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 目眩がして、気がつけば屋敷の一室から外の海を眺めていた。暗褐色に濡れた床の彼方は、真っ暗な海だった。僅かに寄せては引く潮の声がするが、靄が濃く立ちこめているせいで波までは見えない。靄の中に、時々ぼうと橙の灯が横切って消えていく。小さな屋形船のようなそれは、きっと屋敷の彼方此方に点在していた離れに違いない。

 屋敷。そうだ、藤の屋敷へやって来たのだった。かの本丸には生身を持つ審神者が必要だから。水干に袖を通し、審神者が発つ直前になっても、終始不機嫌な顔をしていた歌仙兼定のことを思い出す。眉間に皺を寄せて、笑みの欠片も浮かべなかった。審神者が笑顔の方が風流なんじゃないのかと言うと、少し傷でもつけてやろうかという勢いで睨んでいた。審神者自身も意地の悪い冗談を言ったとは分かっているのだが、この喧嘩別れのような状態で敵地に立ちたくは無いと言った。すると彼はやっとくしゃりと顔を歪めて、無事で帰って来るんだよと審神者の手を握った。

 青年は頷く。良かった、きちんと今降り立った本丸とは別の記憶がある。山姥切国広等が施した命懸けの封印は、屋敷全体にも及んでいるようだ。

 部屋を出て場所を確認する。外見は真白の漆喰壁、内の骨組みは黒々とした木、家の造りは武者屋敷風だから、一の丸で間違いない。海に浮く様は、皮肉にも武士の時代の直前に滅びた、驕れる武家の社の如し。前に映像で見たものより遙かに暗いように思うのは、外が靄の立ちこめる夜の海だからというだけではない気がする。封印のせいか、はたまたこれが屋敷の本来なのか。

「主」

 呼ぶ声がした。

 右手を見ると、廊下の向こうからへし切長谷部が寄ってくるところだった。仄暗い闇の中で、顔の白さが浮き立つ。返事をせず踵を返した。長谷部がやってくるのと反対の方へ、足早に歩く。

「主、お待ちしておりました」

「主、何をお持ちしましょうか」

「何をなさいますか。家臣の手打ち? 寺社の焼き討ち? ご随意にどうぞ」

「主、どちらへ行かれるのです」

「主、どうかお返事を」

 長谷部は語りかけてくる。同じ歩調で、しかし次第に近づいて来る。遂に一の丸の端まで追い詰められてしまった。縁の下を見ると、黒い波が寄せては砕けを繰り返している。

 下ろしていた視線を、長谷部へ向けた。長谷部はちょうど互いの身長を合わせた程度の距離を取って佇んでいる。唇の両端は緩やかに上がり、双眸も優しく眇めていた。

「貴方はどっちなんですか。へし切長谷部? それとも、他の刀剣?」

「俺は貴方のへし切長谷部ですよ。何でも致しましょう。さあ、ご命令を」

「待ってたんですよ」

 審神者はいつも、初対面の刀に対して丁寧な口調で語りかける。それを意識しながら言葉を紡ぐ。

「審神者の身の回りのことを積極的にしてくれて、職務に一生懸命で、打算的なところもあるけれど良い刀だって聞いてたから」

「有り難き幸せ」

 でも、と青年は一呼吸置く。

「今話している貴方は、へし切長谷部ではない。長谷部は主と出来る限りどこまでも仲良くなりたいと思ってるどうしようもない刀だから、微妙に砕けた敬語で話すんですよ」

 へし切長谷部の瞳孔が開いた。審神者の話し方が僅かに変わっている。同じ敬語調でも、彼にしては棘がありはしないか。

「そして貴方がへし切長谷部ではないもう一つの理由」

 青年は腕を持ち上げ、袖口で顔を隠す。下がる腕から現れた顔は。

「へし切長谷部は主人を間違えない。特に主君と僕を間違えるようなことは、よほど錯乱でもしていない限り、無いですね」

 繊細な髪を指で軽く弄び、人間離れした耽美な容姿に合う婀娜な伏せ目で皮肉に笑って見せる──刀剣男士、宗三左文字だった。

「現代風に言うと、『上書き保存』の出来ない『別のものとして保存』タイプなんですよね。女々しいったらない。ねえ?」

「貴様」

 藤色の双眸が吊り上がり、抜刀して斬りかかる。宗三左文字は躱し、横の障子を蹴倒して室内へ逃れる。

「おや、手が出るのが早い所は同じですね。だからあの刀に目をつけたんですか? 審神者に積極的に関わろうとするあの刀ならば、審神者を騙しやすいだろうと? 貴方、本当にもと刀剣男士なんですか? あの刀を知っている男士が見ればすぐ別物だって分かりますよ。もうちょっとやる気見せてください」

 ひらりひらりと審神者の衣装をなびかせながら長谷部の攻撃を躱していたが、振り抜いた長谷部の刀が柱に刺さった隙を突いて抜刀し、背中に一文字を刻んだ。のけぞる頸に本体を突きつける。

「長谷部を出しなさい」

 宗三の眼差しはあくまで冷ややかだった。

「終わりにしましょう。いくら僕でも、無念を晴らせぬまま空しくなった同胞に手酷いことはしたくありません。ですが、僕の審神者を傷つけるというならば話は別です」

 審神者の一言に、長谷部はつと目を見開いた。

「あ、こら!」

 宗三が咎めるも聞かず、長谷部は走り出した。頸を宗三の切っ先が抉ったが、気にも留めない。黒い血をまき散らしながら、長谷部は長い廊下の向こうへと消えた。

「はあ。やはり、ただの僕じゃあ聞きませんか」

 切っ先を振って血潮を飛ばした宗三は、溜息を吐く。すぐに歩き始めながら、耳元に手を当てて囁いた。

「此方、宗三左文字。主、長谷部が向かいましたよ」

 

 

 

 








 

 

「くそ、やっぱりやらないと駄目か」

 宗三左文字の衣装を纏った審神者は舌打ちした。場所は二の丸、締め切った空き部屋の前。二の丸に数多ある空き部屋の中でも、この一室は特別だ。本丸の中央に位置しているのである。即ち、九人目の審神者の言っていた「人を捕らえるに然るべき場所」にある、審神者部屋を隠している可能性が高い部屋だった。

 審神者は両手を襖の境に添えた。

「審神者が命ずる。開け」

 一息に開け放った。

 ずん、と重い空気が流れ込んでくるのが分かった。襖の向こうは光源のない真の闇だった。目を凝らせば広い方形の空間なのだと分かる。吹き抜けではないかと疑う程に天井が高いが、この二の丸は平屋である。物質的に考えて矛盾している。

 だがそれより審神者が圧倒されたのは壁面だった。四方の壁を刀剣が埋め尽くしている。

(本当に全部ある)

 審神者は部屋へ入り、見渡して思う。ぎっしりと詰まった刀剣が何十、何百と鎮座している。

 しかしその壁の密集具合に反して、床には何も無い。

 審神者部屋というからには、過去に犠牲になった審神者がいるのだろうと予想していた。しかし彼ら刀剣の集う中央の空間には、何も無かった。

(人の魂は、人の肉体が無いと留まれない)

 留まって居られなかったのか。

 刀達より先に滅びてしまう人間。だから彼等は、審神者を呼ぶのか。

 このがらんどうの、虚無に満ちた空間を埋めたくて。

 しばし寂寥感が胸を打った。だが立ち尽くしている暇はない。

 目標は、屋敷に器を提供しているへし切長谷部の意識を呼び起こすことである。しかし今の自身に彼の自我がまだ存在しているかを確かめたり、またそれを無理矢理引っ張り出したりするだけの力は残っていない。だからそのために。

(自分の所持する刀をこの屋敷にも顕現させられているならば、此処にある刀を媒介として俺の所持している刀の意識を呼び込むことも出来るはずだ)

「日本号は」

 目当ての名を口にした。

 日本号は常に傍にいて、いつでも吸収し糧とする隙はあったはずだ。なのにそうせず、屋敷は寧ろその存在を認識しないようにしていた。恐らくこの屋敷は、同じ主のもとに顕現された槍に不都合なものを感じているのだ。

 審神者はすぐに目当ての槍を見つけた。向かって右手奥に立て掛けてある。

 怖々触れてみて、気付く。

(これ、空っぽだ)

 どんな依代にも多少はある、依代自体の意識が無い。この依代の意識が所謂個体差というものに繋がっていくらしいのだが、

 これならばやりやすいかもしれない。審神者は意識を集中させようとした。

 背後から尋常ではない足音で迫る者がある。

「にっかり! 博多!」

 合流していた刀達が、呼びかけに応じて審神者の間近に顕現した。すぐさま本体を抜き、迫って来た長谷部と打ち合い始める。

「退け!」

「主君に刀を向けられて、そう簡単に退くわけがないだろう。これまでの審神者にもこんなことをして来たのかい?」

「観念しんしゃい!」

 鬼気迫る怒声、飄々とした嘲笑、気合の掛け声。背を任せて、審神者は槍に意識を集中していく。

 自分の声が聞こえたら応えてくれとは言ってあった。

 出来るだろうか。やるしかない。

(日本号、来てくれ)

 目を瞑る。窶れた槍の姿を回顧して、幾度も来てくれるよう呼び掛ける。

 来ない。

 祈る。

(日本号、応えてくれ。俺の所へ来てくれ)

 応える者は無い。

(日本号。頼む)

 瞼の裏しか見えない。

(日本号、日本号)

 出会ってたった数日の審神者のもとへは来られないか。

 結びつきが弱いのか。

 何でもいい、此処に来て欲しい。

(日本号、此処へ来てくれ。俺の刀が倒れる前に。俺の力が尽きる前に)

 実際霊力はかなりきつい。しかし自分一人で屋敷へ来て、無事で居られる自信は無かった。宗三を連れて来る他無かった。

(日本号。頼む)

 来ない。誰の存在も感じられない。

 呼ばなくてはならないのに。これまでに倒れていった人、この屋敷に留まっている刀、そして自分の刀達と自分のこれからの為に。

「日本号」

 声に出した。背後の剣戟が激しくなったが、集中している審神者は気付かない。

「日本号、頼む来てくれ」

 俺の為じゃない。お前の知己の為に、お前の楽しかった思い出を、これ以上悲しくしない為に。

「日本号、日本号日本号日本号──」

 いつしか聞いた話を思い出していた。顕現後に教育係として長谷部をつけられたこと。喧嘩したこと。啖呵を切って首の骨を折られたこと。長谷部は褒めず、貶して怒ってばかりだったこと。日本号も揚げ足をとったりおちょくったりしていたこと。口喧嘩、無視、嫌味、殴り合い。仲間からの呆れられた目線に審神者からの鉄拳、呼び出されて正座。

 それでも審神者の彼らを見る目はどこか温かくて、他の刀も苦笑いしながら受け入れてくれて、長谷部はあれでも日本号を頼りにしているのだと教えてくれた。 

 一年目。しまいにやっと肩肘張らずに話ができた。

 三年目。喧嘩した回数と笑い合った回数が並んだ。

 七年目。手加減なしで手合せができるようになった。

 九年目。長谷部と同じ第一部隊で出陣して、一人前として認められた。

 一人前として認められた祝いの夜。へし切長谷部は高飛車な調子で、盃を掲げて言う。

 ──良かったな、日本号。安心して浮かれておけ。その隙に、誉は俺が総取りしてやる。

 ──ああ、浮かれさせてもらうぜ。無礼講極まってぶっすり刺されねえよう、足下に気を付けろよ、教育係殿?

 笑顔と、庭に向けられた親指。無論そのまま本気の手合わせになって、二人して審神者によって庭へ埋められた。

 ──あんたな。もうちょっと大人になれよ。

 ──お前の方が年上のなりをしているだろうが。見た目は大人、中身は子供。最悪だな。

 ──あぁ?

 地面から頭だけ出した状態でメンチを切ろうとしたが、何処からか女の咳払いが聞こえた気がして慌ててやめた。

 長谷部はくつくつと笑っている。

 ──それでも実際、お前は良い刀剣男士になった。

 日本号は瞠目して隣の首を見る。藤の瞳は柔らかな色を湛えていた。

 ──教育係も恩も何も関係ない。これからは武勲を競い合おう。

 ──ああ。そうだ。

 つられて笑った。

 ──俺達の主に、武勲を。

 ──俺達の主に、最良の結果を。

 騒がしくも笑いの絶えなかった、愛すべき戦場の記憶。

 ああ、そうだ。

 昔、或る本丸があった。

 腕の立つ多くの刀剣男士が、強く美しい審神者のもとに集っていた。彼女の両脇はいつも、主人を象徴するような二振の刀が固めていた。誇り高き虎徹の真作と、主と職務に忠実な苛烈しい刀。

『そう』

 誰かが言う。女のものであるようだが、呼び覚まされる回顧の声に耳を澄ませる青年は気に留めない。

『審神者とは眠れる物の想いや心を目覚めさせ、自ら戦う力を与え振るわせる技を持つ者である。 この戦においては、人間が戦うのではない。戦うのは刀の意志。しかし彼等の思いを咲かせられるのは、審神者しかいない。さあ、唱いなさい。貴方の呼びたい槍の記憶を。そして呼ばせるのです。私の刀を』

 身体中に力が漲る。

 もう少しだったんだ。

 まだ追いついたばかりだった。もう少しで、本当に肩を並べられると思っていた。

 審神者は叫んだ。

「日本号。私のもとに馳せ参じなさい!」