試合場の人工樹林が次々と薙ぎ払われていく。木々の命を刈り取るのは、魔法や召喚獣に頼らない純粋な剣による風圧のみ。

 それだけで己の胴より太い樹木の群を竜巻の如く薙いでいく、その火力が憎い。

 火力重視の馬鹿ならば馬鹿らしく、雷で焼き尽くして己ごと丸焼けになってくれればいいのに。しかし、そうはしないということは、敵である自分もよく知っている。ヤツは取る戦略こそ馬鹿のようにシンプルだが、馬鹿ではない。そこもまた、憎い。

 倒れる木々の悲鳴が腹の底に轟く。規則正しい地鳴りは、策を求めて奔走するこちらの焦燥と絶望を、否応なしに駆り立てていく。

 また駄目なのか?

 ワタリの守りもクニミの読みもキンダイチの防壁も、百二十パーセントだったはずなのに。

 晴れ渡っていたはずの蒼天井が、俄かに暗くなる。湿った風が頬を撫で、叢雲が青白い光を孕み唸る。

 精霊の力を宿す精霊文字と同じ、燐光。

 だがそれよりもっと激しい、あの灼光は。

「<いかづち>」

 たったの四音。

 それだけで、視界が白く焼き尽くされる。

 ──また、ダメだ。

 ワタリの守りもクニミの読みもキンダイチの防壁も、百二十パーセントだった。

 マツカワの陽動もハナマキの奇襲もイワイズミの攻撃も完璧だった。

 それでも、全て破壊されてしまう。

 雷に貫かれた身体が、どうと地に倒れ伏す。しかし、顔だけはかろうじて上げる。眼前に敵の姿を認めた。依然として口角の一つも上げやしないその鉄面皮は、息も上げずにこちらを見下ろしている。

 ──台風の目かよ、クソ野郎が。

 そんな罵倒さえ賛辞のように感じられ、引っ込めざるを得なくなる。

 憎い。憎い。

 どんな戦士も戦術も一撃でねじ伏せる、その圧倒的な破壊力が憎い。

「お前は道を間違えた」

 立ちはだかる憎き男が、静かに言い放つ。

 間違えた? 怒りとも嘲りともつかない烈情が込み上げる。

 うるさい、黙れ。俺はそもそも、道なんて見ちゃいない。ただ、「お前が隣にいない頂の景色」を目指しているだけだ。だからこの道のりを間違いだの正解だのと称するのは、お門違いだ。

 俺は地面に拳を叩きつけた。何度も何度も、叩きつけた。地面は叩く度、稽古場の床や都市立図書館のフローリング、戦で黒ずんだアオバの森の土へと姿を変えた。

 間違っていない。俺の選択は間違っていない。俺の仲間たちも、何一つ欠けちゃいない。

 ただ、強いて足りないものを上げるならば。

「オイカワさん」

 まだ声帯の定まっていない、柔らかい少年の声が聞こえた。

 振り向く。視界よりやや高い位置から、幼子めいた丸い輪郭の頭がこちらを見下ろしていた。

 彼の手には、あどけない外見に似つかわしくない使い込まれた弓が握られている。

「魔法矢のコツを教えてください」

 その、順当に歩んでいけば頂へと必ず至れるだろうと信じ切っている、無邪気で円らな瞳。

 うずくまる俺を頂へ続く踏み段の一つと見なしているだろうそれを、潰してしまいたいと思った。

 

 

 



 

 

 

 

 

「オイカワ、おい。聞いてんのか!」

 身体が引っ張られる。うるさい。今は誰にも邪魔されたくないんだ。修業だけに集中していたいんだ。黙っていてくれ。

「うるさいッ、寄るなッ触るな来るな──」

「うるせえのはテメエださっさと起きろボゲェッ!」

 胸倉を掴まれて身体が浮いた。首が締まり気道が詰まって、暴れようとした拍子に自分の下半身が地面についたままであることに気づく。そしてオイカワは、やっと自分が眠りについていたことを思い出した。

 首元を掴んでいた手が弛み、オイカワは咳き込んだ。丸まって咳の度に震える背を、武骨な手が不器用にさする。

 手の主を仰いだ。幼馴染が心配そうにこちらを見下ろしていた。

「悪い、大丈夫か」

「なっん、の──」

 何のことかと問おうとして、また咳に阻まれる。涙に曇る目で辺りを見回す。

 ここは、アオバの森ではなかった。見慣れない、まばらな木に囲まれた林の中である。まだあたりは暗く、爆ぜる焚火の橙光が、不規則に黒い地面の上で踊っている。

「なあ、どうしたんだ。寝ながら魔法なんて使おうとして」

「え?」

「覚えてねえのか? お前、寝ながら詠唱してたんだぞ」

 オイカワは己の両手を見る。ぶるぶると震える腕の周囲を、魔法の発動に必ずついて来る細かな精霊文字が燐光と共に舞っていた。ほろほろと散っていく燐光を見て、彼は混乱しながらも自分が本当に魔法を使おうとしていたのだということを悟る。

「ご、ごめん」

「ハナマキに感謝しろよ。アイツの相殺魔法がなかったら、今頃俺たち真っ黒焦げだったぞ」

 イワイズミの台詞で、オイカワは己の他の仲間たちのことを思い出す。周囲には、オイカワとイワイズミの他に誰の影もなかった。

「マッキーとまっつんは?」

「今、その辺を軽く見て回ってる。魔法の暴走する光を見つけて、魔族やら精霊やら人間やらが寄って来ると困るからな」

 ごめん。再び呟いたオイカワの肩を、イワイズミはそっと叩いた。戦士の鋭い眼差しが、オイカワの眠っていたにしては激しく上下する肩や、気温に合わず米神を伝う汗を見止めて、おもむろに問う。

「いつもの夢か?」

「多分、そう」

 オイカワは答えてから、眉根を寄せ少し首を傾ける。

「でも、ちょっと様子が違ったんだ。いつもは夢の中でも現実みたいにはっきりした景色を見てて、さらに俺自身に、ちゃんと今自分が夢を見ているっていう自覚があった。だけど今のは、場面が非現実的に突拍子もなく変わったし、俺にも夢を見てるって自覚がなかった」

 まるで、本当に夢でも見ていたかのような。

 掌のすじに嫌な汗が溜まる。いや、よく考えれば普通のことだ。夢と言うのは本来突拍子もなく変わるもので、理論性も皆無に現実の断片を継ぎ接ぎで繰り出して来るようなそういうものだったはず。

 しかしそれにしては、鮮烈な夢だった。目にした情景や出会った人物が現実的であったわけではない。

 自分の中に込み上げていた、あの地獄の釜底で煮えたぎるような憎悪が、いやに身に迫って感じられたのだ。

 確かに自分は、あの夢に出てきた人間たちのことは好いていない。

 だが、あそこまで──姿を見るだけでこの胸を掻きむしり、熱く滾る己が血を噴き出させたくなるほどに、彼らを憎んでいただろうか。

「うん、やっぱりただの悪い夢かも。絶対このキッツイ山登りのせいだって」

 オイカワは険しいイワイズミの眼差しを誤魔化すかのように、大仰な溜め息を吐いた。

「ねえ。カラスノって、まだ着かないのかな?」

 イワイズミと会話するうちに、オイカワの乱れた動悸は収まり、意識も現実へと徐々に戻ってきた。

 オイカワたち一行は、現在カラスノ元空中都市を目指す旅の途中であった。かつて有翼人種の集う碧空の浮島だったと伝えられているこの都市は、民の中核であった烏天狗の一族の衰退と同時に空から追放され地へと堕ち、今では峻嶮なる山峰の狭間にて、住人の末裔と共にひっそりと息づいているのだという。

 カラスノにはこれまでメンバーの誰もが行ったことがなく、ダテ工業都市の時とは異なり、完全な手探りで進んでいる状態だった。普通なら地図を手掛かりに進んでいくところなのだが、カラスノの住人は滅多に山から出て来ない上に、逆にそこへ行こうとする部外者も滅多にいないため、まともな周辺地図が存在しなかったのである。どうにか図書館から探し出してきた複数の地図も、全て古すぎて読み取りづらく、さらに滅茶苦茶な手法で書かれていたので、随分惑わされてしまった。

 地図もなしにアオバの森より寒々しく刺々しい樹海を潜り抜け、目の粗い石が足の裏を刺す道なき道を掻き分け、高い高い山領の上り下りを繰り返す。そのうちに日付の感覚はもちろん、どこを目指して進んでいるのかさえ見失いそうになってきた。

 ──俺たちは、カラスノを目指している。そこにあると言われている、星の砂を手に入れるために。

 再度己に目的を言い聞かせたオイカワの前髪を、森らしくない乾いた風がさらう。そろそろ山領を越えるんだ。日が暮れてきた頃、渡り鳥の目で周囲を窺ったハナマキが口にした台詞を思い出した。

 難航を極めていたカラスノ探しの旅にも、ついに先日光明が差した。ハナマキが、ようやっとカラスノのあるらしい場所を発見したのだ。彼曰く、この森だらけであるはずの連山の一角に、地図にはない禿山を見つけ、またその禿山の麓に、ヒトの通った跡があったのだという。

「その、カラスノがあるかもしれない禿山までもうそろそろだって、ハナマキも言ってたけどな」

「信じてるよ俺は。ホントに信じたいよ、もう」

 オイカワはぶすくれる。

 森は決して嫌いではないが、いい加減冷たい小川や湖の水ではなく温かい湯に浸かりたいし、まともなベッドで寝たかった。もちろんオイカワだって、もっと長い期間過酷な環境で修業をした経験はある。だが、その時の苦しみと今風呂に入りたいのとは別物だ。

「ねえ、まともな地図がないのもこんな深い山奥にいるのも、絶対カラスノの策略だと思わない? 正確な位置を知らせなければ、どこにも攻め込まれることがないもんね。絶対そうだ」

「お、アイツら帰って来たっぽいな」

 ぶつくさぼやくオイカワを無視して、イワイズミは焚火の向こうを透かし見た。はたして彼の言う通り、ココア色のベリーショートと漆黒の天然パーマが姿を見せる。しかしイワイズミとオイカワは、彼らの堅い顔つきを目にして浮かべかけた笑みを消した。

「まずい」

 ハナマキは眉間に皺を寄せ、彼らに告げた。

「カラスノ、見つけた」

「良かったじゃねえか」

「これが、良くなくもあるんだな」

 マツカワが、がりがりと頭を掻く。呑気な間延びした口調とは裏腹に、目つきは戦場でのそれだった。

「同時に、見つけられちゃったらしいんだよねー。カラスノの、戦に飢えたカラスどもに」

「好都合だろ」

「そうとも言い切れないよ」

 ハナマキは、珍しく真摯にイワイズミの言葉を否定する。

「あっちに、すげえやばいのがいる。『鷹の目』使いだよ。俺が渡り鳥の目で様子を見てることに気づきやがった」

「お前の視線を、鷹の目で察知した?」

 イワイズミが復唱し、鼻を鳴らす。

「随分勘のいい野郎だな」

 ──勘がいいどころじゃない。気味が悪いくらいの察しの良さ、精緻なコントロール能力だ。

 オイカワは内心訂正する。

 「鷹の目」は渡り鳥の目に似た、探索用の技だ。しかし似てはいても、両者の性質は対照的である。渡り鳥の目は遠く広い範囲を見て取るのに向いている技術であり、それに対して鷹の目は近場の狭い範囲を鮮明に見ることに長ける技術だ。どちらも、本来なら向かない目的──つまり、渡り鳥の目なら近くの詳細を見ること、鷹の目なら遠くを見渡すこと──で技を使えば、その分術者が消耗することになる。

 オイカワとて鷹の目を習得する狩人であったため、必然的に鷹の目使いでもあるわけだが、必要に駆られない限り遠方の敵を探そうとはしない。

「肉眼で目視した獲物の追尾に向いてるはずの鷹の目で、目視できない遠方から渡り鳥の目を使っているヤツの存在を嗅ぎつけるなんて。そいつはよっぽどヒマだったか、馬鹿なのか──」

 または、と続けようとした先を、オイカワは飲み込んだ。そしてさりげなく、肝心なことを訊ねた。

「まさか、こっちに向かってきてるの?」

「その通り」

 ハナマキは肯定し、思い出すように遠くを見つめる。

「俺が鷹の目から逃れようとした時点で四人、カラスノの城門からこっちに向かって飛び立つ気配を感じたね」

「城門から? ってことは、そいつら夜番か」

 イワイズミがわずかに瞠目する。

「夜番がこんなところまで来て大丈夫なのか? 城門の守りがガラ明きになるぞ」

「それがカラスノなんだろ」

 マツカワが肩を竦める。

「アイツらはウチとは正反対だからな。攻め上々、特攻上等。その代わり安定感には欠ける」

「それでも烏は烏。だから面倒なんだって。な?」

 ハナマキが言葉を足し、マツカワに同意を求める。唯一この世界の記憶を持つ彼は、頷いてまた語る。

「そうそう。古豪カラスノの武器と言えば、敵を啄む鋭い嘴、何だって喰らう飢餓精神、そして去年から本格的に復活した──」

「烏天狗直伝の妖術、『カラスノの黒い翼』か」

 そうオイカワが補うと、マツカワは驚いた声を上げた。

「お前、何で知ってるんだ。覚えてないんだろ?」

「俺たちの世界の、つまり夢のカラスノはね、堕ちてないんだよ。その都市も、衛兵部隊の腕前も」

 現実世界と夢の世界の存在が事実であり、かつその関係性がマツカワらの語った通りであるとするならば。現実世界において、「堕ちた強国、飛べない烏」と揶揄されたカラスノの戦士たちは、そう称されてもずっと、飛ぶことを夢見てきたのだろう。だから夢の世界のカラスノ衛兵部隊は飛べたのだ。

 そしてその夢は、現実になったらしい。

「俺は、飛べるカラスノ衛兵部隊と戦ったことがある。とは言っても、俺たちの世界とこの世界は大分違うところもあるらしいから、参考にはならないかもしれないけど」

「いや、十分なるだろう」

 マツカワが首肯する。

「カラスノが飛ぶ力を取り戻したのは去年だが、それでも急激に奴らは力を増してきていた。もしかしたらもう、今はもっと全盛期に近づいているかもしれないからな」

「でも、もし飛んできてる奴らが防衛軍の人間だったら」

「その可能性はない。今現在でも、試験的に『カラスノの黒い翼』を使っているのは、若くて生命力のある訓練兵、つまり衛兵部隊の人間だけだ」

「なら参考になれるかもしれないね」

 知ってる顔がいればいいんだけど、とオイカワは軽く笑う。しかしその一方で、その脳は目まぐるしく動いていた。

 カラスノの鷹の目使い。自分の世界のカラスノを思い出してみる限り、そんな戦士は一人もいなかった。

 ただそれは、あくまで自分の世界の「去年見かけたカラスノ」における話だ。

 ──もうすぐ武道大会が近いんだから忘れんなよな! 今年は厄介なんだぞ!

 この世界に落ちてくる直前、イワイズミが発した台詞が思い返される。続いて、それに答えた自分の声も蘇ってきた。

 ──よーッく知ってますぅ! ダテもワク南もシラトリザワも絶好調だし、ジョーゼンジも調子上げてるし、カラスノとかいうダークホースも出てきちゃったし!?

 その後。いつも効率のよい後輩が、ある根拠からオイカワの懸念を否定して。

 黒い影が、脳裏をかすめる。

「ねえまっつん。この世界の俺たちは、この世界における『去年』、三年生だったわけだよね?」

「あ? まあ、そうだが」

 唐突な話題だったせいか。マツカワは意表を突かれた様子で、戸惑いながらオイカワの問いかけに答える。

「そして今の俺は三年生だから、この世界に比べてあちらの世界は一年遅れている計算になる」

「オイカワ、お前何を」

「それでもこの世界と俺たちの世界は、とても共通点が多く親和性が高い」

 マツカワもハナマキも、制止しようとしたイワイズミでさえ、言葉を止めてオイカワを見つめた。

 彼らの隊長から、浮ついた声の調子と笑みが失せていた。

「まっつん。さっき俺に、カラスノのことを『覚えてないんだろ?』って聞いたね。つまりこの世界の俺たちは、カラスノとの対戦経験がある──一年遅れた夢の世界から来た俺にはない、その経験があるわけだ」

 オイカワの波風立たない声は、第三者が耳にすれば沈着な司令塔の物腰を表したものとして聞くだろう。だが彼の声を聞きなれた三人には、現在の彼の心理状況を正確に、かつ迅速に察した。

 淡々と言葉を重ねる、まるで独り言のようなこの口調。そして笑みを浮かべることさえ忘れた、まるで能面のごときこの無表情に、先程から微動だにしない肢体。

 オイカワがこういった状態にあるということ。それは、彼が「とっておきの敵」を着実に仕留めるための集中の極致に至っていることを指す。

「今のカラスノが本当にかつて猛々しい鴉の群れ、戦闘狂の集まりだとするなら、きちんと対策を立てないと五体満足でカラスノに辿り着けないことになる」

 この世界の常識において、他市の部隊を戦闘でもてなす傾向にあることは、前回のダテ工業都市の例で学習済みだ。

「だから、教えて」

 整った顔立ちの中央。海老茶色の瞳孔を開いたままに、オイカワは問うた。

「この世界のカラスノに、俺の後輩はいるの?」

 刹那目を落としたマツカワの様子は、回答に躊躇うかのごとく窺えた。しかしすぐ溜め息のような吐息を含みながら、答えた。

「いるよ」

 その一言を聞けば、十分だった。

「オッケー、じゃあ迎え撃つ準備をしようか」

 オイカワは仲間たちに、てきぱきと指示を出し始める。

「まずはこっちに迫って来てる奴らの情報がほしい。マッキー、渡り鳥の目で見た四人の特徴を教えて。まっつんはマッキーの言った特徴のあるカラスノの人に心当たりがあったら、そいつがどんなやつか話してくれる?」

「待て」

 ハナマキが制止をかける。

「相手は渡り鳥の目を逆探知してくるヤツだぞ? そんな奴にもう一回同じ技を使えば、こっちの居場所を教えるようなものじゃあ」

「それが寧ろ狙いだよ」

 オイカワは言い切った。

「イイ大人は、わざわざ最初から消耗の激しくて効率の悪い鷹の目で巡視なんかしない。そんなことするのはまだ青臭くて自分の身の丈を弁えてない、衛兵部隊の馬鹿だ。そういうヤツは自分の狙いで獲物を仕留めることに執着しがちだから、一度獲物の狙いを付ければずっと狩れるまで際限なく矢を放ち続ける」

「消耗させようってわけか」

「了解。そういうことなら」

 ハナマキが探知を開始する。三白眼が遠くを見据える。

「ここから二,五キロ、二時の方向から四人接近中。先頭は坊主頭の男。身長は一七七センチ程度、黒い作務衣のような服を着ているな」

「それは、タナカとかいう法士だろう」

「法師? 坊さんか?」

 イワイズミが怪訝そうな顔をする。マツカワが説明してやる。

「そっちじゃない。法術を用いて戦う職業だ。武闘家のようで僧侶のようで呪術師のようでありながらそのどれでもない、もとは修験者の一種だな」

「そんな職業があるのか?」

「あるんだよ。分かりやすく言うなら自然超越、怨霊調伏のために修業を重ねてきた、癒術の使えない武僧だな。俺たち道師は自然調和を追求する癒しや守りの術に長ける武僧だが、法士はその真逆。荒ぶる怨霊を力で鎮めることに優れた連中だ」

 マツカワはさすが僧職であるだけあって、曖昧で混同されやすい職の詳細にも詳しい。オイカワに法士との戦闘経験はないから、彼の知識が役立つだろう。

「タナカはカラスノ攻撃勢の中でも特に攻撃的で挑発の上手い斬り込み隊長だったはずだ。奴の法術はもちろんだが、打撃にも気をつけた方がいい」

「タナカの後ろに続いてるのは、オレンジ頭のちっちゃい奴。そのやや斜め後ろを、突っ立った髪型のこれまたちっこい奴がもう一人続いて飛んでる。身長はオレンジのが一六二センチ程度、後ろのが一六〇もいかないくらいかな」

 説明が一区切りついた頃合いを図って、ハナマキが見て取った新たな人物らを告げる。それを聞いたマツカワの表情が、僅かに曇った。

「あー、厄介なのが来ちゃったな」

 舌打ちでもしたそうな様子の同級生に、オイカワが説明を急かす。

「どんな奴らなの?」

「オレンジのちっちゃい奴は、去年カラスノに入って来たばかりの新米戦士だ。身体能力が高くてスピード、反射神経、持久力、バネが凄い。

 それでもひよっこらしく攻撃の威力は普通だし技術は全然なんだが、どういうわけかカラスノの飢餓精神をたっぷり持ってる。アイツ単体ならまだそれほど怖くない。けど他のチームメイトと組み合わせると厄介極まりない、何にでも我武者羅に突っ込んでいく番狂わせ上手だ」

 雷光みたいにどこにでも飛んでいくから気を付けろ、とマツカワ。

 要は、持久力と機動力の高い囮役だろう。囮が機能するということは、カラスノのチームとしての和にも気を付けなければならない。

「もう一人は」

「お前らの世界にも、きっといただろ。聖騎士ニシノヤだ」

「チドリヤマの天才、ニシノヤか」

 オイカワだけでなく、イワイズミも眉根に皺を寄せた。

 聖騎士は全ての力を守りに注ぐ、騎士よりも堅い守護を誇る職種だ。各都市各部隊に必ず一人は組み込まれていて、味方の防御に専念し部隊の生命線の死守に努める。

 ニシノヤはミャギ国の中等養成学校における強豪校チドリヤマ中等養成学校で既に聖騎士としてその名を馳せており、彼の防げない攻撃はないと称えられていた。

 オイカワの脳内で、迫りくるカラスノフォーマンセルの図が組み立てられていく。相手は空中戦に優れる伝統部隊、揃う面子は法術使いの斬り込み隊長に活発な囮役、天才聖騎士、そして。

「最後一人、は」

 ハナマキの声が中途に切れる。彼方を見つめていた視線が、急に戻って来た。イワイズミが身構える。

「どうしたハナマキ」

「……説明してる暇はくれなそうだ」

「毒矢を放ってきたんデショ」

 オイカワは今起こったらしい出来事を推測する。

「それも雨みたいにたくさん」

「何で分かるんだ?」

 ハナマキが目を見開く。オイカワは薄く笑った。

「お約束だったからね」

 イワイズミたち三人が上空を仰ぐ。しかしそこにはまばらな樹々の尖った先端によって狭められた夜空しかない。星々が静かに瞬いているだけである。

 しかし耳を澄ませば、無数の甲高い音が聞こえる。五感の鋭い狩人──この場においてはオイカワでなければ聞こえないだろうそれは、鳶の鳴き声や花火の打ち上がる音、あるいは聞きようによっては笛の音のようだと言う者もいる。

 だが迫って来るその音色は間違いなく、そんな平和なものではない。

「アイツはよく『俺一人で全部済ませられればいいのに』って言ってた。それは決して傷つく仲間を出さないために、とかそういう気遣いから来たものじゃなくて、俺一人で戦場を制してみせられるのに、っていう傲慢から来るものだった」

 戦場における究極の英雄というものがいるならば。

 それはきっと戦の始まる前に敵勢力を殲滅させることのできる、強力な遠距離攻撃手段を持つ者だろう、とは戦における理想論の一つだ。

 オイカワはこの概念を得た幼少より、弓の稽古を続けてきた。しかし彼は物心つく前から弓に親しむことを覚え、さらにその概念を知ってからはさらにこの武器に固執した。

「だから俺はアイツがよく五月雨射法の練習をしているのを見る度に、その鼻っ柱を折ってあげてたんだよ──こうやってね」

 オイカワは左腕を高く掲げ、天と対角に右手を引く。弓を引き絞る姿勢を取った射手に合わせるように、彼の掌中にたちまち光輝く弓矢が現れる。

 依然として夜空には、物言わぬ星が輝いている。しかしその漆黒の天板の一四方に、一刹那のみ星とは異なるやや紫紺を帯びた点がちらちらと瞬いた。

 ──五十六か。

 瞬く間でも見えれば、十分だった。

 オイカワの弓手から光の矢が放たれる。太い一本矢は高い鳴箭と共に射手の手を離れた直後分離して、無数の鋭利な光線となって夜空を切り裂いていく。

 遥か上空、静謐を保っていた紺碧に閃光が走り破裂音が響いた。その瞬きと音がきっかり五十六回ずつあったことを確認し、オイカワは鼻を鳴らした。

 ──俺が中学を卒業する前、最後に射落とした矢の数と全く同じだった。

 彼は鼻の頭に皺を寄せる。その主な原因はかつての記憶が思い起こされたことにある。だが放たれた矢を払う瞬間に妙な違和感を覚えたからというのも、彼の渋面を作るもう一方の要因になっていた。

「全部、射落としたのか……?」

「げっマジで射落としやがった!」

 ハナマキが信じられなそうに呟くのと時を同じくして、若々しい驚愕の声が響いた。イワイズミたち三人が、既に手にしてあった得物をそれぞれ構え直す。

 二時の方向、宵闇にまぎれていた三つの影が踊り出る。影たちはわざわざこちらの焚火の照らす届く範囲まで滑空してくると、背に生えた妖しき漆黒の翼を二三度羽ばたかせて宙に留まった。

 三人の人相は、先程ハナマキが告げたものと一致している。前を開け放した黒い作務衣、その下に派手な橙のTシャツをまとう坊主頭。そのTシャツよりやや色味の柔らかな髪を持つ少年。そして逆立てた黒髪と前髪の一部のみを染める金との対照が目を引く、甲冑姿の小さな聖騎士。

 カラスノ元空中都市衛兵部隊の戦士たちは、その代名詞であるカラスの翼を時折羽ばたかせながらオイカワたちを見下ろした。

「うわっ、ホントの本当に大王様!? うわーっ!」

 無邪気な驚愕を露わにしているのは、鳥の産毛に似たオレンジ髪の小柄な少年だ。体格や声質以上に目や顔の線の丸い、幼い顔立ちをしている。サークレットと鎧を身に着け剣を握っているところを見ると、まだ駆け出しの戦士といった印象だ。

 オイカワは横目で隣を窺う。マツカワはオイカワの視線に気づくと、相手へ向けた体の向きはそのままに唇だけ動かし、無声音で話す。

『あれがカラスノの新入生だ。お前はチビちゃんと呼んでいた』

 それからやや躊躇って、こう付け足した。

『お前の後輩と組むと、とんでもなく厄介な囮になる』

 ふうん、と軽く相槌を打ってオイカワはカラスノ一行に目を戻す。

 その彼の後輩の姿はない。

「ハァイ、チビちゃん。元気そうだね」

 オイカワは一転にこやかに手を振り、カラスノの雛鳥に挨拶する。

 自分に彼らの知るオイカワの記憶がないことがバレて相手を勢いづかせるのも癪なので、試合前に相手への威嚇用に見せるとびきりの愛想の良さを前面に押し出してみたが、どうやらこの態度で問題ないらしい。雛鳥は明らかに緊張で固まり、彼の隣に浮く坊主頭はあからさまにうんざりした気色を醸し出した。

 こちらの自分の人格と言動は、現在の自分とさして変わりないようだ。

「俺のカワイイ後輩と仲良くできてるー? オイカワさんのお迎えにも出て来ないなんて、アイツも相変わらずの王様気取りだねえ」

 さり気なく後輩の動向を探るために、鎌をかける。すると、カラスノの三人は予想だにしない反応を見せた。

 苛立ち、緊張、観察とそれぞれオイカワに対して違う様相を示していた彼らは、自分たちの部隊員のことを貶された途端、一瞬表情を変えた。坊主頭は片目を開きもう片方を眇めるというこちらをねめつける左右非対称な顔つきをし、聖騎士は真っ向から睨み付けてくる。新米に至っては全身の緊張が失せ、僅かながら瞠目した状態のままオイカワを凝視した。

 顔の変化の仕方こそ異なるが、共通して現れている感情は明らかだ。

 ──驚いた。アイツは、カラスノのチームに受け入れられてるのか。

 と言うことは、先程矢を受けた時に覚えた違和感にも納得がいく。信じられないことにあの独善的な後輩の矢には、射手の仲間だけは決して射ることがないよう仕込むことができる「仲間避けの呪」が織り込まれていたのだ。中等養成学校時代の彼は少しでも矢の軌道が獲物から逸れることを嫌って、そのような術は全く使用しなかったというのに。

「エリートのアオバ城砦衛兵部隊サマが、ウチに何の用ですかねェ?」

 坊主頭のタナカが吐き捨てる。マツカワが一歩前に進み出た。

「そちらにあらかじめ書状を送ってあるはずだが」

「そう言えばダイチさんが何か言ってませんでしたっけ?」

 橙の雛鳥が先輩二人を窺う。両脇がつられて首を傾げた。

「あー。そう言えば前にアオバ城砦がどうこう言って、キヨコさんの所に駆け込んでたな」

 タナカが懸命に思い出そうとしているのか、宙を眺めた。

「すっげー慌てて……」

 聖騎士ニシノヤも同様に宙を眺めかけて、しかし何を思い出したのか突然眦を吊り上げた。

「そうか! あの後キヨコさんが一週間お部屋に帰っていらっしゃらなかったのは、オメーらのせいだったのか!」

「何だと!?」

 それを聞いたタナカが、同様に目を怒らせる。

「俺たちがキヨコさんの発せられるかぐわしい聖なる空気を吸うことはおろかその御姿を拝むことさえできずに絶望と苦悩を思い知ったあの灰色の日々は、オメーらの仕業だったのか!」

「誰だよキヨコって」

「キヨコさんを呼び捨てにするなッ!」

 何気ないイワイズミの一言さえ、喧嘩腰で拾われる。

 よく理解できないが、あちらの敵対姿勢が強まったことだけはオイカワたちにもよく分かった。中央の新米はきょとんとしているが、両脇の先輩二人は今すぐにでも戦おうという気が駄々漏れている。

「迷惑をかけたなら悪かった。だがこっちにも止むを得ない事情があってな。街に入れてもらえないか?」

 マツカワがなおも交渉を試みる。しかしタナカは意地悪気な笑みを浮かべた。

「でも目の前にいるアンタらが本物かどうか、俺たち分からねーしなあ」

「キヨコさんを狙う悪の手先だっていう可能性も、十分にあり得るっ!」

 ニシノヤは拳を握りしめている。

 業を煮やしたマツカワが懐から前回活躍させる機会に恵まれなかった書状を取り出し、掲げて見せる。

「この通行手形を見ろよ! ちゃんとアオバ城砦都市の印が入ってるだろ!」

「申し訳ないのですが、当方には通行手形を判別できる者がおりません」

「ショウヨウ、あれ何か分かるか?」

「表彰状ですか? いいなー!」

 タナカが厭味ったらしい笑みを保ったまま慇懃無礼に切り返す。ニシノヤと、ショウヨウというらしい新米に至っては通行手形というものの存在すら知らないらしい。とんちんかんな会話をしている。

「そりゃあこんな僻地に住んでて試合以外で外に出ないなら、通行手形なんて見せる場所もないよね」

「盲点だった……」

 ハナマキが呆れたように言うのを聞いて、マツカワは額を押さえた。

「やっぱ男同士、一度ぶつかって確かめてみるのが一番だ。そう思わねえか、リュウ?」

 ニシノヤが仁王立ちした状態で、タナカに同意を求める。血気盛んな法士は拳の関節を鳴らしながら頷く。

「その通りだノヤっさん。俺ぁ前から、あの優男な顔をぶっ叩いてみたかったんだ」

 同意しているようで、自分の願望しか言っていない気がする。

 和平に努めたい交渉役マツカワの視線は二人を行ったり来たりして、最後に恐る恐る中央の少年に向かう。

「おお……久しぶりの、アオバ城砦との実戦……っ!」

 新米はキラキラした瞳で感慨に耽っている。マツカワは溜め息を吐いた。

「ダメだコイツら。俺たちと戦う気しかねえ」

「マツカワ、よく言うだろ?」

 イワイズミが疲れを滲ませる交渉役の肩を叩き、白い歯を見せて笑いかける。

「郷に入れば郷に従えってな」

「いい加減、このルールが適用されてない郷に行きたい」

 マツカワは愚痴を零しつつも仕方なしに手形をしまい、錫杖を両手で構える。

「行くぞオメーらァっ!」

 タナカが吠え、他二人が鬨の声を上げる。闘志と歓喜に沸き上がる敵。イワイズミもハナマキもマツカワも、気を引き締める。

「みんな、一つ聞いてほしいんだけど」

 凪いだ声がかかった。

 三人は振り返る。オイカワは続けた。

「少しだけでいい。『俺に任せて』くれないかな」

















 タナカの後に続いてヒナタショウヨウは滑空する。空気のひやりとした感触が、昂揚した身体に気持ちいい。久しぶりのアオバ城砦チームとの戦闘だ。嬉しい。愉しくて仕方ない。目一杯楽しむには、ある程度落ち着かないといけない。それも分かっているが、頼れる仲間達はいつも「お前は全力でいけ」と言ってくれる。信頼に応えたい。

 翼で大気を強く叩き、タナカの前へ躍り出た。標的は四人。誰から相手をしてもらおう。

 流星の如く飛び込むヒナタの前へ、相手方から一人が進み出た。地面から浮き上がり、ヒナタを見据えてくる。

「お願いしまーっす!」

 ヒナタはその男に飛びかかった。アオバ城砦三年の壁役、名前は確か──マツカワイッセイ。

「カラスノ妖術、天狗の団扇!」

 渦巻く風をまとう拳を叩き込むが、マツカワの手から放たれた若葉色の光が弾き返す。防壁だ。展開速度、精度、威力。どれも高レベル。強敵の気配を感じ取り、背が震える。

 次々に拳と足を繰り出す。全て受け止められる。錫杖が自在に向きを変えては、ヒナタの手を足を打ち落とし、あげくヒナタの胴に強烈な一撃を叩き込む。喉の奥が熱く、苦くなる。

 拳に纏った旋風は、彼の背後まで届く勢いで打ち出しているのに。全て相殺されてしまう。

「すげえ……すげえ、すげえ」

 いつしか呟いていた。口角が上がるのを押さえられない。

 これだ。ずっ待ち望んでいた、乗り越えるべき壁。

 この壁を乗り越えた先で見る景色は、どれほど爽快だろう。

 ──超えたい、超えたい超えたい超えたい!

「烏飼式陰陽術、変幻壱の式……ッ」

 詠唱を始めた途端、マツカワが瞠目して後ろに飛んだ。

 開いた両腕に力が流れ込む。己に念じる。

 教えられた通りに感じろ、カラスノの地を彷徨う荒御霊を。

 ──お前は、小難しい詠唱はいい。長い間、共に戦う仲間に飢えてきたお前ならば、力を欲するその気持ちだけで、霊共は寄ってくる。ただ、一心に念じろ。

 監督の声が甦る。念じる内容は。

(力が欲しい。全てを食らいつくせるだけの力が、生き延びるための力が欲しい)

(俺の身体をあげます。俺の身体を好きに使ってください。その代わり、俺に力をください)

 荒涼の地に闊歩する気性の荒い精霊らと、己が身の内で共生せよ。

 この、植物も動物もまともに育たない大地では、それしか生き延びる術はない。

「悪食の外道ッ!」

 四肢に刃の如き烏羽が生えそろう。両手足の爪が伸びて、剣呑な刃へと姿を変える。円らな瞳孔が拡大し、虹彩はおろか白目まで漆黒に染まる。

 力が湧いてくる。相手を食らい尽くすまで止まらない、飢えた精霊らの力が、ヒナタの五体に漲る。

 高笑いと共に急上昇して、身体を一八〇度旋回させる。

「堕天使ヒナタのッ! 垂直地獄落としサンダァァァ!」

 頭からマツカワのもとへ突っ込む。漆黒の竜巻と化したヒナタの身体を、マツカワは錫杖で受け流す。だが弾き返されてもすぐ身体の向きを変えて突っ込むだけだ。

「垂直昇天御焚き上げファイヤーッ」

「地獄落としサンダーッ」

「ファイヤーッ」

「サンダーッ」

 弾かれては突っ込み、また弾かれてはもとの向きに戻って突進する。果てしなく、懲りずに突っ込んでくるヒナタに、さしものマツカワも内心冷や汗をかき始める。

 ──なんつー体力だ。人間の域、超えてるぞ。

 攻撃パターンは馬鹿の一つ覚えのようだが、速度と手数が多いために放っておく暇も与えられない。殺すわけにはいかないものの、あまり受け流してばかりではこちらがただでは済まない。マツカワが少年の相手をしている間に、他の仲間は別の奴らに攻められているのだ。

 ヒナタには悪いが、次に打ち返したら大技を仕込むか。

 再び突進してくるカラスを躱そうと、マツカワが錫杖を持ち直した瞬間だった。

 眼前に迫っていたヒナタが、ふとスピードを緩めた。

 躊躇った隙に、橙の頭がかき消える。探すが間に合わず、下から頭突きされた。もろに喰らったマツカワは宙を舞う。

 フェイントだ。コイツ、馬鹿の一つ覚えの攻撃パターンは以前と変わらないと思っていたが、わざとだったのか。

 ヒナタが追撃する前に、自らの意思で大きく飛んで距離を取った。

 顎が痛い。咄嗟に歯を食いしばっておかなければ、舌を噛み切るところだった。

「クソがっ」

 口の端から赤一筋を垂らし、マツカワは毒づいた。

 これだから、カラスノの狂戦士どもは。











 なんてヤツだ。

 戦うマツカワを一瞥したハナマキは、視界に映ったカラスノのルーキーの姿にぞっとした。

 小さな体躯に黒い靄が集中して、姿を烏天狗に変えていく。魔法職につくハナマキだから視えるし、理解できる。無茶苦茶だ。

 ヤツがやっているのは憑依術だ。烏飼式陰陽術というのがどんなものかは知らないが、眼前で起こっている現象くらいは推測できる。

 ヒナタは「烏天狗」を憑依させている。烏天狗は気性の荒い精霊で、精霊との交感術を専門にする召喚士でさえ、まず呼ばない精霊なのだ。いくらカラスノの民とはいえ、代償や媒体も無しにあそこまで動き回れるのはおかしい。

 恐らく代償代わりとして、あの黒い靄を呼び寄せているのだろう。

(死霊か? この地で亡くなった、恨みや怒り、嘆きを抱く霊を、烏天狗に捧げているのか)

 とんでもない荒業だ。召喚士、死霊使い、両方の技術がなければ難しい。

 しかし、あの小さな少年がそんな術を簡易詠唱で扱えるとは思えない。

(「カラスノの黒い翼」は奴らだけに伝わる妖術。一般的な術ではなく、独自にアレンジされた降霊術なんだろう)

 精霊との契約の方法は、二つある。一つは精霊と一対一で約束を交わすやり方。召喚士は基本的にこの方法で精霊と契約する。もう一つは、代表者を立てて団体の全員と精霊とが契約するやり方だ。ハナマキがダテ工業都市衛兵部隊と交わした誓いはこれである。

 恐らくカラスノも、後者の方法で烏天狗の一族と契約しているのだ。代表となる召喚士が一人、そして代償として贄を捧げる術を持つ者がもう一人いて、この二人が全体に烏天狗との契約を結びつけている。

 しかしそれにしても、あのルーキーの術の使い様はおかしい。あんなに激しく力を使って、糧となる死霊と自身の身体が保つはずがない。贄の吸収は本人の資質か、またはサポートする何者かが近場にいるのか。

「よそ見してる場合かなぁーッ!?」

 灰色の何かが突撃してきた。躱すと別の方向から複数飛んでくる。灰色の物質は、どれも小さな地蔵だ。何十体という地蔵達が、ハナマキの周囲を殺人的な速度で縦横無尽に飛び回っているのである。

「タナカ流法術、針坊主地獄の威力はどうよ」

 離れたところから仁王立ちする男が吠える。タナカリュウノスケという名前も、法士という職業も、今日初めてまともに知った。

 マツカワの言うように攻撃力がとにかく高い。小さな人形をタックルさせるだけだなんて、馬鹿みたいな攻撃方法だと笑う戦士は、まず死ぬだろう。殺傷能力が高いから、単純な攻撃法で通用するのだ。

「いやー、すっごいね」

 ハナマキは薄笑いで答える。 

「すごすぎて、まともにやり合うのは勘弁して欲しいなって思うわ」

 話しつつ躱しつつ、上空と地上の様子を窺う。

(おお、めっずらし。マツカワが絶対殺すマンになってる)

 マツカワはヒナタショウヨウ相手に手加減をするのをやめたようだ。致命傷になりそうな場所を避けていた錫杖が、一撃で落ちる場所を狙うための動きに変わっている。

 一方地上では、阿吽のコンビがタナカの人形地獄を躱すために健闘中らしい。軽口もたたき合っているらしい様子を認めて、ハナマキは内心思う。奴らは大丈夫だろう。今はああして温存しておいてもらわないと。

 問題は自分だ。マツカワはヒナタの相手にかかりっきりになっていて、まだ撒くまでに時間がかかりそうだ。だから自分は、このタナカという坊主ともう一人、ヒナタとタナカから等間隔の後方に控えるニシノヤを相手取らなくてはならない。

 タナカについては、攻撃を喰らわないことさえ気をつければ、挑発に乗りやすそうなのでどうにかなりそうだが、ニシノヤは一筋縄ではいかない。

 ニシノヤユウが天才聖騎士と呼ばれる理由は、タナカに一撃二撃喰らわせてみてすぐ分かった。

 攻撃が恐ろしく通らない。ニシノヤの守護が巧みなのだ。施す防護の威力が優れているだけでなく、味方に向けて放たれた攻撃一つ一つに適した守護の術を、瞬時に、多彩に使い分けて掛けられるのである。ヒナタに対するマツカワの攻撃が、本来の威力を発揮しないのも、彼の慧眼が原因だろう。

 ニシノヤレベルの聖騎士となれば、彼自身にも、彼の守護する者にも、まず攻撃は利かないと思った方がいい。だから、ヤツらの制圧は諦めるべきだ。

 ──あくまで、打撃での制圧は、だけどな。

 以上。思考にかけた時間、一呼吸の半ば。

 それで支度は整った。

「でも、なんつーのかな。飛んでるもののデザイン、イカしてるよね。お地蔵様? 俺は好きだけど、こう」

 ハナマキは無表情をあえて崩す。微かに笑って、タナカを見上げた。

「かなり特殊というか──」

「モテなくて悪かったなァァァァァァッ!」

 タナカが血反吐を吐くように絶叫した。案の定、挑発に乗った。最後まで言ってないじゃん、と言いたかったが、地蔵達の形態が変化したのを見てそうも言っていられなくなった。

 人形達が止まった。坊主頭から髪が伸びた。よく見ると毛髪ではなく、無数の針である。

 何十体という地蔵達がハナマキを包囲して睨んでいる。伸びた無数の針が皆、こちらに向かっている。

「おい、褒めたのに」

「問答無用じゃあッ!」

 タナカの一喝と同時に、地蔵たちの目が輝いた。

 ──来る。

 指先まで魔力を漲らせ、ハナマキは唇を湿らせた。

 ここから先、一瞬の気の緩みも許されない。 

 針が放たれる。

 刹那、呟く。

「《苧環》」

 ハナマキの両手足に、頸に、魔方陣が枷のように展開する。

 ──魔法威力の底上げ。

 その煌めきが失せる前に告げる。

「《鳥兜》」

 紫紺のオーロラが、ハナマキを軸として同心円状に広がる。

 妖艶な輝きは飛来する針をなべて飲み込み、腐食する。

 ──猛毒。

「《擬宝珠》」

 桃色を帯びた淡紫の宝珠が九つ出現。タナカのもとへ飛んでいく。

「危ねえっ」

 ニシノヤが両手を悪友へ向ける。

 タナカを包んだ夕陽の如き防壁と珠が衝突し、爆発。弾けた宝珠から飛散した液体が地面に落ち、じゅわりと地や木を黒く枯らす。

 ──死の塊。

「悪ぃ」

「気を付けろ! まだ来──」

「《林檎》」

 夜の天蓋に満月と紛う純白の花が咲く。

 月影をまとう花弁が散り、残された夜闇から血のような林檎が滴り落ちる。

 頭上より迫る林檎へタナカが掌を広げれば、地蔵が集まり大鐘と化す。

 林檎と鐘がぶつかる。

 鈍い音、瞬転、収縮する林檎。

「うおっ!」

「わぁーっ!」

 消えるかに見えた林檎は炎球へと姿を変じ、何万倍にも膨張して辺り一帯を包んだ。燃えこそしなかったものの熱風に煽られ、タナカもヒナタも、さらにはマツカワまで飛ばされる。

 ──天の業火。

 大気が焦げている。 瞼を閉じて片手を上げる。

「《素馨》」

 ハナマキがひと撫でして生じた風は香気を伴って大気を吹き抜け、業火に苦しむ大地を撫でる。

 すると地を蹂躙する炎が消え去り、それどころか燃え尽きたはずの木々が元通りに生えてきた。

 ──生命の循環と再生。

 仕上げだ。

「《卯木》」

 闇を切り裂き流星が地に降る。まばらに生えてきた木に惑わされず、その狭間に隠れていた男達を照らし出した。

「いってぇ!」

「まぶしッ」

 タナカとヒナタの声が聞こえた。二人が木の陰から空中へと舞い戻ってくる。そこへニシノヤがすかさず守護の重ねがけと治癒の術を施す。

「大丈夫か」

「はい、ありがとうございます!」

「なんだってあんな早ぇんだ、くそっ」

 寄ってきた二人はそれぞれ感謝、悪態を口にしているが元気そうだ。ニシノヤはまだハナマキから目を離さずに言う。

「早詠みだな。腕の良い魔法使いが使える技だ。魔法使いは詠唱に時間がかかるから、どうしても呪文を唱えている間、無防備になっちまう。その問題を解決しようとして、あの技が生まれた」

 首を傾ける。

「しかし、妙だな。アオバ城砦の衛兵部隊に、あんな使い手いたか」

「さあな。最後に対戦したの、ヒナタが入隊した頃が最後だったから、覚えてねえ」

 先程までの騒動が嘘だったかのように静まりかえる、禿げ山の夜。

 深い闇の中に森は眠っており、いつの間にか姿を消したオイカワ、イワイズミ、マツカワの消息すら聞けそうにない。

 その上空で一人、風を纏い浮く男の姿を、ニシノヤは思い出せない。明るい茶なのだろう髪は、妙に赤く浮き立って見える。オイカワほどの見事な体躯ではないが、なかなか上背があるのだ。しかもこの、魔法の腕だ。

 昨年のアオバ城砦との模擬試合にこそいなかったニシノヤだが、その前の年は試合会場で彼らの試合を見ているはずなのだ。これほどの腕前ならば、二年前だって戦線に駆り出されているだろう。いくらアオバ城砦の人員が多いとはいえ、全く記憶がないなんておかしい。

 さらに、アオバ城砦の戦士の多くは中等学校からの引き抜きだ。余計、その頃から戦いの最中にいた自分に、見覚えがないわけがないのだ。

「でも助かりました! ニシノヤ先輩の守りがなければ、死んでましたね!」

 ヒナタが明るく言う。全くだと同意するタナカの声は、ニシノヤの耳に入らなかった。

 ──そうだ。この俺が守ってるのに、なんであんな派手な魔法をかましてきたんだ。

 驕っているわけではない。普通の衛兵部隊相手ならばこんなことは思わない。

 今回の戦いの相手は、あのアオバ城砦なのだ。

 ──オイカワさんはきっと、どこかしらでニシノヤさんを狙ってきます。ニシノヤさんは俺たちの守りの要です。いつだってチームの軸を完膚なきまでに折るのが、あの人でしたから。

 聞いた話が脳内に甦る。

 衛兵部隊の情報に通じたオイカワトオルを擁するチームが、最上級の黒魔法すらしのげる己がいることを知っていて、何故ここまでした?

「ノヤっさん……」

 我に返って息を飲んだ。

 上体を折ったタナカの顔が青くなり、肩が激しく上下している。並の様子ではない。

「リュウ!?」

「身体に、力が入んねえ……」

「タナカさん!」

「触るな、ショウヨウ」

 ヒナタを制して、ニシノヤはタナカの肩を抱えた。背中の羽根が消えかけている。魔力が急激に少なくなっている。加えて体力の著しい低下、身体の麻痺、信じられないことにニシノヤのかけた加護の呪文すら消えている。

 先程敵が放った猛毒か? それにしては、効きが遅い。あの攻撃を喰らった時、対抗魔法はニシノヤが施していたはず。

 ──リュウは直接的な攻撃なんて喰らってねえ。コイツがもらった呪文も、全部見てたが、必要な黒魔法対策はしてたはずだ。

 となると、残る可能性はこれくらいだろう。

「早詠みの呪文の中に、更に別の早詠みの呪文を織り込んでやがったか」

「ご明察だ」

 返事は思いがけないことに、本人から返ってきた。

 ニシノヤがキッとそちらを見ると、ハナマキは肩をすくめて両手を挙げた。

「怒るのは仕方ねえけど、先に仕掛けてきたのはお前らだからな? 俺たちは捜し物でここに来ただけなんだ。こっちだって、野宿続きでいい加減ベッドで寝てーんだよ。何でこんなことになっちゃうかな」

「このカラスノで、そんな簡単にっ、余所者を入れるわけがねえだろっ……」

 タナカが呻く。ヒナタが心配そうに先輩に寄り添う。

 そんな戦士たちを眺めていたハナマキは、小さく溜息を吐いた。

「切迫してるのはここも同じか。命まで削れるような術じゃないから安心していいよ。仕組みを教えるから、代わりにカラスノに入れてくれる?」

「誰が、他市に里の場所を教えるか」

「俺のことはいい、からな……」

「おーい、勘弁してくれよ」

 あくまで譲る気のないニシノヤ、タナカを、更に説き伏せにかかる。

「普通の状況ならばそう言うのも尤もだけどな。状況、分かってる? 正式に入城しようとしてきた俺たちに、先に手を上げたのはそっちだろ。先に手を上げてきたってことは、同じように手を上げられても仕方ないって納得してるってことデショ?」

「まだです」

 ここでヒナタが口を開く。まっすぐな瞳でハナマキを見つめる。

「まだ、勝負はついていません」

「何がお前らをそう、かたくなにさせるんだか」

 ──お前らだけじゃないけどな。

 ハナマキは言いながら、別の者の顔を思い浮かべる。

 最初こそ積極的に指示を出しておきながら、今のところ動きがないあの男のことを。

「お前ら、何でこんな所まで来ちゃったんだ」

 ハナマキが言っても、ヒナタは勿論、タナカもニシノヤもきょとんとしている。

『マッキー』

 もう、いいよ。

 声がする。

 ハナマキは瞳を閉じた。

「遊びは終わりらしい」











 マツカワもハナマキもよくやってくれた。二人の活躍が、『目標』を定めるのに大いに役立った。

 まずマツカワが一番狙い目の小さなカラスと踊ってくれたお陰で、「カラスノの黒い翼」の正体を見られた。

 召喚術、降霊術、死霊術の組み合わせ。カラス一羽一羽がいちいち全てをこなしているわけでなく、仕組みを一羽一羽の中に刻み込んだ者が他にいる。その正体は置いておく。

 注目すべきは、烏天狗の力を引き出す死霊をどうやって効率よく回しているかだ。

 一羽一羽がうまく加減しているようには思えない。先輩カラス二羽は勿論うまくやっていた。だが、それにしたって、そんなに都合良く荒ぶる御霊を喚べるものか。

 この周辺で、隠れて支援している者がいるのだ。

 そいつが『目標』なのだと、気付くことができた。

 では『目標』はどこにいるか。

 それを教えてくれたのが、ハナマキの魔法だ。

 早詠みを連続して、《林檎》で辺りが火の海になりかけた時、逃げた者の姿は見えなかった。つまりマツカワハナマキとカラスノの三人が打ち合った辺りにはいなかったのだ。

 その後唱えた光の魔法《卯木》は、光の照らされる範囲にいた敵を全て攻撃する。光は果たして、表に出ていた三羽烏しか撃たなかった。

 即ち、『目標』は光の届かない所にいる。

 そして最後に、ハナマキはいい手がかりを作ってくれた。

 ハナマキは早詠みの呪文を六つ連続し、その中に七つ目の呪文を織り込んでいた。

 その名は《弟切草》──ハナマキは確か、簡単に説明するならデバフというものだと言っていた。それもかなり強力で、ほぼ呪毒に等しいという。

 ニシノヤがタナカを回復させようとしても、タナカの方にそれに応えられる体力がなかったら、回復することさえ適わない。いわゆる戦闘不能状態に陥る。

 今、カラスノに戦闘不能になった仲間を回復させない理由はない。タナカに回復できるだけの力を持たせるために、新たな死霊の贄が必要だろう。

 ニシノヤとヒナタにそんな器用な芸当は出来ない。

 目を瞑って、五感を更に超越した感覚を研ぎ澄ます。

 先程燃えた場所から離れた、光の射さない場所。加えて、荒野を彷徨う霊力を、タナカに向けて送り込もうとする気配。

 ──遠くにいても様子が見られるのは、お前だけじゃないよ。

 草を踏み分ける音さえ立てず、目的地に近づく。

 その場所は戦地から一キロメートルほど離れた、岩の高台の上にあった。影になっていて分かりづらいが、明らかに自然の洞窟ではない、人工の戸がついている。

 戸を引く。

 中で目玉がぎろりと光った。

「あれ、トビオちゃん。こんなところで高見の見物?」











 遠方から轟音が響いてきた。カラスノの三羽は弾かれたように振り返る。

 聳え立つ岩山の一つから、豆粒のようなものが二つ飛び出してきた。その間を流星の如き筋が行き来する。魔法矢だとハナマキは気付いた。

「カゲヤマが見つかった!?」

「いつの間に」

 ヒナタが、ニシノヤが驚愕する。ヒナタは相棒の姿を見ようとしたのか、目を凝らして──瞳孔がもとの色に戻っている──すぐに細めていた双眸を丸くする。

「あれ? カゲヤマと戦ってんの、大王様だ。いつあんな所まで行ったんだろ。さっきまでそこの地上で戦ってたのに」

「幻だな」

 タナカが吐き捨てた。

「どおりでうるさくねーと思ったぜ。幻なのを誤魔化すために、ずっと傍にそっちのエースがついてたんだろ」

「そ。あの二人、気配がすごい似てるから」

 ハナマキはにやりと笑った。

「ちなみに他の二人、何してると思う?」

 三人が周囲を見回した時には遅かった。

 彼らを中心として、巨大な正三角形の光柱が立ち昇る。

 ハナマキを一柱として、残り二柱にそれぞれイワイズミ、マツカワがいる。

「お前らの力の供給源と分断させてもらった」

 マツカワが言う。この封印の陣を中心となって仕掛けた張本人だ。ハナマキとイワイズミは、彼が定めた封印の条件の一部に過ぎない。

「カゲヤマッ」

 正三角形の外へ飛び出そうとしたヒナタが、封印の壁にぶつかって弾かれた。

「もういいだろ。君らさ、何でこんな所に来ちゃったのかね」

 マツカワが言う。先程ハナマキが放ったものとほぼ同じだが、続く言葉は違った。

「本当に間が悪いよ。何でよりによって、アレまで連れてきちゃったかな」

 ああなると俺たちには止められない。もう止そうよ。

 マツカワは錫杖を担いだ。

 ヒナタはまだ食い入るように結界の向こうを見ている。ニシノヤはタナカの治癒に努めていたが、法士は添えられていた手を自ら払った。背中に羽根が復活していた。

「力尽くで出るぞ」

「リュウ、お前の力は……」

「俺の力は、烏天狗のだけじゃねえ」

 タナカが懐から数珠を取り出した。おもむろに念仏を唱え始める。

「タナカ流法術、奥義──」

 地鳴りがする。

 眼下の丘が隆起して、ヒトの頭らしきものが盛り上がる。さらに肩、腕、胴、腰、足、と盛り上がり、ついに地面から姿を表しきった。

「タナカ大仏、召喚!」

 巨大な大仏が光の壁に拳を叩き込む。正三角形の結界はあえなく崩壊した。

 ついでニシノヤが身構え、ヒナタの瞳孔がまた闇の色を帯びる。

 マツカワはちらりと脇を見た。イワイズミは無言で剣を抜いている。

「二回戦、開幕か」

 本日二度目の調停に失敗したマツカワは、大きな溜息を吐いた。
















 狩人は自然を生き抜く術を極める職だ。精霊と意思疎通し、死霊と和解し、魔物を力でねじ伏せる。そうしているうちに、おのずと魔法と武術に優れていき、中には精霊界を視ることができるようになる者までいる。

 魔法を使う上で相性がいいのが、弓という武器だ。獲物を狩るのにちょうど良く、神具でもあったこれを好んで使う狩人は多い。

 オイカワも幼い頃から弓術を極めようとしてきた。その途で現れた障害の一つが、カゲヤマトビオだった。

 カゲヤマは弓の天才だった。弓を扱うのも、それに合う魔法に触れ、精霊の力を合わせるのも、楽しくてたまらない様子だった。

 二つ下の級でキタガワ第一中等養成学校に入ってきたカゲヤマは、当時チームで一番弓と魔法に優れているのがオイカワだと、いち早く気付いた。円らな瞳が自分を追いかけてくるのが悪い気分でなかったのは、本当に最初の数日程度のみだったと思う。

 弓を手にしたカゲヤマを見て、また弓無しで容易に魔弓矢を仕立て上げる小さな手を見て、身体が震えた。

 妬んだ。

 疎ましかった。

 惨めだった。

 地に這いつくばるまで練習しても、負の感情は膨れ上がる。己の身の丈が見えてしまう。

 あいつとの器の違いが、分かってしまう。

 行き先が見えてしまう。

 見たくない。

 それでも無邪気で希望に満ちあふれた才能の塊は、わけのわからない真っ暗な感情で身動き取れないオイカワに、教えを請うた。 

 あの無垢な輝きが、どれだけ煩わしかっただろう!

 のたうつ己が、どれだけ惨めに思われただろう!

 幸いにして、相棒の助けでオイカワは立ち直れた。思えばあの時が、天から与えられたものに頼らず頂を目指そうと決める、明確なきっかけだったのかもしれない。

 以来、己は己、後輩は後輩として、カゲヤマを憎たらしいほどの才能だと思うことはあっても、憎むことはなくなった。カゲヤマが溢れる才能を台無しにするほどの独善的な性格であったのも、オイカワの劣等感を煽られない原因の一つとなった。

 そうして、憎たらしいほど才能に溢れた王様気質の後輩は、ライバルとなった。

 潜伏していた洞窟を飛び出すカゲヤマは、新しく生えた黒い翼で空を駆ける。その姿を地上から狙う。

 逃す気はない。こいつの実力を図るため、仲間たちに囮役を引き受けてもらったのだから。

 後輩は変わった。頂の景色を望む身としては、どれだけの脅威となるか確かめておきたいところだ。

 黒い翼の生えた後輩は滑空しながら、変わらずの不敵な眼差しで地上のオイカワを捜し当て、狙い撃つ。

 飛来する矢は、草木を器用にくぐり抜けて迫る。まばらな木々しかないため、こちらの姿は丸見えだろう。それでも奴らの得意とする空の上で戦うつもりはない。せいぜいあちらに寄ってきてもらおう。

 ──アイツの装備は狩人のスタンダード。持っている弓の他に武器は見当たらない。それを素直に信じるなら、勝負の仕方も狩人のやり方だけか。

 他に隠し球を持っていなければ、そのはずだ。

 カゲヤマの使う黒塗の弓は、キタガワ第一の頃にも使っていたモノだ。完璧な勝利に固執する彼の姿勢に、よく似合っていた。

 しかしそれと同等か、またそれ以上に、新しく背に生やした漆黒の翼とも似合いだった。

 隠し球があるならば知りたい。

 オイカワは自らの魔力で生み出した弓矢を絞り、放った。一筋の矢と言うより光の奔流がカゲヤマへ至る空間を貫く。

 後輩がひらりと躱したところへ更に一撃、もう一撃と加えていく。

 重い連射を繰り返しつつ、オイカワは口の片端を上げる。

「さて、楽しませてもらわないとね」








「合掌!」

 巨大な掌が押し迫る。逃れたハナマキの眼前で、強烈な風圧を伴って掌が合わさる。

 その上へ、イワイズミが落ちてきた。瞬く間に腕を駆け上り、ひっさげた大剣を肩に乗る操り手へと叩きつける。

「はっははァ! そうは問屋が卸しませんなあッ」

 タナカは首の後ろへと跳ねて避け、反対の肩へ乗る。

 大仏の手がイワイズミの乗る肩を叩く。一拍早く退いた戦士は、自らを押しつぶそうとした腕を伝ってタナカのもとへ飛びかかる。

 タナカ大仏の身体を舞台に、イワイズミとタナカは軽業師の如く跳ねて踊り狂う。タナカもイワイズミも、どちらも現在飛翔の技を使っていないのだから驚きだ。

 ──イワイズミは飛翔の技が使えないからどうなるかと思ったが、今のところサポートは必要ねえな。

 ハナマキはエースの活躍に頷き、厄介なアタッカーを任せることにする。

 一方、少し遠くへ目を向ければマツカワとヒナタ、ニシノヤが応戦している。否、応戦というより、カラスノの二人がカゲヤマのもとへ向かおうとしているのを、マツカワが阻んでいると言った方が近いのかもしれない。

「カゲヤマっ、カゲヤマーっ!」

 無鉄砲な体当たりを繰り返すヒナタは、またマツカワの前に広がる魔方陣に弾き返された。鈍色で描かれた陣を見て、ハナマキは眉を持ち上げる。

 あれは明鏡止水の陣──術の使用者の魔力が尽きない限り、設定された衝撃以下の物理攻撃を弾くという、上位の防御術である。ヒナタの攻撃を散々受けたマツカワだから、彼の与える衝撃がどの程度のものかはある程度読めてしまっているのだろう。加えて聖騎士は他者を傷つけることを禁じられているから、ニシノヤの応援は期待できない。

 カラスノのヒヨッコにするには可哀想な仕打ちのように思うが、今しばらく壁の前であがき続けるしかないようだ。

「ショウヨウ、落ち着け。今解呪できるか試してるから」

「でも、カゲヤマが」

 先輩が宥めてもカラスの子はやめようとしない。何度もマツカワを通り抜けようとしては打ち返される、その懸命な様子を、ハナマキは眺めるともなしに眺める。

 ハナマキには、この戦いの間、ずっと気にかかっていたことがあった。

 ──カラスノの奴ら、なんか妙だな。

 好意的に受け入れてもらえないのは、ダテ工業都市の例もあるから分かっていた。

 それにしたって、カラスノの連中が自分たちに立ち向かってくる様子に、釈然としないものを感じる。

 攻撃に特化した部隊だというのは、マツカワから聞いて知っていた。だが、その攻撃にかける姿勢がおかしいように思う。

 いくら戦いが好きな連中とは言え、衛兵部隊として忠誠を誓う者が、わざわざ夜番を放ってここまで来るだろうか。

 最初は面白半分で来てその場の勢いで襲いかかってきたような様子だったのに、追い詰められて見せた表情には本気の警戒が見えた。

 特に今、カゲヤマというオイカワの後輩が見つかった途端、奴らの見せる顔は一変した。

 ヒナタは、カゲヤマが見つかった途端、驚愕を露わにして真っ先にそちらに飛んでいこうとした。

 タナカとニシノヤは比較的まだ落ち着いている。しかし、タナカの見せる技はどんどん大きくなっていくし、ニシノヤは防壁の解呪などという、常人には取りかかりたくない大技に挑もうとしている。

 ──何だ、この感じ。

 ハナマキは視線を移す。必死に挑むヒナタの攻撃を、何食わぬ顔で相殺し続ける、マツカワイッセイという男へと。

 ──お前は気付いてるのか?

「え、あれ」

 ヒナタの声が俄に固くなる。

 ハナマキは見る。遠方、上空に浮かぶカゲヤマの眼下、森の中に数点、ちらちらと夕陽の煌めきを帯びた漆黒の光がある。

 一目で気付いた。魔方陣だ。それも、召喚のための陣。

 肌が粟立つ。あれはオイカワのものではない。恐らくその、後輩のものだ。

「カゲヤマの召喚陣じゃねえか」

「くそ、アイツそんなに追い詰められてるのか?」

 ニシノヤ、タナカの声がする。凝視する先に、それは訪れた。

 地上から放たれた黒き光が天の黒雲を穿つ。夜空に描かれた召喚陣より、雄大な体躯が現れる。隆起した背中は、山かと紛う程。頭は馬、背にはカラスの翼。腕は六本、大きな三叉槍と大槌を持っている。一度大きく羽ばたくと、森が震えた。

 天魔だ。背に天翔る鳥の腕を負う、誇り高き修羅の一族である。

 ──あんなものを召喚できる衛兵がいるのか。

 ハナマキは唾を飲む。

 天魔は振りかぶった大槌を振り上げる。天から何本もの稲妻が迸り、地を焼く。煙の上がる森に、人の気配は窺えない。

 それでもじっと待つと、森から天へと太い閃光が駆け抜けた。それが夜空を貫く瞬間、中心から召喚陣が花開く。爽やかなミントグリーンの光が地に落ちた傍から、異質な気配が滲み出る。

 ──水の気配だ。

 涸れた土地から、そんなものが出るはずがない。それでも、地中から姿を現したものがあるのに間違いはない。

 尾ひれのついた長い身体は魚のよう、八尾に分かれ、それぞれの先が鋭利な鞭のように尖っている。身体の上部に続くは四本の腕生える、艶めかしい女の裸体。顔貌こそ人であるものの、鼻から上に編んだ髪が巻き付いているために、表情は窺えない。

 こちらは妖魔だ。精霊界の深いところに潜む、神秘の海を掻く足を持つ魔族。

「水の音がする」

「そんなわけねえだろ。気のせいだ」

「でもほら、煙が消えてますよ」

 ヒナタとタナカが会話する通り、地上に立ち上っていた煙が消えている。更には細波の音がする。精霊界の気配がすぐ近くまで来ているのを、ハナマキは感じ取った。

 二体の巨獣は向き合う。天魔が三叉槍を大きく振りかぶり、落とす。穂先が胴の脇を断ち、妖魔が叫ぶ。身の毛のよだつ絶叫が、天魔の皮膚をぴしりぴしりと引き裂く。ハナマキたちは戦いをやめて耳を塞いだ。

 天魔が妖魔を傷つける度、女の声が放たれる。天魔の皮膚が、翼が裂けていく。滴る血が遠目にも分かる頃、妖魔は女の口に武器を突き込む。裂けた女の口が蛇の尾へと変わり、いつの間にやらあの鞭の如き八尾が槍を絡め取り、大地に括り付けていた。そして女の尾だと思っていた方に、女の顔があり、白い歯を見せた女は嘲笑を上げる。

 天魔が尾に絡みつかれる。彼が膝を地に着く直前、今度は天にまた漆黒の召喚陣が閃いて翼を持つ獅子が駆け下りてきた。

「この妖怪大決戦、いつまで続けるつもりなんだろうな」

 タナカ大仏に座り込んだイワイズミが言った。全くだ、とハナマキは返した。

「妖怪コウハイイビリに教えてもらいたいよな」

「クズカワは陰湿だからな」

 二人して頷き合う。

「マツカワも呼ぶか。クズをそろそろ止める方法考えんべ」

「そうな。おーいマツカワ……あっ」

 ハナマキは見た。天魔と妖魔の合戦の被害がこちらに及ばないよう陣を張り直そうとしたマツカワの脇を、橙色の小さなものがすり抜けていくのを。







「トビオは、相変わらず色々呼ぶのが好きだねえ」

 新しくやって来たグリフォンが妖魔に噛みつくのを見て、オイカワは笑った。

「精霊と交信するの、得意だったよな。そのくせ、人間とのコミュニケーションはどーしようもなかったけど! キンダイチとクニミちゃんを何度怒らせたっけ?」

「…………」

「驚いたよ。お前の言葉を受け止めてくれる人間も出来たんだね。あのチビちゃんがあれだけ大暴れできたのは、お前がチビちゃんの魔力コントロールを代わりにやってあげたからだろ。他のメンバーがあれだけ好きに動けていたのも、お前の力が働いてるからだね」

「…………」

「狩人は獲物を狩る以上に、獲物を理解し、生きとし生ける者を理解し、魂を持つ者を理解し、生活を共にする森羅万象を理解せねばならない──狩人はただ弓の腕を磨くだけでなく、魔法の腕、精霊を視る目をそろえなければならない。徹底して極めれば、勇者に等しい力を手に入れることができ、かつ、勇者でないたくさんの仲間に、勇者以上の戦闘力を発揮させることもできる職だ。仲間に精霊の加護を施すことも、身体能力や魔力の底上げをするのも、俺たちの仕事。それが少しは分かってきたのかな」

「オイカワさん」

 カゲヤマは振り向いた。三日月を背後に、昔の先輩が浮いていた。

「いつ、そこに来たんですか」

「教えてあげなーい!」

 舌を突き出す。

 カゲヤマは優れた鷹の目の能力でオイカワの位置を掴んでいた。それを少し、あの妖女の怪音派で狂わせてやっただけだ。

 少し考えれば分かるだろうに、オイカワの口から答えを聞きたがるところが憎たらしい。貪欲な向上心は相変わらずだ。

「でも、人魔合体はできてないの? 散々やりたがってたのに。キンダイチにもそれで無茶ぶりして愛想尽かされたんだろ? てっきりお前のソレが久しぶりに見られると思って、期待してたんだけど」

 オイカワは昔の後輩の顔を覗き込む。背丈はぐんと伸びたが、妙に純真で生意気な顔立ちは変わりない。吊りがちの目の縁が強ばっている。

「それとも、これから見せてくれるの? 対象はあの、チビちゃんかな」

 引き結んだ口元に、ぐっと力が籠もる。

「カゲヤマーっ」

 奇しくもその時、戦う精霊たちを避けるようにして、ヒナタが一直線に飛んできた。

 背中を向けていたカゲヤマは気付かなかったのだろう。びくりとして振り返ると、目に映った光景に絶句して、開口一番叫んだ。

「来んなボゲェーッ!!」

「ぶふっ」

 オイカワは噴き出した。

「ちょっとトビオちゃん、分かりやすすぎて笑っちゃったじゃん。何で来させないの。人魔合体見たいって言ってるのに」

「アンタは」

 カゲヤマが視線を戻す。向いた顔を見て、オイカワは笑いを収めた。

 元後輩が、見たことのない顔をしている。いつもの無愛想な顔のようでいて、目の開きがちなところも、眉の形も、唇の力の入り方も、全く違う。

 これに近かった後輩の表情はどれだ。

 疑問? 警戒? それとも……。

 ──恐怖? そんな、この状況でトビオが恐怖なんてするわけがない。

 召喚した精霊は二体。こちらは上位精霊とは言え、一体。味方も迫ってきているのに、どうして。

「貴方は誰なんです」

「……は?」

 オイカワは目を瞬く。考えていたことが頭から失せた。

「え、誰のこと言ってるの?」

「貴方はオイカワさんじゃない。俺は、貴方を知らないです」

「あー……そういうこと?」

 オイカワは自分の身体を見下ろした。魂だけの状態であることを言っているのか。視る眼が良すぎて腹が立つ。

「お前に言うのは癪だけど、確かに俺は完全な状態じゃないらしいよ? でもお前、このオイカワさんに向かって『知らない』はないだろ」

 言いながら、オイカワは自分の眉根が寄っていくのを自覚した。

 カゲヤマの様子がおかしい。眉根を下げて目を瞠り、微かに、繰り返し首を横に振っている。

「それも、知らないです。俺の知っている……オイカワさん、は、そんな話しない」

「どういうこと?」

「俺にそんな調子で話しかけない。似てるけど、違う。もっと……」

 弓を握る手が震えている。カゲヤマは絞り出すようにして言う。

「殺すような眼で、俺を見ていた」

 ──見るな。

 言葉を聞いた途端、身体の温度が急激に下がるのを感じた。オイカワは腕を動かそうとして、動かないことに気付く。心臓だけが狂ったように跳ねて、冷たい血潮が全身を巡る。

 何だこれは。異常を解決しようにも、口さえ動かない。

 カゲヤマが何かしたのか? だが目の前のカゲヤマは、依然として戸惑うような眼でこちらを見ているだけだ。

 ──見るな。その目で、俺を見るな。

 代わりにふつふつと込み上げてくるものがある。オイカワはそれをどこかで感じたことがある。

「殺すような、じゃないよ」

 勝手に口が動く。

「殺そうと思ってた」






 最初に異常に気付いたのは、ハナマキだった。

 ヒナタが飛び出したのを追うマツカワを眺めていた。そうして、ふと目が止まったのだ。

「なあ。オイカワ、なんかおかしくね?」

「あ?」

 イワイズミに指さして示す。

「ほら。魔力が跳ね上がって──え?」

 ハナマキの指が固まった。

 悲鳴をあげながらグリフォンと天魔を相手取っていた妖女が、どぷりと音を立てて姿を消した。機を同じくして、オイカワの周囲に灯火が集まり始めたのだ。

 ペールグリーンの淡い緑が、次第に強く発光し、あたりが白く白く染まっていく。オイカワの周囲へと綺麗に円を描いて集った灯火が、ひときわ強く輝いた。

 ──まずい。

 ハナマキは、その正体を知っていた。

「マツカワぁッ!」

 吠えた直後には、応えた男が両手を前へと突き出していた。

 オイカワに集う灯火が一直線にカゲヤマを射す。しかし間髪入れずその間へ滑り込んだ防壁が、光を押しとどめ、砕け散って爆ぜるだけに留めた。

 その隙にカゲヤマが滑空して逃れる。あとをオイカワの目が追う。あの、強烈な灯火の輪を残したまま。

「カゲヤマっ!」

 カラスノの男たちがチームメイトの元へと滑空する。しかしオイカワの放つ灯火がその行く手を阻み、うまく近づけない。

「あの威力。攻守共にソツのない形……間違いねえ。話には聞いてたが、アレが《日輪》か」

 ハナマキは腕をさする。イワイズミが鋭い目を向ける。

「そりゃあ何だ」

「俺らが知らない頃のオイカワの、必殺技だったらしい。光属性魔法を超高濃度で凝縮して放つ、光の矢の群れっつーより大砲みたいな技だ。あの、光が円型に並ぶところから名付けられたのが《日輪》って名前。アレをまともに受けて無事だったヤツはいねえから、国内屈指の絶技だ、殺戮光線だって呼ばれてたそうだ」

 まともに見たことがあるマツカワじゃなきゃ、防げなかったな。

 呟いて、また鮮烈な光彩を放ち始めた日の輪を認めたハナマキは双眸を眇めた。

「厄介なのは、あの威力だけじゃない。見てろ」

 再び光線群が放たれる。再びマツカワが防壁で散らすが、今度は消えることなく、弾かれた後軌道を戻して、森へ入ったカゲヤマの後を追い始めた。

「ああやって、光が届く所ならばどこまででも追っていく。あのカゲヤマってヤツはよくやってるよ。普通なら、光が放たれた瞬間、貫かれて終わりなんだ。それをどうにかして、光がまっすぐ届かないようにしてるんだろう。ニシノヤの護りもあるんだろうが」

 ここでハナマキは、離れたところで食い入るようにカゲヤマの消えた辺りを凝視するカラスノの聖騎士を一瞥して、

「狙われている本人にも頭がないと、飛んだくらいじゃあ避けられない」

「おい」

 イワイズミが遮るのが珍しくて、ハナマキは僅かに瞠目する。

「どうした」

「やばいぞ」

 エースの指さす先を見て、驚く。一瞬、森からカゲヤマの姿が見えた。オイカワの追尾対策だろう、漆黒の靄を纏っているその身体が、赤く焼けて血を流していた。

「喰らったのか。まずいな」

「オイカワ!」

 イワイズミが叫ぶ。だがオイカワはこちらを見もしない。《日輪》を伴い空中に留まったまま、首を回してカゲヤマのいるのだろう方向だけを虚ろな目で追っている。

「オイカワがイワイズミに反応しないなんて、どうなってんだ。おかしいだろ」

 凄まじい速度でカゲヤマが森から飛び立つ。先程までの迷いのない顔つきで、下に構えた弓の先に暗黒の塊を宿している。闇の尾を引きながら、カゲヤマは標準を輝くものへ──光輝たる円の中心にいるオイカワへと定める。

 ハナマキには分かる。あれは確実に命を取りに行く狙い方だ。オイカワはそれだけの攻撃をしているのだから当然ではあるが、しかし。

「やべえ。止めねえと」

「あのクソボケが。また繰り返す気か」

 ハナマキは隣を見た。男の横顔は相棒の方を向いたままである。

「なあ、それどういう」

「ハナマキ、オイカワに向かって俺を飛ばしてくれ」

「正気?」

「思いきりで良い。全速力で頼む」

 イワイズミの目を見た。まっすぐだった。

「お前なら、できんだろ」

「あー……後で後悔すんなよッ」

 ハナマキはエースを信じた。

 風の力へイワイズミを託し、全速力でと願う。浮かび上がった男の身体を、オイカワの方へ向けて投げ飛ばした。

 カゲヤマは漆黒の矢を放つ。オイカワは何を思うか、その矢が迫るのをじっと見つめる。

 そこへ、イワイズミが一文字の軌跡を描いて迫る。

「全員、退けぇぇぇぇぇ!」

 ハナマキの叫ぶ声が、旋風に乗って響き渡る。

 マツカワは息を詰めて見守る。ヒナタはタナカに押さえられている。ニシノヤは飛ぼうとしていたが、その場で止まる。カゲヤマはまだ、矢の行く末を見つめている。 

 顔一つ動かさないオイカワの胸へ、漆黒の矢が吸い込まれる。

 その胸板がずれ、鏃の前に銀の手甲を嵌めた手が割り入る。

「こンの、しっかりしやがれボゲェェエッ!」

 飛ばされてきたイワイズミがオイカワにぶつかり、その身体にしがみつきながらカゲヤマの矢を手で受け、それが刺さったままの手で、オイカワの頬を殴った。カゲヤマの矢に宿っていた闇が二人にのしかかり、浮かんでいた無数の灯火が風に散る中、夜の森へ落ちていった。

「カゲヤマっ」

 ヒナタがカゲヤマに飛びつく。放心していたカゲヤマは、ヒナタに両頬を軽く叩かれてやっと我を取り戻した。

「あ、お前……」

「カゲヤマ、生きてるな!? あーっ、良かったあああ」

「おい、大丈夫か」

「傷、やべーぞ。ノヤっさんに早く治療、を……」

 仲間に囲まれて束の間表情を緩めたカゲヤマは、しかしすぐにすまんと一言残してその輪から抜けた。

 その頃、ハナマキとマツカワは森の中へ落下した二人のもとへと辿り着いていた。折れた木の横、貧相な枝と葉が散る中にあぐらを掻いたイワイズミは、横にさせたオイカワの瞳孔を観察しているところだった。やって来た仲間たちを見て、片手を上げる。

「悪かった」

「いや、何も悪くないけど」

「悪くないけど、その」

 ハナマキとマツカワは視線を交わし、それからイワイズミの方へ向かい、二人揃って同時に言った。

「やべえな、お前」

 イワイズミは小首を傾げる。その腕に頭を抱えられたオイカワは、呆けた様子で相棒を見つめていた。

「イワちゃん……?」

「何だよ」

「あ、あの」

 後の二人の声が揃った。

 途端、オイカワは上体を跳ね起こした。空からカゲヤマが舞い降りてきたところだった。カゲヤマは四人からやや離れた位置に足をつくと、おそるおそるといった風に尋ねた。

「イワイズミ、さん?」

「ああ。久しぶりだな、カゲヤマ」

 イワイズミは頷く。

「馬鹿が迷惑かけて悪かった。早く怪我治してもらえ」

「いや、その。俺こそ……」

「カゲヤマーっ! 治療-!」

 空から三羽カラスが舞い降りる。ヒナタはオイカワとマツカワを見て小さく跳ね上がり、タナカはオイカワをねめつけ、ニシノヤは黙って同じくオイカワを窺う。

「あっ、あの」

 しかし、ヒナタが前へ進み出た。マツカワを見上げて、身じろぎしていたが、意を決して勢いよく頭を下げた。

「カゲヤマを助けてくれて、ありがとーございましたっ!」

 マツカワは太い眉を上げる。ヒナタはまくし立てる。

「あそこでバリア張ってくれなければ、カゲヤマは死んでたと思います。俺なんかが言うことじゃあないかもしれないけど、カゲヤマは大事な仲間なので……言わせてください。本当に、本当にありがとうございましたっ!」

「俺からも。ありがとう、助かったぜ」

 ノヤっさん、とタナカが小さな声で窘める。だがニシノヤはマツカワ、ハナマキ、イワイズミをそれぞれ真っ向から見据えて、会釈する。

「俺たちカラスノは、他市のヤツを信用しねえ。信じられるのは、命預け合った仲間だけだ。だが、アンタらは他市の衛兵部隊なのに、俺たちの仲間がピンチになった時に、身体張って助けてくれた。信用はまだしきれねえが、命を救ってくれたヤツらに仇は成さねえぜ。な、リュウ」

 タナカはあーだのうーだのと唸っていたが、やがて大きな息を吐いて頭を掻いた。

「まー、そうだな。礼儀は忘れちゃなんねえ、他市に不必要な迷惑はかけちゃなんねえって、ダイチさんも言ってるからな。恩に仇は返しちゃいけねえ」

 それから咳払いをして、早口で小さく、ありがとと呟いた。

「礼言われることじゃねえんだけどな。そもそも、無茶し出したのはウチの馬鹿だし」

 イワイズミが軽く手を振る。マツカワとハナマキも頷いている。

『いやいやー、そもそもはウチの馬鹿連中が手を出したのが原因ですから、全っっっくお礼を辞退してもらうわけにはいきませんよ』

 そこへ、第三者の声が割って入った。アオバ城砦メンバーが不思議そうに辺りを見回している一方で、カラスノメンバーは音がするほど大きく振り返り、辺りをきょどきょどと窺い始めた。

「い、今の声は!?」

「間違いねえ、スガワラさんだ」

「スガワラさん? スガワラさんなんですか?」

『はいはーい、正解でーすこの馬鹿野郎共』

 また先程の声がした。右手側を見たハナマキが、お、と声を上げる。

「カラスの式神だ。ちっちゃ」

 その通りで、小さくて丸いカラスがぱたぱたと飛んできていた。カラスは頭に色素の薄い髪がちょこんと乗っていて、心なしか柔和な人相をしている気がする。

「ヒナガラスだな。カラスノの式神だ。一人ひとつ付いていて、宿り主の五感を乗せて移動させることが出来る」

 マツカワが説明すると、その小さなカラスは倒れた木の上にとまって頭を前後させた。

『その通りです。急いで来なくてはならなかったので、この姿で失礼します』

 さて、とカラスは心持ち姿勢を正したような雰囲気を出した。

『改めまして──お久しぶりです、アオバ城砦都市衛兵部隊の皆さん。俺は、カラスノ元空中都市衛兵部隊副隊長、スガワラコウシといいます』

 カラスは再び、頭を前後させる。

『この度はうちの隊員が大変失礼致しました。お詫び申し上げたいと、隊長のサワムラダイチが申しております。つきましては、その馬鹿共が案内しますので、カラスノへお越しください。衛兵部隊詰め所にて、お待ちしております』

「すっ、スガワラさぁん!」

「俺たちは──」

『うるせえこの夜遊びフォーマンセルが!』

 タナカとヒナタが声を上げた途端、真面目な好青年然とした声が荒くなった。ヒナガラスの円らな瞳も、心なしか吊り上がっている気がする。

『お前らが見張り放っぽりだしてどっか行ったってダイチがキレてるって知っても、まだ何か言い訳できるのか!? ええ!?』

「うげ」

「やっべえ」

『お前らを庇ったアズマネが逆ギレされて、今一人でプルプル震えながら門番してるんだからな!? 早く帰って来いよこの夜遊びフォーマンセルがっ!』

「ヒィィ、すいませんすいません……」

「アサヒさんすまねえっ……今行くぜ!」

 カラスノチームが四者四様の反応をして、カラスノに向かって走り出す。しかしカゲヤマだけはすぐに足を止め、振り返ってイワイズミに一礼してからまた走り出した。

『お前ら! ちゃんと足並みを揃えろ!』

 スガワラの怒声に、四人は「ハイ」と良い返事をした。スガワラガラスは羽根を膨らませる仕草をしていたが、羽根を広げて再び飛び立った。

『すいません。行きましょう。後から付いてきてください』

 ああそうそう。

 スガワラはマツカワの方を向いて、嘴を開いた。

『書状、届いてます。その件でもお話ししましょうと、ダイチが』

「分かった」

 マツカワが返す。今度こそヒナガラスはぱたぱたと飛んでいった。

 その後をマツカワが歩き始める。ハナマキは続きながら、オイカワとイワイズミを窺う。

「大丈夫か?」

「ああ。すぐに行く。ちょっと、奴らとの間を繋いどいてくれるか」

 ハナマキは親指を上に立てて、何も言わず立ち去った。

 後にはオイカワとイワイズミとが残る。座り込んだオイカワは、既視感を覚えていた。

 意識の混乱している状況で、閑散とした、この寂しい森に二人きりになる。そういう状況が最近もあった気がする。

 ──そうだ、ついさっきだ。

 カラスノの連中に襲われる前に、オイカワは悪夢を見てイワイズミに起こされたのだった。

 見た悪夢の内容は。

「イワちゃん」

 イワイズミは無言で、オイカワの手を握った。様々な武器を使い込んでタコのできた手は、震えていた。

「俺、トビオのこと嫌いだよ」

「そうか」

「トビオなんて、空気読めないし、なのに弓と召喚術はやたら上手いし、生意気だし、ふてぶてしいし、腹立つし、腹立つし、ホントむかつくんだけど」

「うん」

「むかつくんだよ。でも」

 でも、ともう一度繰り返して、大きく息を吸った。吸った気がしなくて、浅い息が漏れた。

「トビオを殺したいなんて、思ったことないはずなんだ……っ」

「うん」

「俺、今トビオを殺そうとしてた。身体が勝手に動いた。どうやったらトビオを殺せるか、本気で考えてた」

「そうか」

「イワちゃん、俺、夢でもっ……どうしよう、どうしたんだろう、ねえ、俺っ……」

「大丈夫だ」

 イワイズミは手で鳶色の頭をかき混ぜた。

「カラスノに行こう、オイカワ」






 




***






 灰色に烟る代わり映えしない連峰の果てに突如出現する禿山には、奇妙なものが点在している。それは一見不揃いの岩のように思えるのだが、よく見ると自然物としては不自然な意匠をしている。 滑らかな丸みは流水や風雨によってできたものとは思えず、また時には幾何学的な紋様が施されていることもある。

「あれは、かつてのカラスノが空中にあった頃の建物の名残だと聞いています。俺たちの祖先は翼を持っていました。だから、居住や収納のためのスペースを今のように確かな形にしておく必要なんてなくて、大体一つ一つ作って宙に浮かべていたそうですよ」

 入ってきた見覚えのある青年がそう説明した。甲冑を身につけているところを見ると、騎士なのだろう。後から入ってきたローブ姿の青年と並んで、向かいの椅子に腰掛けた。

「さて、お待たせしてすみませんでした。隊長のサワムラダイチです」

「副隊長のスガワラコウシです。先程はどうも」

 カラスノの二役は傾向こそ違うものの、どちらも印象の違う好青年である。一言で表すならばサワムラは精悍、スガワラは明朗だろう。

「うちの部下たちが失礼しました。今後はこのようなことがないよう、さらに指導に力を入れていきます」

 サワムラは莞爾としているが、部屋に入ってからずっと細くなった目が笑っていない。きっと奴らを叱ってきた名残なのだろう。オイカワは烏野に入ってすぐに別れた少年たちを思い出した。アズマネというガタイのいい戦士と何やら話をした後、皆揃って萎んでいた。

「いや、うちもやりすぎたところがあるので」

 マツカワがソツなく返す。

 主に俺がね、とオイカワは心中で付け足す。わけのわからない殺意に翻弄され、カゲヤマを殺そうとしていた。そのやり方が笑って済まされる程度のものでないことくらい、カゲヤマの傷の状況を見て、戦いぶりを聞けば、あちらも分かっただろうに。

 ──どうも読めないな。

 サワムラもスガワラも微笑みを崩さない。ただの好青年たちではないということだろう。

「まさか、アオバ城砦都市の皆さんとここで会うことになるなんて、思いませんでした。カラスノへよくいらっしゃいました。何もない所ですが、歓迎します」

 サワムラの挨拶は申し分なく丁寧だ。いやどうもなどと応えるマツカワを眺めていて、視線を感じた。スガワラがこちらを見つめている。視線を返すと、軽く頭を下げてきた。

「じろじろ見てしまって、すみません。オイカワさん、何となく雰囲気が変わったような気がして……しばらく見かけてなかったからですかね」

 核心を突いてくる。

 どう説明したものかと考えていると、マツカワが口を開いた。

「それがですね」

 マツカワはこれまでにあったことを説明した。サワムラもスガワラも、時折驚いた表情を見せながら、真摯に耳を傾けた。

「大変な状況なのですね。俺たちもできる範囲で協力させてもらいます」

 全て聞き終えたサワムラはそう言って、しかし眉を下げた。

「ですが、星の砂をお渡しすることは、俺たちにはできません。あれは確かにこの里にあって、ある人物が所有してます。その人物が言うことによると、お渡しするには条件があるそうです」

「何です?」

「オイカワさんが一人で、星の砂の持ち主に会いに行くこと、です」

 部屋の視線が急に自分へと集まった。思いがけなくて、自分を指差し確かめる。

「俺?」

「そう、指定されています」

「どうして?」

「その人っていうのは、どんな奴なんだ」

 ハナマキが、イワイズミが続けて尋ねる。サワムラは首を横に振る。

「理由は、詳しくは。星の砂の持ち主は、俺たち衛兵部隊を守護する存在で、カラスノ全体にとっても重要な人物です。その人はあまり話題に上ることを好まないので、許可がないと話すことはできません」

「君たちが説得したとしても?」

「ダメです。自力で頑張ってもらうほかありません」

 危ないことはないはずですとサワムラは言い、隣の青年を指した。

「その人物がいる場所まで、スガワラが案内します。他の皆さんにはこのカラスノの中を好きに歩き回ってもらって結構ですが、オイカワさんについて行くことだけはご遠慮ください。約束を破った場合、星の砂を渡せないことになりますので、注意してください」

「ちょっと相談しても良いかな」

 オイカワが尋ねると、サワムラはどうぞと促した。アオバ城砦の四人は、一度応接室の外へ出た。

「どうする?」

「なんか、怪しい話だな」

「マツカワはカラスノの言う『人物』って奴に心当たりないの?」

 マツカワは顎に手を当てた。

「微妙だな。カラスノの中心であるウカイ一族の誰かかなってくらいのことしか、思い浮かばねえ」

「妙に伏せた言い方するのも、気になるよねえ」

「でも俺は、その話については嘘を言ってない気がするな」

 オイカワは

「ただ、カラスノは何か隠してる。信用はしきれないな」

「そうか?」

 イワイズミが首を傾げる。オイカワは頷いた。

「俺たちの話に対して、納得するのが早すぎる。たとえ後輩がちょっとやらかしたからそのお詫びをしようと思っているにしても、それとこれとは別だよね」

 何か、違うのだ。

 同じ状況だったダテ工業都市の時と、感触が違う。性格や都市の違いを考えても、拭いきれない違和感がある。

「やめておくか? それとも、条件を変えてもらえるか交渉するか」

「俺が行ったっていいし、オイカワである必要はないデショ」

「いや、俺が行くよ」

 マツカワが提案して、ハナマキが名乗り出る。しかしオイカワは自ら手を挙げた。

「信用できない部分はあるけど、星の砂は欲しい。ここは提案を飲んで、そのカラスノの重要人物とやらの顔を拝んでみようかな」

「危ねえ目に遭ったとして、お前がそう簡単に死ぬわけがねえしな」

「確かにそうか。ただでオイカワがやられるわけないな」

「派手な熨斗つけて返すだろ」

「お前ら、もう少し心配してくれても良くない?」

 イワイズミ、ハナマキ、マツカワ。それぞれ信頼から来る言葉なのかもしれないが、オイカワの胸中はほんの少し複雑である。

「何かあったら花火あげろよ。すげえ派手な奴」

「見てたら駆けつけてやるよ」

「俺は脳内に語りかけられたら行く」

「もういいよ!」

 俺が万が一死にそうになった時は、こいつらを道連れにするつもりで暴れまくってやる。今決めた。絶対する。

 オイカワは決意を胸に、だが荒ぶる部分は削り落とした余所行きの笑顔で、応接室の扉を開けた。

「お待たせしました。行きます。案内してもらえますか?」

 こうしてオイカワは、単独でカラスノの重要人物と会うことになった。












 カラスノの街は面白い構造をしている。簡潔に言い表すと、谷そのものが街なのである。

 か細い川を挟むようにして、天を突き刺さんばかりに聳え立つ峡谷の、その壁面の中に人々の家々が作られているのである。

 外に出たオイカワとスガワラは、川に沿って街の中心部に向かって歩いている。両側に聳え立つ岩壁には窓が開いており、そこから生活する人々の様子を窺うことができる。集合住宅というものだ。きっと天然の洞窟を取っかかりにして作り始めたのだろうが、このような形にするまでに随分苦労したに違いない。

 オイカワは歩きながら、おやと思う。

「砂は柔いんだね」

「え?」

 ほら、と足下の砂を蹴ってみせる。

「この砂。これ、水で削れやすくて柔らかい、岩が削れたものじゃない? でも両脇のこの壁の岩は、種類が違うよね」

 仰ぎ見る壁面は、足下の暗めの灰に似た色をしているが、模様が砂が凝固してできたものとしては不自然だ。更に先程、衛兵部隊の詰め所で見た壁面も違った。

「この壁自体は、チャートだよね。川が浸食した結果、削られやすい砂岩だけがなくなってこの壁が残ったのかと思ったけど、それも違う」

 ここに来る散々彷徨った連峰は、概ね火山岩でできていた。堆積岩ばかりの中に火山岩の山があることならよくあるが、逆はなかなかに珍しい。

 加えてこの山だけ、植生がかなり異なっている。他の山ではまばらにでも生えていた樹木が、ここでは全く生えていない。古代の遺物が転がる礫砂漠のような山は、よく考えれば不自然だ。

「この谷が街なんじゃなくて、この谷を含んだこの山がまるごと、カラスノ空中都市の名残なのかな」

 オイカワは連れ立つカラスノの副将を窺う。スガワラは口をぽかんと開けていたが、すぐに相好を崩した。

「驚いた。オイカワ君、詳しいんだね」

「地質の知識にはそれなりに自信があるよ」

「砂と岩だけで見破られるとは思わなかった」

 その通りだよ、とスガワラは口調を崩して応えた。

「この山は、俺たちの先祖が作ったものなんだ。地上の特に固い岩を削り出して、山のような城を造った。そしてそれを宙に浮かべて、雲の上に乗せて暮らすことにしたんだ」

「じゃあ、転がっていた妙な岩は、全部が全部一つの部屋ってわけじゃあなかったんだね」

「うん、城の外壁が崩れた跡って感じかな。こんなことを説明しても、よく分からないって顔をされることの方が多いから、最近はそういう感じで雑に説明してる」

「こんなものを加工するのは相当骨が折れただろうと思ったけど、納得したよ。原初のカラスノの一族が、山ごと造ってたのか」

 オイカワはやっと得心した。

 カラスノの民の先祖は、優れた魔力とそれを活用する技術を持つ天人の一種だった。天人とは、天魔と人が交配してできたとか、天使を模して神が造った生物だとかいう伝説の残る生物である。

 とてつもなく精霊に愛された生物であり、今からおよそ二千年前頃、地表を支配していたと伝わっている。

 だが、優れた力に溺れて驕った天人の一部の影響で、多種族による翼狩りが横行した。よって、今では天人は滅びたと言われている。

「俺たちの先祖は、迫害から空に逃れたのは良かったんだけど、今度は長いこと地上から離れてたせいで力が落ちちゃって」

 そしてこの、人界より隔絶された荒廃の大地に落ちた。

 スガワラは肩を落とす。

「俺たちみたいなのが生き延びるのに、この世界はあまりにも厳しい。この土地はひどく痩せていて、食料の工面は本当にしんどいよ。少ない水場を狙って、多種族が襲いかかってくることもある。でもここから出てよその土地を奪うのもキツい。俺たちは世間から離れすぎている上に、人数も少ないから勢力として弱い」

 スガワラがこちらを向いた。全体的に柔らかな輪郭をした顔である。泣きぼくろのある双眸などは、特に優しそうだ。

「そちら側の俺たちは、どんな様子だった?」

「そちら側って、俺のいた世界?」

 スガワラは頷く。オイカワは記憶を呼び起こす。

「俺は直接カラスノに行ったことはなかったけど、空に住んでいたはずだよ。空に街があって、武闘大会の頃になると、首都に向けて空から降りてくる」

 あの頃の風物詩だ。武闘大会には各都市の衛兵部隊が集うので、戦いに血をたぎらせた若い戦士たちが、正装に身を包んで駆けつける様を見るのが、人々の楽しみだった。

 カラスノは、まさにカラスそのもののような漆黒のマントに同色の翼を羽ばたかせ、会場を沸かせていたように思う。

 彼らにスガワラの語るような苦労と困窮の色はなかった。大会でなかなか勝ち上がれずとも、古豪としての静かな貫禄を湛え、気力に溢れていたように思う。

「へえ。そちら側の衛兵部隊は、武闘大会がお楽しみみたいなものになってるんだね」

 目を丸くしたスガワラは、感心したような声を上げた。

「いいなー。俺も、そういう余裕のある世界に、夢でもいいから住んでみたかったな」

「こっちは酷いんデショ」

「ああ」

 応えるスガワラの顔が、翳りを帯びた。

「武闘大会は酷いもんだよ。国内の戦力増強と団結力の向上を目指して、っていうのが一応名目上の目的ではあるんだけど、実際は各都市の戦いに衛兵が巻き込まれてるって感じ。武闘大会で勝った都市には、多額の報奨金と、予算の要望を聞いてもらえる権利、そして才能ある次期衛兵部隊候補──つまり、中等養成学校の訓練生だな──を選んで、引き抜く権利が与えられる。だからどの都市も、躍起になって衛兵部隊を鍛えてるんだ」

 でも、とスガワラは一段声量を落とした。

「中等訓練生時代の武闘大会があるだろ? そっちもあった?」

「ああ、あったね」

「そこで、各都市が才能の目立つ訓練生を選り抜くじゃん。すると、一番人口が多くて力がある王都が才能のあるのをたくさん連れて行っちゃうから、それが大きくなって出てくる衛兵部隊の武闘大会は、たいてい王都シラトリザワが一人勝ちするんだ」

 予算も、人材も、全て王都が取っていく。唯一他市がそれを挽回できる機会さえ、王都に持って行かれてしまう。王都ばかりが豊かになり、他市は貧しくなるという悪循環である。

「何それ。むかつくな」

「だべ?」

 オイカワの言葉を受けて、スガワラは勢い込んだ。

「お偉いさんがいるんだかなんだか知らないけど、勘弁して欲しいよな。生まれながらに持つ者だけが生き残って、持たざる者は死んでいく。そんなのだから争いが無くならないんだよ……いや、そんな単純なものじゃないのは分かってるんだけど」

 スガワラは溜息を吐いた。

「弱肉強食は自然の摂理だ。それは尤もなことで、分かってはいる。でも、それを受け入れてしまったら、俺は」

 柔らかな髪を掻いて、スガワラは唸った。言葉に詰まったらしい。オイカワはただ待つ。

「俺は、嫌だ」

 貧しき衛兵部隊の副将は、ややあって呟いた。

「さっき、俺の後輩に会っただろ。ニシノヤとカゲヤマは他市から平和的に来てくれた、奇跡的な隊員なんだ。タナカは古くからカラスノで生きてきた一族の出身で、ヒナタは──カラスノの外で、辛酸を嘗めてきてる」

 カラスノの外。

 その言い方に引っかかった。カラスノの周辺に都市や家など無かったはずだ。

「ヒナタの家族は、滅びた遠い街から長い時間をかけて逃げてきたらしい。流民だな。行き場を無くした無力な民を受け入れてくれる場所なんて、今時まず無いんだ」

 どこか、受け入れてくれそうな場所へ。受け入れてくれなくとも、命をかろうじてつなげそうな場所へ。

 考えたヒナタの両親が辿り着いた答えは、カラスノ元空中都市を目指すというものだった。

「他に無かったんだそうだ。そうしてあの枯れ山の中に入って、ひたすらウチを目指して──」

 言葉が途切れた。噤んだ唇が白くなっていた。

「今でも覚えてる。入隊したばかりのカゲヤマが、山の中に妙な気配があると言って来た。様子を見に行って、見つけた」

 橙色の髪をした小さな子供が、魔物の群れと対峙していた。堕ちた精霊を身に宿し、崩壊一歩手前の身体で魔物に挑んでいた。人間とは思えぬ形相で牙を向き、あり得ぬ発達をした爪を魔物に突き立てる姿に、スガワラは震えた。

「カゲヤマでさえ驚いてた。戦い方はずぶの素人だったけど、触媒も武器も持たずに立派に召喚と憑依が出来て、しかも身体が堪えられていた。普通ならば物の怪になるか、死んでる」

 魔物を退治した後、暴れるヒナタの意識を落としてから、彼が背に庇っていた木の洞に少女がいるのに気付いた。妹であると、後で意識を取り戻した本人から聞いた。

「両親は?」

「そう思って周辺を探した。五キロ離れた地点で見つけた」

 彼らだったのだろう残骸を。

 沈痛な面持ちのスガワラを横目に、オイカワは思う。

 なるほど、ヒナタがあのような無茶ができる理由が分かった。

「ヒナタは強い。あんなことがあったのに、俺たちと戦うのが楽しいらしい。助けてくれる、守りたい仲間がいるのは最高だって」

 俺はね、とスガワラは拳を握りしめる。

「この世界が嫌いだ。弱肉強食だって分かるよ。でも、強い個体だけが生き残るなんて、生まれつきの持ち物が全てを決めるなんて、納得できない」

 彼の瞳孔は漆黒だった。カラスの眼だ。こんな好青年でさえ、やはり何でも食い尽くす戦士なのだ。

「生き延びるためなら、どんな手だって使う。必要ならば誰とでも手を組む。助けられる者は助けたい。敵対する者は……無理矢理武器を奪って、握手でもしてやれたら、最高だよね」

 スガワラは足を止めて微笑んだ。

「ダイチもアサヒも俺も、そう思って衛兵部隊に入ったんだ。そして約束した。大人は絶望しきってるけど、俺たちが変えてみせる。そのためならば、協力は惜しまないよ」

 彼は眼前に現れたものを見上げた。オイカワも同様にする。

 岩壁の中央に奇妙な模様の扉が現れていた。黒字に、赤みを帯びた蛇ののたうつ装飾が施されている。

「着いたよ。これは、カラスノの中でも一部の人間で無いと開けられない──更に言うならば、見つけることすらできない扉なんだ」

 スガワラは扉に近づく。指でその境を撫でる。

「《我が盟友。導き給え》」

 呟く声に、鈍く応える音がした。

 扉が内側へ向けて開く。向こうは真の暗闇で、日の光が射し込んでも何も見えない。

「ここからは、一人で行ってね。無事帰ってこられることを祈っているよ」

「ありがと。じゃあまたね」

 オイカワは軽く手を振って、中へと入っていった。そのペールグリーンのマントが扉の中に吸い込まれると、独りでに観音開きは閉じ始める。

「祈ってるよ」

 閉じきった扉の前で、スガワラは呟く。

「俺たちの約束を違えるならば、彼女は君を帰さないだろうから」









***




 凝縮された黒に押し潰されそうだ。

 オイカワは歩いたものか迷ったが、そろりと一歩踏み出した。恐る恐る下ろした足は、地面を捉えた。その調子で慎重に数歩歩いていると、僅かに明るい方向があるのに気付いた。

 そちらへ足を向けると、やがてその光源の正体が分かった。

 うすぼんやりとした人間の子供の後ろ姿である。オイカワは声を上げそうになった。その後ろ姿には見覚えがあった。

『イワちゃん』

 まるでオイカワの心中に呼応するように、幼い声が暗闇に響き渡った。イワイズミのものではない。恐らく、幼いオイカワ自身か。

 幼いイワイズミが振り向いて、笑った。近頃とんと見なくなった満面の笑みである。彼は持っていた枝を振り回し始める。至極楽しげな様子と、その動きを見ていて、オイカワは気付く。彼はチャンバラをしているのだ。枝で受けたり攻撃したりの仕草を随分明確に行っているので、見えない相手がいるのだろう。

 チャンバラをするイワイズミの姿が、段々変化していく。背が伸びて筋骨逞しくなり、動きが次第に洗練された戦士のものへと変わっていく。さらに持つ武器も、枝からひのきの棒、棍棒から銅の剣、鋼の剣から大剣へと、オイカワにも見覚えのある順番で変わっていく。

『俺、勇者になりたいよ』

「あなたは勇者になりたかったの?」

 第三者の声がした。沈着で静かな、女の声である。

 オイカワは振り向いた。艶やかな少女がいた。いや、少女と言うには、物憂げな表情といい、耽美な容姿といい、あまりに雰囲気が艶めいているが、その肌艶の瑞々しさは紛れもなく乙女のものである。

「君は誰?」

「私はキヨコ。魔女、キヨコ」

 乙女が近づいてくる。肢体の線も露わな黒いレオタード姿に目を奪われていたオイカワだったが、彼女の頭部にある角と彼女の名乗りを受けて、我を取り戻した。

 魔女──それは魔法使いではなく、高位の魔族の名称だ。豊富な魔力を持ち、見る者を魅了し、未来を予言する力さえ持つという。

 なるほど、タナカとニシノヤが言っていた女はこの人か。

「あなたは、何を望むの」

「何って……星の砂を、もらいたくて来たんだけど」

「星の煌めきは、きっとあなたの見失った真実を導き出してくれるでしょう」

 キヨコは物憂げな表情のまま、語りかけてくる。

「あなたは真実を見る覚悟がある?」

「あるよ」

 魔女は黙っている。下から射貫くようなその眼差しが、「本当にその覚悟があるのか」と問いかけているような気がして、オイカワは言い募る。

「勿論、都合のいい真実が見られたら嬉しいなって気持ちもないわけじゃないよ。都合の悪いものも見たくないし。でも俺は、そんなことより強くなりたい。どんなに都合の悪い現実でも、よく観察すれば少しは良くなるための要素があるかもしれないだろ? 俺はそれを見逃したくない。この目で見出して、理想に近づけたい」

 息を継いで、言い切る。

「俺は、こんなところで迷い続けてる場合じゃないんだ」

 現実の世界だか夢の世界だか知らないが、オイカワの目指すものは一つだ。

 持たざる者が持つ者を凌駕する瞬間。

 地べたに這いつくばることしかできなかった者が、高みを望むことのできる世界。

 それを実現するためならば、真実だろうと幻想だろうと構わず利用してやる。

「だから、星の砂をください」

 キヨコは黙している。

 イワイズミはいつの間にか消えていた。じっと待つオイカワは、ふと手の中に覚えの無い重みがあることに気付いた。

 見ると、仄かな光を纏う袋を握っていた。蛍に似た燐光は、夜明けの空で見たことのあるものだ。

「ありがとう!」

 オイカワは手を振って、来た道を引き返した。視線の先には、林檎のように赤く熟れた扉の輝きが見えていた。

「スガワラくん、星の砂を──」

 濁った鐘の音が、けたたましく谷を打った。

 まだ外に佇んでいたスガワラの周囲を、ヒナガラスが飛び回っている。嘴をはくはくと動かして、鳴く。

「敵襲! 敵襲だぁ!」

 ヒナガラスの嘴から、タナカの声が迸った。

「こちら夜番! 南北一時、東西七時の方向に、魔物反応有り! 総数──千五百、三!」

 スガワラは空を仰いだ。オイカワも倣う。

 白み始めた空を背に、無数の影が舞い降りようとしていた。




 













***




「ッてぇーっ」

「ヒナタくんっ、動いたらダメだよ」

「わっ、悪ぃ! でもこれ染みッ──痛ったぁ!」

 治療室は騒がしい。衛兵部隊の番狂わせ役ヒナタと、腕は良いのだが肝が小さくて騒ぎのでかい薬師ヤチがそろっているから仕方ないのかもしれないが、カゲヤマとしては非常に不満である。もう少しどうにかならないのか。

 アオバ城塞都市の衛兵部隊に無許可で挑みかかったカゲヤマ、ヒナタ、タナカ、ニシノヤの四人は、ダイチにこってり絞られた後、治療室に連行された。タナカとニシノヤは怪我が少なかったため、早々と処置が済み、すでにペナルティとして門番を続行しに行っている。

 カゲヤマも早く向かいたいのだが、一番怪我が重いために、時間のかかる治療を受ける羽目になってしまい、薬草や軟膏を塗りたくられて、ベッドに縛り付けられている状態である。したがって、いつもならばなんてことも無い喧噪も、気になって仕方なかった。

「ねえ、どうだったの?」

 更にそこに、最悪な人物がベッド横に監視役としてついていた。

 嫌味な笑みを浮かべているのは、同期の騎士ツキシマである。無駄に高い背丈が、考え無しに戦ったカゲヤマをこれでもかとあざ笑っているようで、非常に腹が立つ。

「何が」

「来たんデショ? 例のセンパイ」

 ぶっきらぼうなカゲヤマにも、ツキシマは遠慮しない。

「あのえげつない感じ、相変わらず? わざわざ確かめに行ったの? 物好きだよねえ」

「もう治った」

「待ちなよ──」

「ツッキーツッキーやばい手伝って!」

 ヤマグチが悲鳴を上げている。ヒナタの治療に難儀しているヤチがひっくり返った。ツキシマがそちらに顔を向けた隙を突いて、カゲヤマは逃げ出した。怪我はもう大方治っている。皆が心配性なのだ。

 音も無く駆け抜けて、衛兵食堂まで辿り着いた。中に誰もいないのを確かめ、椅子の一つに腰掛けて一息吐く。

 ──来たんデショ? 例のセンパイ。

「冗談じゃねえ、クソが」

 座り込み、頭を抱える。

 気分が悪いのは、サワムラに怒られたからではない。ヒナタやヤチに対して落ち着けとは思うが、彼らのせいでもない。ツキシマも腹が立つが、元凶では無い。

 ──本当に来た。嘘だと思っていたのに、あの人は己の前に姿を現した。

 改めて思い返すと、手が震えてくる。

 門番をしていて異変を察知し、あの姿を視認して、正気を失ったかと思った。それからどう見ても間違い無いと悟り、鳥肌が立った。

 笑って煽るオイカワを思い出す。次いで急に口調が変わったオイカワを、その顔つきを想起する。うっすらと浮かべた酷薄な笑み。瞳に宿る魔力の煌めき。真っ赤な色。

 殺されそうになった。そして、自分も殺すところだった。

 ──あの人は、俺の矢を躱そうとしなかった。

 首筋を温度の無い汗が流れる。気分が悪い。

「具合悪そうだけど、大丈夫?」

 頭を跳ね上げた。食堂の口から見慣れない男が覗いていた。赤みを帯びた淡い茶髪の盗賊。名前は確か、ハナマキと言っていたか。

「そう警戒しないでよ。もう、暴力なんて振るわないから」

 身構えたカゲヤマを宥めるように、ハナマキは言う。

「オイカワがどっか行っちまったから、暇してんの。ちょっと話し相手になってくんねえ?」

「はあ」

「オイカワもひでえな。どんな接し方してたら、後輩にこんなに身構えさせることになるんだよ」

 ハナマキは隣に腰掛け、カゲヤマの背中を叩いた。首のところにグローブの革がぶつかって冷たい。

「俺はアイツみたいな暴漢じゃないから、安心してくれて良いよ」

 ハナマキは頬杖を突く。本当に自分と話す気なのらしい。今日は厄日だと思いながら、カゲヤマは再度、はあと曖昧な返事をした。

「オイカワさ、昔から変な無茶ぶりとかして来ない? 俺らにも結構そうなんだけど」

「はい。確かに、妙な絡み方はしてきました」

「どんな?」

「絶妙にできそうでできない難しい訓練で後輩を競わせたり、売店で牛乳パンを買ってこさせるのに絶妙に嫌な条件をつけてきたり」

「うわ。最悪な先輩だな」

「訓練は良いんですけど、売店のパシリは面倒くさかったです」

「だよねえ」

 ハナマキは愛想良く相槌を打っている。

 この人は本当に、自分と世間話がしたいのだろうか。カゲヤマは既にもう面倒くさい。世の中で積極的にやりたいのは、精霊との交流と弓の訓練、そして強敵との戦闘くらいなのだ。他市の奴と交流なんて、怠さしか感じられない。

 それでもハナマキは話を途切れさせてくれない。カゲヤマがいくら素っ気なく返しても、上手く話を繋げていってしまう。

 さっさと門番に向かえば良かった。ツキシマの追跡を警戒したのが仇になった。カゲヤマは舌打ちを堪えて、適当な返事をし続ける。

「オイカワってしばらく行方不明だっただろ。記憶無くしてるの知って、驚かなかった?」

「驚きました。聞いてはいましたけど、まさか本当だなんて思わなくて」

「聞いてたんだ。誰から?」

 ダイチさんから、と答えようとした。

「クニミから」

 唇は思わぬ動きをした。

 カゲヤマは口を押さえた。ハナマキは双眸を眇めていた。

「ふうん。クニミから聞いてたんだ」

 何が起きたんだ。

 カゲヤマは得体の知れない不安と焦燥に駆られ始める。そんなことを言いたかったわけじゃないのに。

「クニミから、どうやって聞いたの?」

「手紙です。入城許可とは別に、俺個人宛に来たもので──」

 ──違う、ダメだ!

 カゲヤマの口は勝手に動き続ける。漏らすはずでは無い情報が、勝手に出て行ってしまう。話すつもりなどまったくないのに、何が起こっているのか。

「混乱してる?」

 ハナマキは小首を傾げる。覗き込む顔は、下らぬ話を始めた先程から一切変わらない。

「フェアじゃないから言うわ。皮膚接触には気を付けなよ。世の中には、ちょっと摂取するだけで口をものすごく動かしたくなっちゃう薬ってもんが存在するから」

 ──真実薬だ。

 カゲヤマの背筋が凍った。自白剤である。

「あれは禁薬だったはず」

「禁じられたレシピでは作ってないよ」

 ハナマキはいけしゃあしゃあと言う。

「安心してよ。俺は口堅いから、カゲヤマくんが喋ったなんて誰にも言わない」

 カゲヤマはなんとか口を閉じようとするが、手が動かないことに気付く。神経毒だ。舌打ちをするにも、すでに口は己の意思では動かない。代わりに目でハナマキを睨みつけた。

 ──コイツ。ただの魔法使いじゃなくて、薬の調合まで出来るのか。

「カラスノのことは何も聞かないよ。協力してくれる他市の余分なこと知って、抗争の種は生みたくないからさ。俺が知りたいのはむしろ、こっちのことでね」

 ハナマキは自分自身を親指で指した。

「おかしな話だと思うかもしれないけど、俺に必要な説明をしない奴らがいるんだよ。だから仕方ない、自分で色々調べてきたんだけど、そろそろ答え合わせがしたいなと思って。代わりに、後で良い感じに嫌なこと飛ばす方法教えてあげるから、協力してくれないかな。俺の催眠術は正確だから、ちょうど俺に真実薬を盛られた辺りから綺麗に忘れられるよ」

 カゲヤマは暴れたかった。だが全く四肢に力が入らない。

 懸命な少年の目を眺め、ハナマキはごめんねと呟く。

「さて、じゃあカゲヤマくん。アオバ城砦都市衛兵部隊について、知ってることを洗いざらい教えてくれるかな」











***





 カラスノの峡谷は闇に包まれている。夜が明けようというのに暗さが去らないのは、千五百三の魔物たちが、一向に谷底へ降りて来ようとしないからだ。

 魔物の大群は、峡谷を見下ろして徒に羽ばたいている。時折彼らの足下で煌めく透明なものを警戒しているのだ。

 ──ニシノヤの障壁は強力だな。

 こういう時だけは、強敵が味方で良かったと思う。魔物たちは彼の防壁が強固であることを、身をもって知っているのだろう。

 だがそれは、何も知らずに突っ込む程度の知能の敵では無いということでもある。

「ここまでの大群は、久しぶりだな」

 スガワラが言う。辺りには彼とオイカワ以外、誰もいない。市民は既に避難を始めているようだ。いつまでもここで魔物と見つめ合っているわけにもいかない。じきにここも戦場になるだろう。

「襲撃の理由に心当たりは?」

「水場があることくらいしか思いつかない」

「喉、渇きすぎじゃない?」

「カラスノではそれが普通だから」

 スガワラは軽く笑って、かぶりを振った。

「はあ、今日は酷い日だな。後輩は喧嘩ふっかけに行くし、魔物はこんなに攻めてくるし……もしかして、あちらさんの狙い、オイカワくんたちだったりしない?」

「俺たち? それはないよ」

 オイカワたちを狙うならば、カラスノに着く前に散々機会があったはずだ。

 そうだよねとスガワラは頷いて、空を仰ぐ。その表情が心なしか曇っている気がして、オイカワは尋ねた。

「あのバリア、どのくらい保つの」

「多分あと、三分。カラスノ全体を覆うとなると、持続時間は限られる。解除しないまでも、威力はかなり下げなくちゃいけないから、バリアの衝撃を堪えてくぐり抜けてくる敵が大量に押し寄せてくるはずだ」

「カラスノ防衛軍って、数はどのくらい」

「際どいこと聞くなあ」

 軍事情報である。だが口とは裏腹に、スガワラはオイカワへ笑いかけた。

「どのくらいいると思う?」

「正直、いて五百くらいだと思う」

「あはは。その通り」

 スガワラは肩をすくめた。 

「昔はもっとたくさんいたらしいんだよ。でも三十年前に大襲撃にあって、それでめっきり減っちゃった……ああ」

 そういえばあの時攻められたのも、このくらいの明け方だったな。

 最後に、不吉な一言をこぼした。

 オイカワが拾おうとした時、スガワラの肩に止まっていたヒナガラスの口が開いた。

『こちら防衛軍司令室より、タケダです』

 若い男の声が迸る。

『ウカイくんとの相談結果、作戦コードヒトヒトサンマル、Oscarは陽動部隊で行くことになりました。しかし、各部隊が配置に着くまでに、三分必要です。それまでにバリアが保ちません』

 確かに、頭上のバリアに異変が起きつつあった。ジジジと死にかけの虫のような音を立てて、光が不規則に揺らめいているのである。

『谷底周辺の隊員、川辺で敵と応戦できますか』

「衛兵部隊、スガワラです。川辺にいます」

 スガワラがヒナガラスに向けて答える。すると式神の嘴から様々な声があふれ出す。

『衛兵部隊、ツキシマです。ヤマグチと共にニホ区間通路にいますが、避難渋滞に巻き込まれて到着まで時間がかかります』

『騎士部隊タキノウエ、ハニ通路にいるが同じく渋滞でキツい! 配置にも間に合うか分かんねえ』

『戦士【ハ】部隊ウチザワ。チリ通路は空いてるが、バリア解除には間に合いそうにない』

「そうだ。三十年前もそうだった」

 次々と届く応戦不能の連絡を聞きながら、スガワラは独り言のように話す。

「明け方で、一般市民はみんな寝てる。それを避難させようとして……あの時は、騎士団が壊滅して……」

「ねえ、どんな作戦なの?」

 オイカワが尋ねると、スガワラはすぐに答えた。

「バリアを峡谷周辺だけ解除して、敵が谷へ降りてくるところを両側から狙い撃つ。ただ、バリアを解くだけだと降りてこないから、目に見える形で奴らを陽動する隊員を谷底に配置する──ああ、嘘だろ」

 ヒナガラスからの報告が途絶えた。

 それ即ち。

「今囮役がすぐできるのは、俺だけみたいだ」

『監督、先生、反対です!』

 ヒナガラスから覚えのある声がした。サワムラだ。

『スガワラに囮をさせるのは、今後のカラスノの防衛対策上最善とは言えません。俺を回してください。俺なら飛べます』

『騎士部隊の配置位置から間に合うか? そして俺たちの護りの堅さを知っている奴らが、騎士のお前が囮としていたところで、積極的に突っ込んでいくとは思えん』

 また聞いたことのない声が答えた。サワムラの呼びかけから察するに、司令室監督『ウカイ』だろうか。

 ──猛将・ウカイイッケイにしては声が若い。烏天狗の血縁者か?

 オイカワが考える間にも、議論は続いている。

『スガワラならば、奴らは間違いなく釣られる。俺たちの間で飛べるのは衛兵部隊だけ。さらにカラスノの召喚士と悟れば、奴らは間違いなくスガワラを狙うだろうな』

『しかしっ、カラスノの翼の軸はスガワラです!』

『だからだ』

「なるほどね」

 オイカワは呟く。その声を拾ったスガワラがこちらを向く。

「カラスノの『黒い翼』の要の一人は、君か」

 カラスノ衛兵部隊の『黒い翼』は、力を貸す神霊『烏頭観音』との契約と、代償として差し出す魔力の両立ができて初めて成り立つ技だ。どちらも戦士や法士、聖騎士などを本業とする者たちがこなすには難しいのである。

 だから、烏頭観音と契約した者が一人、魔力の調節をしている者が一人、衛兵部隊の中にいると読んでいた。

「あのチビちゃんや腕白坊主たちが、烏頭観音を召喚してうまく契約するなんて、厳しいだろうと思ってたんだ」

「今日は厄日だな」

 スガワラは眉を下げて、溜め息を吐いた。

「今後、カラスノに大ピンチが訪れるようなことがあったら、真っ先にアオバ城砦都市を疑うことにするわ」

「ないない。こんな痩せた土地を盗ろうとか、思わないから」

「失礼だな! お前らの森、食い散らかすぞ!」

「食えるもんなら食ってみろ! 今ウチの森カッピカピに乾いてるから、カラス如きの嘴に噛み砕けるわけがないもんね!」

「それは可哀想だな!? って、そんなこと言ってる場合じゃねえべ」

 謎の言い合いをしてしまった。スガワラは我に返り、ヒナガラスに向けて話しかける。

「監督、先生、ダイチ。俺は大丈夫です。やれます」

『やめろ』

 サワムラの声は低く、沈着なようだが、殺しきれない情の気配が滲み出ていた。対してスガワラは困ったように笑った。

「ダイチ。俺は大丈夫。バリアが解けて、陽動部隊が駆けつけるまで、精々二分だろ。いけるよ。これでも、カラスノ衛兵部隊の召喚士なんだから」

『しかし』

「巣を無くすわけにはいかないだろ」

 サワムラは黙った。

「ダイチ。俺、絶対守るって、言ったよね。約束、破らないよ」

 さらに根気強く言葉を重ねるスガワラ。

 その肩に、思い切りオイカワは顔を近づけた。

「あっれれー? 主将くん、俺がいること忘れてない?」

『うわっ!?』

『えっ!』

『げぇっ』

 誰だ今げぇって言った奴。覚えとけ。

 オイカワは胸中のみで罵って、各地に散らばるヒナガラスのそれぞれにまで届きそうな満点の笑顔を浮かべて話しかけた。

「どーもー、オイカワトオルでーす! この俺が参戦するのにできないなんて、まだ言える?」

「オイカワくん」

 スガワラは目を丸くしている。

「もう、星の砂は手に入れただろ? 他のみんなと引いてくれたって──」

「ははは、舐めないでよ」

 オイカワは口の片端のみを吊り上げる。

「あの程度の数で尻尾巻いて逃げるほど、俺たちは平和主義じゃないから。このオイカワさんがいる時に攻めてきたってコト、後悔させてやる」

『……面倒くせえ奴に恩を売ることになりそうだな』

 ウカイの大きな嘆息が聞こえた。

『しかし、有難いのに変わりはねえ。スガワラ、オイカワくん、頼んだぞ』

「はい」

「はいはーい」

 スガワラは凜として、オイカワは軽く応じる。

『すんませんっ! バリア破れます!』

 ニシノヤが言う。

 天井からピシピシとヒビの入る音がしている。オイカワは掌中に魔力で練った輝く弓矢を、スガワラは魔導書を取り出す。

『三、二、一……』

 光の壁が砕け散った。黒々とした群れが雪崩れ落ちてくる。

 時を同じくして、スガワラが叫ぶ。

「《畏み申す。我が先達、力を与え給え》!」

 書物の中心が燃えるように輝き、黒煙が噴き出す。禍々しき漆黒の炎を纏い、烏頭の三面八臂が姿を現した。法衣を纏う身体、八本の手には剣、錫杖、法具、槍など、武具が握られている。

 天魔、烏頭観音。

 衆生救済のために戦の道を邁進することを選んだ、天の御使いである。

 その姿めがけて、魔の大群は急降下した。烏頭観音は翼で大気を叩き、大群の中へ身を滑らせる。

 刹那、銀の閃光が走る。バラバラと引き裂かれた魔物が落ちる。烏頭観音は満足せず、また別の一団へと飛び込んでいく。

「撃てーッ!」

 上方で号令がかかる。

 壁面に待機していた部隊が両側からの攻撃を開始したのだ。砲撃が飛び交い、命中した魔物が落下し、川を緑色に染める。

 一方で生き残った者らは壁への進行を、もしくは、虚空で暴れ回る観音の力のもとを叩きにかかる。

「下がって」

 オイカワはスガワラの前に出て、矢先を天へ向けて射る。光の網が広がり、射貫かれた者らが蒸発して散る。それでもかいくぐる者は来る。

 即座に力を込めて矢を放つ。濃い光の力を帯びた矢は地上から雨の如く降り注いで、魔物らの身体を射止めていく。漏れた者の一つがスガワラへ迫る。

「ウカイ式陰陽術、変幻参の式──地獄の隠者」

 爽やかな青年の姿が変貌する。両手から黒い羽根が、翼が生える。両手に鋭い鉤爪が生え、瞳が金に輝く。

「俺だって!」

 スガワラの伸ばした両手から、黒い羽根が弾丸の如く飛ぶ。迫りつつあった敵は急所を穿たれ、潰える。

 谷底はすぐさま地獄絵図に変じた。宙で、地で、息絶える魔性の者たち。落下して緑の血をまき散らす者もいれば、死なばもろともと壁面へ捨て身の特攻をかける者もいる。

 悲鳴、怒号、剣戟、銃声。

 その地獄の中心で踊り続けるのが、オイカワとスガワラだった。オイカワはひたすら光の矢を五月雨よろしく迸らせ、スガワラは烏頭観音を喚びながらも自らの身を守り戦う。

 ──まだ、応援は来ないのか。

 オイカワは背面を窺う。スガワラの息が上がっている。召喚士に召喚と憑依の同時使役は厳しい。精根尽き果てるまでやれば、本人の身体か心か、崩壊しかねない。

「頼む!」

 腰に括り付けていた巻物を二つ、解き放つ。円を描いたそれが輝き、妖魔が二体宙へ舞い上がった。蝶の羽根を持つ男の妖精と、九尾の狐である。

 妖精は魔力の雪を振りまき、オイカワとスガワラを癒やす。一方で九尾は狐火を放ち、自分たちに近づく者を焼く。

「オイカワです! 応援は──」

 ──ビシャリ。

 黒いものが落下してきた。視界の端に捉え、絶句する。

 防衛軍の戦士だった。既に事切れており、壁面から落とされたのだと分かった。

「あ」

 それしか声が出せなかった。死人を見るのは初めてだが、自然と目は現実を受け入れた。

 ──撤退させてください! 犬死にだ!

 ──行け、行くしか無いんだ!

 脳裏で誰かの声がした。視界がくらりとぶれる。

「ダメだ、見るな!」

 顔に衝撃を感じた。スガワラが片手で、オイカワの顔を押しこくったのだった。

「今は戦え! 生き延びろ!」

 我を取り戻し、弓を取り直す。矢を放つ横で、ヒナガラスが飛び回って声を届ける。

『陽動部隊、シマダです。谷底に着きましたが、ものすごい数の敵がいて、こちらはこちらの陽動で精一杯です。スガワラたちのサポートに回れそうにありません』

『監督、許可をください!』

 サワムラの叫び声がした。

『衛兵部隊を谷底へ。門番のタナカとニシノヤを除いたメンバーを!』

『待て。壁面の前線がまだ安定しない。剣士【ロ】部隊をワカ地帯へ──』

『せめて、騎士を! 俺に行かせてください!』

 ──俺に行かせてください。オイカワさんばっかりが負うことないんです!

 覚えのある声が被さって聞こえる。これは誰だ。

 ヤハバか? だがこんなに必死な声など、聞いたことが無い。

 ──お前のせいじゃない。戦争なんだから。

 淡々としたマツカワの声。

 ──死ぬのが分かってても行かなくちゃいけないなんて、残酷だね。

 抑揚の無いハナマキの声。

 ──それが、当たり前だっていうのか?

 僅かに揺れるイワイズミの声。

 これは何だ。

 オイカワは戦いながら、頭をよぎる声を振り払う。幻聴か? 誰かから精神攻撃を受けているのか。

 それともまさか。

 ──俺の、この世界での記憶?

 知っている。

 記憶は無くとも、この世界が自分がいた世界より激しい戦乱の最中にあることくらい、これまで回ってきた都市の様子から分かっている。

 そして、何となく予感がしている。

 この世界の己──現実の己にとっても、これが当たり前の日常だったのではないかと。

「ふ、ざけんな……」

 また壁面から黒い衣装が落ちるのが見えた。悲鳴が聞こえる。更に遠くから泣き声もする。

 腹の底から塊が込み上げる。地獄の釜の如く煮えたぎる盛るそれは、憤怒だ。

「こんなのが当たり前でたまるかッ!」

 オイカワは剣を地に突き刺した。スガワラと我が身の守護を精霊らに任せ、目を瞑る。

 自分の身体の感覚が遠ざかる。鼓動の音だけは聞き逃さないよう心がけながら、オイカワは喉を張り上げる。













「イワちゃん」

 声がした気がした。

 イワイズミは振り返る。煉瓦装飾の廊下には、たった今己が斬り伏せた魔性の残骸しかない。オイカワの姿などない。

「あー、なるほどな」

 だが戦士は頷いた。そして何処かへ向けて駆け出した。










 ──まっつん、何してるの。

 声がした気がした。

 そよ風のような軽さだった。

 マツカワの背筋を冷たいものが走り抜けた。辺りを見回す。居住ゾーンの一角にいる。既に住人はいなくなって久しく、人間がいるはずがない。

 ──今の声は。

 叩き潰した敵の血が、足下に広がる。靴底がぬるく湿って気持ち悪いほどだ。相当数を殺した。だが今、武器を振るっていた時より、ずっと動悸が激しくなっている。

 今の口調は、オイカワだ。それも、現在の記憶の無いオイカワでは無い。

 ──そんなはずはない。身体も無しに、魂が記憶を取り戻すはずがない。

「……ハナマキの奴、どこ行ったんだろ」

 マツカワは血に濡れた錫杖を担ぎ、駆け出す。

 










「オイカワくん! オイカワッ」

 スガワラの声がする。オイカワは目を開けて、顔を跳ね上げる。変化の解けたスガワラが寄ってきていた。

「大丈夫?」

「平気。それより、一度退いた方が──」

 視界が暗くなる。

 ドラゴンが接近していた。オイカワはスガワラを突き飛ばし、巨大な弓を作りあげる。

「スガワラァァァァァーッ!」

 遙か彼方から、何か聞こえてきた。スガワラがはっとして、オイカワに向けて叫ぶ。

「伏せろっ、あぶな──」

 轟音に紛れ、最後まで聞こえなかった。

 ドラゴンが真っ二つに割れた。そしてその向こうから、極大の衝撃波が迫ってくるのが見えた。

「うわあっ!?」

 オイカワは思わず矢を放ってしまった。衝撃波と光の大矢が激突し、颶風が縦横無尽に吹き荒れる。後ろに吹っ飛ばされたオイカワは、すかさず九尾の狐が回り込んでくれたために、川の岩に頭を打ち付けずに済んだ。

「アサヒ!」

 スガワラが華やいだ調子で呼んだ。

 裂けたドラゴンの上から、男が舞い降りてきていた。筋骨の発達した体格に、彫りが深く厳つい顔つき。背中にはカラスの黒い翼。

 スガワラが駆け寄ると男は表情を和らげ、力の抜けた顔で笑った。それを見てやっと、その男がカラスノ衛兵部隊のアズマネアサヒであることに気付いた。

「スガワ、らっ」

 アズマネが前のめりに転ぶ。アズマネの頭を踏みつけて、サワムラが降りてきていた。

「スガワラ、無事か!?」

「もっちろん! もー、ダイチは心配性だな」

 サワムラは消耗こそ激しいものの、五体満足なスガワラを見て安堵したようだった。一方のスガワラも満面の笑みでサワムラの頭を掻き混ぜている。

 そしてアズマネは、二人の足下で突っ伏している。

「おいチョビヒゲ。技の威力くらい加減しろ。スガワラが真っ二つになるかと思ってひやひやしたわ」

「ひっ、すんません……」

「ダイチはアサヒにあたり強すぎ! ありがとな、アサヒ」

 先程までの雄々しさはどこへやらで身を縮める戦士と、笑顔で毒を吐く騎士と、嬉しそうな召喚士。

 これがカラスノ衛兵部隊のトップスリー。窮地でも笑い合える姿に、オイカワは強固な絆を感じた。

 感じたが。

「再会できたのは良かったけど、ちょっと戦線復帰してくれないかな!?」

 オイカワは手一杯である。矢を射続け、魔法を使い、精霊を喚んで、たまに剣で敵を切り捨てる。今は妖精が体力や魔力を供給してくれているからいいが、こちらもそろそろバテそうなのだ。

「もー! イワちゃんまだなのかなー! 集合かけたのになー!」

「来たぞ」

「うっわっ!」

 突如相棒の声がして、オイカワは飛び上がった。いつの間にか横に相棒がいた。返り血だらけである。

「何だ、来たの。じゃあイワちゃん、あれやるよ」

「あれな」

 イワイズミが大剣を掲げる。そこにオイカワは己の長剣を打ち合わせた。

 それからこちらを窺っていたカラスノの三人に、告げた。

「カラスノの人達に、今から峡谷の間を絶対飛ぶなって伝えてくれる?」

 そして二体の精霊を引っ込め、スガワラが烏頭観音を戻したのを確認して、呪文を唱え始めた。

 オイカワが一つ言葉を口にする度に、精霊言語が煌めきながら宙を舞い上がる。

 長く長く呪文を唱えるにつれて、精霊文字の連なりが円を描き、魔方陣を作り上げていく。それはやがて谷の半分にもなり、最後の一音を発すると、一際強い光を放った。

 中心が渦を巻き、暗黒へと変わっていく。

「何だ?」

「魔界の扉だ」

 カラスノのメンバーの声がする。だがオイカワは扉を形にするのに精一杯で、聞き取る余裕は無い。

「よぉーし、ぶっこめ!」

 イワイズミが号令すると、虚無の中心へ魔物たちが吸い込まれていく。抗おうとするものもいるが、大概が耐えきれずに呑まれていってしまう。

オイカワは、かすむ目でその光景を見つめる。

「イワちゃん、ごめ……あと、任せ……」

 空が明るくなってきた。それだけ確かめると、オイカワは意識を失った。


 








**





「おーい、やってるかーい」

 マツカワは立ちはだかった悪魔を蹴倒しながら食堂へ押し入った。中は既に大方片付いており、ヒナタが最後の敵に飛びかかり、カゲヤマが既に倒れたものにとどめを刺したところだった。

「ローリングサンダー!」

 ヒナタのタックルした悪魔が飛び散った。すぐさま周囲を警戒しつつ確認した二人は、駆けよって拳を打ち付け合う。

「制・圧ッ!」

「ッし!」

 楽しそうで何よりだ。

 マツカワはわざと大きく足音を立てて近寄る。

「なあ、お前ら」

 ヒナタが大きく跳ね上がった。カゲヤマは首だけを回してマツカワの姿を認め、目を瞠った。

「あのさ、うちのハナマキ知らない? こう、明るい髪した盗賊っぽい奴なんだけど」

「あっ、あの!」

 カゲヤマが叫ぶ。マツカワが目だけそちらへ移すと、カゲヤマは唇を引き結んだ後、勢いよく頭を下げた。

「すんません! ハナマキさんが、連れ去られました!」

「……は?」

 マツカワは武器を取り落としそうになった。










【最終話に続く】