12片




 炎が巻き上がるのを尻目にキーを刺した。シートベルト、ミラー、エンジン、OK。

「もう、いい加減にしなさい、よッ!」

 宮野は思い切りアクセルを踏み込んだ。ぞろぞろと群がってくる異様にでかいグミビーンズを跳ね飛ばし、引きちぎりながら、白いボディが跳ねるようにして廃工場を駆け出す。カビた巨大なホールにバランスボール大のカラフルなグミビーンズが蠢いてる光景は馬鹿らしいことこの上ない。かつての相棒ならば、あまりに理に適っていない光景すぎて失神するだろう──それはそれで面白そうだ、あの推理馬鹿の精巧な頭が推理のしすぎで一度ネジが飛ぶところを見てみたかった──ふとそんなことを考えて笑ってしまった彼女は、ビーンズの狭間の見覚えのある金髪が挟まれているのを見て口元を引き締めた。

 間に合ったはずだ。だって、あの人は時間を稼ぐって言ってたもの。

 ハンドルを切り、僅かに開いた空間目指して持ち主の元へその愛車を急かす。

 案の定炸裂音が聞こえてきた。ビーンズがはじけ飛び、中心からショットガンを構えた男が現れる。

「降谷さん!」

 左手で堅くハンドルを握りしめ、空いた方の手を窓から伸ばした。それだけで彼なら十分だと、分かっていた。

 こちらを向いた童顔が目つきを鋭くする。背後に向けて散弾銃を連射しつつ、追撃が途切れた隙にこちらへ向けて猛然と掛け出してきた。

 宮野は車を操作して障害物を右へ左へ跳ね飛ばし、邪魔するビーンズ共を蹴散らして何も無い空間を広くする。そこへ車体が入り込み、また同時に辿り着いた降谷が彼女の伸ばした手を掴む。

「助かった」

「早く乗り込んで。飛ばすわよ」

 腕力で縋り付いた後部座席の窓から降谷が車内に入り込んだのを認めて、宮野はアクセルを全開にした。俄然スピードを上げたRXー7は立ちはだかるカラーボール達を弾き続け、ついには閉ざされていた廃工場の鉄扉さえ跳ね飛ばした。

 後部座席から身を乗り出して後方を確認した降谷が、懐から出したスイッチを押す。

 途端、廃工場は火の柱を噴き上げた。熱風にRX-7が煽られ、宮野は小さく悲鳴を上げる。黒煙を上げて轟々と燃えさかる廃工場を見届けて、降谷は上体を車内へと戻した。

「随分運転が上手くなったんじゃないか?」

「ええ。誰かさんに吐くまで連れ回されたお陰で、ね」

 宮野の憎まれ口を笑って、降谷は器用に後部座席から助手席へと身体を滑り込ませる。褐色の細い身体が、乱れたシャツの切れ目から所々露わになっている。ざっくりと切り取られたシャツの下、なめらかな腹筋の線に視線が奪われそうになる。

「うーん、火力が足りなかったな。マシンガン持ってくればよかった」

 やっぱり、心置きなく運転に集中できそうだ。

「マシンガンってあの、いつも使ってるものかしら?」

「ああ」

「もうちょっと人間の発想を持ちなさいよ。どこに室内戦に対戦車用の機関銃を持ち込む人間がいるのよ。第一、あんなのを振り回せること自体おかしいわ。ゴリラなの?」

「悪い娘ですね、シェリー。愛車がボロボロになったことさえ、君の笑顔一つで許せる、こんなに寛大な心のゴリラがいますか。え?」

「バーボンで煽らないでくれる? 吐き気がするわ」

「ひっどいな」

「対戦車用の機関銃を持って行きたいなら、そもそもこの車に搭載すればいいじゃない」

「天才か」

 降谷は真顔で賛美した。それがどうにもおかしくて、ついに宮野は噴き出した。つられて降谷も笑い出し、軽くその胸をはたいた宮野の頭を、褐色の手がかき混ぜる。

「ちょっと、やめてよ。わきの森に突っ込むわよ」

「いいじゃないか。少しくらい二人でゆっくりしていったっていいだろ」

「今八十キロ出てるから、永遠に休むことになりそうね」

「じゃあやめておこう。安全運転を心がけてくれ」

 了解、と宮野は返した。何やかんやと降谷と会話しながらも、その目は前方から一切外れていないのだから、大したものだと思う。

「本部に連絡する」

「ええ、お願い」

 降谷は携帯を取り出す。安室透のものでも、降谷零のものでもないそれを鳴らすと、ワンコールも待たないうちに繋がった。

「こちら、機動部隊『彼の人』より降谷。今、標的の爆破に成功した」

 降谷の低い声を聞きながら、宮野は正面を、樹海の狭間を見据える。

「まず倭国済世大隊の基地だったと見て間違いない。送った写真を確認してくれ。あの施設が廃棄されたのは恐らく、戦後GHQが日本から引き揚げてからだ。ああ、奴らの初期施設の一つだったんだろう。生産ラインで作られていたものの残骸が詰め込まれていた。今からヘリで向かえば、一つくらい確保できるんじゃないか。そうだな、数が多すぎたからちょっと減らしておいたけど」

 ちょっとどころじゃないわねと言いたいのを、宮野は堪えた。でも一匹程度なら確保できるというのは本当だ。宮野達の後を追おうとした何匹かが、外へ出るのを彼女は見ている。降谷にそれを見る余裕があったとは思わなかったが。

「ああ、通報があったのか。記憶処理班を手配しろ。お前もそろそろ得意になってきたよな。じゃあな」

 降谷は通話を切った。宮野は前方を見据えたまま尋ねる。

「風見さん?」

「ああ」

「まあ、中達博士も支援についてるから大丈夫でしょうね」

「カバーストーリーは『不発弾の処理』とかだろうな」

「爆破しちゃって、本当に良かったのかしら」

「上位委員会の指示だ。今回は俺も爆破して良かったと思うよ。あの化け物は、放っておけば二日で人里に溢れ出しただろうからな」

「でも、どうしてまた急に? あそこは捨てられた施設でしょう」

「捨てられていたが、一時的に再稼働させたんじゃないか」

 降谷はカメラの画面を見た。生産ラインのレールレバーが映っている。

「生産ラインの一部に油を差した跡があった。ここ二週間くらいだろう」

 ウィンカーを出した宮野が左右を確認する。車はようやく道なき道を抜け、国道に出ようとしていた。

「あれ、器物精魂マシンよね。かなり出来損ないだったけど、鬼天烈絡繰リ団の基地で見たのにそっくりだわ」

「そうか。君は視察に行ったんだったな」

「ええ。物質に魂を込めるなんて馬鹿みたいな発想に興味があったから」

「関連性はきっとあるんだろう。鬼天烈絡繰リ団は明治に変わる頃内部抗争があって、タカ派が分裂したらしい」

「繋がりが無いと考える方が無理ね」

 で、と宮野は話題を切り替える。

「どう思う。ここ最近の倭済隊の動き」

「うーん」

 降谷は顎をさする。

「愛知、静岡、長野、そして山梨にあった彼らの旧基地が不自然な再起動を見せているわけだから」

 やや間を置いて、また口を開いた。

「米花町方面へ移動していく可能性が高いだろうな」

 ハンドルを握る白い手に、筋が浮く。それを認めた碧眼が細まる。

「そう」

 宮野志保はそれだけ言った。






13片




 財団研究収容施設サイト-81XXに帰着し、凹凸の激しくなったRX-7を修理工場に出した頃、 やっと降谷と宮野のもとにチームの残り一人がやってきた。

「ふ、降谷さん」

 風見裕也は、どことなく顔色が燻んでいる。

「いったいなんの爆発物を使ったんですか。不発弾にしては相当な威力で、カバーストーリーに苦労したって、記憶処理班に文句言われたんですけど」

「保管期限の切れてた、饅頭連続爆破事件の奴だ」

「ええ、あの頭のおかしい爆弾魔の奴を使ったんですか!? それは、地雷程度じゃあ誤魔化しづらかったわけだ」

「カバーストーリーは『不発弾十発の処理』でいけただろう」

「いけましたけど……あっ、降谷さん! 待ってください!」

「報告に行くぞ。ついて来い」

 降谷、宮野を追う形で風見が続く。日本支部の収容施設の中でも一二を争う規模を誇るサイト-81XXは、いつ見ても廊下を人が行き来している。広々としたベージュの廊下には、かっちりとスーツを着込んだビジネスマン風の男からたった今戦火から逃れてきたと言わんばかりに満身創痍の戦闘服まで、様々な衣装の人間が行き交う。その中では三人は特に注目されることも呼び止められることもなく、淀みなく目的地を目指した。

「風見さん、中達博士は?」

「認識災害オブジェクト対策会議に向かいました」

「今月でもう三回目じゃない。また新しいオブジェクトが見つかったのかしら」

「博士のことですから収容違反にはまず巻き込まれないでしょうが、あまり回数が多くなると不安になりますね」

「認識災害は曝露してもまず気付けないからな」

「そうね。以前の私たちのようにね」

 淡い暖色の廊下を北へ辿る。やがて巨大な自動ドアが彼らの行く手を遮った。ドアの上方には「これより先、指令棟」と金字で彫られている。

 指令棟は、財団の最高決定権を持つ上位委員会への報告や、指令の伝達を受けるための場である。上位委員会は一般の職員の前へは決して姿を見せないため、職員は指令室のモニターを通じて彼らと意思疎通をする。

 降谷が手前の操作盤で指紋認証をすると、ガラスのドアの中を蒼光が走り、映り込んだ三人の顔を彩った。

【生体識別、認証しました。ルーム27へお進みください】

 柔らかな、しかし明らかに電子的な女性の声が言う。同時にドアが開いて、その向こうに純白の廊下が現れる。

 彼らは一番手前の部屋に入った。中央には巨大なモニターが浮かんでいる。

「機動部隊『彼の人』、揃いました」

 降谷が告げた。

 すると、モニターに文字が浮き上がる。

【お帰りなさい、機動部隊『彼の人』】

【入手したデータを入力してください】

 モニターの下部に接続端子が空いた。宮野はそこへ用意しておいた記録媒体を差し込む。

 画面が翡翠色に閃いた。

【任務の完了を確認しました】

【次の任務を告げます】

 画面の右下に、待機の文字が明滅する。すぐに画面が切り替わり、新たな文字が走り始めた。

【引き続き、機動部隊『彼の人』の出動を要請します】

【81か_4869付近に要注意団体ホ『倭国済世大隊』の動き有り】

【明日十時、現地に出動して警戒せよ】

【三ヶ月間見守りを続け、週に一度定期報告を入れよ】

「承知しました」

 降谷が応じる横で、宮野は唇を噛み締めた。

 特殊存在管理ファイル識別番号、81か_4869──通称「米花町」への潜入任務。

 かつて長く濃密な時を過ごし、そして逃げ出した。二年前、もう二度と戻らないと決めたあの街に、遂に行かなければならない。






2片




 「真実」に深いヒビを入れたのは姉の死だ。あの明るい笑顔はもう見られない。優しい声も聞けない。不死の薬など開発する意味がない。以降、贖罪のための実験ばかりを続ける日々が続いた。

 しかし、自分の「真実」を壊したのは別のものだ。あれは何だったのだろうと宮野は今でも考える。時か運か、はたまたあの男か。全てだったのかもしれない。

 その日も贖罪の実験をしていた。APTX4869のレシピがなかろうと、解毒薬ができるならばそれに越したことはないので、暇さえあれば開発に取り組んでいた。『灰原哀』と名付けられたあの頃の彼女がやっていたことと言えば実験か、そうでなければ放っておくと危険なことになりそうな世話のどちらかだった。たとえばわんぱくな子供たちと負けないくらい成長期などこぞの腹部を管理したり、またはラブコメとミステリー間の往復で忙しい男に押しつけられた物品の解析をしたりといった具合に。

 灰原は新しい糸口を探して、過去の実験記録を読み返した。

 はじめはデータばかりを追っていた。それがいつの頃からか、複数の実験記録を比較しているうちに目が違うところへ逸れていった。

「■■■■年、四月十六日」

 二つの用紙を見比べる。明らかに違う実験。それも同日にやった記憶は一切無い。

 日付を間違えたのだろうか。次の用紙をめくり、その次の用紙をめくり──手が止まらなくなった。

 めくるたび違う実験が出てくる。これでも真摯に科学に打ち込んできた方だと自認している。いつどのような仮説を立て、どのような手順を踏んで、どのような実験を行っていこうとしたか、全て覚えている。

 その記憶が、実験の行われた順番に間違いはないと言っている。しかし記録の日付がおかしい。

 行った実験の件数は優に千を超えている。だが行われた年が、すべて変わっていない。■■■■年。また■■■■年。その次も■■■■年。どれを見ても■■■■年。

 皆同じ年だ。

「どういうこと……」

 漏れた声が震えた。手に力が入らなくて、実験記録が床に散らばった。一面に広がる白い紙に、見慣れた自分の筆跡が延々と書き連ねている。

 ──■■■■年。

 私はどうかしていたのか。灰原はこれまでを──この邸にやって来て、実験に取り組んできた日を思い返した。どこか妙な記憶は無いか、全ての記録の年月を書き加えるような、気が狂っていたに違いない日を探した。だが何も見つからなかった。在るのは愛しい記憶。以前の半生に無いほどに生き生きと過ごしてきた日々の、思い出だけだった。

 たった一年でこれだけの実験数を、天才発明家とはいえ、市井の民間人の家でこなせるわけがない。こんなにたくさんの思い出が、たった一年であるものか。

 ──私はいつ、ここに来た?

 いても立ってもいられなくなり、実験室を飛び出して階段を駆け上った。

「博士ッ」

「うわっちぃ!」

 阿笠博士はリビングで珈琲をすすろうとしていたところだった。飛び上がるようにして少女を見て、マグを机に戻した。その陰に愛らしい皿がもう一枚ある。

「な、なんじゃ哀くん。ワシはドーナッツなぞ食べようとしとらんぞ!?」

「今は西暦何年?」

 博士はきょとんとして答える。

「それは、■■■■年じゃろう」

「じゃあ私がこの家に来た日は?」

「ワシの脳みそを試しとるのか? 哀くんが来た日を忘れるわけないじゃろう」

 福々しい、丸い肉を蓄えた口元が笑って言う。

「■■■■年の、■月■日じゃな」






3片



 

 この世に科学で証明できないものなどない。一見不可解な現実でも、より研究すれば未知の普遍の法則を秘めているものなのだ。

「灰原、ぼちぼち汁粉食いたいって博士が言ってるぞ」

 扉を開いた江戸川が、刹那目を丸くする。大きな目に映ったのは、壁に所狭しと貼り付けられた人体の成長データか、マウス達の成長記録か、それとも部屋の外周を何重にも取り巻く、砂時計の群れか。テレビに映るアイドルの顔が、砂時計にいくつも映り込んで分身した。情熱的に歌う彼の喉の色が、部屋も赤く染める。

「うわ、すげえな。いつの間にこんなの作ったんだ」

 自分の背丈の五倍もあろうかという地球儀状の砂時計を見上げ、感嘆の声を挙げる江戸川を一瞥し、さあねとだけ返してPCの画面に目を戻した。ソフトは狂い無く稼働しており、部屋中の砂時計の回転数が、もうすぐこの装置を設計してから一年が経つことを示している。厳密にはあと、三分五十六秒。

 実はこの部屋の外、屋敷の屋上にも二つ設置してある。どちらもこの部屋の装置とは別の動力源で動いており、片方はソーラーパワーと電波の併用、もう片方はこの部屋の装置と設計は同じだが、別個体となっている。

 つまり、この部屋の時間と公共の電波の示す時間と、そしてこの部屋の外の時間とを比較することによって、時間の経過を比較しようという心積もりなのである。

 現段階で、どの装置にも故障は見られない。

「なあ灰原」

「キッチンに用意してあるわ。あたためるくらいできるでしょ。先にやっててちょうだい」

「何だよ。そんなに手が離せねえことやってるのか?」

 アイツらも待ってるのに、と江戸川は呆れている。少年探偵団の皆には申し訳ないが、これだけは譲れない。

「カウントダウンライブの終わり、見てから行きたいのよ」

「ったく、しゃーねーな」

 江戸川は戸を閉めて上がっていった。

 あと十三秒。十二、十一……三、二、一。

 砂時計がひっくり返る。

『ハッピーニューイヤー! 新しい年もよろしくな!』

 アイドルが叫んでいる。テレビ画面にネオンが踊って西暦を表示する。

 ──■■■■年。

 灰原はPCのモニターを見た。設定した三つの時刻測定装置、全てが■■■■年一月一日零時を指していた。

 砂時計は回り続けている。回転数が一つ、また一つとPC上にカウントされていく。

 ■■■■年が、また始まる。






4片




 時の実在を確かめることは難しい。宮野であった頃から、自らの専門は薬と医、化の領域だと考えてきた。だからこのような問題は、本来門外漢なのだ。

 それでも自分なりにできる方法で、時間の経過を確かめようとした。生体の変化である。たとえば人間の細胞は絶えず生まれては死にを繰り返しており、一年経つ頃にはすっかり別の細胞の塊へと変貌している。

 APTX4869に狂わされた自分の体は参考にならないので、博士の健康管理と称して博士のデータを取った。それからついでに機会をうまく作って少年探偵団の皆と、それから人間だけでは心許ないのでマウスでも記録を取ってみた。

 結果、どれもきちんと変化していた。そうなるとおかしいのは人間の認識、つまり宮野の認識か。

 たとえば、西暦を示す言葉が全て同じ「■■■■」年に聞こえてしまうとか。

 灰原はラボで一人、鼻を鳴らした。まともな生活を送ってきていないことは自負しているが、そこまで狂っていないはずだ。大体狂っていたとしたら、自分ではもう何も確かめようがないのでお手挙げである。

 馬鹿馬鹿しい。■■■■年が繰り返されたところで何なのだ。それより重要なのは、手元の生体データだ。

 もう一度入念に、見直した。どう見ても、変化はしているが「変化していない」。ひとしきり全身の細胞が生まれては死んでいった結果、全く同じ形に生まれ変わっている。幼い少年探偵団だけでなく、阿笠博士もだ。老人がここまで変わらないとは考えられない。

「つまり」

 灰原は無機質な壁に向かって確認した。

「物質的にも精神的にも時間的にも、ある一定期間を私たちは繰り返している。そのある一定期間というのは、通称『■■■■年』という一年間で、私を除いた人間は恐らくその一年を繰り返していることに気づいていない。更におかしいのは、一年を繰り返しているのに、降り積もる時は──時というものがあるならばだけれど──新しく、増え続けているということかしら」

 記録をさらってみた結果、もうすでに二十回を超えるほどに春夏秋冬を繰り返し過ごしているのだが、周囲がそのことに疑問を感じている風はなかった。少年探偵団は一向に進級しないこともクラス替えがないことも、自分が年を取っていないことも気づかない。あの江戸川コナンこと工藤新一でさえそうなのだ。

 工藤新一の恋人、毛利蘭もそうである。彼女はもう四十歳になっていてもおかしくないのだ。なのに高校二年生のまま、帰ってこない思い人を待ち続けている。その身辺はいわずもがな。

「何よ、これ」

 いつからだ。

 いつからこうなっていた?

 いつかの雨の日、死ぬつもりで自身の開発した薬を飲んだ。あの日まで、時は正常に作用していた。

 ──そんなはずはない。

 本当に『宮野志保』が消えたあの日が起点か? その頃の記録は、『灰原哀』の手元にはない。

 ──『工藤新一』のAPTX4869投与結果を、「不明」から「死亡」に書き換えたのはいつだ。

 実験マウスの一匹が若返ったのは、いつだ。

 ──嘘よ。

 灰原哀こと宮野志保の頭脳は優秀だ。彼女はデスクの一つを開けた。一番奥に、クリアファイルが一つ。

 挟まれているのは色あせた新聞記事だ。おびただしい文字の中心に一枚の写真、大きな眼鏡の少年が、縋る少女を背に負いながら、横たわる女を見下ろしている。

 長い黒髪。横顔は──その顔が優しい顔をしていたことを、灰原は知っている──決してこちらを振り向かない。

 灰原は記事の斜め上を見た。

 ■■■■年と記してあった。

「いやあっ」

 頭を抱えて崩れ落ちた。足がもう立たず、上体を起こしていられなくて、額を床に打ち付けた。

 ずっと今のままでいいと思った頃があったのも事実だ。放っておけない優しい博士と、無邪気な子供達と、気障ったらしくて憎たらしい誰かと、ずっと一緒にいられたらと思ったこともあった。

 でももう、堪えられない。

「どうして今更──」

 何故時が進まないのだ。

 己が薬を盛られた青年が少年になった。その頃からちょうど「時が止まっている」。

 『宮野志保』を殺して、『灰原哀』は生まれた。『灰原哀』は暖かい人々に囲まれて生きている。優しい博士と、無邪気な少年達。天使のような少女は恋人の無事を祈り続け、その恋人は天使を欺き続けながら傍にいて、彼女に応えられない自分を歯がゆく思っている。

「いや……ッ」

 『宮野志保』は、自分のせいで他人が不幸になることを望んだわけではない。彼女が望んだのは変わらないもの。記憶にない両親が心血を注いだ実験と、自分を愛してくれる姉がいれば、どこで生きていくことになってもいいと思っていた。

「助けて、お姉ちゃん……」

 口にしてから、姉は自分のために死んだのだということを思い出した。






5片




 灰原哀は死ぬことにした。ラボに一人閉じこもって、カプセルを口に含む。瞬く間に襲ってくる激痛が、今自分の身体は隅々まで破壊されているのだと教えてくれた。

 視界がブラックアウトして、気付いたら床に倒れていた。目の前に伸びた手は記憶より長くしなやかな、十八歳のものだった。

「あ、哀くん……?」

 予想通り、彼女の姿を見た阿笠は動揺した。かぶりを振ってみせる。

「いいえ、彼女はもう死んだわ。でもまだ、彼女の仕事が一つだけ残ってるの」

 それから江戸川を呼ぶようお願いした。本当ならば自分の身体に問題が無いことを完全に確かめてからがよかったのだが、彼が一ヶ月阿笠邸に来ないなんて考えられない。だから先に言ってしまった方がいいだろうと考えたのだ。

「灰原?」

 宮野の姿を見た江戸川は、あっけに取られた顔をした。

「灰原哀は死んだのよ、江戸川コナン君」

 対する宮野は眉一つ動かさず、先程阿笠に言ったのと同じ台詞を繰り返した。

「貴方の身体を元に戻す方法を教えるわ」

 APTX4869は毒の検出されない毒薬だ。それを中和しようとしても限度がある。

 ならば、文字通り毒をもって毒を制してやったらどうか。幼児の形に縮みきった生体は、それでも中和すれば元の体という形状を覚えていた。だから、その元の形状でいずにはいられないような毒を与えてやればいい。

「今投薬から三時間が経つところだけど、経過は良好よ。でも三ヶ月は経過観察しないと不安ね。本当ならば一年は見たいところなのだけど」

「オメー、一人で無茶しやがったな」

「あら、貴方だっていつもそうじゃない」

 江戸川の眉が吊り上がり、声が低くなっている。宮野は済まして答えた。

「忘れたの? 貴方は被害者で私は加害者。貴方が私を心配する理由は無いわ」

「灰原……!」

「違うわ。貴方だって、最初は私を責めたじゃない。毒を作る気なんてなかったとは言え、そして盛ったのが私ではないとは言え、今でははっきり認められる。私は罪人よ。蘭さんのためにも、貴方はまず私の提案を聞くべきね」

 恋人の名前に、少年は固まった。

 分かりやすい人。宮野は内心笑って、続けた。

「三ヶ月、私は自分の経過観察をする。これで何も大きな副作用が現れず、このままの身体でいられるならば……貴方にこの薬を渡そうかと思うの」

「本当か?」

「貴方は晴れて工藤新一に戻れるわ。だけどこのまま戻れば、当然すぐに組織の手が貴方にかかることになる」

 だから、選択して。宮野は声を落とした。

「三ヶ月後、工藤新一として真っ向から彼らと戦うか、江戸川コナンとして水面下の攻防を続けるか……貴方次第よ」







 三ヶ月経っても、宮野の身体に変化はなかった。薬の開発に成功したのだ。

 江戸川コナンは自身に薬を投与して、工藤新一に戻った。ひとしきり喜んだ後、彼はいよいよ動き出すべく、阿笠邸を後にした。

「哀くん。何もここまで無理することは無かったんじゃないかのう」

「志保よ。いいえ。彼にはきっと薬が必要だった」

 江戸川に話をした日、宮野は帰っていく小さな背中を見送った。その背中に、少年らしからぬ気迫が宿っているように思われた。

「蘭さんを危険な目に遭わせないために、なんてずっと言って来たけど、本当のところはもう焦れて仕方が無かったのよ。彼、犯罪者を追い詰めるの、好きでしょう。彼らをとっちめたくて仕方ないはずだわ。工藤家には多くのコネクションと資産がある。更に彼個人の知り合いも強力だわ。それを全て駆使すれば、蘭さんや毛利さん、貴方を匿うことは勿論、更に組織と互角に渡り合うには十分なくらいのはずよ」

「そうかのぉ」

 なおも不安そうな博士に、宮野は頷く。

「ええ。私の知る限り、江戸川コナンという少年にはそれだけのポテンシャルがあったわ」

 彼の相棒として生きてきた『灰原哀』と、かつて組織の一員であった『宮野志保』と。両方から見て、彼には優れた力があった。

 この止まった時に留めておくには勿体ないと感じるほどの、未来があった。

 宮野は『灰原哀』の部屋に飛び込んだ。彼女のものは、今日の日のために大方始末してある。あとは最低限のものを詰めた鞄を一つ持つだけでいい。

 鞄を掴んで、阿笠邸を大股に横切る。阿笠のついてくる気配を背中に感じた。

「どこ行くんじゃ」

「 出て行くのよ。安心して。薬の予備とか必要そうなものは地下のラボに置いてあるから」

「哀くん」

 ドアに手をかけた瞬間、阿笠が言った。

「だから私は志保だって──」

「ワシの養子にならんか」

 振り返ると、彼のまっすぐな目とかち合った。

「何を、言って」

「ワシは哀くんにご飯を作ってもらえて幸せじゃった。ちと厳しすぎることもあったが、あれも愛情のエッセンスみたいなものじゃろ? つらくはなかったんじゃよ。日本が嫌ならばアメリカでもいいから、また一緒に住んでご飯を作ってくれんかのう?」

「馬鹿言わないで。私は宮野志保よ。貴方のかわいがっていた工藤新一を、害した人間なのよ」

「知っとるよ。志保くんは哀くんじゃし、哀くんは志保くんじゃろう」

 いつもは厳しい言葉を浴びせればすぐ怯む老人が、一向に怯まない。

「新一も可愛い孫みたいな奴じゃが、あ──志保くんもそうじゃ。呼び慣れんから哀くんと呼んでしまうこともあるじゃろうが、志保くんも可愛い、ワシの孫のような子じゃ」

 宮野の瞳孔が、初めて僅かに揺れた。阿笠は優しい眼差しのまま、彼女に近寄る。

「新一も、もう君に罪をどうこうなど、思ってないはずじゃよ」

「駄目」

 やっとのことで、それだけ絞り出した。

「私は別に、彼に義理立てしてるわけじゃないわ。博士のメタボだって手に負えないし、もううんざりなのよ。嫌なの。ラブコメ探偵に振り回されるのも、組織から逃げ隠れするのも、子供達の面倒を見るのも、博士のメタボも」

「そうじゃったか」

 博士はしょぼくれるような仕草をした。宮野は再び背を向ける。

「哀くん」

 早く出て行かなくてはならないのに。呼び止められると、どうしても足が止まってしまう。

「また、顔を見せると約束しとくれ」

「……悪いけど、その女の子はもう死んだのよ」

 今度こそ振り返らない。宮野はドアを見つめたまま言った。

「そういえば、その子から伝言を預かってたわ」

 取っ手を握る手に力がこもる。

「今までありがとう、博士。大好きよ」

 返事が聞こえる前に外へ飛び出した。半ば駆け出すようにして路地を行く。見知った景色が遠ざかっていく。早く遠くへ。今ならば皆の目は元に戻った工藤新一と、組織打倒に向いている。『灰原哀』を知る者がいない場所へ行って、お節介な人間の手が伸びる前に、『宮野志保』として死にたかった。

 宮野は走る。今日のために用意しておいたパンプスが足を締め付けて痛い。『宮野志保』は動きやすい運動靴なんて履かないのだから仕方がない。子供じゃあるまいし。

「いったいわね、もう」

 宮野はぼやいた。鼻声になった。






6片




 ──意外と、警察の施設も過ごしやすいわね。

 宮野志保は、何の模様もない壁紙を眺めている。自ら命を絶つ場所を求めて米花町を離れたはいいものの、海に辿り着いたところで所轄の警察官に保護されてしまった。そのため今は、どうやって脱出しようか考えているところである。

 他人に手間をかけさせずに死ぬのは、非常に難しい。組織にいた頃は死んだ後の始末など全く心配したことがなかった──死体の処理など燃えるゴミと同程度の扱いである──から、『灰原哀』として死ぬことを決めた後、『宮野志保』としての死に方を検討して困ってしまった。この国では法律によってどれだけ基本的人権が守られているのかを思い知らされた。宮野は誰にも、それこそ事件に敏い米花町の誰かが気づかないように自分に片をつけたいのである。たとえ自分の知らない人間であっても、迷惑をかけるようなことはしたくない。日本はどんなに人気の無いところであろうと、誰かの所有地だ。そこで命を絶ったら所有者に損害をもたらすことになる。

 ならば外国は? 飛行機で脱出して、渡った先で命を落とすというのはどうだろう。

 絶対邪魔が入る。

 宮野には残念なことに、妙な確信があった。阿笠邸の隣には、約束に縛られた男が住んでいる。その男の管轄が、まさに国外なのである。万が一うまく飛行機に乗れて、彼の所属する国と親しくない国に飛べたとしても、恐らく彼はうまく口実をつけて宮野を追ってきて、仲間から得た情報で 彼女の居場所を正確に掴み、捕まえるだろう。合衆国は何十年も前から衛星で地球の表面を把握し続けている。加えて力業は彼らのお家芸だ。

 だから目立つ髪と瞳の色を簡単な仮装で誤魔化し、在来線を乗り継いで海を目指した。海に出て、日本国に属さない沖に出てしまえばいい。それが人生の大半を組織で生きてきた十八歳に思いつく、精一杯だった。

 ──十八年の人生にしてはそれなりにものを知ってるつもりだったけど、やっぱり知らないことはまだまだあるのよね。

 宮野は自虐の笑みを浮かべた。偏りのある人生だったことは承知している。世間慣れしていないという一言で片付けるには、宮野の境遇は特殊すぎた。

 宮野を保護した所轄の人間は、どうも他からの指示で動いているようではなかった。単純に深夜に海辺を徘徊していた宮野を訝しく思い、善意で保護した様子だった。身元を聞かれたが、適当に名前をでっち上げて、彼氏と喧嘩して家を追い出された二十五歳ということにしておいた。自分が『宮野志保』であると分かるようなものは何も持っていない。さすがの名探偵も、都から遠いこの鄙びた土地で保護されている女に目はつけまい。

 何はともあれ脱出だ。宮野は格子のついた小さな窓を仰ぐ。夜陰が薄くなりつつある。もうすぐまた警察官が様子を聞きに来るだろう。どうにか出られるようにしなくては。

 宮野が思案を巡らせていると、戸が開いた。つられて動いた宮野の目が丸くなる。入ってきたのは、この辺りで見かけそうに無い、上質なスーツをまとった初老の男だった。

「宮野志保博士でいらっしゃいますか」

 男は慇懃に尋ねる。宮野は眉根を寄せた。

「名前、おまわりさんに聞いたでしょ」

 動揺していることを悟られてはならない。あくまで宮野は今、彼氏に追い出された二十五歳の女なのである。

 男の後ろから、この所轄の人間が入ってくる様子は無い。それが余計に、宮野の預かり知らない何かがこの男を形取って現れたようで嫌だった。

「失礼しました。私、こういう者です」

 男は名刺を差し出した。「警察庁科学警察研究所 中達和男」とある。

「刑事さん?」

「研究職ですよ。貴方もよくご存じでしょう」

 すっとぼけた答えを返したのに、大真面目に訂正された。よく知っている。警察庁の研究機関だ。

「ただ、今回貴方にお声かけしたのは、この肩書きが理由ではないのですが」

 男は名刺を裏返した。おもむろに懐からライターを取り出し、名刺を炙る。宮野は思わず身を乗り出して、表面に浮かび上がった文字を眺めた。

「特殊存在、保護財団?」

「ええ。『財団』とだけ呼ぶ人間も多いですが」

 宮野は男の目を凝視した。男も凝視し返してきた。

 何者だろう。宮野の直感は、間違いなく研究者の目だと告げている。

 それも、日を浴びることを望まない研究者の目だ。

「安心してください。きちんと政府の承認を得て活動している財団法人ですよ。それも日本だけではありません。アメリカ、ロシア、フランス、中国……多数の国家に認めていただいています」

 そう言われると、かえって怪しみたくなる。

「宮野博士は、恐らく米花町にお詳しいのではないですか」

「だから、名前」

「あの町は変わっていますね。かなり犯罪が多いのに、住んでいる人間はあからさまに荒れている風も無い。しかも事件が発生しても、容疑者が逮捕されないことが無い。西暦が■■■■年のまま、関わる人間が年を取らないのも奇妙です」

 背筋が凍った。

 時が止まった米花町を異常だと感じている人間──『灰原哀』だった頃には、出会ったことが無かった。

「貴方は、何者なの」

「貴方と同じ科学者ですよ。研究対象を言うと、なかなか信じてもらえないことが多いのですがね」

 中達博士は苦笑した。組織で生きてきた宮野の目をしても異常性の見つからない、くたびれた笑みである。

「私の専門は心理学です。特に認知の問題について研究していまして、近年はヒトの認識に著しく影響を及ぼす事物を対象にしています」

 一度持論を語り始めると止まらなくなるのが研究者の常である。中達は穏やかながら熱を込めて話し続ける。

「たとえば、米花町。あの町は犯罪件数が異様に多いのに、住人のQOL評価値は総じて日本自治体の平均値を大きく上回っている。■■■■年が本当に一年だとするならば、一秒に一人が死んでいるのに、です。彼らがそのように答える理由をご存じですか?」

「さあ」

「眠りの小五郎の存在です」

 今度こそ、動揺が表に出ていないか不安になった。中達に気にした様子は無い。

「彼が必ず事件を解決してくれるから、殺人犯が野放しにならず、罪は必ず裁かれると信じているのです。更に毛利探偵以外にも、米花町には探偵が多く見受けられる、と。そうそう。近年は住人が最も信頼している探偵は眠りの小五郎ですが」

 手を打つ仕草に、わざとらしい気配は無い。

「■■■■年以前は、高校生探偵工藤新一が一番だったようです。彼は全国的にも注目されていた探偵でしたね。そう言えば、本来の、本当に最初の■■■■年でしたか。彼が高校生探偵として最も知られるようになり、そして失踪したのは──」

「貴方、何が目的なの」

 もう正体がばれることを気にしている場合では無かった。宮野志保は中達を睨みつけた。中達は素朴に首を傾ける。

「目的も何も。私は財団の命によって、貴方を勧誘しに来ただけです」

 そういえばまだお見せしていませんでしたね、と中達は手に提げていた鞄の中を漁って一冊のパンフレットを取り出した。パステル調の研究施設が映る表紙には「特殊存在保護財団」の名が記されている。

「財団の目的は、人類の把握しきれていない存在を知ることです。人類は文明を持つ前から、それこそ人類がこの地球上に形を持った二十五万年前から『未知』を恐れ続けてきました。科学の発達した現在でも、いや、科学の発達した今だからこそ、我々が把握できていない存在は確かにある。その存在を明らかにし、人類の存続のため保護、もしくは対処していくのが、我々財団の役割なのです」

「つまり、非科学の存在を研究するってこと?」

「科学的であるか否かだけが尺度の全てではないのですが、まあそのようなものです」

 オカルトくさい。

 そんな宮野の考えが顔に出ていたのか、中達は苦笑いした。

「貴方のような優秀な科学者には受け入れがたいでしょうが、世には現在分かっている視点からだけでは理解できないものがたくさんあるのですよ。そしてそれが我々の命を脅かすことも往々にしてあるわけです」

「科学のスタートが宗教だということくらいは、承知しているわ」

「それは結構なことです。神の御業を物質的かつ論理的に解明しようとしたのが、原初の科学者たちの研究動機です。彼らは真摯な宗教家だった」

 中達は著名な科学者の名前をいくつか挙げた。

「それに比べてしまえば、我らの研究はなかなかめざましい成果をあげられていないかもしれませんが、しかし地球市民の生活はある程度守れているはずです。私達は未知の存在を確認し、その危険性を測り、必要とあらば捕獲収容します。そして対処法を考え、彼らとの共存の道をできるだけ探っていくのです」

「物騒な気配がするわね。私は捕獲収容されるの?」

「まさか。貴方には研究職についていただきたいのです」

 財団職員は、身柄を押さえられる代わりに、衣食住が恒久的に保証される。職員はレベル1から5までランク付けされており、レベル1は危険な任務に実験的に放り込まれる元死刑囚などが多く、レベル5は財団の戦略において重要な位置を占める管理職となる。仕事内容は、施設職員か対外職員かで大きく異なる。施設職員は特殊存在の収容された研究施設で働く。施設の管理をする収容専門家、技術者、警備担当の他、対象の研究をする研究員などがいる。一方対外職員はエージェントと呼ばれ、特殊存在を発見、調査して財団に報告するのが常である。

 中達はそのように説明して、宮野にはレベル4の研究員としての席を用意したいと言った。

「比較的危険の無い職ってことかしら。それにしても元死刑囚を採用してるなんて、貴方の組織、ますますきな臭いわね」

「だから、国家の認可を得ていると言ってるじゃないですか」

 男はなんてこともなさそうに言う。その「国家の認可を得て」「元死刑囚」すら「採用」しているところがきな臭いのだ。

「貴方の所属していた烏丸グループよりは、貴方を大切にすることをお約束しますよ。私達は不必要な血を流すことは望みません」

 宮野は何も言わず、視線だけを注ぐに留めた。中達博士は自身の胸に手を当てた。

「国際的に怪しい団体を警戒するのも我々の役割です。烏丸グループもその一つ。貴方のご両親があそこに籍を移された時は、大変なことになったものだと思いました」

「貴方、随分お喋りなのね」

「私達の提示する条件を、貴方はきっと承諾なさると確信していますから。悪くない話のはずです。貴方の衣食住は何一つ不自由ないようにします。研究にさえ励んでくだされば、行動の制限もありません。勤務地は日本支部がよろしいでしょうか」

「どうして私に目をつけたの」

「貴方が米花町に住んでいたからです」

 中達の受け答えはよどみない。

「あの町は財団の研究対象の一つです。あそこには犯罪を発生させやすくさせる何かがある。そのくせ住人の意識はいたって健康です。そのメカニズムを探ろうと財団は何度も職員を派遣してきたのですが」

 ここで、心底残念そうに肩を落とした。

「多くの職員が、あの町で暮らすうちに、事件に巻き込まれて帰らぬ人となりました。それもエージェントであるからという理由によって殺されたのでは無く、ことごとく全くもって別の刑事事件に巻き込まれて死んだのです。そのため、財団内ではあの町は最上位クラスの危険性を持つものとして扱われて、今ではあらゆる調査が中止されています」

「それは気の毒ね」

「ですから、あの町にいても殺されることのなさそうな人間を研究員にしてしまえば、研究が捗るだろうと財団の上位委員会は考えました。そして貴方に白羽の矢が立ったのです」

 宮野は鼻を鳴らした。

「殺されることがなさそう? よく言うわ。あの組織にいた人間はまともな死に方をしないってこと、組織を監視しているなら知っているでしょ」

「そうかもしれませんが、あの町にいる限り貴方は問題ないはずです」

 中達は言う。

「なんと言っても、工藤新一君の友人なのですから」

 取り戻し掛けていた調子が、一気に崩れるのを感じた。

「工藤? 彼は、死んだはずよ」

「財団では、彼は910せ_8510という番号で特殊存在としてリストアップされています。『迷宮なしの名探偵』と名高いですよ。何と言っても、彼は行く先々で事件にかち合って、必ず解決する。その性質はかなりの幼少期からあるもののようです」

 極秘ですよ、といって彼は再び鞄から一枚の紙を差し出した。それは何か、データベースをコピーしてきたもののようだった。




────



『特殊現象管理ファイル』


【整理番号】 910せ_8510


【管理状態】 収容の必要無し


【取扱手引】

910せ_8510の収容は現状不可能である。これまで5回身柄を拘束したが、完全な密室であったにも関わらず、脱出された(詳細は実験記録参照)。現在は職員監視下のもと、81か_4869で生活している。


レベル5の職員は決して910せ_8510に接触してはならない。万が一接触してしまった場合は、極力理性的に振る舞うことを心がけ、早急にその場から離れる。その際、周囲に気を配り、身の安全に細心の注意を払うこと。


 

【詳細】

910せ_8510は身長176cm、黒髪の日本人男性である。日本では工藤新一という名で全国的に知られている私立探偵である。


910せ_8510は19◼︎◼︎年5月4日に生まれた。父親は小説家の◼︎◼︎◼︎◼︎、母親はもと女優の◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎である。

910せ_8510は、幼い頃より父の影響で「シャーロックホームズ」シリーズに強い関心を抱き、ホームズのような探偵になりたいと憧れ、独自の「修業」を積んできたという。鋭い洞察力と平均から外れた量の知識、優れた記憶力を持ち、五感で察知した「謎」に極めて過敏に反応し、「推理」する癖を持つ。


910せ_8510の身辺では、1週間に1〜4回の頻度で刑事事件が発生する。そのうちの99%は910せ_8510の「推理」によって解決することになる。


この「推理」による事件解決頻度は高く、その原因は未だ解明していない。…………





────




「彼のことは幼少期から観察しています。何せ、比較的平和な日本で、やたらとトリッキーな事件に高確率で関わる少年がいると、財団では話題でしたから」

 財団の目と耳は、各国の至る所にあるのです。中達は言う。

「更に私達は烏丸グループを監視して長いですから、当然貴方の幼少期の姿も知っています」

 お分かりですね。

 宮野は無理矢理頭頂部に糸を括り付けられた操り人形の如く、顔を上げた。もう、取り繕っても益が無いのは明らかだった。

「貴方達、工藤君にも何か……」

「いいえ。少なくとも今と、ここ数年は何もしていません」

「ここ数年?」

「貴方が江戸川コナンとなった工藤少年と出会う以前に、彼の拘束を試みたことが五度ありました」

 宮野は目を見開いた。中達は肩をすくめた。

「つまり、工藤君が六歳、八歳、十歳、十二歳、十四歳の時ですね。何も手荒なことはしていません。何せ、完全に四肢を捕らえて、完璧な密室に閉じ込めたにも関わらず、脱出されてしまったそうですから。しかも、彼の拘束に関わった者全てが、警視庁に捕まる始末です」

「何というか……それはすごく、彼らしいわね……」

「そうなんですよ。それが工藤新一君が財団の考える特殊存在であるとされる理由の一つです」

 中達は先程示した報告書の一部を指した。

「彼は自身の見つけた『謎』を必ず『解決』する。確率は極めて低いですが、彼が『解決』できなくても、彼の身辺の名探偵に準ずる誰かが、彼の目の前でそれを『解決』してみせてくれる。彼の察知した『謎』は、個人情報であろうと刑事事件であろうと、どういうわけか全て名探偵にしか解けないトリッキーな難事件として解き明かされてしまう筋道を辿るのです」

 状況が状況で無ければ、笑いたいところだ。何せ、『灰原哀』として見てきた彼の様子はまさにその通りだったのだから。 

「ちなみにそういう工藤君の『性質』のせいで、未だ財団はその原因や特性を探れていません」

「まさか」

「ええ、それも貴方に探っていただければと思っています」

 宮野は額に手を当てた。

「……どうせ知ってるんでしょうけど、私は昨夜、ちょうど米花町から出てきたところなのよ」

「ええ。何も直接接触して情報を得てくれとは申しません。遠巻きに観察するだけでいいのです。貴方も気になるでしょう、工藤新一君」

「まあ、 そうね。実験対象として、ね」

 嘘では無い。現に宮野志保が工藤新一に接触しようとした切っ掛けは知的好奇心に等しいものだったのだから。

 現在の宮野自身は、彼に対する思いをどう形容したらいいのか分からないが、それを言う必要は無い。

「ならば、契約しましょう。貴方は財団で好きに過ごせる。さらに、仕事として米花町と、工藤新一の研究をお任せしたい。米花町と工藤新一の研究は、ほぼ貴方の独断で行うものになるでしょう。それに加えて、そこまで危険ではない別の特殊存在についても研究していただけるとありがたいですね」

「貴方も米花町を研究してるんじゃなかったの?」

「私は実地調査はできませんから」

 あの町では私はモブなのでたやすく死にます、と中達は大真面目に言う。

「断ったら?」

「あの町で危うく命を落としかけた職員は多数います。彼らが、米花町および工藤新一君を完全に財団の支配下に置けないか、本格的に動き出すでしょうね。それが失敗すれば、最悪破壊命令が下されることもあります」

「そんなことできるの? 貴方達、どうせ社会の表には出られない団体なんでしょ?」

「ええ。記憶処理技術が確立しているので、お陰で未だ表に出ずに済んでいます」

 宮野は溜息を吐いた。

「貴方、性格悪いって言われない?」

「職務に忠実だとは言われます」

 こうして宮野志保は、人生二度目の自殺に失敗した。






7片




 宮野は特殊存在保護財団の研究員となった。財団はさすが国家権力に認められているだけあって、宮野が望んだ偽の戸籍も表向きの肩書き──科学研究所の職員である──も、宮野が研究員として正式に登録されたその日に手に入った。

 宮野が配属された研究所は、サイトー81XXという収容施設兼研究所である。都内にあるが米花町からは遠く、周辺には財団関係者が住むのみなので、知り合いに会う恐れも無い。

 財団は快適だった。所属する人間はどうも皆訳ありなのか、互いに深く干渉しない。だからと言って干渉を極端に嫌うこともしないため、ほどよい距離で接しやすい。

「命のかかる仕事ですからねえ」

 一ヶ月ほど過ごしてみた感想を言うと、中達はまったりした口調で頷いた。彼は宮野を財団に引き入れた役割に関係するのか知らないが、よく声をかけてくれる。

「私もそうですが、色々な仕事をしている人間ばかりですし、危険は一人では乗り越えられませんから、過干渉も不干渉も仇になるのでしょう」

「ふうん」

「このサイトー81XXも今のところ平和なようですが、財団の扱うオブジェクトは基本的に『未知』のものばかりですから、比較的安全だとされていたものがある日突然大変危険であることが分かり、サイトが一晩にして地獄絵図に変わることもあります」

「実際にそうなったことがあるのね」

「はい。たとえば、無害だと思われていた書物型のオブジェクトの暴走がありました。当初は持った人間の興味に従って見たい内容を見せてくれるだけの本であるというはずだったんですが、実は食人の性質がありまして、気付いた時にはそのサイトの四分の一区画の人間が全滅していました」

「あら。その本、一冊なんでしょう? 随分やられたのね」

「それが、本が繁殖してたんです。食べた人間を苗床にして、新しい本を生んだんです」

「寄生虫みたいだわ」

「ええ、実際寄生生物に近い生態なのだろうという話です。駆除に随分手こずって──何せ本を見た人間は中毒のようになってその本を見続けてしまうので──私のところにまで認識災害を防ぐための助言要請が来ました。どうにかしてサイト一つの全滅で抑えましたけど、それから長い間、本を読むのに必要以上に緊張しましたね」

「余計なお裾分けありがとう」

 宮野は席を立った。財団食堂は今日も満席である。施設に箱詰めになっている職員が多いせいか、食事のバリエーションが豊富で味もいいのが嬉しい。

 カラになったサンドイッチのパックを捨て、定食のトレイを返した中達が歩み寄ってくるのを出口で待つ。

「で、用件は?」

「お探しだったものです」

 中達は和菓子屋の手提げを渡した。宮野は受け取って、ちらりと中の箱を見る。

「よくこの短時間で入手できたわね」

「前の副業が情報関係だったので」

「恐ろしい時代になったわ」

 二人は宮野のラボに入った。すぐ目の前に広がるのは、ミーティング用の空間である。中央に置かれた広い机に、菓子箱の中身を広げる。

「米花町の不老化現象は全国規模に広まっているみたいね」

 入っていたのは、紙の束である。■■■■年前後の全国のあらゆる年齢層が受けた健康診断の結果や、身体データが記載されている。宮野はその一つひとつを見比べて、頷く。

「でも、米花町ほど極端ではないかしら」

「ええ。しかし認識災害は■■■■年以後、全国に広がっていっています」

「そうね。毛利小五郎の名前がマスコミ経由で広まるのとほぼ同時だわ」

 つまり、工藤の影響ということだ。

「工藤新一君の時が退化したのに合わせて、世間も年を取るのをやめたかのようです」

「でも、私の開発した薬にはそこまでの効力は無いはずよ」

 人体一つを若年齢化するのがいいところである。

 中達は考え込んでいる。宮野は彼を見上げた。

「まさか、私の薬が特殊オブジェクトだなんて言わないわよね」

「言いません。それより私は今、薬を投与された対象が偶然『工藤新一』となってしまったからではないかと考えていました」

「え」

「つまり、オブジェクト『工藤新一』は強力な認識障害及びミーム災害作用、もしくは現実改変能力を持っているのです」

 中達は相変わらず笑みの一つもなく、真摯な表情である。

「どういうこと?」

「認識障害というのは、五感を持つものの認識に異常な、一方的かつ大きな影響を与えること。ミーム災害はそれを他に伝播させることです。一方、現実改変能力は、現実を思うがままに変えてしまう力のことです」

 そう前置きして、中達は続けた。

「工藤君ももしかしたら、周囲の人間の認識に大きな影響を与えたり、または自分の思うように現実を変えてしまう力を持っているのかもしれません」

「そんな」

 宮野の口が思わず開いた。

「彼はそんなこと、言ったことないわ」

「この力は、本人も自覚していないことの方が多いのです。まず、人間にこのような力を持つ者がいること自体、相当珍しいのですが、彼もそのケースの一人なのかもしれません」

「だとしたらとんでもないことよ」

「ええ、全くです」

 中達は顎に手を当てる。

「認識障害ならまだしも、これが現実改変能力ならば大変なことになります」

「どうなるの?」

「彼はまず、意識の無い状態で財団に監禁されるでしょう」

 彼は至極冷静に、恐ろしいことを口走った。聞いていた宮野の方が動揺してしまう。

「そんなこと、あるの?」

「ええ。過去にも現実改変能力を持つ人間はいました。彼らの多くは非常に財団に協力的でしたが、それでも本人にも制御しきれない能力は、危険以外の何物でも無かった」

 中達は沈痛な面持ちになった。

「意識は、人間には制御しきれない。だから永遠に眠らせざるを得なくなった」

「なら、工藤君ももしそうだったら……」

「はい。しかし、それは仮の話です」

 確かめなければならない。彼がそのような目に遭う前に。

 時計を見ると、もうすぐ宮野の薬科実験の時間だった。二人は机上に並べた資料を片付け始める。

「そういえば、ついに烏丸グループとの抗争が始まったようです」

「そう」

 宮野にはそれしか言えない。もう『灰原哀』の仕事は終わった。手を引くべき所は心得ている。工藤ならばうまくやり遂げるだろう。

 中達もそれ以上は言わず、別の話を切り出してきた。

「それから、貴方に行ってほしい仕事があると、上位委員会から依頼が来ています」

「どんな」

「移動する薬物があるそうなんです。その正体を見極めて、できれば捕獲してほしいと」

「私、銃くらいなら使えるけど、肉体労働は専門外よ」

「承知しています。エージェントを一人つけます。新入りですが、腕が立つと評判ですよ」

 中達は一枚紙を差し出した。宮野は受け取って何気なく目をやり、硬直した。そのまま数秒、紙を凝視したまま微動だにしないので、中達が眉根を寄せて顔を覗き込む。

「宮野博士、どうされました?」

「ど、どうされましたじゃないわよ!」

 宮野は声を荒げて、見ていた紙を彼の前に突き返した

「こ、これは契約違反だわ! 私、工藤君を除いて顔見知りとは十年は仕事に関われないようにしてほしいって契約書に書いたわよね? か、彼は──」

「そのはずはありません」

 中達は宮野の震える手から、紙を取った。そして、自分の鞄からまた別の書類を取り出し、横に並べてみせる。

「彼は貴方の挙げた接触禁止者リストの中に、名前がありません」








8片




 その日の宮野志保は落ち着かなかった。

 サイトー81XXのミーティングルーム36は、宮野の足で十分もない所にある。そこが例のエージェントとの待ち合わせ場所だった。

 彼の情報は、中達にひとしきり見せてもらった。財団に登録するための書類も、戸籍謄本も、写真も確認した。その情報を信じていいならば、宮野志保からは恐れるべき敵が一人減ったということになる。

 ──でも、いくら何でも、タイミングがよすぎるわ。

 宮野は逃げ出したい気分に駆られた。だが、今更どこに逃げるのだ。そもそも自分など別に今更どうなってもいいと思って、それより米花町の友人達のために、この財団に入ったのでは無かったか。常に人類の『未知』と隣り合わせのこの職場ならば、今度こそ『宮野志保』として死ねると思って。

「分かってるわ」

 宮野は独りごちる。理屈では分かっている。だが長かった組織からの逃亡生活は、最早生存本能と強く結びついてしまっていて、理屈抜きで自分を逃げ出したくさせるのだ。

 今度こそ。宮野は気持ちを固め、ミーティングルーム36まで、迷い無い足取りで向かった。

「こんにちは」

 部屋にはとっくに電気が付いていて、腹を括って入室すれば、間違いなく見たことのある顔が笑っていた。癖の無い蜂蜜の髪、鼈甲飴に似たつややかな肌に彫られた顔立ちは柔らかく整っていて、何も知らない女ならばそれこそ見ただけでときめきを覚えるような菓子の如き男である。だが宮野が現在覚えるのは、寒気だけだった。

「バーボン……」

「これが本当に正式な『初めまして』になりますよね?」

 その男は胡散臭いまでに爽やかに笑って、片手を差し出した。

「どうも。私立探偵安室透ことバーボンあらため、公安警察の降谷零です」

 公安警察の、降谷零。

 中達に見せてもらった資料が本当ならば、彼は本当に『降谷零』という名を持っているのだ。そしてこれは他でもない、彼の本当の名なのだ。

「そういうことだったのね」

 差し出された手を見下ろして、呟いた。

「組織の内部情報や、江戸川君や私のことをこの組織にリークしたのは、貴方でしょう」

 バーボンが目を丸くして、手を下ろした。一層幼い印象になった顔を、宮野は睨みつける。

「私が米花町から逃げ出した夜にやけに早く巡査に捕まったのも、財団の人間が私の所にやって来たのも、財団に所属せざるを得なくなったのも、貴方が仕組んだことなんじゃないの?」

「随分、僕の能力を高く見てくれているんですね」

 男は目を細めて、首を横に振った。

「でも、残念ながら違いますよ。確かにあの晩、君の足跡を一番早く捕らえたのは僕だろう。何て言ったってここは日本なんだから。FBIより僕が早くて当然だし、発信器をつけていない、それも他でもない君を、コナン君が追えるはずがない」

 バーボンは組織の中でも穏健派で知られ、どんな相手にも甘ったるい笑顔で丁寧な口調を崩すことが無いと聞いていた。しかし今の彼は、故意かもしれないが、棘交じりの口調で話しているように感じられた。

「けれど、僕が部下を派遣するよりも、僅かに財団の方が手が早かった。彼らはよほど、米花町と工藤君に興味があったようだな。後から僕も所属させてほしいと頼んだら、一も二も無く受け入れてくれたよ」

 そして、もう一度手を差し出した。 

「組織にいた人間というだけで信じられないかもしれないけれど、僕が公安警察だというのは本当だ。証明しようにも、公安に君を連れて行くわけにはいかないから難しいけど──」

「構わないわ」

 宮野はその手を取った。細い外見に反して意外としっかりした手を握りしめて離すと、碧眼が再び丸くなった。宮野は眉をひそめる。

「何でそんなに驚くのよ。手を差し出したのは貴方じゃない」

「いや、だって、君は小さかった頃も本当に警戒して近づかなかったから」

「あら。貴方には、まだ私が小さな女の子に見えているのかしら」

 眉を上げ、首を傾げて顔を覗き込むと、降谷はいやいやと否定した。 

「あの頃は、私がシェリーだとバレれば、周りのみんなに危害が及ぶと思ってたから。今の私は失うものが無い。だからまさに、怖いもの知らずなのよね」

 笑ってやると、降谷は丸くしていた目をようやくもとに戻した。そして何故か、苦笑いを浮かべたのである。

「そうか、困ったな」

「は?」

 半眼になっていたのだろう、降谷は慌てた様子で違うんだと首を振った。

「いや、君の笑顔があんまり先生──ああ、エレーナさんにそっくりだから……」

「え?」

 今度は宮野が目を丸くする番だった。






9片




 移動する薬物はヒトの形をしているらしい。大枠を聞いた宮野と降谷は、対象がよく現れるというクラブに潜入して待つことにした。

 会場に入る前から腹の底に鈍い振動が伝わってきていたが、分厚い扉を抜けた向こうは別世界だった。暴力と等しいレベルで音量が殴りつけてくる、極彩の蛍光色か黒かしかない空間。せわしなくめぐる音楽に合わせて入り混じり、踊り狂う人間たちを見て、宮野は顔を顰めた。

「ああいう中に混じるのは、しんどいわね」

「クラブは初めて?」

「付き合いで来たことはあるわ」

「じゃあ、何か飲もうか」

 降谷の案内で、バーカウンターの隅に腰掛けた。アルコールを入れるのが自然なのだが、業務に差し障りが出るとまずいので、どちらもアルコールに見えそうなノンアルコールのカクテルを頼んだ。マスターは特に訝しげな顔をすることもなく、注文の品だけを届けて他の客の元へ去った。

「外見だけならば、本当に普通の人間と変わらないらしいな」

 降谷が懐から写真を取り出した。髪を黄緑に染めた、痩せて色の黒い男が映っている。

「高揚状態になると、体液がエフェドリンを多く含む麻薬になるなんて、お伽話のような話ね。悲しみの涙が宝石になるお姫様みたいだわ」

「ロマンティックな喩えだけど、宝石と麻薬じゃあだいぶ違うんじゃないかな」

「金になるって点では同じでしょ」

 身も蓋もないと降谷は笑った。グラスを手に取り、薄暗いホールを油断なく監視する横顔を宮野は見つめる。上下黒のスーツにVネックの白シャツというシンプルな服装だが、だからこそ一般で言うところの「素材の良さ」が目立つ。

「貴方、こういう場所にいても全然違和感ないわね」

 視線を戻した降谷は眉を下げる。

「あんまり褒められてる気がしないな」

「褒めてるのよ」

 褐色の肌に金髪という派手な外見をしているのだが、思い返せば不思議と何処にいても浮いて見えた記憶が無い。目を惹く男ではあるのだが、悪目立ちはしないのだ。その場の空気を読み、最適な服装や言動を心がけるのがうまいのだろう。

「私は駄目だわ。浮いてるみたいだもの」

 宮野は総レース仕立ての黒いワンピースを選んできた。あまり目立たない色で露出せず、かと言ってフォーマルにならないものをと思い、肩回りと腕の肘下までをレースのみで覆っているデザインを選んだのだが、ふと周囲を窺った時、妙に他人と目が合うので、最適ではなかったのかもしれない。

 組織の女の気配が滲み出ているのだろうか。黒い服を着ると、無意識にその頃を思い出すことがあるから。

「確かにそうだね」

 降谷は宮野の全身を眺めてそう評した。そつない物言いをする印象だったが、面白いほど素直に認めてくれる。口の端を釣り上げ、首を傾げてみせた。

「組織の女って感じかしら」

「美人過ぎて、安いクラブには似合わないって感じかな」

 前言を撤回する。そつがないにも程がある。

 呆れて何も言えなくなった宮野に向けて、今度は降谷が首を傾げてみせる。

「どうかした? 何か気に入らなそうな顔だね」

「ホント、よく回る口だこと」

「お世辞じゃないよ……って言っても、君は信じないんだろうな」

 苦笑した降谷が座り直す。宮野は体を正面へ向けたまま彼の方を一瞥した。二人の間が僅かに詰まっている。丸椅子一個弱程度だったのが半分程度に。肩と肩が触れ合いそうで、決して触れない、そのくらいに。

「ほら、ここはクラブなんですよ? 馴染みたいなら少しは口説かれてくれないと」

「そういう尤もらしい言い訳で距離を詰める男、好きじゃないの」

「はは、その調子だ」

 快活に笑う。極めて好男子然とした笑顔だが、このようなふざけたやり取りをしながらも、視線はダンスホールの方を絶え間なく窺っているのである。本当に油断できない男だと宮野は感心半分呆れ半分で考えた。

「どうして財団に入ったの」

 男はこちらを見た。口もとは弧を描いているが、目はまっすぐである。直球だなと呟いてから、声を低めた。

「組織もそろそろ潮時だからな。次の身の置き所を考えた方がいいだろ」

「本名で潜入するなんて、秘密主義の貴方のやり方とは思えないわね」

「君には本名を名乗っただけで、周りには伝えてませんよ」

 降谷零だという彼は、基本的に本業らしいドライな口ぶりをしながら、時折安室透の顔を覗かせる。甘ったるくてずっと眺めていたくなる魅力があるけれど、だからこそ決して深入りしてはいけない、踏み入ったら危険だと思わさせられる。

「財団は表に出ることこそない組織だけど、公権力の延長にあるからね。偽名を名乗れば本職でやっていくのに信頼を損なう。かと言って、おおっぴらに本名を名乗れる立場でもないから」

 名乗る必要がなければ名乗らず、必要ならばまだ「安室透」の名を使っている。米花町対策要員として財団に入ったのだ。職務上あの周辺をうろつかざるを得ないならば、下手に新しい名前を作らない方がいいだろう。

 そのようなことを彼は言った。要は仕事をしやすいようにということらしい。

「貴方も工藤君みたいな科学主義者なんだと思ってたけど」

「僕は何にも染まらないと決めているので」

 物腰柔らかく理知的だが、見る者が見れば癖の強い性格だと分かる。だがどのような癖かまでは窺い知れない。その柔らかく甘い態度にまかれてしまう。

 組織のつけたバーボンというコードネームは、数ある彼の名前の中でも、ある意味最も上手く彼の性質を捉えていたのかもしれない。

「僕からすれば、君の方が意外だけど」

「何が」

「米花町から離れたこと。誰にも今の居場所を伝えてないだろう。工藤君や阿笠博士にくらい、何か言っていくのかと思ってたけど」

「言うわけないでしょ」

 宮野は顔を歪めた。

「米花町の特殊存在ファイル、読んだかしら?」

「ああ。君がまとめたのか」

「ええ。前任者のを引き継いでね。貴方は気付いてた?」

「財団と接触して、やっと気付いたくらいかな」

「私はまだ米花町で灰原哀として暮らしてた時に気付いちゃったのよ。歳を取らないのはまだいいとしても、ずっと小学一年生の生活だなんてごめんだわ」

 だからあの街を出ることにしたの、と宮野は言う。

「へえ」

 降谷は眉を持ち上げた。

「本当に?」

「……何が?」

 宮野は男を見つめる。

 聞けば正直に答えると思っているのだろうか。思っていないだろう。自分と同じように。

 烏丸グループにいた者同士が、そんな簡単に情報を与え合うわけがない。あのグループは仕事に関わる最低限の情報以外、互いの情報を漏らすことを全くしなかった。

 それでも財団に入る理由を聞いたのは、読めないこの男の情報を得たいと思ったからだ。嘘だとしても、何もないよりはマシだろう。

 ──あの組織との戦いは始まったばかり。手を抜いていい状況じゃないはずなのに、わざわざここに入った理由がきっとあるはず。

 それが米花町に関わることだったら。

 宮野が黙ったままでいると、降谷が舌打ちした。

「ちっ、来たか」

 一瞬自分のことかと思いかけて、彼の動いた視線を追って得心した。

 戸を開き入って来たのは、黄緑の髪をした男だ。目付き悪くあたりを見た後、ダンスホールの人混みに飛び込んでいく。大股な足取りはゆったりとして、彼を捕らえようと考えている此方に気付いている素振りはない。

 宮野は立ち上がった。

「私が引きつけるわ。あとは打ち合わせ通りで」

 返事を待たずに歩き始める。腕に下げたバッグを抱え直して、移動する目標を見据える。

 宮野のやることは、彼から確かに麻薬が分泌されているかを確かめること。それから実際に高揚している様子を映像として撮ること。ハンドバッグに入ったカメラを起動させて、足早に人混みを縫う。

 目標を目の端に捉えながら、しかし気づかぬふりをして、ハンドバッグを男の身体にぶつけた。

「あっ、ごめんなさい」

 体当たりしようかと思ったのだが、寸前でやめた。男の顔を見上げ、自分の勘が正しかったことを知る。

 ──これは分泌されてる顔だわ。

 ネオンの激しい光が男の顔をてらてらと濡らす。顔に滴る汗の量が普通でない。瞳孔は光に反応せず開きっぱなしで、やたらと唇を舐めている。

 覚醒剤乱用者の反応に似ていた。この状態の男の肌など、服越しでも触りたくない。

「かわいーねぇ」

 男は宮野を見下ろした。目に異様な熱が篭っている。宮野は愛想笑いをして、少しずつ後退りして距離を取る。

「ありがと」

 とどめににっこりと微笑んで、踵を返した。早足に人混みを掻き分けながら、背後を窺えば男が追ってきている。計算通りだ。あとは捕まらないうちに、階段に駆け込むだけ。

 混雑を抜けて階段を上がる。カップルが数組、壁に寄りかかりもたれ合っていたのが、疎ましげに宮野を見た。一段飛ばしで上がっていくその三段後を、男がついてくる。意外に早い、そろそろいいか──宮野がバッグを探って逡巡した間に、男の姿が視界から消えた。

「ぐおっ」

 三階へ上る踊り場で待ち構えていた降谷が、男を投げたのだ。黒い身体は綺麗な弧を描き、二階に落とされた。すぐさま降谷が男を確保し、物陰へと引きずっていく。

 宮野はあとを追った。薄暗い照明、ネオンで数字の記された部屋の居並ぶ廊下で、降谷は男に手錠をかけて猿轡を噛ませていた。

「ちょっと、早すぎない? まだ体液のサンプル取ってないのよ」

「これでいいだろ」

 降谷は男の歯を掴み口をこじ開けた。苦悶の表情を浮かべる男の口の端から涎が流れるのを、宮野は慌ててハンドバッグから取り出した試験管に取った。

「……陽性だわ」

「じゃあ、帰るか」

 降谷はわずかに涎のついた手袋を外してポリ袋に入れた後、換えの手袋を嵌めてから男の襟首を掴み上げた。呻くのを締め上げて落とし、何食わぬ顔で担ぎ上げる。

「見てて気持ちいいほどに力技ね」

 皮肉だったのだが、健全極まりない笑顔が返ってきた。おまけに、ありがとうとまで言われてしまう。

「貴方って、頭脳派なんだと思ってたけど」

「君も科学者ならば知ってるだろう。脳みそだって立派な筋肉だ」

「つまり、普段から全てにおいて力づくってことかしら」

「力がないと世の中は渡っていけないだろう」

 あらかじめ話をつけてあったのだろう。バックヤードは、気絶したガラの悪い男を担ぐ美男子が入ってきて、そのまま通り過ぎていっても、何の反応も見せなかった。店の裏手には既に財団のバンが止まっていて、レベル3の職員が男を運ぶ手伝いをしてくれた。

「志保さん」

 男が先に運び込まれ、後に続くだけの頃になって、降谷が初めて宮野を呼んだ。つい眉間に皺を寄せてしまう。下の名前呼びか。

「次からは、いくら財団の提案であっても、君に囮役をさせないようにする」

「何か問題でもあったかしら」

「見てて肝が冷える」

「失礼ね。私の演技、問題なかったでしょ。ちゃんと引っかかってくれたじゃない」

 子供の頃から演技は得意だったのだ。嘘泣きも無邪気な笑顔も容易くできる。

「それが問題なんだ」

 降谷は大きな溜め息を吐いた。

「君を信用してないわけじゃないんだが、頼むからやめてくれ。財団のオーダーには辻褄を合わせて応えられるようにするから」

「得意の力技で? 脳筋ね」

「人間は誰しも脳筋ですよ。さっきの男も、僕も」

 降谷は手袋を外した。そして、拒む暇も与えずに宮野の髪をかき混ぜた。

「だから君に囮をさせたくないんだ」

 バンに乗り込んでいく背中。宮野はそれを見るともなく見送り、立ち尽くしながら思う。意味が分からない。

 意味が分からなすぎて、今後も共に組むことが前提になっているのにツッコミを入れるのを忘れた。






14片




 志保。

 優しく名を呼ばれて眠りから覚めた。夜に浸った部屋、白く浮き上がる寝具。上から覗き込む碧眼は月明かりを含んで煌めいている。なんて綺麗なんだろうとぼんやり思った。

「何か考えてる?」

「貴方と出会うまでのことを思い出していたの」

 僅かに掠れた声が必要以上に甘くなってしまった気がして、顔を顰めた。しかし男はそんな彼女の照れ隠しも見透しているのか、皺の寄った眉の間に利き手を這わせた。

「列車の方?」

「馬鹿ね。ここでのことよ」

 眉間に落とされるキスが甘すぎて、毒を吐こうとしても毒にできない。どうしたものかと考えているうちに、男はじゃれついてくる。宮野のうなじに鼻先を埋めて甘噛みしながら、締まった腕で彼女の身体を愛でる。くすくす笑って、上がりかけた息を誤魔化した。

「こら、やめなさい」

「その止め方、最高だな」

 彼の声も笑みを含んでいる。背中に感じていた彼の熱量が増した気がして、悪態を吐いた。

「ひねくれてるわね。やめてって言ってるのに」

「お前だってそうだろ」

 男は宮野の顎を掬い上げた。褐色の指が彼女のほっそりとした首筋を伝い、唇をなぞる。

「たまには素直になったらどうなんだ。駄目とかやめろとか言いながらしがみついてくるから、俺だってやめられなくなるんだろ」

「じゃあ離そうかしら」

 知らず彼の腕に添えていた手を外した途端、耳殻に舌を差し込まれた。跳ねてしまう身体を腕が抱き籠める。

「天邪鬼」

「君ほどじゃない」

「嘘吐き」

「はいはい」

 ──どこまでが嘘なの。

 つい聞きたくなってしまう。

 この戯れの一つひとつが冗談なのか、そもそもここに来た理由から全て嘘なのか。

 彼とこの組織で過ごして二年が経つ。はたして彼の言うとおり仕事を共に組む回数は増えて、最近では隊を同じにするまでに至っている。一緒に任務に出ないことは無いと言っても過言では無い。

 共に過ごすうちに距離が縮まって、身体は重なったけれど、心の方は分からない。そんなつもりなど無かったのに睦まじい仲になってしまった、そんな自分の心の行方さえ読めないのだから、他人の、しかも前の組織の頃から秘密主義と呼ばれていた彼の心など分かるわけがない。

 だが、気になるものは気になる。

 仰向けになる身体に彼がのしかかってくる。月影をこれだけ綺麗に纏えるヒトを、宮野は他に知らない。甘い顔立ちが引き締まる、涼やかな湖面に似た瞳が沸き立つように烟る、その様を見ていられなくて目を逸らした。

「そんな顔しないで」

 男が問う。

「どんな顔してる?」

 何と言い表したらいいんだろう。触れ合った肌が熱い。

 ──私、知ってるのよ。貴方、最初の頃すごく疲れてたでしょ。しばらく来なくて、かと思うとここに来て、たまに倒れるようにして部屋で寝てた。

 ──ただ次の身の置き所だけを考えてる人は、わざわざそこまでしないんじゃないかしら。

 私は知っている。

「欲求不満って顔」

 天邪鬼、と彼が言った。






15片




 オブジェクト81か_4869こと「東京都米花市米花町」は、財団内においてしばしば「欲望の街」「犯罪者の眠れぬ街」と呼ばれる。これは米花町が、現在「この場所にいる人間が罪を犯したくなる」性質を帯びているためだ。

 その威力は年々増す一方で、今では米花町が日本の犯罪発生率を操っているといっても過言ではなく、さらに、外部にいる凶悪な犯罪者が引き寄せられて大惨事を起こしに来ることさえある。大抵の事件は米花長に入った途端「解決」することが多いのだが──大事件発生から解決するまでが米花町のセオリーなのだ──可能ならば、事件が起きて被害が出るのを未然に防ぎたい。

 そんなわけで財団に設立されたのが宮野達、対米花町専門機動部隊『彼の人』だった。

「どの辺りを張りますか」

 ミーティングルーム36。卓上に広げた米花町付近の地図を、風見が指差す。降谷がキャップを取っていないペンで見えない線を描く。

「公安にうまく回して、街の境を巡視してもらおう。侵入されてもすぐに報告が来る」

「駄目よ」

 宮野が首を横に振った。

「巡視してもらうのはいいけど、街の外を守らせて、侵入を許さないようにした方がいいわ」

「何故ですか」

 尋ねた風見に、宮野は肩を竦めた。

「今は春でしょう。米花町の特性を忘れた? この時期に大規模な爆発物を扱える要注意団体が米花町に入ると、七十八%の確率で建築物が爆発するのよ」

「改めて言われると、本当に酷い街だな」

「全くです」

 公安の二人は顔を顰めた。宮野は言う。

「私達三人とも、あの街に住んでたのよ」

「風見は現在もだな」

「酷いですよ降谷さん。何で自分だけ、まだあそこをメインに勤務し続けることになってるんですか」

「俺は米花町で顔が知られすぎたから」

「この人は今行くと痴情のもつれで刺されるかもしれないけど、風見さんは存在強度が高いから大丈夫でしょう。観覧車が崩壊しても余裕で寝てたもの」

「志保さん」

「宮野さん」

 物言いたげな二つの呼びかけを無視し、宮野は地図を覗き込んで小首を傾げる。

「守り方は貴方達にお任せするけど、問題は倭済隊をどうやって迎え撃つかよね」

「風見、奴らの動向はどうなっている」

「浅間神社に詣でているようです」

「富士講か。ならまだ何日か様子を伺えるな」

 まずは、と降谷は指を立てた。

「トップを狙うのが一番だ」






16片




 久しぶりの米花町は、以前と変わらぬ和やかな空気に包まれている。商店街には平たいのんきな歓声を上げて子供が走り回っており、それを激しく責める苛立った人間も今のところはいない。現れたらそれは事件の兆候だ。更にどこかに高校生探偵本人か縁者が見えたら、完璧にフラグだ。

 商店街の裏にある廃ビルの一角から、降谷は外の様子を窺っている。この商店街の終わり、その向こうに見える道路の先が米花町と隣町の境だ。道の向こうには、一般人に扮した公安の仲間の姿が見える。

「降谷さん、お疲れ様です」

「ああ」

 ビニール袋片手に風見がやってきた。差し入れです、と差し出したその中には菓子パンが入っている。受け取り、双眼鏡を置いて食べ始める。

「倭済隊の一団が杯戸町で目撃されたようです。それと他の隣町でも隊員が目撃されています」

「やはり今日動いたか」

 要注意団体ホ「倭国済世大隊」。資本主義の奴隷となり、金のもとに堕ちた日本を滅ぼし、いにしえの倭国の頃の如き神権国家を取り戻そうという思想のもとに動く組織である。だが肝心の「神」の中身はいい加減で、国家神道やらヒンズー教やら得体の知れない思想やらが混ざり込んだ信仰は、はっきり言って信じる方がどうかしているという内容のものだ。だが教祖が国外で何度もテロを首謀する共産主義者であり、彼が布教のための使用する道具が自然法則に反する上に危険な代物であるため、財団は彼らを危険視しているのである。

「亦土の姿は」

「いえ、まだ所在が確認できません」

「奴さえ抑えられれば、倭済隊の持つ生物兵器どもも動かさずに済むから有難いんだが」

 倭済隊リーダー・亦土恭順の捕縛が今回の第一目標である。それができれば倭済隊は壊滅状態になり、彼らの作り出した生物兵器も確保できる。

「人間が生物兵器を生み出すなんて、フィクションの世界にしかないと思っていたんだがな。この組織に入ってから、驚くことばかりだ」

「降谷さんは、よく驚く程度で済みますね。俺は世界をひっくり返された気分です。常識が分からなくなる」

 風見があんパンを囓りながら言う。降谷の口角が上がる。

「お前は真面目すぎるんだ、風見。常識は社会の大多数の人間が持つ情報だというだけだ。俺達はただ国家の安全のために、仕入れた情報をうまく回していればいい」

「貴方の割り切りっぷりが、たまに怖くなりますよ」

 苦々しげな表情が、ビル外に向く。

「俺は今でもよく分かりません。この町が……米花町が、工藤新一に合わせて時を止めていたなんて」

 風見は過去形で言い表した。現在、米花町の時は動いている。西暦は■■■■年から順調に二年プラスされて、風見も降谷も二歳年を取った。工藤新一の身体が小学生から十七歳に戻り、現在十九歳になったのと同様に。

「分かろうとする必要なんてない」

 今把握しておくべきは「工藤新一の身体が幼児化した■■■■年が、彼が幼児化している間は終わらなかった」「工藤新一が十七歳に戻った年に、■■■■+1年になった」「その間、それが異常だと気付く人間はいなかった」というデータがあることだ。それを自分が信じるとか、理解するとか、そういうことは二の次である。

「宮野さんは、教団の人間の身体データをさらって、米花町の外の世界も二十年以上にも及ぶ■■■■年を繰り返していたことを確かめたと言ってましたが、本当でしょうか」

「彼女は根っからの学者だ。データに嘘を吐かせるわけがない」

 ──天邪鬼。

 ──嘘吐き。

 ふと、昨夜彼女の吐いた言葉を思い出した。彼女の毒は後になって効いてくる。あの少しハスキーな声で囁かれる罵り言葉は、甘く降谷の耳朶に留まって、ふとした時に体中を巡り、彼女を覚えた心を熱くさせる。

 宮野志保。APTX4869の開発により間接的に工藤の時を止め、世界を止めた女。そのことに気付いて自ら彼と世界の時を動かした女。

 そして、再び動き出した世界の中で一人、命を絶とうとした女。

「こういう、その、『変な』ものに関わってきた財団の人間は時間と米花町と工藤新一の異変に気付いていたようでしたが、何故財団に関わっていたわけでもない彼女だけが、異常に気付けたのでしょう」

 宮野の以前話したことによると、彼女は『灰原哀』であった頃に異常に気付いたのだという。言うなれば、彼女自身も時を止められた人間だったはずなのだ。

「他の時の止まった人間達が気付かなかったのに、彼女が気付いたのは、やはり遠因となった薬の開発者だからなのでしょうか」

 考え込む風見は、やはり真面目である。彼は降谷と違って、未知のものを自分の世界観に落とし込んで、納得しないと気が済まないのだ。

「俺は学者でも何でも無い。だが、多少思うところはある」

 聞くかと尋ねると、風見は頷いた。

「認識というのは五感によって物事を捉えることを言う。俺達が日常的にしていることだ。五感を駆使して得た情報を信じて自分の置かれた環境を把握する。だがそれは逆に、環境によって、俺達は支配されているとも考えられる」

 たとえば、と降谷は部下を指した。

「運転している時、信号が赤から青になったらどうする」

「アクセルを踏みます」

「何故アクセルを踏むんだ」

「道路交通法に従っているからです。青信号になったら、車は周囲の安全に気をつけて進まなければならない」

「そうだ。それが認識によって引き起こされた、環境が自己を支配するということだ。お前は誰かの作った『信号が青く光ったらアクセルを踏むべき』という情報に支配されている」

 だからお前の言う「常識」というのも、一種の認識による支配だ。

 降谷は外を監視しつつ、説明を続ける。

「さらに、財団の問題視するものとして認識災害とミーム災害というのがある。さきほどの認識の話が、があまり一般的で無い、いわゆる『異常な』情報に支配されるようになると認識災害と呼ばれるものになるらしい。たとえば、アーモンドの香りがするものと言えば何だ」

「青酸カリですか」

「アーモンドチョコレートじゃ駄目なのか」

「え? 普通、アーモンド臭といえば毒物のことじゃ」

「青酸カリを用いた殺人に遭わない人間は、一般的にそうは認識しない。立派に認識災害にかかっているな」

「ええっ」

 風見は眉を下げた。なんだか知らないうちに自分を変えられていたと知らされるのは、気味が悪い。一方の降谷は片眉を上げる。

「そんなに悲しそうな顔をするな。どんな人間も五感がある以上、周囲からの影響は免れられないし、認識災害のような形になっていることも多い。普通に暮らす分には問題ないさ。俺のように、ただの私立探偵やら秘密結社の人間やらになりきらなければならない場合は別だがな。それより問題はミーム災害の方だ」

 ここからが本題らしい。風見は身を乗り出した。

「ミーム災害というのはヒトの思考・行動に異常な影響を及ぼすものを拡散することだ。あることを知ることによって、知らずに行動様式を変えられてしまう。このミーム災害オブジェクトは、志保を財団に引き入れた中達博士のような人間が中心となって、財団内へ積極的に収容しているらしい」

「どんなものがあるんですか」

「知るわけないだろう。知った途端に感染するのがミーム災害の恐ろしいところだ。異常な認識を植え付けられて記憶処理されたくなければ、下手に知ろうとしない方がいい。で、ここからが俺の推論なんだが」

 顔の向きを一瞬こちらへ戻る。商店街を映していた降谷の目にちらりと、潜伏する部屋の陰がよぎった。

「『自分は謎を解いて無事元の身体に戻り、米花町へ帰ってくる』という工藤新一の認識が、米花町全体にミーム的な認識災害を引き起こしていたんじゃないだろうか」

「……え?」

「『元の身体』というのは『薬を飲まされた当時の十七歳の身体』を指す。その身体で元通り米花町に戻るためには、周囲も工藤新一が十七歳であった時点から進んでいてはいけない。だから時は進まなかった」

 風見はぽかんと口を開けている。上司がおかしくなったと思っているのだろう。だから推論だと言っているだろ、と窘めた。

「プラシーボ効果というのを聞いたことがあるか」

「偽薬で知られるあれですか。強く信じ込むことで、その効果が現れるという」

「そうだ。それに似ていると思ってくれ」

 降谷は視線を元に戻した。

「俺だって何も本気で言ってるわけじゃない。ただ、真偽なんてものは置いておいて、自分の集めた情報を集めてできた説を述べているだけだ。それを忘れるなよ」

「すいません」

「話型オブジェクトというのがある。ある似たストーリーの物語が、何の関連性もないはずの複数の地域に散見する。ユングの深層意識、無意識に関する説によく似ているな。財団はそれを認識災害として捉えている。たとえば『シンデレラ』を知っている女の子が、シンデレラに白馬の王子が現れたように、自分もいつか運命の相手が来るものだと信じたり、逆に男が好きな女に対して、彼女をシンデレラのようなものだと思い込んだりする。これも一種の認識災害だ、と」

「はあ」

「名探偵モノもそうだな。人の偽りを暴く賢い人間の話は、全国各地に見られる。だから前提として、この世界には『犯罪者と名探偵』という認識災害が人類全体にかかっているものとしよう」

 そこに、強い認識災害を持つ工藤新一が加わったらどうなるだろうか。

「工藤君は幼い頃からシャーロックホームズに憧れて、彼のように謎を解き明かす名探偵になりたいと望み、その手法を本気で信じて実践している。一方一般人には『犯罪者と名探偵』という認識災害があるから、名探偵的な存在が現れたら、自分は犯人的な行動を取ってしまう、もしくは名探偵の推理ショーを見守る読者になってしまう」

「え、え? ということは」

 風見は唾を飲み込んだ。

「工藤新一が『謎の組織の薬によって幼児化してしまったという謎』を解くのを、周囲は知らないまでも、無意識下で待っていたと?」

「飲み込みがいいな」

 降谷は微笑んだ。しかし風見は頭を抱え込む。

「冗談じゃない……そんな、要は、思い込みですよね? その程度のことで、全世界の人間の時が止まるものか」

「いや、分からないぞ。時間の実在は確認しようがないが、物質が思い込みによって変化するという例は聞くだろう。お前の好きな『常識』的な科学でも、ノーシーボ効果というのがある」

 この薬には悪い副作用があると言うと、その悪い作用が強力に出ることがある。自分は失血死するのだと信じ込まされた人間が、大した出血もしていないのに本当に死んでしまったという都市伝説がある。

 絶対ではないが、事実で無いとも言い切れない。

「工藤君のあれは、現実を思うがままに歪めてしまう現実改変能力ではない。それならば、工藤君の思うがままに『謎』はとっくに解けているはずだ。今回の件は、全国的に有名な高校生探偵である彼だからこそ起きた、大規模なミーム的認識災害だったんだろう」

「じゃあ、その中で宮野さんが異変に気付いて『謎』を解けたのは何故です? その話だと、『謎』は名探偵にしか解けないはずです」

「それは決まっている」

 降谷は目を細めた。

「彼女が『灰原哀』だったからだ」

「はい?」

「おっと、続きは後だな」

 商店街の向こうを映した碧眼が鈍く輝いた。

「ターゲットが現れたようだ」

 道路のあちら側に、古い歩道橋がある。その中心に、陣羽織の男が立っている。

 風見は双眼鏡で男を見た。額に締めたはちまきに「倭国済世」と記されている。降谷が無線機を取る。

「こちら米花町西、降谷。亦土を確認した。九班は確保に走れ。その他総員、警戒しろ」

 指示を受け、商店街周辺の仲間達が動き出す。オープンテラスでPCを広げていたサラリーマン風の部下が、身支度をして店を出る。ティッシュ配りをしていた部下が、大量のティッシュが入った袋を抱えてその場を離れる。大学生風の二人の部下が喋りながらやってきて、歩道橋下で立ち話を始める。

 サラリーマン擬きとティッシュ配りが、それぞれ反対から歩道橋を上る。亦土は歩道橋の中央に立ち、商店街を見つめたまま微動だにしない。

「亦土恭順さんですか」

 先にサラリーマン擬きが話しかける。電源を入れたままの無線機が彼の声を拾い、彼の胸ポケットについたボールペン型小型カメラが、振り向いた亦土の顔を映した。その映像が風見の手元のノートPCにも届く。尖った顎の輪郭に線の細い顔のパーツが、ノーブルな印象をもたらしている。

「何か」

 淡泊に答える。サラリーマンはジャケット内から手帳を出した。

「公安警察です。調査にご協力いただきたい。同行願えますか」

 亦土は踵を返した。背後で待機していたティッシュ配り風の部下が詰め寄り、その腕を掴む。捕らえた、と風見が思ったのも束の間、亦土は羽織を脱ぎ捨てて歩道橋から飛び降りた。

「くそッ」

 テロリストは何事も無く着地して駆け出した。歩道橋上の二人が手すりから身を乗り出し、下で待機していた二人に追うよう叫ぶ。大学生のふりをしていた二人は、叫ぶ声を背中に受けて既に走り出している。

『交渉失敗。追います』

「ああ」

「降谷さん、応援を出しますか」

「待て」

 自身の無線を取りかけた風見は手を止めた。降谷は窓の外を見ていた。

「どうしたんです。ここの警備が手薄になってしまいます」

「分かっている。だが、あの亦土は怪しい」

 風見は目を瞬いて、ノートPCを確認する。

「偽者だということですか。しかし、顔認証は本人だと」

「最近は外見なんてほとんどあてにならない。変装技術が向上しているからな」

 降谷はどこか苦さを感じさせる口調で言った。

「倭国済世隊は、トップである亦土が最初に姿を現して演説をかましてから、派手に事を起こすのが常だった。だが、今回のように逃げたことは一度も無い。あれは恐らくフェイクだ。本当の仕掛けが来る」

 米花町へ入るためのルートは、公共交通網か徒歩しかない。鉄道とバスには捜査員を派遣してあり、異常は無いと報告を受けている。

 何故わざわざ逃げた。攪乱するならば、お得意の道具使いでどうにかなるはず。

 ──亦土は目立ちたがりだ。それがあんな形で逃げるのは。

 碧空を映した瞳に、陰が映り込む。つと眦が開いた。

「やはり」

 顔を跳ね上げた降谷が無線を離し、別の携帯電話を手に取る。

「情報本部へ、機動部隊『彼の人』安室より。米花町上空の情報を要求します」

「いったい何が」

 風見も窓から上空を仰ぐ。なんてことも無い。いつものように、開店した店のバルーンやら日売テレビのヘリコプターが飛んでいるだけだ。

 いや。風見は両眼を眇め、刹那見開いた。

 空からバルーンが降りてくる。

「馬鹿な……」

 淡い空色をしたバルーン達が、雲の中からゆっくりと落ちている。風見は双眼鏡を使う。ただのバルーンではない。バルーンのような、何か。空色のつやつやした球体。

「風見、総員待避だ」

「え」

「防護マスクを着用して、安全なところに逃げてから防護服を着用して待機するよう指示しろ。早く!」

 風見は急いで言われたままに指示を出す。一方降谷は携帯電話を握りしめ、空を見上げて通話する。

「未知のオブジェクト、数五十五、間違いありません。解析と、航空警備収容部隊に応援要請をお願いします。航空映像を僕のアドレスへ。はい」

 電話を床に置き、脇に置いてあった鞄を開け始める。その背中に風見は話しかける。

「あれは何なんです」

「分からんが、倭済隊の生物兵器である可能性が高い」

 手際よく鞄からモノを取り出しながら説明する。

「地上に警戒網を張っておけば上空に逃げるだろうとは思ったが、予想していたよりも財団情報部での視認が難しかったようだ。きっと奴らも想定していて、対策を考えながら開発したんだろう。ここ数日の旧基地の稼働跡はそういうことだ」

 風見は呆気に取られて上司の背中を眺める。

「最初からそのつもりだったんですか」

「地上戦で済めばいいと思っていたが、準備はしておくに越したことはないだろ。荷物を一つにまとめて、最低限必要なものは身につけておけ。あとマスクをつけろ」

 電話が鳴ったのを、降谷が直ちに取る。風見は言われたように、降谷の手元にあるモノを除いた少ない荷物を一つにまとめて、鞄に入れていた防護マスクをかぶった。

「はい。承知しました」

 しばらく黙って指示を聞いていた降谷が、相槌を一つだけ打って電話を切った。

「支度ができたなら伏せておけ」

「はい。あの、何を」

「見れば分かるだろう」

 降谷は振り返った。その身体の向こうにあるのは、黒い直線状のパーツの連なり。デザイン自体は見たことのないものだが、空を向いているまっすぐな筒がこの「モノ」の正体を語っている。

「な、な……ッ」

「破壊命令が出た」

 開いた口が塞がらない。いつ準備したのか、サングラスを着けた降谷がにやりと笑った。

「財団とっておきの『対物ライフル』だ。財団は話が分かって助かる」

「どこが『ライフル』ですか! それ、携帯式防空ミサイ──」

 風見のツッコミは、轟音で中断せざるを得なくなった。降谷が待たずに発射したのだ。最早ロケットだろうと思わせる砲弾が、空色の塊の一つに命中した。塊は爆発し、塵となって吹き飛んだ。

 降谷は次々と照準を合わせて発射する。通常これほどに早く次弾を装填、発射はできないものだろうが、「財団とっておき」ということは普通のものではないということだろう。空に閃光が幾度も瞬き、轟音が響く。

 ──米花町の春だな。

 風見は思った。普段冷静な上司でさえ、米花町に入った途端に武力で勝負する事に対して躊躇いが無くなる。見ろ、このミサイルに集中する顔を。少年そのものじゃないか。

 日本のゴッサムシティ、米花町。この町は入った者の欲望を掻き立てる。

 ──降谷さんは、ストレスでも溜まってるのかもしれない。

 この戦いを生き延びられたら、何か上司孝行をしよう。風見は花火よろしく炸裂する空と煌めく上司の顔を眺めながら、そんなことを考えた。

「くそ、間に合うか」

 碧眼が翳った。風見は視線の先を追った。空色の球体は大分破壊されている。だがまだあと残り十個──その表面に、何か浮き出ている。

 網目のような、黒い筋。

「血管?」

「そうだ、あれは卵だ」

 降谷は撃つ。また一つ、球が破裂した。

「奴らの作った生物兵器が生まれるらしい──っと、航空警備隊だ」

 空の彼方からヘリコプターが一機現れ、球を撃ち始めた。

 残り四。

 三。

 二。

 一。

「あっ」

 風見は声を上げた。降谷が撃つ直前、残り一つの卵にヒビが入ったのだ。降谷が破壊し、何を逃れたかに思えたが。

「一つ、孵ったか」

 爆発した陰から一つ、何かがずるりと地上へ落ちていくのが見えた。

 降谷は『対物ライフル』を風見に押しつけ、サングラスを跳ね上げて駆け出す。

「行くぞ風見! 車を回してくるからこいつを運んで積め」

「えっ、ま、待ってください降谷さん!」

 腕にのしかかる超重量級の武器にあたふたしているうちに、降谷は部屋を飛び出して階段を降りていく。風見はヒイヒイ言いながら『ライフル』を背負い、一階まで降りた。

 降谷は本当にRX-7をつけて待っていた。風見から『ライフル』をひょいと──本当に、羽根でも拾い上げるかのような軽さで──取り上げると、後部座席に放り込んで運転席に乗った。風見が助手席に着くと、すぐ発車した。

「降谷さん、町の境の警備はいいんですか」

「財団の航空警備隊がサポートに入るから大丈夫だ。各班の長には、何かあったら連絡するように伝えてある。それより風見、眼鏡は大丈夫か?」

「ええ、まあ」

 風見はマスクを外して眼鏡を確認する。何故上司はそんなことを聞くのだろう。

「その眼鏡の右レンズ角を押してみろ」

「え、はい」

 風見は押してみた。端から見て普通の縁のように思っていたそこに、スイッチがあった。押した途端、右レンズに何かレーダー測定画面のようなものが映し出された。

「これ、何ですか」

「特定の対象の反応を拾える」

「いやそういうことじゃなくて」

 赤信号で止まるタイミングで、降谷はレンズを覗き込み、眉根を寄せた。

「困ったな。今日は一日警視庁に詰めているはずの工藤君が戻って来ようとしている。その黄色い点滅がそうなんだ。名探偵が来る前にあの生まれたものを収容して、亦土を捕らえないと、米花町と工藤君の事案ファイルだけが増えて、倭済隊財団の正確なデータが取れなくなってしまう。急ぐぞ」

「あんた、他人の眼鏡に何してるんですか!?」

「コナン君の特殊グッズが便利そうだったから、志保に模造品を作ってもらった。機械工学には詳しくないとは言っていたが、十分だな」

「俺のめが、ねぁあああああ」

 叫びは途中で悲鳴に変わった。RX-7が白い風と化そうとしていた。

 ──これだから米花町は。






17片




「彼女を欺くような真似をして、本当にいいんですか」

 風見が尋ねる。外の景色が霞みながら過ぎていく。

「ああ」

 宮野には倭済隊が来襲する日は明日だろうと告げてあるため、今頃サイト-81XXにいるはずだ。今日片をつけてしまえれば、米花町に彼女が来る必要もなくなる。

 彼女は米花町の見知った人間に会うことを恐れていた。その意思を尊重し、彼女を守りたい。

 そう風見に説明すると、分かりましたとだけ返された。風見は敏い。踏み込むべきでないところは見分けて、踏み込んで来ない。

 だがきっと、本当は疑問に思っているはずだ。

 ──俺の志保に対する言動は、国の秩序を守る人間の行動基準に沿っていない。

 公安警察という本業の一環として烏丸グループに所属して、またその一環で毛利小五郎の周辺で私立探偵兼喫茶アルバイトとして働いて、よくそんなに同時にこなせるものだと言われてきた。だが降谷には、無理を抱えながら複数の物事をこなしているという感覚は無い。人間は自分の目標や願望、あるいは快適さなどの観点から自らのいる場によって言動を変える。同様に、降谷はいつだって国を守るという目的のために動いている。喫茶ポアロにいようがベルモットを乗せた車を操っていようが本庁で缶詰になっていようが、基本となる部分は変わりない。

 ただ、宮野志保の件だけは、どう消化したものか迷っている。

 彼女が阿笠邸を脱走したと知ったのは、赤井を通じてだった。常のように工藤邸を観察し、奴の身の回りを探ろうとあの家の辺りを通りかかった時、阿笠博士があの家のドアを叩くのを見た。出てきた奴の顔色が変わり、すぐさま誰かに連絡をするような話をしていたと思ったら、じきに顔面蒼白になった工藤新一が駆け込んできたのには驚いた。組織の恐れる男二人が揃い、しかも動揺するなど珍しすぎて、もしや降谷の隠れて観察していることを知っていて演技しているのでは無いかと疑ったのだが、話を盗み聞くうちに、真偽を見破るどころではないと悟った。

 阿笠邸に匿われていた宮野志保が脱走した。家にあった彼女の物は全て処分されており、財布だけが無くなっていたという。

 会話を聞く中で、隠されていた様々なことを知った。だがそれより、彼女を確保しなければという気にさせられた。金を持ち出したのは足に必要だからだ。幸い工藤邸の観察のために仕込んでいた捜査員が彼女の阿笠邸を出た時間と服装を把握していたので、周辺の監視カメラをさらって移動手段を絞り込み、行き先を割り出した。

 工藤邸を部下に任せ、自ら彼女のいる場所に飛んだ時には、すでに彼女はいなかった。だが、所轄の巡査の話から彼女を連れて行った人間はすぐに分かった。幸い「こちら」側に近い、「特殊存在保護財団」──異常な存在や物質の抑え込みを目的とする、国際社会における主要各国に活動を委任された団体に保護されていた。

 財団の存在だけは知っていた。公安のような仕事に就いていると不可解な事件に出会うことも多く、その状況でよく現れたのがこの特殊存在保護財団だった。上層部も彼が出てくることを知ると、降谷らに撤収を指示した。国にパイプを持つ、政府に等しい権力を持つ組織なのだと聞いていた。

 国と繋がっているならば話は早い。降谷は彼らに接触した。財団は各国にエージェントと呼ばれる調査員を持っている。公的機関、民間問わず存在するエージェント達は、市井にとって脅威となる異常存在を財団に報告し、捕獲収容に結びつける、財団の目や耳、手足のようなものだ。公安警察の手足があってもいいだろうと提案すると、案外あっさり受け入れられた。公安には、烏丸グループ崩壊に備えて次の隠れ蓑が必要、かつ国の治安を把握する上で新しい視点が必要だからだと説明した。こちらも容易く納得したので、降谷は内心笑ってしまった。こうも新しいことを簡単に受け入れる。やましいところを抱えているのは公安も財団も一緒なのだろう。

 こうして降谷の所属する組織がまた一つ増えた。予想通り、財団という組織は烏丸グループと違った方向性でやばい。正規の団体なのだが、元死刑囚を未知の事物について知るための実験に利用したり、異常存在に関わった人間の記憶を本人の承認なしで変えたりしている。国家権力を味方につけているという点では、烏丸グループよりタチが悪いかもしれない。

 だからといって不満に思っているわけではない。その可能性を承知で入ったのだ。更に財団は国際組織だからか働き方にもフラットで、言いつけられたことをこなし、異常存在について報告していれば、十分な報酬に加えて寝食の場まで提供してもらえる。公安、烏丸と三足の草鞋──さすがに途中で喫茶のバイトはやめた──の降谷にとっては、有難い労働環境である。

 それでも最初の頃は体力的にきつかった。組織の呼びかけに応じないとせっかくのコードネーム持ちとしての立場を生かせなくなるし、本業の視点からも彼らの動向を見逃すわけにはいかなかった。しかし、彼女のことを他の部下に任せる気にもならなかった。

 何故か。降谷が満足できなかったからだ。

 それは何故か。

 何故ここまでするのか。それが降谷自身にも分からない。

 赤井や工藤への対抗心。組織からの保護。初恋の人の記憶。守るべき国民。自分と同じ混血の人間。優れた能力を持つ美人。尤もらしい理由などいくらでも考えつく。嘘だとか真だとかそんなことを考えるまでもなく、ただ欲しい結末を得るための方便を思いつくのばかり上手いのが自分という人間である。

 だから、動機なんて二の次だ。

 確かなのは、彼女を守りたいという欲求だけ。

「気付かなければいいのですが」

 結構な騒ぎになっていたら気付かれそうです、と風見が言う。降谷は喉の奥で笑った。

「五分五分だな」

「そうですか」

「気付いたとしてもいいさ」

 裏切りを罵られようと、蔑まれようと、失望されようと、気兼ねされようと、構わない。親しくなった感触はあるが、そもそも信頼だってされているのかどうか。

「あの子が生きているならいい」

 ──ならば米花町に連れてくるくらい、しても良かったんじゃないか。

 命の危険があるから駄目だ。

 ──お前が守ってやればいい。

 彼女は俺に、守られたがるだろうか。

「何故、彼女は米花町との縁を切りたがるのでしょう」

 風見が問う。

「この町にはいい思い出があった様子でした。なのに何故飛び出したのか」

「大事だからだろ」

 前方を見据え、答える。

「志保は、大切なものほど自分から遠ざけたがる。過去がそうさせるのか、別のもののせいなのか、そればかりは本人でないと分からないが、米花町を出る前から、自分には危険が降りかかるべきだと思うところがあって、それが誤って周囲にもたらされるのを恐れる傾向があった」

 自分が危険な時ほど、人を遠ざけたがった。そのくせ、震えるほど怯えていた。

 降谷は恐らく、彼女の行動の理由を知っている。だがそれは他人に教えるものではないと考えている。

「この辺りだったはずだ」

 降谷は車を停めた。オフィス街にはまるで何事も無かったかのようにビジネスマンが行き交っている。助手席を降りた風見も、信じられないと首を横に振った。

「先程の物体は確かにここに落ちたはずです。情報部から送られてきた航空写真も、この場所を示しています」

「ならば、落ちてきたものはかなり厄介だな」

「はい?」

 訝しがる風見に、周囲への警戒を怠らないまま降谷が説く。

「少なくとも人並み以上に知能がある。普通にしていては俺達に捕まると思って、姿をくらましたんだ。さらに倭済隊の手口を考えると、このまま大人しくしているものを産み落としたとも考えられない」

 降谷は己の財団用端末を開く。そこには情報部から送られてきた、卵から問題のものが生まれた瞬間の映像が届いている。

 卵がひび割れる瞬間までコマ送りをして、そこからスローモーションで再生した。

「これは、人間ですか」

 隣で画面を覗き込む風見が声を上げる。確かに、空色の卵から崩れるようにして落ちたものは肌色の四肢を持っているように見える。人間に似ている。

 いや。さらに降谷は映像を拡大した。

「亦土、恭順」

「え?」

「ほら」

 褐色の指が差し示した画面に、落ちる人間の顔が大きく映し出される。先程歩道橋の上から逃亡した男と瓜二つだった。

「しかも、こうだ」

 風見は口元を押さえた。落ちていく亦土が、細胞片が剥がれるように分裂する。その分裂した一つひとつが膨らみ、またそっくりな亦土恭順の姿になる。

 それも、皆歩道橋の上で見たのと同じ服装をしている。

「あいつ、遊んでますね」

「なるほどな。こちらを攪乱しつつ、暴れるつもりか」

 降谷は納得する。先日見たグミビーンズの工場は、オリジナル兵器の複製を専門とした製造場だった。このためだったのだ。

「どうするんです。かなりの数の複製体が、この近辺にいるということですよ。どうやって対処するんですか」

 風見は苦り切った様子である。降谷は端末の動画再生を終えた。

「まあ、そう慌てるな。シンプルに考えればいい」

「どういうことです」

 降谷は財団用の端末でコールする。

「情報部、航空部隊、応答願います。例の未知オブジェクトの落ちた辺りを中心に、亦土恭順の姿をした人間の位置を全て割り出してください。割り出したらこちらにデータをください。一般人が収容に巻き込まれないよう、公安警察に避難誘導をさせます」

 電話の向こうは了承したようで、すぐ通話は切れた。降谷は車に再度乗り込み、PCを開く。データが送られて来たのを見て、片方の口角を上げる。

「亦土の奴、墓穴を掘ったな」

「何故です」

「これを見てみろ」

 PC画面を指し示す。この辺りを中心とした米花町の地図だ。まじまじと見ていた風見は目を丸くした。この近辺に赤い点が集中して、数多明滅しているのだが。

「あれ。やけに離れたところに点が二つ、ありますね」

「そうだな。これが恐らく、本物の亦土だ」  

 降谷は片方を指した。

「何故そう言い切れるんです」

「近くに発電所があるだろう。奴は電力を確保したいはずだからな」

 倭済隊はそもそも自然法則に反した機械兵器の開発に優れていた『鬼天烈絡繰リ団』の派生団体だ。機械兵器がお手の物であるならば、大規模な破壊をするために電力源を確保したいはずだ。

「それに春の米花町に来た犯罪者が、簡単な生物兵器による攪乱だけで終わらせようとするわけがない」

「何なんですか、この町」

 ぼやく風見を放って、降谷は送られてきたデータの続きを見ている。

「エセ亦土の中身は、爆弾だそうだ。処理班に任せて、俺達は発電所に向かおう」

 言うやいなや、発車する。法定速度を無視した速度を叩き出した車は、普通ならば三十分はかかる道のりを十分で走り抜けて、発電所に辿り着いた。

 車を降りた降谷と風見は、すぐに目配せをし合う。この辺りは住宅街のはずなのに、やけに静かなのだ。

「住人待避ができるように指示を出しておけ」

 指示を受けた風見が連絡を取る間に、降谷は先に発電所へ入る。入ってみると誰の姿も無い。発電所が留守なんてことがあるだろうか。

 拳銃を抜き、奥へ進もうとした降谷の足が止まった。

 後から来た風見は小声で呼びかけようとして、上司の視線に気付いた。受付の先に何かいる。

 その「何か」が動いた。ギチリ、と金属質な音がした

「あ……」

 風見の口から小さく声が漏れた。

 「何か」がこちらへやって来る。配線の軋む音と、オイルの油くさい匂いをまき散らしながら、そいつが姿を現した。

 人型をした巨大なロボットである。背は二メートルを超え、太い手足には絡みつく龍が、顔には太陰対極図が彫られている。

「亦土恭順か」

 降谷が言うと、ロボットは歯を剥き出して笑った。風見は目を疑う。

 言われてみれば、頭部となっている太陰対極図の下に、ヒトの顎が見える。その形が、先程まで見てきた細い顎と全く同じなのだ。

 機械人間になったのか。風見は目眩がした。理解の範疇を超えている。

「風見。公安の奴らに指示を出せ。この辺りに避難警告を出し、住民を避難させろ。それから、財団本部に収容班の要請を」

「降谷さんは」

「決まってる」

 降谷はジャケットを脱ぎ捨てた。拳銃を仕舞い、代わりに腰に下げておいた警棒を引き抜き、相手に先端を向ける。シャツの袖をまくり上げ、穏やかに微笑んだ。

「こいつを引きつける」

 吊り上がった眉の下。碧眼が剣呑に煌めいた。






18片




 宮野は朝から嫌な予感がしていた。お気に入りのカップに紅茶を注いでいたら、茶葉の滓が底に黒々と渦を巻いた。茶葉の袋をもう一度開けてみる。中身は半分ほど残っていて、終わりにはほど遠い。

 明日は久しぶりに米花町内へ侵入するから、気が立っているのだ。

 そう納得しようとするが、本を読むにも実験の記録を整理するにも、どうも落ち着かない。

「大丈夫よ」

 声に出してみた。何がなのかは分からないが、落ち着きたかった。あの町はもう、宮野にとっては観察対象でしかない。恩人、友人のその後については聞かないようにしている。ただ明日任務で潜入するにあたって、倭済隊の活動を邪魔しかねない工藤の予定だけは聞いていたから、彼が生きている事だけは分かる。

 工藤新一が死ぬわけがない。彼は「名探偵」なのだから、滝壺に落ちようとしばらく行方不明であろうと、彼の食指の動く事件がある限り生きて帰ってくる。そういう人型オブジェクトなのだと知っている。

 『江戸川コナン』もそうだった。事件があると向かわずにはいられない、驚異的な知的好奇心。どんな惨状もものともしない強靱な精神力。事件現場において彼が考えるのは、遺体の異常さ、凶行の程度、動機などでは無く、あくまでそこにある物質が、何故そうなるに至ったかという極めて論理的な筋道だった。

 まさに名探偵という役割を背負って生きているかのような姿に、惹かれなかったと言ったら嘘になるだろう。だが、彼の隣を歩くのは無理だとも思っている。

 ──彼と私とは、生きる世界が違う。

 あの頃、『灰原哀』は事件が起きた時『江戸川コナン』の要求するがままに協力したが、事件そのものに取り立てて興味を持っていたわけでは無かった。否、興味など持てなかった。彼女の生きてきた世界では、殺意や死に何の謎も無かった。邪魔なものを取り除く力がある者は、当たり前に取り除いた。死はそこら中に転がっていた。坂を転がり落ちるように死んでいった者を、たくさん知っている。いちいち気にとめていたら、あの世界では生きていけなかった。だから宮野は心を閉ざし、極力他者との接触を避けた。

 幼児化して、やっと世界が開けた気がした。宮野志保は死んだのだ、もう別の人間として生きてもいいのではないか。

 そう思えたのも最初の頃だけだった。

 ──彼は眩しすぎる。

 あれだけ頭の切れる同世代には会ったことが無かったから、話をするのは楽しかった。彼も最初こそ敵視していたが、打ち解けて仲間として認識してくれた。宮野も同様に思っていた。だが接する時間が長くなるほど、彼と自分の違いにも気付いた。

 十分な愛を注いでくれる家族。気のいい友人が多くいること。人が人として認め合い、尊重し合うのが当たり前の環境でのびのびと育ってきたのがよく分かった。

 だから、あれだけ徹底的に犯罪者を追い詰めて真実を暴けるのだ。法に従って罪さえ贖えば、何ももう含むところはないと、同じ社会の人間として受け入れられると豪語するのは、何も後ろめたいところのない育ちのいい人間だからできるものなのだ。

 宮野が愛し、愛された家族は、自分も含めて皆社会で言うところの犯罪者だ。土砂降りの雨の中、組織から生まれ出た『灰原哀』には分からなかった自分の業の深さが、明るい社会に出た今だからこそよく理解できる。

 光の届かない深海で生まれた魚は、温暖な海では生きていけない。かつて一時、明るい海に慣れてきた深海魚は、光の下に輝く色鮮やかな魚に好意を寄せてしまったと思っていたことがあった。だがそれは言うなれば、好奇心と憧憬とが吊り橋的なものでかさ増しされたもので、彼と接するほど、親しみこそすれど惹かれる気持ちは消えていった。彼の愛する、まさに南国の澄んだ海に似た恋人に親しんだのも大きな要因であると思う。

 彼とは共に生きていけない。大切な存在ではあるが、罪を身の内に抱えて切り離せない宮野に、純真な彼と手と手を取り合って生きるのは不可能だった。精々、共に危機を乗り越え、知恵を出し合ってきた「相棒」程度の距離がちょうどいい。それより、あの姉に似た、優しい恋人を幸せにしてあげて欲しい。そして二人で幸せになって、この世界は優しい人間がきちんと生きていける場所なのだということを証明して欲しい。

 ──そもそも、人を殺す薬を作った過去を引きずる私と生きていける人間がいるとは思えないもの。

 宮野は冷めた紅茶を啜って、PCを立ち上げた。開くのは財団の特殊存在管理データベース。そのうちの「81か_4869」の頁を開く。財団に入ったばかりの自分が練り直した文章を、もう一度読み返した。

 異様に犯罪を生み出す町。それが宮野が財団に認識づけた米花町である。だが宮野には、財団には明かしていない米花町の見解がある。

 何故米花町で、人々はあんなにも犯罪に走るのか。

「罪は、名探偵の獲物としてただ生まれたわけじゃ無いのよ」

 独りごちて、宮野は立ち上がった。米花町と向き合ったことで、落ち着いてきた気がする。これならば明日は大丈夫だ。仮に工藤に出くわしたとしても、今の宮野には心の拠り所もある。

 明日はきっと定期実験ができない。展開によっては翌日もできない可能性がある。自分が不在の時に実験を誰かを頼めるよう、必要書類を整えておかなければいけない。

 ティーセットを片付けて、身支度を調える。Tシャツにスキニージーンズというラフな格好に白衣を羽織って廊下を出た宮野の前を、集団が足早に通り過ぎていった。

 宮野は眉をひそめて彼らの背中を目で追った。

 物々しい特殊な防護服を着ていた彼らは、特殊オブジェクトを収容する時に活躍する収容スペシャリスト達だ。きっと二、三班は合同で動いているのだろう。

 更にその後からパイロットの一団が続いていった。武装している者もいるところをみると、航空警備隊か。

 ──近場で、空からの制圧が必要なオブジェクトが発見されたんだわ。

 何か起こったのだろう。事件が起こること自体は、この場所において日常茶飯事である。だが、宮野は白衣を握りしめた。胸騒ぎがする。東京には武力制圧を専門とする施設が他にある。この自分がいるサイトー81XXは比較的害なしと見なされたものへの対処をすることが多く、このような大規模な出動は珍しい。

 昨日までは、そこまで騒ぎになりそうな場所も、オブジェクトの噂も、進行中のプロジェクトも聞かなかった。

「まさか」

 宮野は彼らの後を追って走り出した。道順を頭の中で描いて確認する。緊急出動用のヘリポートへ向かっている。間違いなく近場に出動するのだ。それも緊急要請を受けたに違いない。

 ──信じてないわけじゃない。

 脳裏に浮かんだのは、近頃行動を共にしている男だ。烏丸グループの情報屋である彼を信じられないわけでも、裏切りを恐れているわけでもない。自分を足手まといに思ったのかもしれない。気を遣ってくれた可能性だってある。

 様々な予測が脳内を錯綜する。だが行動は迷い無く、宮野はヘリポートへ飛び込んだ。

「何ですか、許可証は──」

「機動部隊『彼の人』の宮野志保よ」

 自分の所属を明かした途端、取り押さえようとした隊員達が止まった。

「米花町対策部隊の……」

「女の隊員は一人しかいないはず」

「なら今現場にいるのは?」

「『彼の人』無しで対処しているのか?」

「『名探偵』のいる町に、そんな馬鹿な」

 ざわめく隊員達を、宮野はぴしゃりと制した。

「いいから、私の隊員がいる場所に連れて行ってちょうだい」

 機動部隊『彼の人』を命名したのはあの男だ。無敗の名探偵の活動領域で彼の目を欺いて動くためには、彼を唯一打ち負かした人物にあやかるのがいいのではないかと提案した。そして冗談めいた調子で、宮野に笑いかけたのだ。

 ──俺達には、彼の手綱すら握れる女神様もついているからな。

「私の知らないところで死んだら、承知しないんだから」

 宮野の小さな声は周囲の誰に届くことも無く、上昇するヘリコプターの音に紛れた。






19片




 降谷は後方へ飛び退いた。巨樹の如き腕が、彼がいた空間を抉る。また繰り出される腕を躱して、背後から関節を殴った。アームの関節はワイヤーがむき出しになっている。機動を削ぐならばここからだろうと思ったのだ。

 しかし、警棒の一撃程度で破壊できるものでも無い。

 見た限り亦土恭順らしきサイボーグは人体に機械のパーツを組み合わせてできているようだが、その人体への組み込み方と強度は、現代文明に可能な次元のものでは無い。顔は口より上の皮膚をコードに変えられている上に、太い両腕には機関銃が内蔵されている。顔半分しか人体の部分が確認できないのだが、自意識も五感もあるらしい。

「倭国ヨ。我ノ如ク生マレ変ワレ。新時代ノ、幕開ケダァ!」

 発電所から飛び出した降谷に向けて銃弾の雨を振りまいてきたので、壁に隠れて躱す。目らしいものは見当たらないのだが、どこで感知しているのだろう。

 ──逮捕収容するにしても、破壊する気でいかないと殺されるぞ。

 財団の未知オブジェクトへの対応は、原則「収容」だ。そのためには収容専門家が来るまで時間を稼ぐ必要がある。

「亦土恭順。何故人間であることをやめた?」

 降谷は呼びかけた。亦土はにやにやと笑いながら言った。

「働キナサイ、勝ツマデハ」

 意味が分からない。

 再度機関銃を向けてきたので、降谷は物陰から飛び出した。彼を追って襲い来る銃弾がアスファルトを穿ち、細かな破片を散らせる。寸でで逃げ切り、愛車に飛び乗ってハンドルを切った。

 公安警察の迅速な対応のお陰で、辺りには人影一つ無い。思う存分スピードを出して、離れた位置にある公園に乗り込んだ。アスレチックの裏に車を停め、後部座席から携帯式ミサイルとアサルトライフルを取り出す。それから公園の入り口に近い馬の遊具の陰に身を潜め、入り口から獲物が姿を表すのを待った。

「坊チャン、オヤツヲ食ベマショウ」

 やがて公園の堀の向こうから、機械と化したテロリストの顔が覗く。のっぺりとした口調で話すその全身が何ものにもかぶることなく現れたところで、降谷はあらかじめ照準を定めておいたミサイルを発射した。

 爆風が吹き抜け、閃光が視界を焼く。炎が路傍の草木に引火して、炎が巻き上がる。あまりの風圧に、降谷は耳を塞ぐ。

「オ父様ノ言ウコトニ背イテ、ナリマセェェッェェェ。赤トンボ飛ンダァ! 飛ンダ飛ンダ飛ンダ汚シテハダメェッ! イタアイィ死ヲモッテ済世ト成スノダァアアアア赤チャァアアアア」

 爆発音と混ざり、絶叫が響く。立ちこめる熱気に堪え、火中を観察していた降谷は息を飲んだ。

 蠢く陰がある。

「イイ子ノォ! ゴ褒美ヨォォォオオオ」

 黒煙を分け、腕のもげた機械男が突進してきた。煤けているが両足に異常は無く、韋駄天の如く駆けてくる。

「まだくたばらないのかっ」

 降谷は遊具の陰から脱出した。馬の偽物が男の図体に押し潰される所へ、アサルトライフルを構える。頭部へめがけて一発撃ち込んだ。

「メッ……マッ、ママアアアア」

 男は悲痛な声で叫ぶ。頭部の穴から紅の霧が噴き出していた。

 効いている。降谷は次に喉元を狙う。

「うっ!?」

 だが背後から衝撃を受けて倒れ込んだ。何かが銃を奪おうとしている。得物を庇いながら降谷はのしかかる者の正体を見た。あの、亦土の模倣体だ。陣羽織を着ていない。

 盛大に舌打ちして、降谷は高く振り上げたアサルトライフルで男の頭を殴りつけた。それでもしがみついてくるのでっk、繰り返し殴る。ぐったりした頃合いになって振りほどこうもがく。

 視界が黒く翳った。

 振り返り、仰ぐ。

 機械と化したテロリストが、覗き込んでいる。

「……死ヌ?」

 血に濡れた口元が弧を描く。頭部の対極図がぽっかりと開いた。

 銃口が顔を覗かせている。

 降谷はライフルを向けようとした。男が歯を剥き出した。

「死ネ」

「死、にかけてんじゃないわよっ!」

 二つの声が重なった。

 降谷の上から陰が退く。丸くなる碧眼に、頭部を脇から殴られて崩れゆく男と、その向こうに立ってサブマシンガンを振り抜いた女の顔が映る。

 炎の反射を受けて紅く燃え上がる髪。滑らかな陶器の肌にうっすらと浮かぶ汗が光を帯びているようで、寄せた眉根さえ美しい。

「志保」

「文句は後よ。早く」

 伸ばされた彼女の手を掴む。刹那、手が強ばった。

 宮野が崩れ落ちる。抱きかかえた手が血に濡れる。降谷は目を疑った。彼女の胸部に紅が付着している。触れて気付く。血だ。それも、彼女から湧き出している。

「あ……」

 降谷の視界が急激に鮮明になる。

 倒れる彼女の先に立つ、機械の男のにやけ面。

 その顔面から突出した銃口。

「死ンダ?」

 何も考えなかった。脳内を支配していたのは、言葉にすらならぬ明確な殺意のみだった。

 降谷は引き金を引く。反撃する暇さえ与えず、一撃で銃口を撃ち砕いてから何度も銃弾を浴びせた。突出していたはずの銃が消え失せ、男の口から歯が全て吹き飛び、首に聖痕の如く銃創を穿ち、弾が切れれば彼女の手からサブマシンガンを奪って全身に浴びせかけた。

「降谷さん、下がってくださいッ!」

 反射的に従う。血の霧を吐いて斃れかけた男を、空から落下した真白な箱が収容した。財団の収容班が辿り着いたのだ。もう自分の仕事は終わったのだと気付いた。

「志保」

 収容班が、医療スタッフが、風見が、駆け寄ってくる。だが降谷は一瞥もくれず、腕の中にいる女に語りかけていた。

「志保、宮野志保。聞こえるか」

 医療スタッフが降谷の腕から宮野を受け取り、担架で救急ヘリに乗せていく。降谷はその後を追い、手を伸ばし、少しでも彼女に近づこうとする。

 ──俺は。

 紙のように白い彼女の顔を見つめ、思い出す。

 いつぞやに、純白の病室で柔らかく微笑んだ彼女を。

 彼女と交わした約束を。

 ──この女を繋ぎ止めるものにはなれないのか。

「お前が選んだんだ」

 ヘリに乗り込み、担架のもとへ辿り着いて彼女の手を握った。嫌悪する色が手に付着して、頭の片隅でこれだからこの色は好きになれないと考える。それでも強く握りしめた。

「お前は死なない。約束しただろ。俺の手の届く範囲では死なせない。絶対、死なせてたまるか!」






10片




 いつかの任務の記憶。

「なんでまた貴方と一緒なのよ」

「米花町絡まりだからじゃないですか」

  不満というより不審そうな女の声。男は困ったように笑っている。

「それより、何故現場に出る仕事を受けるんだ? 君はそうしなくてもいい立場だろう」

「それこそ、米花町だからよ。中に入ることこそしなくても、分かることはたくさんあるわ。研究にはたくさんのデータが必要なのよ」

「それだけ?」

「……貴方、やけに米花町の件になると引っかかるわね」

「僕は米花町じゃなくて、君のデータが欲しいんだ」

「馬鹿じゃないの?」

「君が宮野志保に戻ったあの日、何の縁もない海岸まで行って彷徨いていた理由を知りたい」

「…………」

「それからこの組織に身を置いた理由もね。折角米花町で平和な暮らしを送れていたのに、何故また社会の裏側のような場所に入ってしまったのか、気になって仕方ないんだよ」

「知って何になるの」

「何になるかは、さあ。ただ君が話さなければ、米花町に行って工藤君や阿笠博士に心当たりを聞いてみようかと」

「……貴方、性格悪いわね」

「僕の性格ではなくて、探り屋としての手管ですよ」

「本当は死ぬはずだったのよ」

「…………」

「米花町の異変が、工藤君の幼児化を中心に起こってるのかもしれないと気付いたのがきっかけ。私がまた、周りを歪めてしまった。彼や、阿笠博士や、気のいい人たちを、あの暖かい場所を、あれ以上おかしくしたくない。それで解毒薬を開発したわ。せめて工藤君の幼児化だけでも、と思ってね」

「結果的に時間は進み始めた」

「ええ。でも私が生きる理由にはならないわ。灰原哀は実在しない人間。必ずどこかでまた齟齬が出て、誰かに迷惑をかけてしまう。でも宮野志保に戻ったところで、行くあてなんてない。宮野志保が存在したことを覚えている人間は、あの組織の外にはいない。大体、作った薬で多くの人の人生を狂わせた私がのうのうと生き続けるなんてできない」

「それで、死のうと」

「ええ。安全に手間をかけずに死ぬ方法を探してたんだけど、難しかったわ。遺体は自分で始末できないし、始末できる組織に戻ったら、米花町の皆に迷惑がかかるでしょう」

「じゃあ、ここで現場に出たがるのも」

「そういうことよ」

「……君がいたことを覚えている人間は、いる。死んだ人に申し訳ないと思うならば、贖ったらいい」

「貴方に何がわかるの。私には今更、暖かくて明るい世界で、そこに紛れて生きるなんて不可能だわ」

「……君はどうしてそうも、日陰の世界に向かってしまうんだろうね」

「まるで自分が日向の人間かのような言い草ね」

「君には俺がどう見える?」

「太陽に目を焼かれて、何も見えなくなっても、進むしかない人。そうじゃなければ、陽の光が射そうと射すまいと、突き進む人間ね」

「君は詩人だね」

「私も随分、明るい世界に慣れたわ。それでもやっぱり、明るい世界には住めないのよ。ずっとあの暗い場所で生きてきたから。大事なものを、暗い場所に置いてきてしまったから、明るい場所では心の底から安らげないの」

「ずっと過去に囚われて過ごせばいいのか? それこそ欺瞞だ。贖罪ではない、妄執だ」

「罪なんて贖えないわ」

 女の声がわななき始める。

「死んだ人は生き返らない。過ぎた時は戻って来ない。罪なんて贖いたくない。生きたくない。あの薬の罪が私から消えたら、私には何も残らないわ! 死んだのと変わりないのよ!」

「…………」

「あの薬だけが私と両親の繋がりだった。薬を作っていたから、姉は組織から出られなかった。私が……私だけが、生き残ってしまった……」






11片




 いつかの記憶。

「傷はどうなの」

「だいぶ良くなった。この調子ならば来週には復帰できそうだ」

「ごめんなさい。私なんかのために、どうして」

「今度こそ守るって決めたんだ」

「嫌」

「志保さん?」

「嫌よ。もう、私のせいで人が傷つくのは嫌」

「俺だって、俺が守れたかもしれない人間が増えるのは嫌だよ」

「…………」

「身の周りで人が死んだのは君だけじゃない。家族でこそないが、俺だって、大事な人をたくさん亡くしている」

「…………」

「苦い思い出として君を思い出すことはしたくない」

「……貴方も、自分の過去に縛られてるのね」

「…………」

「貴方の守りたい国っていうのは、そういうことなのかしら」

「俺は……」

「貴方は私を通じて貴方自身を思う。私は貴方を通じて私自身を思う」

 今でも鮮明に、瞳の裏へ思い描ける。

 白い病室の、ベッド脇。黒の丸椅子に彼女が腰掛けている。グレーのワンピースから伸びた手足は純白。白皙の、唇はほんのりとした薄紅。

 窓から吹き込んだ風が髪を赤く艶めかせて、人形の如き翡翠の双眸が細まる。

 そして、口の端がほんの少しだけ、持ち上がった。

「可哀想な人」

 囁く唇の形。柔らかく表情を変える口もと。僅かに覗く、小粒な歯。

 今なら良いのだと悟った。

 小さな頭を掴んで引き寄せ、唇を重ねた。彼女は目を見開いたが、拒まなかった。

「いい案がある」

 唇を離したのに、彼女は引こうとしなかった。後頭部を支えられたまま、なに、と囁いた彼女の吐息が唇にかかった。

「俺と死のう」






20片




 最初に見えたのは、真っ白な部屋に浮き立つ褐色肌の男だった。幼くさえ思える甘い顔立ちをしているくせに、目つきは険しい。見る者が見れば分かる、人を殺したことのある男の目。罪人の瞳だ。

「可哀想な人」

 呟いてみて、はたと気付く。やけに声がはっきりと耳に届いた。それで宮野は、自分が覚醒しているのだということを自覚した。

「そう思うなら、頼むから大人しくしていてくれ」

 男は宮野に気付いて、ベッドの枕元に腰掛けた。目の下がややくすんでいる。健康的な肌の彼にそんなものがあるのが珍しくて、宮野は凝視する。

「だって、貴方が置いていくから」

「俺を信じて待つとか、考えなかったのか」

「嫌よ」

 宮野はきっぱりと答えて、手を伸ばした。男の目元を指でなぞる。

「もう、置いて行かれるのは嫌。言ったでしょ。私のせいでまた人が死んだなんて、考えたくも無いのよ。だから死ぬなら私が死んでからにして」

 病的に白い指を、男の浅黒い手が包んだ。

「ふざけるな。俺だって君を守れないのは嫌だ」

「だったら、一緒にいて」

 白い指が黒い指に絡みつく。

「私と死んでくれるんでしょう」

 黒い指が絡まり返す。

「ああ。俺の力の及ぶ限り、この国を守り切ってからな」

「楽しみだわ。それまで精々、長生きしてね」

「こっちの台詞だ。もし先に死んでみろ。地獄の果てまで追いかけていってやる」

「あら、怖い」

 二人は見つめ合う。そして隠し事を共有する者同士に特有の、あのどこか緊張を孕んだ、秘めやかな調子で、愉しげに笑うのである。






1片




 実験が好きだった。繊細さが求められる緻密な作業は、こちらが心さえ配れば誠実な結果を返してくれる。そうして得たデータを記録分析して、一つでも真実の欠片を集められると安心し、胸が躍ったものだ。

 真実は常に変わらないもの。私たちが気づいていないだけで、確かにそこにある普遍。

 ずっと、私が生まれる前から、父や母がいた頃から、永遠に在るものは在るのだと、信じていた。

 私は孤独でも一人ではないのだと、信じていたかった。











「罪なんて裁かれたくないわ」

「俺達はとんだ独り善がりだな」

「今更じゃない」

「独善的極まりない。酷い人間だ」

「私達きっと、地獄に落ちるわね」

「君と一緒ならば、悪くないな」

「精々しがみついてあげるから覚悟してね。ダーリン」

「こちらこそ、離してやれそうにないから覚悟してくださいよ。ハニー」







20190724  執筆完了