ナインに手を引かれて、光の奔流を抜け出した。まだ視界が回っている気がする。頭を押さえて立ちすくむうちに、やっと視野が安定してきた。随分と広い宿のホールにいるらしい。円卓や長細い机と椅子が数多並び、高い天井には豪勢すぎないシャンデリアが吊ってある。広間奥のバーカウンターと手前右の隅に仲間登録所、酒場、ゴールド銀行が揃っているところを見ると、宿屋としてはかなり栄えているようだ。

 窓から差し込む光はまだ白い。朝の、誰もいない広間に向けてナインは声を張る。

「ただ今戻りました」

 すると、カウンター奥の扉から人が飛び出してきた。おかっぱ髪をバンダナで纏めた少女である。

「お帰りなさい! お客様を連れてきてくれたのね」

 彼女は軽く小気味良い足音を立てて駆け寄ってくると、レックに向かってお辞儀をする。

「いらっしゃいませ、リッカの宿屋にようこそ! 私は宿主のリッカと言います。どうぞ、我が家だと思ってごゆっくりお過ごしください」

 はきはきとした話し方の商売人らしい少女である。ナインがレックに向かい合う。

「説明します。ここはセントシュタインという城下町にある、リッカの宿屋という場所です。これからレック様には、ここを活動の拠点としていただきます。この宿は異世界からの旅人にも慣れていますから、何か分からないことがあったら、僕やこのリッカに聞いてください」

 それからリッカに向き合って此方を指し示す。

「リッカ、この人がお話ししていたレック様です」

「ナインがお世話になります」

 少女は頭を下げる。レックは同じように頭を下げた。

「よろしくな」

「はい! レック様のお部屋はVIPルームにご用意してあります。早速ご案内してよろしいですか?」

 レックはナインを見る。少年は言いたいところを察して答える。

「対魔王ムドーの作戦会議は半刻後でどうでしょう。時間になったら、もう一人既にいらしている方を連れてレック様のお部屋に伺います。如何ですか?」

「いいけど、もっと砕けた話し方でいいぜ? これから色々相談するなら、その方が楽だろ」

「そうは言いましても、僕はいつも基本的にこの話し方でして」

 どうすればいいでしょう、とナインは小首を傾げる。

 ならば、そのままがいいだろう。レックは片手を振った。

「じゃあ、様づけは止してくれないか。あんまり好きじゃないんだよ」

「承知しました。ではレックさん、また半刻後に」

 ナインは会釈してカウンターに向かう。一方レックは、リッカに伴われて見たことのない扉へと誘われた。

「これはエレベーターと言います」

 リッカは一人でに開いたその扉の向こうへ入ると、手慣れた様子で壁際にある番号の記されたボタンを押した。するとドアが閉まり、レックは自分の体が軽く浮き上がり、下降していくのを感じた。

「おおっ、これ飛んでるのか?」

「いえ、吊した紐で動いてるんです。こうやって上下するんですよ」

 エレベーターなるものの原理を聞くうちに、目的地へ着いた。またも一人でに開いた扉を抜ければ、レイドック城の自室にも引けを取らない大きくて調度の整った部屋がある。リッカによると、これが彼の部屋なのだと言う。レックは驚いてこんなに立派でなくていいと言ったが、リッカは笑顔で譲らない。

「ナインの大事なお客様なんですから、このくらい当たり前です」

 レックは三ヶ月の間、この素晴らしい部屋の持ち主になってしまっていいようだ。しかも無料なのだとリッカが説明したのを聞いて、彼は仰天した。レイドックだったらゼロ四桁は下らない値段がしただろう。

 ナインの客人であるというそれだけでここまでしてもらえるとは。この少女と彼とはどのような関係なのだろうか。

「リッカちゃんって呼んでいい?」

「はい」

「リッカちゃんはナインとどんな関係なんだ?」

 問うと、彼女は細い指を丸い頬に添えて考え込む。

「ナインとの関係は、一言で表すのが難しいのですが、強いて言うならば従業員です。私が経営しているこの宿を、ナインは世界を回りながら宣伝してくれるんです」

 やはり天使らしくあちこち回っているらしい。しかし、天使が宿屋の従業員として働いているとは驚きである。

 リッカはうーんと唸ってかぶりを振る。

「でも、それだけじゃないんです。ナインには命を助けられたことも、助けたこともあります。彼がいなければこの宿はここまで大きくならなかったですし、私もこの街で宿屋なんて始めようと思いませんでした」

「へえ。じゃあ仲がいいんだな」

「仲はいいんだと思うんですけど」

 急に歯切れが悪くなる。

「ナインはその……私にとってもこの宿にとっても大切な人なのですが、何を考えているのかはよく分からなくて」

「あいつ結構変わってるよな?」

「ええ、変わってます」

 レックが神妙な顔で言えば、リッカも大真面目に頷いた。その顔が本当に心の底から共感している風だったので、レックは吹き出してしまう。するとリッカも笑った。笑った顔もやはり可愛らしく無邪気で、何処か機械的な雰囲気のあるナインとは対照的である。

「でも、悪い人じゃないんですよ。変なところが抜けてることもありますけど、とっても博識で親切なんです」

「悪い奴じゃないのは俺も分かるな。けど、なんて言ったらいいんだろ……浮世離れしてる、ような」

「ああ、やっぱりそう思いますか」

 リッカは何故か嬉しそうに言う。

「ナインって不思議なんですよ」

 それからリッカはナインについて知っていることを多く話してくれた。彼と会ったのは、彼女の故郷の村だったらしい。

「ある日突然滝の所に倒れてて。でも私の村は結構山の高い所にあって、その滝もとても人が登れなそうな、物凄く高い所から落ちてくるものだから、一体どこから来たんだろうって村では大騒ぎになって」

 話していてまず分かったのは、どうもこの少女はナインが天使であったことについては知らず、ただ不思議な力を持つ旅芸人であると思っているということだった。

「ナインはいつも、いろんなお仕事を引き受けています。何か珍しい道具を取って来て届けたりとか、魔物を討伐したりとか。聞くと快く色んなお仕事の話をしてくれるんですけど、討伐のお仕事のことは詳しく話さないんです。心配だから詳しく聞きたいんですけど、ナインはとっても強いから大丈夫だろうし、ナインが喋りたくないなら聞かない方がいいかなと思って、あまり聞かないようにしてます」

 レックはナインが天使であることは伏せたまま話を聞き続けた。彼女の知らないことを教えてくれること、困っている人を率先して助ける癖があること、言動が時折突拍子も無いこと、人の心に疎い所もあるが、他人のことを素直に考えることの出来る心を持っていること、世界各地を冒険してきて著名な知り合いや王族の知り合いがいるということ。

「レックさんもとっても凄い旅人さんなんだって聞いてます。よかったら、いろんなお話を聞かせてくださいね!」

 もっと話していたかったが、リッカには仕事がある。彼女は屈託無く手を振ってエレベーターの向こうへ去っていった。出来ればナインの戦闘能力が知りたかったが、それでも全く分からなかった彼の人となりが聞けただけでも十分だろう。

 残されたレックが部屋の設備や備え付けの道具、部屋着などを見て楽しんでいると、エレベーターの開くベルの音がした。見に行ってみると、噂のナインと知らない少年が立っていた。整った顔立ちをしているが、重めの無造作な黒髪と瞳に、どうにも覇気が感じられない。

「紹介します。貴方同様、異世界からやって来て下さったアレクサンドラ・ブレスさんです」

「サンドラでいいよ」

  女だった。既に来ていた仲間とは彼女のことだった。

「よろしくな!」

「うん」

 握手を求めてみたところ、応じてはくれたが顔が半死人のままである。魔王を討ち取った者が集められるという話だから彼女もまた実力者なのだろうが、今まで仲間にいなかったタイプだ。俄かに不安が込み上げて来る。

「今回のムドー討伐は、この三人で行いましょう」

 ナインの台詞がそれに拍車をかける。レックは決して、人見知りではない。だが長いブランク、慣れないメンバー、得体の知れない敵と、不確定要素の多い中で戦闘を迎えるのである。

「えっと、他にメンバーは」

「現在、他に共に挑めるメンバーはいません。しかし、僕の見たところ、レックさん、あなたを含めた僕達全員に、攻撃、補助、回復役をこなせるだけの能力が備わっています」

「十分よ。作戦会議を始めましょう。座っても?」

 サンドラが暖炉前の卓を指した。

「あ、ああ」

 サンドラ、ナインが椅子を椅子を引いて腰掛ける。最後にレックが卓につくと、サンドラは頷いた。

「では、改めて自己紹介を。私はアリアハンという国で生まれた勇者、アレクサンドラ。片手剣と盾を併用した戦い方を主にするけど、他にもブーメランや重すぎない武器を使える。習得呪文は、この名簿に書いておいたから、見てほしい」

 サンドラは帳簿を差し出した。酒場においてある、一般的な冒険者名簿に、彼女のデータが記されている。覗き込んで、レックは驚いた。

「勇者の職業しか経験してないのに、これだけの呪文を覚えたのか?」

 レックの知る「勇者」は、鉄壁の守護呪文アストロンや、凍てつく波動、天雷の呪など、他職では決して習得できない呪文や特技を覚えられる、強力な職業だった。しかし、このサンドラの習得呪文の多さはどうだ。

「メラ、ギラ、イオラみたいな魔法使いの呪文だけじゃなくて、僧侶の呪文、すげえいっぱい使えるじゃん! え、ザオラルも? ベホマズンも? 僧侶、やってたわけじゃねえの?」

「ああ、そうでした。レックさんの世界は、ダーマ神殿の転職システムが、比較的自由なのでしたね」

 ナインが身を乗り出す。

「僕が調べたところによると、どんな職業に就いていても、これまでに経験した職業の技を全て使えるのだとか。本当ですか?」

「ああ。俺は今何の職業にも就いてないけど、これまでにやった職業の技は全部使えるぜ」

「せっかくです。書いていただけますか」

 レックは帳簿に自分の職歴を書いていく。踊り子、遊び人、スーパースター、勇者、戦士、武闘家、バトルマスター、ドラゴン。

「この職業で習得した呪文と特技は、全部使えるはずだ」

「素晴らしい」

 ナインの瞳が輝いている。目を見開いたために露わになった黒の虹彩が、室内の灯りを反射して、星空のようだ。

「僕の世界は、一つの職業で習得した技能を、他の職業で使役することができません。この違いは、何故生じているのでしょうね。いやあ、レックさんの世界のような転職システムがあると噂に聞いて、もしそれが本当だったらどんなに効率的な戦闘ができるだろうと、僕は常々思っていたのです。実際に、経験者のお話を聞ける日が来るとは! 何という幸運でしょう!」

「でもそれは、ムドーを倒してからでしょう。あなた、この後夜まで話を聞き続けるつもり?」

 椅子から立ち上がりかけていたナインを、サンドラが窘める。すると天使ははっとして、すとんと腰を下ろした。

「そうでした。すみません、好奇心を押さえられなくて」

「この子、たまにこういうことがあるから、そうなったら言ってあげて」

 サンドラに指さされたナインは、照れくさそうに頭を掻いている。

「これだけの多彩な技を身につけられるなんて、あなたの所のダーマ神殿は驚異的ね」

「まあ、そのせいで魔王に目をつけられて、滅ぼされたけどな。でも、サンドラは俺より呪文がいっぱい使えるだろ? すげえな。もともと、魔法が得意なのか? 俺、ダーマ神殿に行く前は、メラとかベホイミとかリレミトくらいしか使えなかったんだけど」

 サンドラは首を傾けた。

「分からない。私、生まれた時から勇者だもの」

「へ?」

「私は、勇者以外の職に就いたことがない。私の世界にも、ダーマ神殿はあった。でもあなたの所のダーマ神殿と違って、勇者である私の転職を許さなかった。他の職業の仲間は、あなたの世界ほどたくさんの職業はないにしても、自由に職を選んで、転職できたんだけど」

 転職の制限など、レックの世界では聞いたことがない。生まれつき職業に就いている人間など、存在しただろうか。

 サンドラは肩を竦めた。

「私の父も勇者と呼ばれていて、多くの呪文を使えたから、父が使える呪文を私も使えたのか、勇者の血を引いているから呪文を使えるのか、分からないのよ。でも、別に考える必要のないことだから、深く考えたことはないわね。それより、ムドーを倒すのに、これだけの技能がそろってれば、いけそうかしら?」

「あ、ああ」

 レックは我に返り、サンドラの経歴と、自分の経歴を俯瞰する。

「ムドーは強力な幻術使いだ。戦う以前に、俺たちを幻で捕らえて動けなくさせてしまう」

 そのせいで己は、精神と肉体を別たれた。

 だが今回は、ラーの鏡を持ってきてあるから、問題ないだろう。ムドーが同じ手を二度使うとも思えない。

 恐ろしいのはそれだけだ。いざ戦うとなると、強制的に夢の世界へと誘ってくる瞳術《怪しい瞳》こそ恐ろしいが、これだけ優秀な仲間がいるならば、今更苦戦するとも思えない。それに自分も、かつての上級職すら経験していない、ひよっこ戦士ではないのだ。

 レックは簡単に自分の身に起きたことを説明し、ムドーの特徴を語った。そして、戦法に言及する。

「強制睡眠に警戒して、装備を調えた方が良い。寝てしまった奴が一人でも出たら、とにかく早く起こさないと、気付いたらみんな眠ってたなんて羽目になることもあるんだ」

「破幻のリングならばあります。全員で装備していきましょう」

 ナインの提案が有難い。さすがのレックも、催眠対策装備をそう多くは持っていない。

「昔、初級職だった俺達でも、粘れば倒せたんだ。お前らくらいの腕がそろってれば、火力で押せば倒せるんじゃないかな」

 言ってから、レックは気付く。

「そう言えば俺、まだナインの詳しいこと、知らないわ」

「失礼しました」

 ナインは帳簿の一番最初を開いた。見開きのページに、びっしりと文字が詰まっている。

「僕は使える技能の制限こそありますが、この世界に存在する職業でしたら、全てマスター済みです。状況に合わせて、どの職業にでも転職できますよ」

「全部!?」

 レックは立ち上がって、帳簿を凝視する。無表情のナインの似顔絵、名前、性別、肩書きの記載。その後に、この世界のダーマ神殿のものなのだろう、職歴について記した証明書が貼ってある。

 十二の職業の全てが、レベル上限に達していた。

「うわ、マジだ……お前、どんな生活してきたの? どんだけ時間かかったの?」

「全ての職業のマスターにかかった時間は、五年程度です」

 ごねん。

 反復したが、実感が湧かない。噛み締めようとしているレックを前に、ナインは質問に答え続けている。

「僕が完璧なる天使ならば、もっと短い時間でマスターできたでしょうし、そもそも修業の必要もなかったのかもしれません。ですが僕は不完全な天使ですので、これだけ時間がかかってしまいました」

「つらくなかった?」

「つらい?」

 ナインは小首を傾げた。心底不思議そうな彼の肩を、サンドラが片手で軽く叩く。

「この子、趣味特技、好奇心なの。好奇心だけで、何でもできる」

「マジで」

 頷くサンドラの顔に、冗談の気配はない。

 レックはもう一度、帳簿を見下ろした。

「それなら、うん……じゃあ、それぞれの職業について、詳しいことを教えてくれるか? どれがムドー戦向きか、考えよう」

 ナインは頷くと、一つひとつ説明していく。

 淀みない説明に相槌を打ち、時に質問をし、相談の結果、魔法戦士の職で戦線に加わることになった。レックの火力を引き出すためにはバイキルトが必要であり、また攻守ともに便利な属性特技《フォース》を使えるからだ。

「僕が補助をして、レックさんに攻撃の主軸になってもらうのがいいでしょう。そしてサンドラさんには、回復役をしてもらうと」

「それが無難ね。バラモスの時も、結構ダメージを喰らったから、最悪、ベホマズンを唱え続けるつもりでいくわ」

「バラモス?」

「私の世界にいた魔王よ。ナインから聞いてない?」

 レックは首を横に振る。サンドラは説明する。

「この世界で最初に不自然に現れた魔王は、バラモスなの。バラモスは本来私の世界に出現していたものだったから、私がここに呼ばれて、戦うことになった。でも、私がかつて戦ったバラモスと同じかどうかまでは、分からなかったわ。使う呪文は同じだったけど、随分威力が強くて、思ったより苦戦した」

「ムドー戦でも、同じ事が起きるかもしれません」

 ナインが言う。

「レックさんのよく知るムドーがこの世界に転生したとして、同じステータスのままとは限りません。もしかしたら、違うステータスに進化しているかもしれません。または、現在この世界にいるムドーは、レックさんの知るムドーによく似た、別のムドーであるという可能性もあります」

「そんなことがあり得るのか?」

 自分を苦しめたものが、別の世界に生まれ変わって、また誰かを苦しめる。

 もしくは、同じ固体が別の世界に複数存在し、暗躍している。

 レックは想像する。そんなことがあって欲しくないと思う。だがレックにはかつて、現実の世界と夢の世界という、よく似た形で創られた、二つの世界を行き来した経験がある。

「分かりません。僕達にできるのは、挑み、現実を確かめ、生還して検証することのみです」

 レックはラミアスの剣を握りしめた。











▶︎▶︎▶︎




 作戦会議終了後、それぞれ装備を調えてから、酒場に集合する。レックはラフに、剣一本を背負い、慣れた旅装で挑むことにした。普通、旅人の服のみでは耐えきれないのだろうが、両親の用意してくれた伝説の防具の力が宿ったオーブを装備しているので、問題はないだろう。

 サンドラも山吹のアンダーと空色のチュニックの上にマントを羽織るという、作戦会議の時と変わらぬ服装である。背中には一本、黄金の鳥のエンブレムがついた立派な剣を背負い、同じエンブレムの施してある盾を提げている。

「そんな軽装で大丈夫なのか?」

「お互い様でしょ。あなたにオーブがあるのと同じように、私も守備力上げるもの、身につけてるの。鎧って重くて、好きじゃないのよ」

「ああ、俺も身軽な方がいいな」

 二人が会話しているところへ、ナインが駆け寄ってくる。

「お待たせしました」

 ナインも先程と服装が変わらないので、防具のオーブを装備しているのだろう。背に負った弓を見て、レックは眉を上げた。

「おっ、ナインは弓が使えるのか」

「はい。一番使い勝手がいいですし、魔法戦士とも相性がいいんですよ」

 ナインは弓を愛しげに撫でる。天使らしい翼のモチーフの弓は、彼の指が動くのに合わせ、澄んだ輝きを放った。

「いってらっしゃーい! お夕飯は、リッカの宿屋特製、天ノ川のシチューですからねー!」

 リッカに見送られ、三人はルーラでムドーがいるという場所に飛んだ。見たところ何もない平野だが、ナインがつま先で地面を突くと、そこにぽかりと大穴が空いた。

「うわっ」

 レックは穴を覗き込んだ。暗く、先が見えないが、滲み出る妖気に肌が粟立つ。

 この気配を知っている。

「この先に、ムドーがいるのか」

 背中のラミアスの剣が触れている部分が、熱くなった気がした。

 ナインが振り返り、頷く。

「そのはずです。宝の地図を持たぬ一般人には見つけられない仕組みなのが、不幸中の幸いでした」

「宝の地図?」

「隠しダンジョンを記した、作り手不明の地図のことです。この世界には、いつできたのかすら分からないダンジョンが、たくさんあるのです。そしてその最奥には、十中八九、強敵が待ち受けている」

「準備はいい?」

 サンドラが尋ねる。レックも、ナインも頷いた。

 洞窟に足を踏み入れる。一歩踏み出すごとに闇が濃くなり、レックは、かつて二人の仲間と共に歩いた、幻魔の館の夜を思い出した。

 あの時もこんな暗さで、館の中は闇で満ちていた。廊下の各所に濃紫の鬼火が灯り、埃を被った調度や、黒ずんだ絨毯を、闇の中でおどろおどろしく浮き上がらせていた。時折窓の外から稲光が射して、暗がりを引き裂くこともあったが、稲妻が去ってしまえば、闇は何食わぬ顔でレック達を包んだ。夜霧のように幽かで、だからこそ、傍に肉薄するのにも気付けない。

 掌に汗が滲む。ふと、足下の暗がりが動いた気がして、レックは顔を上げた。

 ドーム状の開けた空間に出ていた。壁には永久松明が灯り、奥まった祭壇の上にいるモノをくっきり照らしている。

 そこに、『闇』はいた。

「ムドーか」

 哄笑が響く。その声も、カエルに似た姿も、紛れもなく魔王ムドーのものだった。

「お前たちのような虫ケラが何度来ようとも、この私をたおすことなどできぬ!」

 台詞も、覚えている。以前、真実の鏡を持参して戦った時に放ったのと全く同じだ。

「夢よりもはるかにおそろしい、現実というものを見せてやろう」

 レックは道具袋に手をやった。真実の鏡は未だ、反応していない。幻術はかかって、いない。

「いくぞ!」

 鞘走りが二つ、同時に鳴る。レックがラミアスの剣を構えて前進し、サンドラは剣と盾とを構えて後退する。その中点で、ナインが印を結ぶ。

「バイキルト」

 力の高まりを感じながら、レックは祭壇を一息に駆け上がる。

「まずは、一太刀!」

 ラミアスの剣とムドーの腕がぶつかり、硬質な音を立てる。次いで一太刀、二太刀と五月雨の如く剣を浴びせるも、どれも会心の一撃には至らない。

 つばぜり合いに持ち込んだレックは、にやりと笑う。

「よぉ、ムドー。俺のこと、覚えてるか?」

 ムドーは片頬を僅かに動かすと、拳でレックの腹を殴りつけた。

 吹き飛ばされ、壁にぶつかる。剣が遠くへ弾き飛ばされる。壁に亀裂が入り、衝撃に洞窟全体が震えた。

 追撃をかけようと接近するムドーへ向けて、ナインが矢の雨を浴びせる。

「もう、呑気に話してる場合じゃないのに」

 呆れて近づこうとするサンドラの目の前で、大の字になっていたレックが、ひょいと反動をつけて立ち上がった。

「おかしいな」

 しきりに首を傾げている。サンドラは立ち止まり、瞠目した。

「あなた、なんともないの?」

「なんともって、今の一撃か? いいパンチだったよな」

 レックは破顔した。口の端から血が垂れる。足下がややふらついた。傷は、負っているのだ。

 なのにこの、明るい表情は何だ。

「うーん、まあ、いけるだろ。前線に戻らねえと、な!」

「ちょっとっ」

 レックが駆け出した。サンドラは叫ぶ。

「武器がないのに、無茶よ!」

 ナインはうまく立ち回り、ムドーと距離を取りながら、矢で攻撃を浴びせている。うまく接近できないムドーが、苛立ったように息を大きく吸い込んだ。

「ナイン、退いとけ!」

 天使が跳躍する。彼がいたところに、レックが滑り込んだ。

 バラモスが煉獄の火炎を吐き出す。それよりやや一拍遅れて、レックもまた大きく胸を膨らませ、猛烈な吹雪を吐き出した。

 二つの異なる属性がぶつかり合い、相殺する。炎と吹雪が掻き消えた瞬間、ムドーの眼前に青い影が飛び込んだ。

「おっせーよッ」

 突き出した掌をかいくぐり、跳ね上げ、拳を流星群よろしく浴びせかける。最後に腰を落とし、深く突き込むと、ムドーは黒い血を吐いて倒れた。

 その上を宙返りして移動したレックは、向こう側に突き刺さっていた愛剣を引き抜く。

「まだまだ、いくぜぇ!?」

 立ち上がったばかりの魔王が振り向いたところを、袈裟懸けに二度斬った。ナインが加速呪を唱え、さらに速さを増したレックがもう一太刀加える。ムドーの反撃も、武器でいなす。いなしてまた、斬りかかる。

 正面から。背後から。脇から。頭上から。

 柔軟、かつ鋭利。アクロバティックなレックの立ちまわりは、まるで舞踊だった。敵の気合いの入った打突も、彼が受ければ演舞になった。死へと誘う息吹も、彼が避け、相殺すれば、舞台係が仕掛けた演出に見える。裂けて散った血さえ、花吹雪のよう。

 次第にムドーの目が血走り、歯を剥き出していく。並の戦士ならば震え上がる形相にも、レックは動じない。むしろ、太陽のような笑顔でタップダンスなどを踊ってみせる。

「やーい、くらわせてみろよ」

 あからさまな挑発に、魔王ともあろうものが必死に食いつく。それをまたレックは、至極楽しそうに受けて、笑うのである。

 まるで、あらかじめ演目の決められた、祭りの一幕だ。

 どんな舞台でも明るい笑いを作り出してしまう、芸達者の道化師だ。

 その動きを眺めていたサンドラは、何とはなしに手を握り、硬質な柄の感触を思い出して、我に返った。背筋が凍る。

(私、今、行動するのを忘れてた)

 レックを、回復しなくてはと思っていたのに。

 彼の挙動に、魅了されていたのだ。

「嘘でしょ。私だって、勇者なのに」

「いや、あれは勇者の能力と言うより、彼の職業経験と、培った資質でしょう」

 サンドラの呟きを拾い、ナインが言う。弓を構えたまま、すっかり二人きりで戦い続けている勇者と魔王を凝視する。

「レックさんを迎えに行くにあたって、彼のことを調べました。彼は、スーパースターの職をマスターして、勇者に転職しました。彼の世界のスーパースターという職業は、華やかでこそありますが、実のところ、体力と身の守りの低い、扱いの難しい補助職なんです。しかし、レックさんの冒険の書のデータを拝見したところ、レックさんはスーパースターとなって修業している間、一度も前線を離れたことがない。いつでもパーティーの先頭に立っていた。なのに、死んだ記録もない」

 異様だ。スーパースターを最近知ったばかりのサンドラとて、ひ弱な職の者が前線で生き残る難しさは、よく知っている。

「不思議に思っていました。でもあの様子を見て、納得しました」

 ナインは食い入るように、レックを観察している。

「夢幻の闇に包まれし世界に昇った太陽。暁の勇者。人々は、レックさんをそう呼ぶそうです。てっきり、勇者の持つ光の力、破魔の力と、魔王討伐の業績を指して言っているものだと思っていました。それだけではなかったのです。レックさんのあの、逆境でも失われない底なしの明るさが、楽しむ心が、スーパースターの修練を最初に積むことによってさらに磨かれて、人魔問わず魅せられるだけの強力な魅力を得たのです」

「そんな、あり得ない」

 身の守りの弱さをカバーできるほどの魅力など、聞いたことがない。

 しかもそれが、本人の性格に起因するなんて。

「いいえ。サンドラさんも覚えがあるはずです。アリアハンの国立研究所が、戦士の性格と成長パラメーターの因果関係を研究して、一定の法則性を見出していたでしょう」

「……確かに、そうだわ」

 のんびりやならば、素早さが遅くなる。

 豪傑は、力の伸びが良い。

 そのような研究結果を、国の学者が言っていた。

「ますます興味深いです。戦闘が終わったら、ぜひ話を聞かせてもらわなくては」

 ナインの瞳が輝いている。そういえば、とサンドラは思い出す。

 レックの言っていたムドーの強力な幻術が、まだ放たれていない。

「ナイン、サンドラ、気を付けろ!」

 レックの声が飛んできて、咄嗟に身構えた。

 ムドーの身体が、突如強烈に発光した。全員の身体が、激しい熱に灼ける。レックは剣を翳し、目を庇った。サンドラもまた、盾で己が身を守る。

「全てを癒やしたまえ、ベホマズン」

 全員の傷がみるみるうちに癒えていく。

 すぐさま斬りかかりに行くレック。反して、ナインが動かない。

「ナイン?」

「申し訳ありません。幻惑効果がかかってしまったようです」

 サンドラが駆け寄って顔を覗き込むも、大きな瞳は虚空を彷徨っている。視線が合わない。腕を引いて、前線から遠ざけ、座らせる。

「下がって、補助に専念してて。魔法とスキルならば、狙いが狂うこともないでしょ」

「佳境に入ってきたところなのに、ご迷惑おかけして、すみません」

「十分よ。この前のバラモス戦に比べて、余裕すぎるくらいだわ」

 サンドラは励ましながら、前線を見やる。

「もう生命力は、十分に削れてる。あとは──」

「おーい、ナイン! どうやればコイツ倒れるんだ?」

 レックが叫ぶ。まだ飛んだり跳ねたりしている。ナインは叫び返す。

「宝玉です。僕の記憶が確かならば、両肩に黄色の宝玉があるはず。それと肉体を、分断させてください」

「急に難しいこと言うなぁ」

 これまで終始笑顔だったレックの表情に、初めて困惑が浮かんだ。

「俺、そういう細かい作業、苦手なんだよ」

「問題ありません。レックさんとサンドラさんは、それぞれ最大火力を出せる攻撃の準備をしてください」

 ナインが立ち上がる。サンドラが支えようとするのを柔らかく退けて、弓を構えた。

「僕が、二つとも射貫きます」

「マジで言ってるのか!?」

「あなた、見えてないんでしょ?」

 レックのすっとんきょうな声と、サンドラの疑念がかぶる。ナインは虚空を仰ぎ、目を閉じた。

「見えません。見えませんが、僕の場合、視覚以外が正常ならば、十分なんです」

 ナインが一歩、二歩と踏み出す。ゆっくりではあるが、間違いなく、ムドーの方へ向かっていた。

「レックさん。合図しますから、ムドーの標的が僕になるように、誘導してもらえますか」

「でも、それじゃあお前がもろに攻撃を食らう羽目に」

「ムドーの使う属性に反するフォースを、自分にかけてあります。少々喰らったくらいでは、僕は死にませんよ」

 ナインはかすかに笑った。

「信じてください」

「わかった、お前を信じる!」

 レックはムドーの腕を何度も斬りつけ、顔に一撃を加えた。ムドーの身体が赤黒く膨れ上がる。

「今です!」

 レックが退いた。あいた空間をナインの矢が駆け、ムドーの片耳を射貫く。

 長いこと勇者に蹂躙されてきたムドーは、もう正気を保てない。ふらふらと進み出てきたナインに、鬱憤を晴らすべく接近する。

 天使は高く弓を掲げ、引き絞る。純白の両翼を模した弓の中心に、光の矢が宿る。

 魔王が大きく、息を吸い込んだ。巨躯がますます深紅に染まり、止まる。

 刹那、弓の中央から閃光が放たれた。光の針が二筋、ムドーに向けて飛来する。レックは息を飲んだ。

 魔王のマントが、宙を舞う。

 肩の宝玉が、きっちり二つ。弾け飛んだのだ。

「レック!」

 サンドラが剣を掲げる。レックもまた、剣を振り上げた。

 雷を纏う二つの切っ先が、ムドーを指す。

「ギガデインッ」

 聖なる雷が、闇を穿つ。魔王の身体が黒く焦げ、砕け散った。

 雷を収めると、そこにはもう何もない。ただ黄玉が二つ、転がっているだけである。

「ムドーは、イエローオーブを落とすのですね。もらっておきましょう」

 術者が倒れたことにより幻惑の解けたナインが、確かな足取りで宝玉を回収する。アイテムを観察していたすまし顔が、次の瞬間驚きに染まった。背後からレックが飛びついたのだ。

「お前、すっげーな! 目が見えなくても、あんなにきっちり命中させられるんだな!」

 戦闘を無事終わらせられた嬉しさのまま、レックはナインの脇に手を入れ、掲げてぐるぐると回す。ナインは振り回されながら、言う。

「守護天使たる者、どんなに小さな人々の祈りも拾うべしと教えられてきました。その教えのもと、五感を磨いてきた結果です」

「すげーな、マジ人外! スーパーマンじゃん!」

「身体は人間のはずなのです」

 嬉々としたレックと、平静なナインの会話は平行線を辿りそうだ。

 サンドラが声を掛ける。

「ところでレック。あなた、ムドーと戦いながらおかしいって言ってたけど、あれ何だったの?」

「ああ、それな」

 レックはナインを下ろした。

「あれ、俺の知ってるムドーじゃないと思う」

「何故?」

 ナインは問う。まだ回されていた勢いが抜けきらないのか、僅かに首がふらふらとしている。

「簡単に言えば、雰囲気だな。まず一太刀浴びせてみて、手応えが違った。使う技も違うし、いくら今の俺が前に比べて強くなったとはいえ、幻魔王ムドーともあろう者が、あんなに安い挑発に乗ったり、必死になったりするはずがないんだよな。幻惑の術も、しょぼかった」

 レックは顎に手を当てる。

「間違いなく、偽者だろう。それも、適当に真似して作った奴を、適当に火力上げて強くしてみたって感じだ」

「私達の戦ったバラモスも、そうだったのかもしれないわね」

 サンドラも考え込む。二人の勇者が俯く中、ナインだけが空を仰いだ。

「やはり、この世界に現れている魔王達は、皆偽者なのでしょうか。だとすると、大魔王の地図とは一体、誰が、何の目的で作ったものなのでしょう」

「大魔王の地図って?」

「隠しダンジョンを記した宝の地図の中でも、宝を隠すわけでもなく、かつて猛威をふるった魔王のみを隠していることの多い地図のことです。このムドーの根城も、大魔王の地図に記されていたから、知ることができたのです」

 ナインは上を指さした。宙高く舞い上がっていた偽ムドーのマントが、降りてこようとしていた。

「女神様は仰いました。この世界が、危機にさらされようとしている。だから、大魔王の地図にゆかりのある戦士を集め、この大事を見極めて欲しい、と。だから僕はまだ、地図を集め、新たな戦士様をお招きしなくてはなりません」

 布が地に落ちる。レックは瞠目した。

 マントだと思っていた布に、文様が浮き上がっていた。どこかの地図が大きく描かれ、片隅に二つの名前が記されている。レックは文字を読んだ。

「ドルマゲスの地図。相対するは──Ⅷ番の冒険者、エトヴァルト」







 

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