倍にも膨れ上がる。筋がはじけ飛んだ傍から新しい繊維が生え太く繋がる。マチ針のようだった指の先から艶々とした漆黒の鉤爪が伸び、握り締めた自らの手を突き破る。皮膚は色のない土気から金属に似た光沢を放つ緑に変わっていく。気弱な顔から牙が生え角が生え眦は吊り上がっていき。全て変化が終わった時、そこに立っていたのは悪魔だった。

 観衆の声が彼を歓迎する。彼は生えたばかりの翼を広げ、雄叫びで答えた。

 邪神の面――それはさる邪教の儀式にて用いられる禍々しいいわくの品である。邪教に入信する者はこの面を被り、これまでの生に別れを告げ邪なる導きを得て新たなる道へと踏み出すのである。

 入信の際に使われるこの仮面は、しかし教徒の手を離れて未だその導きを知らぬ者の手へ渡ることもあった。

 そしてそれに目をつける者も、勿論いたのである。

 

 

 

「この村にも、君のような子供がいるのですね」

 

 山奥の村へは初めてやって来たのだという吟遊詩人は、そう微笑みかけた。流れる銀色の長い髪は夏の夜空を流れる星の川のようだと思った。

 

「ええ、まあ」

 

 少年は何となく視線を逸らす。男のアンタレスに似た一対の瞳孔は真っ直ぐに彼を見据えて、なかなか離そうとしなかったからである。村人でないというだけでも緊張するのに、このように見つめられてはどうにも居心地が悪かった。

 

「あ、あの……オレが何か?」

「いえ、ただ珍しい子供だなあと」

「はあ」

 

 少年は内心首を捻ることしかできない。

 

「君の名前はヨナサン・シュナウザー。ヨンシュと呼ばれている。そうだね?」

「え、何で知ってるんですか」

「君のことを村の人から聞いてね――」

「おっと、騙されちゃいけないわ!」

 

 そこへ、ひらりとリーフグリーンの長い髪を風になびかせる少女が舞い込んだ。吟遊詩人が視界の端で眉根を寄せるのが見えた。

 少女は人間離れして美しい顔立ちを勝気に吊り上げ、凛とした声で名乗りを上げる。

 

「誰だって顔してるから教えてあげるッ! 私はお節介焼きのシンシア! ヨンシュが心配だから後をつけてきたのよッ!」

 

 シンシアは眦に警戒の色を浮かべて幼馴染を見た。

 

「ヨンシュ、騙されちゃいけないわ。私は森のエルフだから匂いでその人が善人か悪人か判断できる。その私の勘で言わせてもらうと――」

 

 シンシアは傍にあった燭台を、その足で蹴りつけた! 燭台が吟遊詩人の真横にそびえ立つ壁にぶつかり、粉々に砕け散る!

 

「コイツはクサいッ! 言うならば、ゲロ以下の匂いがプンプンする魔族よッ!」

「シンシア! 危ないだろ急にそんなことッ……」

 

 燭台の火が宿の壁に燃え移っている。ヨンシュは慌てた。巨大蛙や巨大ウサギに化けて村中を地響きと共に駆けまわる幼馴染みの奇行は今に始まったことではないが、これはいくら何でも酷い。宿の主人を呼ばねばなるまい。

 

「ククク……ハーッハッハッハ!」

 

 しかし、吟遊詩人の高笑いでヨンシュは足を止めた。男は冷静な顔をかなぐり捨てて、ベッドから立ち上がり腕組をして悠然とした笑みを浮かべた。

 

「なるほど、天空の勇者には貴様のような者がついていたのか……人間に味方するなど、妖精の風上にも置けぬ奴よ」

「妖精なんて知ったこっちゃないわ」

 

 シンシアは鼻を鳴らして吐き捨てる。

 

「私は妖精の上を行くエルフよ」

「なるほど、上を行くか……」

 

 詩人は頷いた。そうこうしているうちにも火勢は強くなり壁はおろか彼の靴底を舐めるほどになっている。

 ヨンシュは袖で口を覆いつつ声をかける。

 

「あの、外に――」

「上を行くッ! 良い響きだ! 上に立つ者は常に上を――徹底した制圧を目指さねばなッ!」

 

 だが男は一酸化炭素濃度などものともせず叫んだ。するとまるで同調するかのように、火の粉が舞い上がり銀髪を煌めかせ、轟と音を立てて火炎が彼の周囲を彩った。

 

「俺は人間を滅ぼすぞッ! 勇者ァーッ! 俺は生物を超越するッ! そしてこの世界のトップに君臨するのだッ!」

「危ないっ!」

「シンシア!?」

 

 一瞬。

 一度のまばたきも許されぬような刹那のうちに多くのことが起きた。

 しかしヨンシュに理解できたのは、男が自分へ向かって突進しながら取り出した仮面の牙が、自分の前へ身を乗り出したシンシアの胸元を赤く抉ったということだけだった。

 ヨンシュは倒れ込んだシンシアを掻き抱く。

 

「シンシアに――シンシアに何をするだァーッ!」

 

 ヨンシュは絶叫する。しかし男は冷酷な笑みをもってして激情をあしらう。

 

「愚かな女よ。折角勇者の方を狙ってやったというのに、自分から命を投げ出すとは」

 

 彼は牙を剥きだした仮面を被る。すると、ヨンシュでも分かるほどの――吐き気を催すほどに邪悪が膨れ上がり、爆発した。燃え盛る宿の壁が四方へ吹き飛び、男はその中で昂然と彫刻のように立つ。

 

「勇者よ。全世界を制圧するまで使わぬつもりだったこの仮面コレクションの一枚をこんなところで使うことになるとは残念だが、この仮面がもたらすあらゆる生物を超越した力をもって貴様の愛しい家族を、そして貴様を血祭りにあげてやろう」

 

 そこで、愛しい者が殺されるのを指をくわえて待っているがよい!

 男は一陣の風となり村中を駆け巡る! 村人達の断末魔が聞こえる。ヨンシュはシンシアをその場に横たえ、歯を食い縛った。

 

「あの化け物を、この村から出しちゃいけない! シンシア、オレに勇気を……」

 

 そして焼け焦げた宿を飛び出した。彼には秘策が閃いていた。

 

「捨て鉢になったか勇者ッ! 折角守ってもらった命を、投げ捨てるかッ!」

 

 ヨンシュは森を背にして男を待った。果たして、仮面の牙を血に濡らして男は鉄臭い疾風を纏い矢の如く勇者のもとへ飛ぶ!

 その牙が胸を抉る寸前。ヨンシュはカッと目を見開いた。

 

「これは――この帽子はッ!」

 

 隠し持っていたものを胸の前へ。

 

「シンシアの形見の羽根帽子だーッ!」

 

 炎で煌煌と燃え上がる羽根帽子が、男の銀髪を包んだ。男は仮面事燃え上がる。逃れようと長い手足を振り回すが、ヨンシュは断固として帽子を握った手を放そうとしない!

 

「そんな馬鹿なッ! お前の両腕も燃え尽きるぞ!」

「構うものか! シンシアの痛みに比べれば……ッ」

 

 男達は己の意地をかけて暴れまわった。男は帽子から逃れようと頭を振り回す! ヨンシュはそれに離されまいとひっつく! 無我夢中の攻防は、村が全て焼け落ちるまで続いた。

 しかし勝利の女神は、ヨンシュの方についていた。己の死を賭したシンシアの守りは、羽根帽子を伝いヨンシュの両腕を炎から守ったのである。

 やがて、男は全身を炎に飲まれ崩れ落ちた。原型を留めなくなったものを前に、ヨンシュは肩で息をする。

 

「くそ……戦いは終わったっていうのに、全く気分が晴れない……俺は、あまりにも多くのものを失い過ぎてしまった……」

 

 ヨンシュは跪き、涙した。世の十代半ばの少年達が持つもののほとんどを、半日も経たぬうちに失ってしまっていた。彼は一人だった。全くの孤独だった。支えるものは全て死に絶えてしまい、彼は何でもいいから支えてくれるものが欲しかった。

 その結果、彼が支えとして選んだのは皮肉にも己の運命を捻じ曲げてしまったものだった。

 

「行かなくては。あの男は仮面が他にもあると言っていた。それを全て回収しなければ、また同じ悲劇を繰り返すことになる」

 

 少年は黒焦げになった羽根帽子を握りしめ、立ち上がる。その清い双眸に決意の炎を宿して。

 

 こうして邪神の面と天空の勇者を巡る運命は、奇妙な螺旋を描いて動き出したのだった。

 

 

 

 


第27回ワンライ参加作品/お題「邪神の面」

 

20141228