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その審神者は技にこそ優れていたが、どういうわけか刀剣男士との縁の強さに偏りのある人だった。所謂レア刀と称される者達を比較的初期に複数鍛刀で顕現させられた一方で、未だに一部のレア度が高くないはずの刀を手元に置けていないのである。
たとえばこの本丸には既に厚藤四郎や平野藤四郎、鶴丸といった面子が揃っており、彼らの初期刀にも迫ろうという練度の高さは、演練で他本丸の審神者の驚愕と羨望の視線を集めるほどだ。
だがそういった先輩や後輩の眼差しや言葉を受ける度、この本丸の若き審神者は、苦笑してこう言うのだった。
「いや、まあですね。自分でもよくお呼び出来たなあとは思うんですけど、まだまだでございまして」
「僕の刀帳をご覧になりますとお分かりになるかと思いますが……ほら、ね? 空きが多いんですよ。三日月や数珠丸はまだ納得なんですけど、骨喰藤四郎や山伏国広が来てないってどういうことなんでしょうね? 厚樫山ももう数百回回ってるはずなんですが、まだカカカのカの字も聞いたことがないんですよ。ははは。池田屋だって行ってるんですよ? 最近新しく発表された遡行先には、また踏み込めてないんですけど」
「おかげでまだ来てない刀剣の縁者にしょっちゅう鍛刀の催促されて、申し訳ない限りですよ。鯰尾なんて世話する相手が長いこと来ないもんだから、短刀達の世話は勿論馬や野菜の世話にも随分熱心になっちゃって。その上、『俺の内番値がカンストして草刈鎌とか包丁の付喪神に転身する前に、早く骨喰呼んでくださいよ!俺骨喰と内番したい!』なんて脅してくるんですよ。カンストなんて言葉、アイツどこで覚えたんですかね」
「すいません、余計な話をお聞かせしまして。とにかくそんな次第で、自分はレア度に関わらず自分と縁の薄い刀剣をとことん呼び出しづらい未熟者なので。ええ、ですが何としてでも、全ての刀剣男士を揃えたいと思ってるんですよ。せっかく肉体を得て戦うのなら、矢張り一度は鋼の身の頃からの知己や名立たる名刀と肩を並べたいというのが、ウチの奴らの願いみたいですから」
そのような台詞を、演練会場や時の政府における審神者会合で繰り返し口にしていた審神者である。己の本丸を成す男士たちへの思いと、召喚できぬ刀剣男士への渇望は本物だった。
だからこそ、ある本丸から己の手にしていない二振を譲り受けてくれないかと言われた時は、先方が驚くほどの喜色を露わにした。
その二振というのは、へし切長谷部と日本号である。どちらもお百度参りを悠に超す勢いで合戦場を探し回っても手に入れることのできなかった男士達であり、やはり他男士からまだかまだかとその顕現を心待ちにされていた。先日やって来たばかりの博多藤四郎は、日本号はまだアレやけど長谷部もおらんなんて、と赤縁眼鏡の奥のくりくりした瞳を寂しそうに伏せていたし、宗三左文字はあの湿気た顔を見なくて済んで清々しますなどと言いながらも、時折酒が入る度にあの主命大好きの仕事中毒者にも油を売る場所があったんですね全く怠慢は誰の事やらなどと漏らしていた。
ありがとうございます、ご厚意に甘えて是非。
そう言って青年審神者は平伏せんばかりの姿勢で頭を下げに下げた。その瞬間もしも彼がもう少しだけ頭を高く上げていたならば、きっとその馴染みある審神者の硬い頬が以前に比べてややこけていたこと、さらに隈の浮かんだ双眸に浮かぶ、どこか懸念するような色合いに気づけたのかもしれない。
しかしこの場には、他の審神者も男士もおらず。
二人の審神者の合意から一ヶ月の後。そのへし切長谷部と日本号は、青年審神者の下へやって来ることになったのだった。
◆◆◆
やっと、陽射しの肌に痛くない季節がやって来た。これまでも編み笠で遮ることこそ出来ていたものの、真夏の白日にかかっては藁で編んだ小さな日陰など儚いものだったのである。
もう、夜になってもじっとり纏わり続けるような灼熱を浴びなくて良いのだ。そんな自分の心情のせいだろうか。本丸の前栽も穏やかな表情を浮かべている気がする。来る日も来る日もじりじりと炎天に晒され続けた庭は、ようやく暦通りの装いに身を包むことが出来るのを喜び、安堵の吐息を漏らしているように思われた。
小夜左文字は、小さな頭をめいっぱい巡らせながら歩く。空が遠くなり、羊雲が増えた。松の緑が常磐に変わる。柑子の実が色付づいてきた。蜉蝣が飛んでいる。桔梗が咲いた。菊が綻びつつある。今囀ったのは鶲だろう。芒の穂が白くなってきた。女郎花や撫子と共に白い穂が揺れる、それは非常に優れたる様である。
やがて目的地である畑に辿り着く。今日の小夜の任務は、先日の長雨からの晴天で急成長してしまった畑の雑草を引き抜くことだった。本丸台所の源である畑は、抱える男士の数に見合った広さである。小夜一人では気の遠くなるような作業になること間違いなしだったが、彼はさして憂鬱ではなかった。それは小夜が一人で黙々と作業をしながら何と言うこともない考え事をしたりぼんやりしたりするのが好きな性質だったからでもあり、またこの日が佳き日和だったからでもあった。
(歌仙も、来れれば良かったのに)
本来共に畑仕事に励むはずだった相方を思い出す。本丸初期刀で、既に最高練度に達したために刀より包丁ばかりを握る日々を送っている歌仙は、火急の用で主に呼び出されていた。あの雅に拘る刀剣は畑仕事を嫌っていたが、そんな彼でも今日ばかりは畑に来てよかったと思えただろうになと小夜は鼻をひくつかせて頷く。
常ならば牛馬鶏といった家畜の糞から漂うかぐわしい香りを纏うことの多い畑は、この日に限って珍しく清涼で華やかな香りに包まれていた。
その原因は、草花に詳しい者でなくたってすぐに分かる。
(銀木犀、咲いたんだ)
小夜は壁のように聳え立つ樹木の、可憐な鈴の如き白花を仰ぐ。金木犀に似たこの花は、あの濃厚な黄金の花より控えめながらも華やぐ香りで知られている。歌仙も、何時だったか金木犀より銀木犀の方が好きだと言っていたように記憶している。
(戻ったら、歌仙に教えてあげよう)
何と言うことのないことだけど、何と言うことのないささやかな味わいに敏感な彼はきっと、とろけるように笑ってくれるだろう。
小さな胸いっぱいにその香りを吸い込み、ゆるゆると息を吐く。
良い天気だった。秋晴れ、金風、深まる草木の色、香、健やかな、枝葉の擦れる音……。
この心地よい空気を己が四魂に巡らせ、胸に沈む重く濁った凝りを吐く息と共に出せてしまえたら、どんなに。
(僕は今、とても愚かなことを考えている)
含んだ息を全て吐き切れば頭が重く、目一杯に吸い込めばかえって胸が苦しい。
肉の身を得て思うに、生きるとはそういうことであった。
(腑抜けたことを考えている。それより、足下の小さな命を刈った方がいい)
禅問答をするより草刈の方が、遥かに自身の性に合っている。
屈みこみ、無心に草を刈った。草刈鎌が緑の汁にまみれ、独特の青臭さが手にこびりつくまで刃を振るった。
無心に過ぎて、不意に自分の上に影が落ちるまでその気配に気付かなかった。
「久しいな、小夜」
短刀は、その薄い肩をびくつかせて頭を跳ね上げた。彼を覗き込む人物の顔は、一瞬逆光で黒く塗りつぶされたように見えた。しかし目はすぐに秋の優しい陽光に慣れ、懐かしい人物の様相を認める。
「……長谷部?」
「一人で畑当番か? 俺も手伝おう」
覗き込んでいても尚ぴんと伸びた背筋と、鋭利な雰囲気。間違いなくへし切長谷部だ。長谷部は小夜の返事も待たずに草刈鎌を受け取ると、伸びきった雑草をわっしわっしと刈り始めた。
小夜はそれを凝視しながら、少々戸惑う。本丸に初めてのへし切長谷部と日本号がやって来ることは審神者から聞いていた。だが、来るのは三週間後のことではなかったか。
「いつの間にここに来たの?」
「一週間前だな」
長谷部は淀みない手つきで草を刈りながら答える。
「本当は来てすぐに働き始めたかったのだが、ここの主は優しい方なのだな。自分の霊力と上手く合わなくて体調を崩したら困ると、今まで屋敷の中で養生していた」
こうして外に出ることが出来て嬉しい、と長谷部は微笑んだ。
どうやら自分達に知らされていなかっただけで、随分と日程が繰り上がっていたのらしい。小夜は少しだけ眉を寄せる。
「無理はしちゃ、駄目だよ」
「案ずるな。主のために働くことは、俺にとって糧となる」
兄がよく詰る通り、相変わらずの仕事人間ならぬ仕事刀剣であるようだ。しかしここで小夜は、また違和感を覚える。
長谷部は、主から主の手に渡ることを良しとしない刀剣であったはず。その処遇を甘んじて受け入れても、内心では何時までもそれに纏わる禍根や悲嘆を心底に抱え続けるような性質で、実際過去に下げ渡された時には相当塞ぎ込んでいたらしい。
その長谷部が、人の手を渡ってこの本丸に来る。そう最初に聞いた時、小夜はきっと落ち込んでいるに違いないと思った。
だが、この長谷部はどうだろう。主の手から渡って来たばかりであるはずなのに、嘆くでも強がるでもなく妙に和やかな体ではないか。
(無理に明るくしてるのかな)
小夜は長谷部を凝視する。すると草を刈る手元を見ていた長谷部が、急にこちらを向いた。
「人の手を渡った俺が沈んだ顔をしてないのが不思議、といった顔だな」
小夜はギクリとする。だが長谷部は気にした様子もなく、笑みを浮かべた。
「そう気まずそうな顔をするな。確かに昔、俺は人に手放されるのが嫌だった。だが今は……主に忠誠を誓う刀剣として、どんな形であれ主のお役に立てることを誇りに思えるようになったのだ」
小夜は己が目と耳を疑う。
あの、主に執着する長谷部の台詞とは思えない。新しい強がりか、ひねくれだろうか。
「何かあったの?」
疑いがつい、口を突いて出た。すると長谷部はここぞとばかりに乗って来る。
「良い出会いがあった。俺にこう思わせてくれたのは、前の主――俺がここに来る前の本丸の主だった」
聞くか? と長谷部は尋ねた。小夜はやや躊躇ってから、こくりと頷いた。
◆
審神者とは眠れる物の想いや心を目覚めさせ、自ら戦う力を与え振るわせる技を持つ者である。
付喪神における想いや心を顕現させるのに彼らが縁とするのは、主に記憶である。人によっては、この記憶を「時」と言い表す者もいる。そう唱える者達に言わせるならば、付喪神の顕現と言うものは、物の上に降り積もった年月を軸として、彼らに自我と人格を所有している自覚を持たせることになるらしい。また曰く、刀剣男士が時を渡れるのもこの性質に依るとか云々。
それはともかく。その例から分かる通り、審神者というのは過ぎ去った時を見据える能力こそあるものの、何もないところから偽りの記憶や空間を作り出すということは出来ない。だからどんなに凄腕の審神者でも、時の政府の許可なくして本丸を築くことは出来ないのである。
へし切長谷部を顕現させた主は審神者会合の古株だった。彼を始めとした、少ないながらも鍛え抜かれた刀剣達と共に、まだ時間遡行任務に着手したばかりの審神者黎明期に活躍し、現役を退いた後は長い年月を経てすっかりゆかしい風情をそなえた本丸にて、まだ正式な実装の確定されていない男士達のテスト実装に協力しながら、静かに暮らしていた。
ところでこの老審神者には、二人の息子がいた。二人とも審神者の才を有していたが、兄の方はそれを使わずに政府の技術者として生きる道を選び、弟の方は母と同じ審神者となる道を選んだ。
その倅審神者は駆け出しの頃は様々な本丸へ奉公がてら修業に出かけ、二十を過ぎた頃に母の所へ弟子入りする形で審神者業を本格的に開始した。本来ならば審神者業を開始する時は己の本丸を持つものなのだが、ちょうどこの頃は審神者の霊力に適応しやすく刀剣男士の根城となれるような土地が不足しており、本丸なしで開業をするより他がなかったのである。
倅は駆け出しによくある苦節や滅多に起こらない試練等に苦しめられながらも、新進気鋭の審神者として立派に成長した。若いながら早くも審神者会の中核を担うだろうと称された彼に、母が己の本丸を譲ろうと言い出したのも当然のことだっただろう。彼女はこの時既に六十。若く有望な審神者も、自分の往時に比べて随分増えた。政府の刀剣男士実装計画にも十分尽くしたし、もう身を退いてもいい頃合いだと判断したのだ。
しかし倅は、その提案にうんとは言わなかった。
「確かに血縁者の俺が母さんの本丸を継げば、母さんの育てた素晴らしい刀剣達は消滅することなくここに残り、俺を支えてくれるだろう。でも、母さんはまだまだ人から必要とされているし、男士達からも求められてるじゃないか。勿論俺だって、母さんの育てた男士達を、その──母さんに万が一のことがあった時に失いたくはないさ。だけど俺はまだ、母さんほどに彼らに力を注いであげられない。だから、俺がもうちょっとマシになるまで待っててくれないか?」
でも貴方のことはウチの男士達も認めている、だから大丈夫よと母は説いた。しかし倅はなおも首を振って言った。
「俺の霊力は、まだ母さんとこの本丸に依存してる。一度ここを出て、自分の本丸を持ってみたいんだ」
もっともな理屈だった。審神者の霊力は、己の本丸を持ってやっと真に安定する。審神者は力や技さえあればいいのではない。男士の足場となる本丸がないと、本当の職務を果たす上での審神者となるには不十分なのであった。息子は己の本丸というものに焦がれていた。
それから数日後。奇しくも彼のもとに、機会が訪れる。
いつものように演練をこなした彼は、その対戦相手の一人とひょんなことから意気投合し、「よければ茶でも酒でも」という話の流れから彼の本丸を訪れることになった。出向いた先で、息子はまず一度驚いた。その屋敷は、これまで見た本丸の中でも群を抜いて立派なものだったのである。
とても大きな屋敷だった。庭の広大さと、棟を何本かの渡り廊下で繋ぐ建物の有りようは寝殿造を思わせる風情であったが、一の丸自体は内実ともに飾り気なく美しい書院造である。黒々とした瓦葺と漆喰の白壁は日差しに映え、まるで果実のような瑞々しささえ感じるほどに眩い。柱や廊下の木目、欄間の肌は鼈甲の如き深みのある色艶で、鮮やかな外観からは分からぬ使い込まれた歳月を、またそれだけの間ずっと磨され愛されてきた屋敷の歴史を物語っているようだった。
さらにこの本丸は、いつどこにいてもふんわりと良い匂いがするのである。それは屋敷の周囲を巡る藤棚によるものだった。この薄紫の花垣が咲き誇ると、屋敷はまるで香を焚くかのように、芳醇な香りを纏うのだ。
淑やかな香りを漂わせる、美しい屋敷。まるで格式ある武家の、しゃんとして優雅な女主人のよう。
倅審神者は手放しに、感じたままに屋敷を褒めた。すると、先方より驚きの台詞が返って来た。
なんと、この屋敷を引き取ってはくれないかと提案言うのである。
「お恥ずかしい話ながら、私は男やもめでね。妻に先立たれてから仕事の片手間に子育てもこなそうとしてきたんだが、やはりどうにも厳しい。だが先日、ついにこんな私でもいい、子供もいていいと言ってくれる伴侶に巡り会えて、婚約することが出来たんだ」
ただし、婚約には条件があった。審神者をやめよと言うのである。
「妻は商家の跡取り娘でね。仕事をやめてそれを手伝え、いい加減子供とも遊んでやれと言うんだよ。まあ尤もだな、これまでほったらかしていた分、これからは家族に尽くそう。そう決めて、ひと思いに辞めることにしたんだ」
しかし、心残りがある。この本丸だ。
「この本丸は、寂しがりなんだよ。必ず誰かが住んで構ってあげないと、余計な災厄を呼び寄せてしまう。それがこの屋敷だけに留まればいいんだが、そう言うわけにもいかなくてね」
「どうしてです?」
「勝手に外から、呼ばれて来ちゃうものがいるんだよ」
審神者の本丸を構えるような土地は、少なからず神気の強い場所である。
そしてその神気が、いつもいい方に働くとは限らない。
「歴史修正主義者がこの土地を狙いに来るんだ。一時でも時の政府と繋げてしまった場所だからね。その気配を辿った歴史修正主義者が、ここから政府に攻め入ることがあれば大事だろう? だからここを封じてしまうか、そうでなければ新しい守り手を探そうと思っていたんだ」
君に会えて良かった、君のような本丸を求めていてかつ霊力の強い若者を探していたんだ、君さえ良ければこの本丸を引き取って欲しい。
そのような褒め言葉と懇願とを、相手は語った。だが懇願など不要だった。倅は、この屋敷を一目見て惹かれてしまっていた。立派な屋敷にのびのびとした庭先。前栽も見事で、四季折々の花々が絶妙な配置で、嫌らしくなく自然に共生している。このような見事な本丸は、そうそうお目にかかれないだろう。いつか自分も本丸を持ったら、こんな風に──そう思っていたから、男の提案に一も二もなく飛びついた。
是非頂きたいお願いします、勢い込んで言う若人に、今度は先方の方がかえって冷静になったのだろうか。
まあ落ち着き給え、しかし条件があるんだ。
そう改めて告げた。
条件とは? 倅が訊ねると、男は人差し指を一本立てた。
この屋敷に、一年間出陣無しで住み続けてくれないだろうか。
「奇妙な話だわ」
演練相手の本丸から帰って来た息子の話を聞くなり、老審神者は言い放った。
「歴史修正主義者がそんなに攻め入って来る本丸なら、政府が必ず厳しく監視の目を光らせて管理しているはず。後任を探すにしても、個人に任せずに役人を派遣して十分な審査をするでしょう。なのに、後任になるという貴方に面接の一度もしないなんて」
「あのご主人が、よほど政府からの信頼の厚い人だからなんじゃないか?」
「私は貴方の言うような審神者を、政府の帳簿で見た覚えがないのよ。本人の一存で政府直轄の本丸建設地が委託出来るくらいの人物なら、歴史是正省と審神者会合との幹部会に出席出来る地位にあるのよ。私が会ってないわけがないわ」
「でも母さん」
「その方は、どのくらいの付喪神と契っているの?」
「それが」
全部なんだよ、と息子は答えた。老婆は目を見開いた。
「全部?」
「そう。見せてもらったから確かだと思う」
彼は一通り、本丸を案内してもらっていた。周囲を注連縄と藤棚で囲まれた、広い広い長方形の敷地。その南に聳える大きな武家屋敷から、東の修練場、西の畑、遠い昔河原左大臣の誇ったが如き遣水、百花からなる庭園、そしてその果ての、鍛刀場と魯を兼ねた土倉。全て見た。
そしてそれを目にしたのは、土倉の中だった。
「本当に、全部あったんだよ」
「全部ってどこまで?」
「全部は全部だ」
四方の壁一面にずらりと刀掛が据えられ、政府の方で管轄している刀剣に槍に薙刀にといったあらゆる刃物が、実装未実装に関わらずなべて鎮座している。それは圧巻であると同時に、暗い蔵の中では薄ら背筋の冷えるほどの威圧を覚える光景であったという。
「分霊──人の身をした付喪神は、どうしていたの?」
「ちらほら見たけど、普通に生活しているように見えたなあ」
ただ、やけに本丸の空気が静かであるのが気にかかった。演練で手合せした時は意気揚々として活気づいているようだった相手部隊が、本丸に帰還するなり速やかに散開しすぐに姿が見えなくなった。その時は単に客人である自分に気を遣ったのだろうと思っていたのだが、返り血に染まって上機嫌だった鶴丸国永が、本丸の注連縄と藤棚からなる結界を潜った途端、ふと表情もなく去って行ったのは奇妙だった。
息子の話を聞くと、老女はいよいよ顔を険しくした。
「その本丸の鍵を貸しなさい」
「でも母さん」
「ことは貴方一人の問題ではないわ。審神者全体と時の政府に関わるかもしれない」
貸しなさい、と強い口調で言う。息子は掌を握って、開いた。仄青く光る鍵が浮かび上がる。
本丸を持つ審神者なら誰しも持っている、本丸開錠の鍵だ。
その実に簡素な輪と棒を繋ぎ合わせた輪郭を、老審神者はしげしげと見つめる。
「随分古い鍵だこと。最近の、本丸番号が特定しやすい認証端末内包錠とは違う――」
鍵に、皺の目立つ細い指が触れる。途端閃光が走った。強い光に目を焼かれ、鍵を差し出していた息子はぎゃっと叫んで取り落す。
「なに、どうしたの!?」
息子は目を開けてぎょっとした。母が、あの年老いてなお毅然とした母が、片手を押さえて蹲っている。しかもその抑えられた片手の指先が、真っ赤な金柑のように膨れ上がっていた。
「母さん!?」
「大丈夫」
老女は呻きながらも上体を起こした。顔色こそ白いが、命に急な危険は迫っていないようだ。
「癖の強い本丸のようだわね。触れただけで噛みついて来るなんて」
だが老審神者とて、伊達にこの業界の黎明から活躍していない。負けん気の強い彼女は息子から鍵を預かると、その技量と気概で鍵を解析し、件の怪しげな本丸についての調査を行った。その甲斐あって、五日後にはその存在する座標を掴むことが出来たが、無理が祟り高熱を出して寝込んでしまった。
それでも彼女は、誘いを受けたいと言いに来る息子に、悪いことは言わないからその本丸に行くのは止しなさいと厳しく警告した。
しかしいつもなら聞き分けのいいはずの息子が、その時だけは何度言い聞かせても頑として譲らなかった。
「俺は、もういい加減自分の本丸が持ちたいんだよ。母さんのお陰で強くいられるみたいな、そういう見方はされたくないんだ」
終いには息子はそう言い出し、これには母も何も言えなくなってしまった。自分の傍にいることを強いているつもりはなかったが、倅が一部からそのような影口を叩かれていることは知っていた。
そこで彼女は遂に、彼の本丸転居を許した。ただし、必ず第一部隊には神剣を多く入れる編成にすること、一ヶ月に一度は必ず自分の所へ顔を出しに来ること、そして己の近侍を長らく務めてきた長谷部を入れて移り住むことを条件に出し、守れぬようなら引きずってでも戻って来ることと念を押した。
これを青天の霹靂と思ったのは、息子部隊の刀剣達よりも長谷部の方である。
長谷部は、長年この老審神者を一番として尽くしてきた。それなのにそんな自分が、あっさりと送り出されてしまう。
長谷部はそれはもう嘆いたが、主人である老女に
「貴方なら、必ず私のもとに帰って来てくれるでしょう? お願いだから一年後、必ず元気で私の所に帰って来て頂戴な」
と懇願されれば、首を縦に振る以外の選択肢はない。謹んで拝命した。
支度を整え、長谷部は倅審神者とその五振の刀剣達と共に件の本丸を訪れた。
あの演練相手であった審神者が、一の丸の前で待っていた。本丸はその日も閑静としており、誰の気配もないかのようだった。
長谷部達を迎えた男は、ちょうど傍に立つ桜の木を見上げ片手を差し出した。その掌に、ひらひらと淡い桃色の花弁が落ちる。
「次にまた桜が咲く頃――その日を約束の一年としよう」
それだけ告げて、男は去った。
こうして長谷部の、新しい主との本丸生活は始まった。
正直な話、彼は当初この本丸で出陣無しの生活を出来るとは思っていなかった。たったの一年、しかもいくら長年尽くしてきた老審神者の頼みとは言え、今頃自分以外の刀剣と主はどうしているのだろう、楽しくしているのだろうかと考えるのは辛いに違いない。夜毎に涙することになるやもとさえ覚悟して引っ越した。
だがいざ問題の本丸に移り住んでみれば──どうしたことだろう。果たして、悲しみとやるせなさは消えた。それは倅審神者が良くしてくれるおかげというのもある。また頻繁に歴史修正主義者が襲ってきて忙しいからというのもある。だがそれ以上に、長谷部達をもてなす館が非常に美しかったから、というのが大きな要因だった。
この藤棚に囲まれた本丸は、真に美しかった。戦のために建てられたものであると思えないほどに、いつでも彩りに満ちていた。
桜が散れば葉の緑が濃くなる。雨が落ちれば紫陽花が綻ぶ。雨季が去れば白粉花が足下を飾り、白日に向日葵が頭を上げて満面の笑みを浮かべる。藍や紅の朝顔が咲いては萎むのを見てさえ、悲しくはならない。その盛衰を讃えることもしばしばだった。
吹く風に涼しさを感じる頃になると、その豊かな実りで目でも腹でもこちらを満たしてくれる。霜が降り雪が舞い始めれば花の数こそぐんと減りはするが、庭は一転して白無垢に身を包んだが如き慎ましやかな姿を見せ、これまでとは違う趣で長谷部達を楽しませた。
移り変わる季節、過ぎ去る時。目まぐるしく、しかし鮮やかに変わりゆく本丸の景色は、悲しみの入り込む隙間のないほどに完成された美を見せた。
この本丸は、まさに神域の中の神域だ。
長谷部は心の底からそう感じた。注連縄に囲まれているせいか、漂う空気が清らかに澄み渡っている。手入れをしなくとも育つ作物は皆見事、部屋も掃除しないままにいつまでも綺麗なまま。それに何時でも芳香を漂わせる藤は、満開のまま散ることがなかった。不思議なものだが、長谷部はこの花が散らないでいてくれることが嬉しかった。
一年、楽しく過ごした。刀剣男士として意識を持ってから初めて、過ぎ去っていく四季や時間に悲嘆を覚えぬ月日を過ごした。これも良い本丸を見初めてくれた審神者のおかげだろうと長谷部は思う。付喪神にも人間の言うところの常世や極楽浄土や、天国のようなものがあるとしたら、きっとこういう場所に違いない。
だからこそ、ここから離れたくない、ずっとここにいたいと長谷部は願うようになった。
それは倅審神者も同じだったらしい。なんなら母もここに連れて来よう、皆でここに住もうと彼が言い出した時は、感極まった。それからは早く一年が過ぎればいいのにと、桜を見つめ続けた。
桜の蕾が綻ぶのを待ちに待ち、ついに桜の木を見上げる長谷部の額へ、淡い一片が落ちる日が来る。
久方ぶりに、この件を持ち込んだ男がやって来た。彼は頭を下げ、しみじみとした口振りで告げた。
「一年間、よくこの本丸を守ってくれた。約束通り、この屋敷は貴方のものだ」
◆
「そういうわけで。主の意向に従って新しい主の手に渡ることにより、どちらの主のためにもなることを出来る喜びを知ったんだ」
長谷部は胸を張って言う。だが小夜は、眉をひそめずにはいられなかった。
釈然としない。
今の話のどこが、この頑固な長谷部の心を変えるほどの体験となっていたのだろう。
「どうした。納得のいかなそうな顔つきだな」
長谷部はこちらの心情を見抜いたらしい。小夜は逡巡したものの、思ったままを口にした。
「だって今の話は、一時的に他の主の下へ派遣された、ってことだよね? 新しい主の手に渡ったのとは、違うと思う」
そう。話の趣旨がずれているのだ。
その上聞きながら感じた疑問は解消されず、話の山場を迎えることもないままに語りが終わった。このちぐはぐな語り様で納得する者の方が変だろう。
明らかな違和感から小夜が惑っていると言うのに、長谷部は目を細めている。
「小夜は聡いな」
また、違和感。
小夜は思い返す。長谷部は自分に、こんな言い方をしたことがあっただろうか。
言葉こそ褒めているようだが、その声の調子に心からの賞賛は窺えない。寧ろ「よくぞ此方の思惑通りのことを言ってくれた」とでも言いたげな。
長谷部はこちらを眺めている。愛でるというより全身を舐め回すような眼差しで、とっくりと。
小夜は身じろぎする。
何かがおかしい。彼は確かに矛盾だらけの刀だった。しかし、このような漠然とした見えなさを感じさせる者ではなかったはず。
やがて長谷部は、小夜から目を外さぬままに口を開いた。
「小夜。この本丸に来て、寂しい思いをしているのではないか?」
問いかけはまた、あまりにも唐突だった。問い返すこともできず目を瞬かせる小夜に、長谷部は言葉を重ねていく。
「俺はお前のことなら全て知っている。黒田にいた頃のことだけじゃない。ずっと昔の、お前が見出されることになった出来事の起こった頃から、最近の兄や仲間達の優しさに戸惑いを覚えていることまで……。そう、お前がこんなにも優しく温かな場所にいていいのかと悩んでいることも、この場所に感化されている自分が腑抜けのように思われて、だから本来の自分に還るために草を無心に刈っていたのだということも知っている」
小夜は、顔から血の気が引いていくのを感じた。
確かにそうだ。その通りだ。だが何故、先程会ったばかりの長谷部が知っているのだろう。親しい皆を困らせてはならないからと、ずっと胸の内に秘めてきたはずなのに。
誰かから聞いたのか? しかしそれにしては、やけに上手く小夜自身の思考を言葉にしている。
長谷部の双眸と口が、弓の如くしなった。小夜はぞっとする。
知らない。こんな笑い方をする、こんなに妖しく瞳を歪ませる長谷部なんて知らない。
「俺はお前に会うのを、とても楽しみにしてたんだよ」
長谷部は囁く。小夜は後ずさる。小夜の知っている長谷部は、こんなあからさまな物言いをする男士ではなかった。
「復讐の黒き道を歩いてきたお前に、この本丸は明るすぎるだろう。お前のこれまでに殺した者達から滴る血の温さが、復讐に駆られた人間の顔が、記憶から失せそうな気がして怖いんじゃないか?」
「な、んで……」
「我が本丸の主は、お前のような虚を抱える者のことをよく御存知だ」
誰だ。
この刀の言う「主」は誰のことだ。
そしてこの、眼前に佇む「へし切長谷部の外見と神気を持つモノ」は何だ。
「貴方は、誰?」
問う声を震わせないのに、苦労した。
にこやかな、不気味なほどににこやかな笑みを崩さぬまま、長谷部は小夜の前に膝を落とした。
「俺はへし切長谷部そのものだよ。他の誰でもない。主命を果たすことに誰よりも忠実な、刀剣男士だ」
その手が草刈鎌を取り落し、代わりに人差し指を小夜の唇に当てる。端正なかんばせを、小夜の見開いた双眸へと近付ける。
「辛いだろう、小夜。俺達付喪神にとって、人の血肉は熱く重すぎる。斬るだけならばともかく……この身に纏うとなれば、尚更」
この男の睫毛は、こんなにも銀紗のように透き通り、細やかに生え揃っていただろうか。
居場所がないのだろう? 囁きかける長谷部の吐息が、鼻先を擽った。
「ならば、藤の御屋敷へおいで」
魔王に見出だされた鋭さなど窺えぬ、潜めた声の甘やかな響き。
「俺が今話した藤棚の本丸は、まだあるんだ。あそこなら、復讐の小道を歩むお前もきっと気に入るだろう。お前の好きなものがたくさんある。綺麗な反物や甘いお菓子、雅な絵巻物、何だってあるさ。そう。今は秋だから、お前の好きな柿だって生っているぞ」
赤くて美味しい、とっても甘い柿だ。
囁く長谷部の瞳から、目を離せない。藤色は陽射しに合わせて細やかに色味を変え、螺鈿の如く綺羅綺羅と輝いている。時折藤の隙間にちらと混ざる薄青は、彼の瞳はそこまで澄んでいたかと思わせるほどに、本物の空をそのまま吸い込んだかのような透明さで──
(瞳?)
小夜が訝しく思った時だった。
ふわり、風が吹いた。
瞳の中の藤が揺れる。映った光や影が揺らいだことによる錯覚では、断じてない。まさに藤色そのものが動いたのだ。まるで、風に吹かれたかのように。
揺れた薄紫が割れ、その狭間からちらりと白い何かが覗いた。それはほんの一瞬のことだったが、間近で覗き込んでいた小夜は気付いてしまった。
(違う……違う、違う!)
これは単なる虹彩ではない。
彼の藤の眼が螺鈿の様に思えたのは、事実細かな藤の塊が集まっていたから。長谷部の瞳の中には、無数の藤の花房が咲き乱れていたのだ。
枝垂れる藤の花が、今一度風に吹かれる。分かたれた藤の垣根の向こうに、今度こそはっきりと見えた。
あれは、白壁だ。反射した光さえ瑞々しく思えるような、眩き装い。
(眼の中、に)
美しい藤に囲まれた、藤棚の御屋敷。
長谷部達が魅せられた麗しき御殿、が。
「小夜ッ!?」
己の名を叫ぶ声で、短刀は我に返った。
咄嗟に頭を巡らせれば、ここにいないはずの今日の相方が必死の形相でこちらに駆け寄って来るところだった。
気付けば小夜は歌仙の腕の中にいた。接近しその小さな体を掻っ攫った歌仙は、キッと先程まで小夜がいた辺りを睨む。長谷部は小夜の唇に人差し指を伸ばし、顔を近づけたその姿勢のまま、眉一つ瞳孔一つ動かさずに止まっていた。
「長谷部!」
低く、焦った声がその名を呼んだ。
小夜は長谷部の向こうを見て、あ、と声を上げた。見覚えのある大男がやって来た。
日本号だ。きっと長谷部と一緒にやって来たという──小夜が事態を飲み込めないままに眺めていると、長谷部に動きがあった。彼は姿勢をそのままに、首だけを回して日本号を見上げた。かと思えば、つと糸が切れたかのようにその身体が崩れ、伸ばされた日本号の腕にしな垂れかかった。
「小夜、お小夜! 怖い思いはしなかったかい!? 怪我は?」
「大丈夫だよ」
長谷部が気を失ったために安心したのだろうか。歌仙が捲し立てるように窺ってくる。小夜は努めて平然と答えた。怖くなかったと言うには鼓動がせわしないが、それよりも長谷部が気にかかる。
歌仙が長谷部を、ひいては彼を抱える日本号を警戒の眼差しで射抜く。偉丈夫は溜め息を吐いた。
「外出させないはずだったこいつが出て来ちまったことについては、すまなかった。だが、制裁はちと待ってくれ。俺もこいつも訳ありでな」
「日本号」
小夜は日本号を見上げ、同時に日本号も小夜を見下ろす。短刀の強張った顔つきを見て、槍は何かを察したらしかった。
「こいつはもしかして、お前さんに藤棚の綺麗な本丸の話をしたのか?」
「したよ」
「まさか、『藤棚の屋敷へ来い』と誘いを掛けたのか」
日本号はまた小夜の顔付きの変化から、答えを見て取ったようだ。深い吐息を漏らした。
「それは、すまなかった。おっかない思いをさせたな」
「貴方は」
小夜は何を聞くべきか一瞬考えてから、慎重に問いを発する。
「この長谷部と親しいの?」
「親しい……かは微妙だが。こいつとの付き合いは長いし、詳しいぜ」
俺はこいつと同じ主に顕現されたからな、と日本号は瞼を閉ざした長谷部を窺ってからまた視線を戻す。小夜は重ねて尋ねる。
「長谷部がその、藤棚に囲まれた不思議な本丸に行く前から、知り合いだった?」
「勿論だ」
「じゃあ……長谷部が話したことは本当なの?」
小夜はじっと、日本号を凝視する。黒田馴染みの槍は、溜め息を吐いた。
「大方、こいつが語ったことは本当だ。だが、二つだけ間違ってることがある」
いつもそうなんだ。
日本号がぼそりと漏らす。
(いつも?)
小夜は引っかかったが、槍は語りを続ける。
「一つは、藤の御屋敷の所在だ。こいつは在ると言うようだが、正確には、『今は』存在しない。何故なら俺達を顕現させた最初の主──長谷部の話で言うところの老審神者が、火を放って燃やしちまったからだ」
小夜は息を飲む。歌仙の指が、小夜の背をしっかと抱く。
「それからもう一つ」
日本号は声を落とす。
「あの本丸へ移らないかと誘われた後。確かに、前の主の息子と五振の刀剣と、そしてこの長谷部はそろって移り住んだ。だが一年が経ち、帰って来られたのは──こいつだけだった」
日本号は己が腕の青年を見下ろした。気付けば、小夜もその視線を追っていた。
長谷部は眠っている。風が吹いても、その瞼は閉ざされたまま……ただ、睫毛だけが震えていた。