時は西暦2X95年。
 発展した文明に溺れ心と思考を忘れてしまった人類は、遂に自らの生み出した文明に足元を掬われ滅びへの一途を辿っていた。
 各地で度重なる戦乱。街はあれど社会は失せ、うららかな平穏の日々は去り、心を忘れた人々は欲と恐怖に乱れ、醜い争いを繰り返した。
 尽きせぬ業の輪廻がひた巡る。秩序を無くした世界は文字通りの「戦国時代」へと変貌し、今また生まれし混沌へ還ろうとしていた。

 そんな末の世、日ノ本の国に、奇妙な男たちがぽつりぽつりと現れる。一見すれば只人にしか見えぬ彼らはしかし、その手にしかと時代遅れの鋼の刃を引っさげていた。

 彼らこそ「刀剣男士」ーーその昔時の歪みから守っていた人々と同じ身体を与えられ、鋼に宿した心はそのままに現世へと再び舞い降りた、主無き付喪神だった。












◆江戸の喧嘩屋

 自分が『御手杵』であったことを自覚する以前のことは、どうにも曖昧で思い出せない。
 人並みに人間の両親から生まれ、人並みに人間の中で育ってきたのだと思う。だが自分を囲んでいたはずの人間の顔はどれも掠れた薄墨で描かれたようなぼやけた輪郭をしていて、頭上にそびえる高層建築もまた消えかけの篝火から立ち上る煙のようにひょろひょろと力ないものにしか見えなかった(そう言うとよく自身の記憶の衰えのせいだろうと相棒に笑われるのだが、御手杵はそうではないと思っている。何故ならば自分は、『御手杵』となる以前ただの一度でさえ人の顔の識別が出来たことがなかったのだ。本当に彼の周りを取り巻いていたのは、全てへのへのもへじ顔の棒人間だったのである)。
 しかしある日。そんなふやけた水墨画の世界に異形の化け物が現れた途端、それまでの曖昧な日々は終わりを告げた。
 その網目笠で顔を隠した人型の化け物は、禍々しい黒き瘴気を纏って佇んでいた。古ぼけた和紙に気まぐれで描かれたのに似た、吹けば消えるだろう景色の中で、濃い墨汁を迸らせるかのような圧倒的な存在感は異様だった。
 だが世界を蝕まんばかりの瘴気をその目に映して自分が思ったのは、「懐かしい」というそれだけだった。何となく見覚えのある男だ。いや、間違いなく自分は奴を知っている。そうだ、あの男が全身から漂わせる瘴気は、首を落とすとより濃くなるのだ――その頚から堰切って溢れ出す鮮血と入り混じって、一気に濃厚にドロリと。
 はっと物思いから覚めた時には、己のすぐ真下に男が斃れていた。己の掌中には何時顕現したのか一本の槍が握られていて、その馬鹿長い穂先が男の頭と胴体へ永遠の別離をもたらしていた。
 自分の思い浮かべていた通りに溢れ出した血溜まりが、己の長い穂先を濡らしている。刃の縁を、つと血の粒が伝う。落ちた粒が赤い水面に波紋を投げかけ、銀はその妖しい煌めきを映して不規則に煌めいた。まるで脈打つような輝き。滴る男の血を槍が吸っているようだ。
 そう考えた刹那、男の姿がどぷりと溶けた。溶けた黒い血は同心円状に広がりみるみるうちに地に染みこんで――糸くずのようだった舗装のヒビが濃くなり、居並ぶ高層ビルが煙ではなく煤けた卒塔婆のような立ち姿を現わし、曇天が頭上に重くのしかかってきて――一瞬のうちに、ひなびた日本画のようだった世界を荒廃した世紀末のビル街に変えてしまった。
 朧げだった世界に血が通った。景色の輪郭に流れ込んだ男の血は自分の世界を明らかにして、そして己が刀剣男士『御手杵』であったことを思い出させた。この時に御手杵は、人の身を持ちながら人としての生を躊躇いもなく捨てた。
「それは、黄泉竈食いと似たような経験なのだろうな」
 自身の体験を語って聞かせていた相手は、神妙な面持ちで頷いた。
 安い賃貸のアパートの一室には、長年使い込まれた部屋特有のうらぶれているようでくつろげる空気が流れている。遠く過ぎ去りし昭和の家屋を模倣したものだというこの狭い八畳間で、御手杵は卓袱台とその向こうの懐かしい面を前に小山のようなオムライスを掻っ込んでいる。
「懐かしいなあ、その言葉」
 御手杵はもごもごと呟いて、口いっぱいに広がる味覚をもたらす調味料に似た色をした髪を持つ目の前の隣人へ、ちらりと目を移した。優男と言うには厳しい四角い顔に太い眉の彼は間違いなく見る者を怯ませる迫力の大男なのだが、その澄んだ眼差しと穏やかな物腰が人柄の良さを如実に語っているために、他人を怯ませることは少ない。更に今はどこでどんな経緯で入手したのか不明なサーモンピンクのエプロンを身に着けているために、余計厳めしさからは遠ざかっている。
 その厳つい顔が、眉を下げて口の両端を僅かに持ち上げる。
「そうか……既に神話が滅び去って久しいのなら、この言葉さえこの時代の人々には通じないのか」
「俺には通じるから問題ねえよ」
 この時代の人間たちは全くの架空の物語にして価値のない与太話として、神話を忘れ去ってしまったらしい。悲しげな彼に慰めにもならない返事をして、話の続きを促す。
「それで蜻蛉切。俺の初めての戦が黄泉竈食いに似てるってことは、俺はあの時間遡行者を倒すまでこの世界に馴染めてなかったってことなのか?」
「おそらくそうなのだろう」
 蜻蛉切は首肯する。
 黄泉竈食いは死人が黄泉の食物を口にして完全なる黄泉の住人となることだ。しかしその理屈で御手杵の体験を考えると、おかしな矛盾が生じる。
「俺、あの前もこの世の食物は結構食ってたぜ? それなのにこの身が世に馴染めていなかったって、どういうことなんだ?」
 この世界に馴染むだけならばそれだけで十分だったはずだ。歴史修正主義者の血は要らない。
「刀剣男士をこの世に下ろすなら、これまでみたく審神者に任せばいいだろう。それを完全に人の胎に宿して生み落とし、それからこんな回りくどい手段で刀剣男士として目覚めさせる必要なんてあるのか?」
「御手杵」
 蜻蛉切は神妙な面持ちで言う。
「我らはただの人として、またはただの刀剣男士としてこの世に下ろされたわけではないのではないか?」
「どういうことだ?」
「お前の言った通り、我らを世に下ろすならば審神者の手を借りて従来通り鍛刀すれば良い。この時代にはまだ一応審神者は存在しているから出来るはずだ。だが我らは人の腹から生まれた――もうそのことは、産んだ者すら覚えていないようだがな」
 御手杵は頷いた。あの初めて歴史修正主義者を斬った後、朧げな記憶を頼りに住処としていた場所へ帰ってみたが、そこに御手杵の(正確には御手杵の前身だった異なる名前を持つ何かの)存在していた痕跡は、全く見受けられなかった。
 眼前の槍もそれは同じだったらしい。その時彼はひどく悲しんだようだが、御手杵は特に悲嘆にくれることもなく、槍としての生を求めて都心を彷徨う生活を選んだ。その過程で奇遇にも相棒に出会い、稼業をスタートさせるためこの狭いアパートの一室を借りた。その近所にこれまた偶然住んでいたのが蜻蛉切だ。
 回想から帰って来た此方を、黄金の瞳がひたと見据えてくる。
「そして御手杵。あまり人間と接する機会のないお前はまだ知らんのかもしれんが……我らがかつて共に戦った時代の頃から変わらず、未だ人は自らの意思で腹に宿る子の魂を選ぶことが出来ん」
 重々しく告げられた言葉に、御手杵は押し黙った。
 裸電球の白々とした光が、隅に散らばった衣装や漫画本に侘しい影を落とすだけだった部屋。そこへ磨り硝子の向こうから夕暮れの朱が差し込んでいた。それと共に、遠くから人々のざわめきも染み込んできている。眠っていたベッドタウンが目覚めようとしているらしい。まだ寝ぼけ声のようなざわめきに少し耳を澄ませてから、御手杵は再び口を開く。
「なるほど。今回俺達を下ろしたのは、人じゃないのか」
「だからつまり自分達は、人から独立した刀剣男士として生きる天命を与えられたのではないだろうか」
「天命ねえ」
 御手杵は口をもごもごと動かしながら天井を仰いだ。小さな裸電球でも直視し続ければ目に痛い。
「俺達の他に、この世に似たような形で下ろされている奴らは?」
「自分の身の回りには、お前達以外いないようだ」
 自営業の御手杵と違って、蜻蛉切にはきちんとした勤め先がある。なんと軍属なのだ。軍には遊び人が多いがその中で職務に邁進する彼を、流石は武士としての誇りを重んじる常勝の槍だと御手杵は感心しながら、だが自分なら絶対勤まりそうにないなあと密かに思っている。
「だが警察にはそれなりにいるという噂だ」
「会ったことがないのか?」
「自分はあまり職務で警察に出向かないからな。それに、いたとしても会えないだろう」
「何でだ?」
 不思議そうな御手杵に、蜻蛉切は簡潔に分かりやすく答えた。
「表に出ないような任についているようだから」
「うええ、そういうことかあ」
 御手杵は首を竦めた。警察にいそうな面子を頭に思い浮かべて、ぶるりと身を震わせる。本当にいるかどうかも分からないが、そういった面子が警察に詰まっているなら絶対にあの組織とはいざこざを起こしたくない。
「会ってみたいけど、なるべくプライベートで会いてえなあ」
「お前達は裏稼業をしているわけではないのだから、堂々と会えるだろう」
「でもぉ」
 御手杵がやっとオムライスを食べ終わり、スプーンを卓上に置いた時だった。
「御手杵ぇッ! オモテ出ろ!!」
 戸が喧しい音を立てて壁に激突した。思わず腰を浮かせた二本は、戸口から飛び込んできた黒づくめの男を見てまた腰を下ろした。
「なぁんだ同田貫か。おかえり」
「帰る時は連絡をくれと言っただろう。まだ夕飯が出来ていないぞ」
「呑気なこと言ってる場合じゃねえんだよッ」
 同田貫はがなり立てながら足音高く二本に近づき、それぞれの腕を引っ張る。蜻蛉切が怪訝な顔をする。
「どうなされた同田貫殿」
「この間帰してやったチンピラ共が仇を返しに来やがった」
「何だよ、それくらいお前だけで撒けるだろ」
 御手杵は動じず立ち上がって小首を傾げる。
 チンピラ共というのは先日仕事でもてなしてやった連中のことだろう。二十人くらいのならず者風の若者達で、あまりに固まって動くものだから扱いやすくて面白かった記憶がある。
 だが同田貫は依然として焦れた様子で、
「連中、ひとじ――」
 言いかけて大きな瞳を見開いた。
 ただならぬ気配に振り返る御手杵。その視界に、窓を割って飛び込んでくる三つの塊が映る。
「火炎瓶!」
 割れた瓶が畳に引火した。その炎が畳、卓袱台、古雑誌の山を飲むのを見届ける前に三人は戸口から外へ飛び出した。アパートの錆びたベランダを走りながら蜻蛉切が叫ぶ。
「火事だ、皆の者逃げろ! 火事だーッ!」
 たちまち辺りは悲鳴に包まれた。三つ隣の部屋に住む老婆が玄関から飛び出して逃げる。隣家の主婦が、反対隣のマンションの子供が、口々に喚きながら何処かへと駆けていく。
 外階段を下り切った同田貫が足を止める。突如止まったその背にぶつかりそうになった御手杵は罵ろうとして、蜻蛉切は疑問を投げかけようとしてその口を止めた。
 ガラの悪い男達が狭いアパートの門扉を塞ぐようにしてたむろしていた。身体のあちこちにピアスを食いこませ、黄ばんだ歯を剥き出して下卑た笑みを浮かべている。
 同田貫が奴らを睨み付け、唸り声を上げる。御手杵はようやっと、この喧嘩っ早い相棒が自分を呼びに来た理由を察した。
 たむろす者等の最前列中心に立つ、スキンヘッドに入れ墨を彫った男。その剥き出しになった腕には、痛めつけられて気を失った少年が首を抱えられ無理矢理立たされた状態で、ナイフを突きつけられていた。
「そ、その子をお放しっ」
 敷地から出られない老婆が全くの無関係にも関わらず果敢にも立ち向かおうとして、男達の一人に殴られた。蜻蛉切が倒れ伏した老婆を介抱しようと前に飛び出す。
「動くんじゃねえ!」
 しかしスキンヘッド男がナイフを少年の首元に押し付けたのを見てその場に止まる。少年の細い首にたちまち血の珠が浮かぶ。蜻蛉切は歯を食いしばり、怒りの声を上げる。
「なんと、卑劣な……っ」
「俺達をこの間雇った家の子供だ」
 御手杵が低く呟く。その明るい茶の虹彩は子供とそれを抱える男から離れない。
「あいつらがあの家につき纏ってしょうがなかったから、ちょっとのしてやったんだ。若いから命だけはと思ってたんだが」
 御手杵は溜め息を吐いて、頭を掻いた。
「そうかあ、駄目かあ」
「動くんじゃねえウド野郎が」
 男達の一人が脅す。御手杵は素直に、頭に手を添えた状態で止まった。
「てめえらの望み通りもう一人連れてきた。これでいいだろ。そのガキを放せ」
 同田貫が怒鳴る。その声に僅かながら苛立ちが混ざっている。そうだろう、この状況は彼からしてみれば屈辱に違いない。ぶちのめした相手に良いようにされているだけでなく、その相手をもう一度ぶちのめしてやりたいと思っているのにそう出来ないのだから。
 同田貫の苛立ちをあちらも察しているのだろう。汚らしい身なりの男達は、その身なり以上に汚らしく嗤った。
「どうするかなあ? 言った通りにしてやる義理はねえしなあー?」
「てっめえ、ら」
「この下衆が……ッ」
 同田貫が憤怒に顔を紅潮させる。蜻蛉切が地獄の底から響くような罵倒を吐く。御手杵はその茶の瞳孔に入れ墨の禿頭を映したまま、口を引き結んで微動だにしない。
 男達はゲラゲラと嗤った。刺青禿頭の隣に立つモヒカン頭の男が自分の身体を抱えて、癪に障る大袈裟な声で煽る。
「この前は痛かったんだぜぇ?」
「それこそこのクソガキより、よっぽどな!」
「棒きれで馬鹿みてえに殴りやがって」
「そう言えば、刀でぶん殴って来やがったヤツもいたなあ?」
「刀なんて振り回しやがって! コスプレ野郎かよ!」
 口々に男達は言って、最後の一言にどっと沸いた。同田貫が眦を吊り上げ怒鳴り返そうとして、横から遮るかのように出された長い腕を見て口を噤んだ。横目で手の主を仰ぐ。手の主こと御手杵は、全く彼には目もくれずに中央の男を見据えたまま、静かに問う。
「どうすればいい?」
「そうだなァ」
 禿頭の男が目を細める。その瞳に赤い光がちらつき始める。御手杵たちの背後を仰いだ老婆が「家がぁ」と叫んで気を失った。男達が不愉快な高い笑い声をあげ、禿頭が哄笑して叫んだ。
「こうして、謝ってもらおうかなァ!」
 ナイフを掴んでない方の手が少年の後頭部を鷲掴み、アスファルトに叩きつけた。男達が統領の容赦ないパフォーマンスに歓声を上げ、同田貫が歯を食いしばる。しかし蜻蛉切だけは視界の隅で何かが動いた気がして首を回し、息を飲んだ。
 御手杵達の部屋から炎を噴き出すアパート。勢いを増し燃え盛る炎を背にした細長い人影の、掲げたままだった片手に長い棒が握られている。棒を握った身体が捻られた一瞬、その先端がぎらりと輝いた。
 その後三秒間に起こったことを正確に把握できたのは、きっと蜻蛉切だけだった。彼は確かに見た。御手杵が刹那に顕現させた本体を投げ、直線状に飛んだ長い穂先が人質の頭を踏みつけて顔を上げた禿頭の首を貫いた。禿げた生首は悦に入った表情のまま、無邪気なボールのように点々と血を撒き散らしながら地面を跳ねた。一方頭部を失った身体は、後ろにぐらりと傾いで倒れ込む。しかしその身体を受け止められる者はいなかった。何故ならば背後にいた男二人は揃って飛んできた穂先に頭を抉り取られ、やはり統領同様の生臭い肉団子となっていたからだ。
「同田貫、蜻蛉切!」
「おう!」
「心得た!」
 三人は一斉に動き出す。蜻蛉切は老婆と少年を抱え下がり、同田貫と御手杵は状況を飲み込めず放心した様子の男達へと突撃する。男達は迫りくる両者の姿に、特に同田貫の手に握られた白刃に気付いてやっと恐怖の悲鳴を上げ逃げようとした。しかしそれより速く辿り着いた御手杵が首を二つ刺したままの得物を地面から抜き、アスファルトすれすれで力任せに一回転二回転させて男達の足下を薙ぐ。無様に転がった男達がもつれあって起き上がれないでいるのを、同田貫が獰猛に歯を剥き出して嗤う。
「はは、いいザマじゃねえか」
 そして手にした刃を煌めかせる。
「おらよ、お待ちかねコスプレ野郎の鈍ら刀だ。よぉく味わえ!」
 裏返った醜い悲鳴がぶつり、ぶつりと途切れていく。男達は逃げようと足掻くが、足下に広がる仲間の血がぬめって上手く立ち上がれない。それでも血溜まりから抜け出せた者が一人、また一人と死に物狂いで大地を蹴ろうとして、
「おっと、どこ行くんだ?」
 その度に御手杵の長い本体に貫かれて絶命した。
 そう大して時間の経たないうちに、即席血の池地獄の罪人達はそのほどんどが動かなくなった。最後一人は同田貫と御手杵に見下ろされると、温く赤黒くなったジーパンの中央に一際温かい染みを作って半べそをかきながら喘いだ。
「ひッ、人殺し……っ」
「そりゃあ俺達は武器だからな」
 同田貫がけろりとして言う。真っ黒な衣装の上下は返り血が分かりづらいが、かろうじてグローブとTシャツの間から覗く肌が赤く粘度のある輝き方をしていることから彼の所業が現実になされたことであると確認できる。
「だからこそてめえらみてえに、チンタラ敵をいたぶるような真似はしねえ。必要とありゃあ拷問だろうが峰打ちだろうが何だろうがやるが、基本俺達ァ人斬り包丁だからなぁ?」
 獰猛に笑って、同田貫は刀を振りかざす。血と脂に塗れた刀身が燃えるようにギラつき、男はヒッと頭を抱えて伏せた。
「なあ、生き延びたいか?」
 しかしここで、御手杵が唐突に訊ねた。男は血で汚れた顔を跳ね上げ、同田貫は相棒を睨む。
「おい」
「じゃあ生き延びるための……えーと、何だったかなあ。ああそうだ、復活の呪文を教えてやろう。これさえずっと唱えてれば、もう大丈夫だぞ」
 御手杵は人の良さそうな笑みを浮かべ、一言一句言覚え間違えるなよと前置いてから言った。
「『俺がやりました。火をつけたのも仲間を殺したのも俺です』、だ。言えるな?」
 男の瞠った瞳孔に御手杵の微笑みだけが映る。白目に血管が浮かび、眦がヒクヒクと痙攣している。
「え……? そ、ん……」
「言えるよなあ?」
 ぱくぱくと空気を求め喘ぐように口を開閉させた男は、弓なりに眇めた御手杵の双眸に射抜かれ魅せられたように動けなくなった。日に焼けた顔が褪せた白紙の色に変わる。ややあって男は唇を戦慄かせ戦慄かせ、やっとしゃがれた声を発する。
「お、おれ……が……」
「俺が?」
 御手杵が優しい声色で促す。途端男は堰切ったように喋り出した。
「俺がっ、やりましたっ、火を――」
「火を?」
「ひをっ、火をつけたのも仲間を殺したのも俺ですっ」
「そうだ。もう一回」
「俺がやりました火をつけたのも仲間を殺したのも俺です」
「そうそう。もう一回」
「俺がやりました火をつけたのも仲間を殺したのも俺です俺がやりました火をつけたのも仲間を殺したのも俺です俺がやりました火をつけたのも仲間を殺したのも俺です俺が――」
「うんうん、そういうこともあるよなあ。もう大丈夫だからな。あんたは後の人生、ずっとそれだけ喋ってさえいれば生きられるんだよ。簡単だなあ」
 御手杵は繰り返し頷いて、糸の切れたようになった男の側頭部を石突で軽く小突いた。男はばしゃりと血の池に倒れ込み、横倒しになったまま唇から泡を散らしつつ俺がやりました俺がやりました火をつけたのも仲間を殺したのも俺ですの呪文を繰り返している。
 そうなれば御手杵はもう男を一瞥すらせず、横に佇む同田貫を見下ろして困ったように笑った。
「悪ぃ、鞘抜いちまった」
「阿保か。ここで抜かねえで何時抜くんだ」
 二人は背後を振り返った。アパートの二階、自分達の住んでいた部屋は勢いよく火を噴いている。まだ隣室への移り火のみで済んでいるようだが、全焼も時間の問題だろう。
「お隣さん、空室だったよな?」
「ああ。確か今住んでんの、俺達とあの婆さんと一階下におっさんが二人だけだろ」
「おっさん達は、この時間まだ稼ぎだったよな?」
「そうだな。日雇い労働者っぽかったから、もう少ししたら帰って来るんだろうが」
 御手杵はそれを聞いて少し考える素振りを見せた。しかしすぐに何やら思いついたらしく、地面に転がっていた首を再びその穂先に刺し連ね始めた。
「おっ、御手杵?」
 離れた所で様子を見ていた蜻蛉切が困惑気味に問いかけると、御手杵はハッと大事なことを忘れていたと言いたげな視線をそちらへ移した。
「蜻蛉切! 二人は大丈夫そうか?」
「ああ。多少の治療は必要だろうが、命に別状はない」
 あーよかった、と御手杵は安堵の溜め息を吐く。二人は蜻蛉切が病院に連れていくつもりだ。だがその前に。
「御手杵、まさかその首は」
「んー。証拠隠滅兼、雨乞いしちまおうかなって」
 御手杵は言いながら火を噴く部屋の下へ近づいて行って、刺した頭をぽんと火中へ放り込む。丸い物体は次々と放り込まれて炎に飲まれ、見えなくなる。
「これだけ贄がありゃあ、降る時間も早まるだろうな」
 そう言って同田貫も、まだ血の池に沈んだ繋がったままの胴と首を離しにかかる。更に投げ入れやすいように、得物を使い手慣れた仕草で丁寧に五体を切り離していく。
 一般人が気絶していて良かった。蜻蛉切は見るに堪えない光景を見、聞くに堪えない解体音を聞きながら切に思う。
「あーあ、さらば敷金……もう返って来ることはないんだなあ」
 御手杵は切なく溜め息を漏らしながら、同田貫が運んでくる死体の部位を炎へ投げ入れる。同田貫は相棒の嘆きをしれっと流す。
「しょうがねえだろ。当面食えるだけの金と、戦するための身体さえありゃあ十分だ。そう思わねえか?」
「そうなんだがなあ。くそぉ、次の家が見つかるまで『ばかもんと』最新刊はお預けかー」
 槍は尾張の馬鹿者が天下人になるまでの戦いを描いた漫画を思い、くうっと涙を呑んだ。猛火に照らされた頬が濡れたように光っているから、本当に泣いているかのようだ。そんな相棒に、同田貫は呆れた様子でさっさと作業を済ませろと催促する。蜻蛉切は血生臭い場面なのに至って和やかな雰囲気の彼らを凝視し、その巷の評判を思い出していた。
 「お江戸の喧嘩屋『無用組』」という、攻めているのかいないのか分かりづらい屋号で商売をしている二人だが、その実を古風に言えば用心棒稼業、今様に言えば民間の小規模な警備会社もといボディーガードである。支払いは基本手渡し現金、物々交換も可という世紀末とは思えない原始的な会社だが、各方面への評判は良いようだ。それはたった二人の社員がそれなりの見た目の良い男達だからとせいも勿論あるだろうが、何より彼らの腕前による所が大きいのだと蜻蛉切は聞いている。
 当たり前だ。兜割りの実戦刀『同田貫正国』と東西槍が片割れにして天下三槍が一つ『御手杵』。刀剣男士として活躍し始めた頃から武器としての在り方にこだわりを持ってきた二口だ。その戦における腕前と熱意が衰えるわけがなく、荒んだ世とは言え合戦場の経験もない人間達に負けるわけがない。
 己に未熟さこそあれど恥はないが、蜻蛉切は彼らの潔い生き様を少しだけ羨ましいと思っている。
「あと何個だぁ?」
「もーちょい」
 面倒くさそうに返事をする同田貫に、数えてくれよと御手杵が嘆く。投げられる肉片から血が滴って、男の頬に雨垂れに打たれたが如き跡をつける。
 しかしその時、彼は何故か突如額を押さえた。子犬のように茶色い目を輝かせる彼を訝しく思うのも束の間、蜻蛉切の肩に冷たい粒が弾ける。
「あ。雨来たぜ!」






◆特殊急襲部隊NST
 
「都内アパートで火災発生、焼け跡から手足胴などが解体された死体を二十人強分発見。警視庁は殺人及び放火の疑いで暴力団関係者一人を逮捕。幸いにして火は俄雨に消し止められ、家屋は火元である一室付近のみを残して無事、また火災そのものによる被害者はゼロ――こんな都合の良いこと、あるのかな?」
「御手杵だな」
 大和守は紙面から目を上げた。
 外に広がる夜闇のせいか、ブラインドを下げているにも関わらず血の気のない鼠のような色をした真四角の部屋。五つの愛想のない質素なデスクが詰められただけの自分等の基地には今、自分と直属の上司にあたる長曽祢虎徹しかいない。本体を付けるためのベルトのバックルの位置を調節しているらしい彼を見つめ、大和守は小首を傾げる。
「何でそう分かるの? て言うかまず、顕現してたの?」
 黒と黄からなる髪の狭間から覗いた瞳が、大和守を見返す。その穏やかな虎に似た瞳は、彼が立派な体躯だけでなく知性と人情を備えた武士だということを濃厚に物語っている。
「その現場となったアパートには人目を引く背の高い男と、黒髪の目つきの悪い男が住んでいたという証言があった。奇しくも二人とも、その事件が会って以来家に帰って来る様子がないそうだ」
「背の高い男と、目つきの悪い男……」
 思案した大和守の双眸が鋭くなる。脳裏に浮かぶは、戦好きの一本と一振。
「まさか、あの二口が」
「それはないな」
 思わず前の世での数え方をした大和守のまた口にしていない推測を、その顔つきから察したらしい。長曽祢は否定した。
「確かに奴らは、今の世でも戦が死ぬほど好きらしい。民間でボディーガードとして働いてるというのに、その名が裏にまで回って来ている」
 裏。その言葉の意味は、大和守とて知っている。だからつい目つきがの険が増していたのだろう。長曽祢が苦笑して、違うぞと手を振った。
「やってることは至って現世の常識の範疇だ。ただ、あまりに腕が立つから注目されているようだな」
 笑みはそのままに、長曽祢はやれやれと言いたげに肩をすくめる。
「兜割の『同田貫』は、特に恐れられている。拳でどこぞのならず者の額を勝ち割った、コンクリートさえ両断する剛刀の持ち主である、修羅のように暴れる男だ、等と言われている」
「兜割? また昔通りの名前で呼ばれちゃって」
「それに比べると、雨降らしの『御手杵』は多少大人しくしているのだろう。一度その鞘を払えば命が雪の如く儚くなる、天を突かんが如き大身槍が降らすは血の雨か、はたまた刃の氷雨かと噂だが、何を考えているのか鞘はあまり払わんらしい」
「あー。あの槍、昔から何考えてるのか分かりづらいところあったからね」
「だが、悪漢であるという話が聞こえてきたことはない」
 大和守がゆっくりと瞬きをする。此方を見つめて離さないその目が、本当かと尋ねている。長曽祢は笑みを消して首肯した。
「あいつらは戦狂いではあるが血狂いではない。それが自らの住処に火を放ち二十四人を殺したとして、何の利益がある?そんなことをしたところでムショに放り込まれるのがオチだということも理解しているのに 」
「じゃあ、この容疑者がやったの?」
 大和守は視線を紙面に戻す。容疑者が一名現行犯逮捕されており、既に自分がやったと自供していると、行儀よく並んだ文字が語っていた。
 しかしまだバックルを弄っている長曽祢は太い首を横に振る。
「放火したのはそいつかもしれんな。だがバラバラ殺人は同田貫と御手杵の仕業だろう」
「何で?」
「燃え跡から見つかった死体は、全て炭になっていた。斬られた五体の断面は勿論、歯まで燃えカスになってるために、死因はおろか仏の身元だって判別出来ない」
 説明しながら長曽祢は、数枚の写真を大和守に差し出す。大和守はそれを受け取り、一目見ておおと感心しているとも引いているとも取れない声を漏らした。
 写真は上からよく熱した巨大な火掻き棒でも押し付けられたかのようなアパートの風景と、そこに散らばる炭を拡大したものだった。炭は言うまでもなく、人の手や足の形をしている。
「自供してきた容疑者はヤクザの下請けのチンピラ一味の、更に下っ端だ。すっかり我を無くしていてまともな供述が出来ないから、捜査一課は恐らく死体は住人のものとチンピラ一味のものだろうと見当をつけて、動機を一味への怨恨、事件の経緯を部屋へ押し入った際に内輪揉めが起きて容疑者が凶行におよび、証拠隠滅のために火を放ったのだとして捜査を進めているようだが」
 長曽祢は全て確認し終えた大和守から写真を受け取り、手で揃えながら頷く。
「まず違うな。容疑者はまだ不良高校生に毛が生えた程度の補導歴しか持たない、十九の若造だ。対して焼死体はちょうどいい大きさに切られていたお陰で、不自然でないくらいにちょうどいい、身元が判定出来ない程度の焼き加減に仕上がっていた。初犯の、ましてや正気を失った人間に出来る芸当じゃない」
 大方連中が仕事の中で恨みを買って襲撃され、返り討ちにしたってところか。
 長曽祢は冷静にそう推測を語り、写真を仕舞ってまたバックルを調節し始めた。大和守は無邪気に尋ねる。
「それ、刑事課に言わなくていいの?」
「言って何になる? そうする意味も証拠もない。刑事課から殉職者が多数出るのがいいところだ」
 だよねえと大和守は反対することもなく頷き、それからはにかむように微笑んだ。
「二人とも相変わらずなんだろうなあ。また手合せしたいよ」
「俺達の公務中に再会することがなければ、手合せできるだろう。尤も、奴等が俺達の仕事の相手になるとは思わないが」
 長曽祢はやっとベルトの調節を終えて腰に巻いた。そこに本体が据えられるのを確認した大和守は立ち上がり、椅子にかかっていた浅葱色のジャケットを羽織る。防弾加工がなされているために少し硬く身動きが取りづらいのが難点だが、大和守はこのジャケットも含め今の制服が気に入っている。
「人の世は不便だなあ。権限と状況が許さなければ、外で刀を振るうことも真剣で打ち合うことも出来ないんだから」
「今は人がいないからいいが、外では絶対言うなよ大和守」
 長曽祢の忠告に、大和守は黙って少女めいた笑みを返す。
(こいつ、昔に比べて更に扱いづらくなったかもしれん)
 長曾根は凝乎と、この戦友の姿を見つめる。
 かつてと変わらず一つに結った髪は線が細くてんでに跳ねていて、つるりとした顔は少年らしさの方が強いが見様によっては女のようである。だが身に纏う浅葱の制服は間違うことなく男のものだ。それも警視庁機動隊の中で最も勇猛果敢な――無鉄砲ともしばしば称される――者が着用することを許されている。その腰に帯びるは銃では無く、自身の本体のみ。
 黙って日常に佇む姿はにこやかな大人しい青年そのものだ。だが戦場に赴けば、たちまち纏う浅葱に血を吸わせたがる獣と化す。昔からそこは変わらない。
 だが近頃の彼は、かつて以上に後者の影が濃くなってきたような。
「ねえ。もしも僕達の『敵』として昔の仲間が出てきたらどうする?」
 審神者の下に集うていた頃の彼なら、今の台詞を決して微笑みながら言いはしなかっただろう。
 ――お前の所のそいつや俺の所のアレみてえな、主の存在に依存してた刀剣連中は、こうなっちまうと危なっかしくてたまんねえなあ。
 先日聞いた台詞が鼓膜に蘇る。酒気を帯びた声は呆れたように笑っていたが、その底に情に溢れた懸念が隠されているのをその時の長曽祢は感じ取った。彼とは所属も違えば種も違うが、その言いたいところは理解出来た。
 大和守のことは無論仲間として信頼している。だからこそ心配になるのだ。
「決まっているだろう。義のもとに動くのみだ」
 長曽祢が即答すれば、大和守は満足そうに大きく頷いた。そして更に問う。
「もし。さっきの二人と戦うことになったら、長曽祢さんは先にどっちに手をつける?」
 何度も、他の男士達を話題にしていた時も繰り返して来た問い。幸いこの問答が役立った例は、今現在に至るまでない。
「さてな」
 いつものように返す。返しながら大和守の、決まってこの問いを投げる時に限って不安定に揺れる双眸を前に考える。
 こいつは一体何を求めているのだろう。かつての仲間との縁? それを失う恐れからこんなことを問いかけているか。はたまた。
「だが覚えておけ、大和守。一度黄泉平坂を下っていった奴と言うのは、厄介なもんだ」
「長曽祢けーぶ。大和守じゅんさぶちょー」
 部屋の戸が開いた。完全武装した加州清光が、部屋の外に佇んでいた。
「いつまで支度してんの。あんまり遅いから、和泉守が出陣前にここを御用改めしそうなんだけど」
「それはぞっとしないな」
「和泉守はせっかちだよね」
 先に身支度を整えきっていた大和守が戸を潜る。僅かに身を引いて彼を通した加州が、ちらりと長曽祢を見やる。切れ長の瞳が大丈夫かと問いかけてきていた。誰の事かは、言葉にするまでもない。無言で頷く。
 幾代経てども、この隊を率いる心得は忘れない。責務は果たす。仲間を思う気持ちは、行動で示す。
「さあ、推して参ろうか」
 長曽祢の大きな背が戸を潜り、閉ざす。その戸に下がったプレートには「NST」とある。
 警視庁警備部特殊急襲部隊New Select Team、通称「新撰組」――遥か昔京の警備にあたった浪士集団と同じ名を冠し同じ色を纏うその班は、下手人の制圧を目的とする特殊急襲部隊の中でも特にその目的を徹底して果たすため新たに選び抜かれた、少数精鋭の暗殺班だった。
 
 



◆公安警察特殊犯罪分析室


 たとえ廃墟であろうと、教会と名のついていた場所に注がれた陽射しは途端清廉な輝きを増すものらしい。
 曙光が天板の崩壊した廃墟を照らしている。風雨に晒された石壁。下がった目尻から微笑んでいたのだろうと推察することしかできぬ、鼻の下から腹にかけてが大きく削り取られた聖母像。アシンメトリーに点在する傾いた長椅子。裂けた絨毯。爆ぜた宗教画。
 蔦の這う前は傷一つない白壁が眩かったのだろうその建物は今、動乱により抉られた傷をそのままに、過ぎ去る時の暴力に晒されて自然へ還ろうとしていた。無機質な景色の中、左辺の欠けた十字の頭上に燦然と輝くバラ窓だけが、二時頃の一角を欠いていながらも辺りに万華鏡の如きとりどりの煌めきを投げ掛けている。
 その二時から差し込んだ朝の素直な光は、十字ならぬ卜の字に跪き祈る男の風変わりな髪の色を明かす。一見煤色にしか見えぬその髪は、日に透かされると鈍色に輝くのだった。
 不思議な髪の光沢に合う上質のスーツを折り目正しく纏った男は、片膝をつき両手を組んだ祈りの姿勢を取ったまま微動だにしない。目を瞑り俯くその白皙は彼の向かい合う彫像のようで、背後で僅かに革靴の石を叩く音がした時さえも、命を持たぬ無機物の如く不動を保っていた。
「付喪神が異教の神に祈る絵面って考えると、これもなかなか面白いモンだな」
 滑らかな艶があるのに耳朶を心地よく擽る掠れた声という、本来ならそう成り立つはずのない二つの相反した要素を含んだバリトンが、僅かに笑う空気を含んで語り掛ける。
 一心に祈っていたらしい男が瞼を上げた。頭が回り、静謐な藤色の虹彩が教会の白茶けた赤絨毯を踏みしめ近づいて来る大男の姿を映す。その長く乱雑に括られた黒髪を背後に流し、黒にほど近い濃灰のジャンバーのポケットに両手を差し込みながら歩み寄る大男を見た途端、先程まで清らな偶像然としていた男の顔が一瞬にして命を宿したかの如く、嘲りとも皮肉とも取れる俗物的な笑みを形取った。
「よく考えてもみろ。人知の及ばぬわけのわからぬもの、それがカミだ。付喪神ともなればその中でも[[rb:妖 > あやかし]]に近い。そんな信仰する者もいない未確認生物がどこで何に祈ろうが、人間には何の関係もないだろう」
「お前なあ。仮にも昔一国一城の守り刀やってた国宝だろうが」
 大男に呆れたような垂れ目を向けられても、男は鼻で笑い飛ばす。
「乱世の人間は、文化的財産などという腹の膨れないものは求めん」
「俺が言いたかったのはそっちじゃないんだがね」
 肩を竦めて大男が言うが、男はその仕草を見ていない。立ち上がってかつて祭壇だったものを仰いでいる。
 ややあって、この静寂においても耳を澄まさねば聞こえぬような小さい呟きが聞こえた。
「長政様は[[rb:切支丹 > キリシタン]]だった。俺が教会で跪いても、問題ないだろう」
 そういうことでもない。大男はそう思ったがもう追求せず、崩れた十字に向き直った男の肩に手を置く。
「時間だぜ。俺達の辛気臭ぇ戦場がお待ちかねだ」
「辛気臭かろうが職務は果たすものだ。減らず口を叩いていないで気合を入れろ」
 大男がなるべく常通りの調子で語り掛けると、男は一転して毅然とした様子で振り返り、柳眉を吊り上げて檄を飛ばした。忙しい男だ。大男が薄ら笑いで応じるのを余所に、男は赤絨毯に一歩を踏み出す。
「行くぞ、日本号」
「へいへい」
 スーツとジャンバーという対照的な衣装の二人は、それでも肩を並べて荒れた教会を後にする。
 日本号がへし切長谷部を現世において見つけたのは、今から四年前の冬のことだった。
 酒を湯水のように買える程度の財力が欲しいというそれだけの理由で、彼の並外れた身体能力を見込み警察官にならないかという誘いをかけてきた人間にのって警察庁を見学しに来た日本号は、そこで長谷部と再会した。ばったりと廊下で顔を合わせて、日本号は少し驚きはしたもののすぐにへらりと笑って「よう」と声をかけた。かけてから、前に男士として顕現したばかりの時のことを思い出し悪手だったかと思い至る。しかし長谷部は淡い光彩を瞠ったのも束の間、久しいなと目を細めた。
 これが他の刀剣男士だったなら、ごく当たり前のことだろう。だが無駄に付き合いが長いために長谷部という男をよく知っている日本号は、彼のこの様子を見てむしろ胸騒ぎを覚えた。そこでその場で連絡先を交換し、さっそくその夜のうちに飲みに連れていった。そして己の予感が的中していたことを知った。
「どうして今の俺達には、主がいないのだろう」
 互いの近況も話し終わらないうちに、案の定長谷部は昔から耳にタコが出来るほど好んで繰り返してきた三音について口にした。己の顔ほどもあるジョッキを傾けながら顔色一つ変えず、瞳の曖昧な紫を俯かせ、卓上に置かれた焼き鳥の皿よりずっと遠く深き何処かへと彷徨わせて零す。
「主がいないというのは変な気分だ。どうして刀を手にしているのか、分からなくて困る」
 だから公僕に志願したんだ、と長谷部は告白した。
 そんな危ういことを漏らす刀を、日本号は放っておけなかった。
 長谷部より先に再会していた博多の強烈な勧めもあって――「長谷部が変なこつ仕出かさんか監視出来て、日本号も定職につけて一挙両得ばい」――日本号はすぐに警察官になった(余談だが本来なら筆記やら実技やらこなさなければならないらしい試験では、往年の槍さばきを見せただけなのに受かった。良かったのだろうか)。そしてこの末世でも妙な縁があり、五十代の上司をハイティーンの坊やだと内心で思いながら接していた日本号は、奇しくも出動した現場で得意の圧し斬りぶりを発揮してしまった長谷部とほぼ時期を同じくして警察庁警備局公安部門特殊犯罪分析室と呼ばれる、一日の仕事は過去の事件ファイルの整理と過去現在に関わらず事件に関わってはいるもののどう関わったかが謎に包まれている物品の研究と管理だけという僻地に島流しにされたのだった。
「今日はどうすんだ?」
「朝一で薬研の所に預けたものを取りに行く。解析の結果が今日出ると言っていたからな」
「じゃあそれから巡視か」
「そうだ」
 長谷部は躊躇いなく答える。再会したての頃、主のいない自分が刀を振る理由が分からないと漏らした男だが、いつでも職務には積極的に励む。その積極性はファイルと物品整理というマニュアル通りの仕事に飽き足らず、街に出ていっては秩序を乱す輩を検挙するという行動が習慣になっているところにも表れている。
 彼にとって今の主は「公」、形だけになったこの国の、元々国民と呼ばれていた不特定多数の共同体なのだろう。だから上から仕事を与えられずとも、嘆く素振りを見せないのだ。
 かつて一番は今の主だと断言し、献身的に尽くした姿勢は健在である。
「どうした?」
 日本号は出ていく直前、廃れた教会を振り返った。長谷部が訝しげに声だけでなく視線も投げかけてくるのを、振り返らずとも気配で察する。
 何でもないと返しながら、日本号の頭は毎朝ここに長谷部を呼びに来る度に思うことを、今日も思う。
(だがそれでもお前は、毎日荒れた教会で祈るふりをするんだな)
 切支丹でもなければまともな神父のいる教会にも行きたがらないくせに、この地に足繁く通う長谷部。この、時の止まった教会の残骸でないと、跪き目を瞑ることすら出来ない長谷部。
 この刀は本当に愚かだ。だがそれ以上に、このごっこ遊び染みた儀式に毎日付き合う己はもっと馬鹿だ。
「行くか」
 日本号は、今度こそこの残骸に背を向けた。明朝にはまたここで頭を垂れる長谷部の後姿を見るのだと、物思いに耽りながら。
 
 


◆薬研医院

 薬研藤四郎は医者である。
 無論その姿かたちは、精々年配に見積もっても十代半ば程度にしか思われぬ少年のものだ。だが医者なのだ。信じられないかもしれないが、医師免許も持っている。
 何でお前はそのなりで普通に働けているのか。以前尋ねてみたところ、この鷹揚な短刀は例の童らしい屈託なさと童らしからぬ肝の据わりようを感じさせる笑みを浮かべ、
「それだが、俺っちにもよう分からん。いち兄の所で血糊飴の実演をするのに飽きたからやってみることにしたんだが、まさか本当になれるとは」
 何でもやってみるモンだなとあっけらかんとして言うから、元織田の刀剣で一番まともそうに見える男だが、案外そうでもないのかもしないと長谷部は思った。
 さて、そんな薬研は自分の病院を持っている。その名も薬研医院。全くもってその通りの捻りのない名前だが、これが侮れない。薬研医院はその来るもの拒まず去るもの追わずの経営方針と奇特なメンツのせいか、非常に患者層が広い。小さい病院であるために市井の患者こそ少ないが、他方面に融通が利くためにーーそう、たとえば一般の病院ならば診察だけでは済まされないものを診てくれたり、それを黙っていてくれたりするためにーー一部の患者から頼られ莫大な診察料を得ている。
 分かりやすく言おう。薬研医院は闇医者であった。医師免許こそあるが、扱う患者は社会の日陰に生きる者ばかり。だから実質闇医者であるし、本人もそれを断言している。
 そんな薬研は公安課お抱えの解剖・分析医でもあった。
「よう、ご両人。変わりないか?」
 長谷部と日本号が訪ねて行くと、薬研は診察室で手術道具を洗浄しているようだった。サスペンダー付き短パンにカラーシャツ、その上に羽織った白衣はかつての内番着と全く同じだが、今ではこれが立派な戦衣装となっているらしい。白衣にはまだ赤さの残る茶褐色の斑点が散っていた。
「一週間前に会ったばかりなのだから、変わらないに決まっているだろう」
 また自明のことを聞いて、と思いながらも長谷部は至極当然の答えを返す。薬研はいつ会ってもこの質問をするのだ。
 すると、はたして長谷部の考えたことを察したのか。薬研は眉を持ち上げ、悪戯に笑った。
「これだから旦那はいけねえなあ。変わってないことを確認したくて聞いてるんだ。あんた、それじゃあおなごにもてねえぞ」
「構わん、余計なお世話だ」
 長谷部は眉間に皺を寄せる。隣でにやにやと笑う日本号を殴ってやりたいが、一旦無視することにした。薬研は肩を竦め、指先で白衣を引っ張ってみせる。
「俺は商売がこれだからな。この質問が挨拶と同じようなモンになっちまってるんだ。ちと煩いように感じるかもしれんが、勘弁してくれや」
「承知している」
「悪ぃなあ。だがそれだけ真面目に体調を答えてくれりゃあ、医者冥利に尽きるってもんだぜ」
「聞いたかお前。これこそ完璧な男の受け答えってヤツだ」
「黙れ日本号」
 長谷部は今度こそ日本号の脇腹に肘鉄を喰らわせた。硬い。あまり入った感触がない。次はもう少し強くしてみよう。長谷部は速やかに反省して、本題を切り出す。
「それより薬研、先日のものはどうなった?」
「ああそうだった」
 薬研は菫の双眸をやや開いて、椅子をくるりと回す。診察室の奥、きっと裏方になっているのだろう戸に向かって声を張り上げた。
「おーい、宗三。アレ取ってくれや」
「僕は貴方の細君ではないのですが?」
 引き戸の奥から宗三左文字が現れた。相も変わらず骨と皮ばかりだろうに何処か婀娜な雰囲気を醸し出す痩躯は、薬研同様羽織った白衣を閃かせながら、透明な容器に入った拳大の物質を手にこちらへ歩み寄る。長谷部は反射的にその袋に目をやる。
 あれこそ、先日長谷部達が薬研に鑑識をお願いしたものだ。薄く黄緑がかった灰色の、一見して芸事において花を刺す土台として使われる給水スポンジに似ている謎の物体である。資料室の奥に積んであったちめただのゴミとして捨てようかとも考えたのだが、あの物質が押収された事件が事件だったために一応解析してもらうことにしたのだ。
 しかしあんなに厳重に包まれてくるということは、頼んだ甲斐があったということか。薬研の隣に腰掛け問題の物を膝上においてから、長谷部の視線を受け止めた宗三は口を開いた。
「またとんでもないものを持ってきましたね」
 常に諦念に似た響きを含む宗三の声に、珍しく感嘆の情が薄く滲んでいる。
「これは人魚の肉ですよ」
「人魚の肉?」
 長谷部は思わず問い返した。
「あの、食べたら不老不死になるという伝説のか?」
「そうですよ」
 あろうことか、宗三は肯定する。
「もっとも、大抵は食しても肉のもたらす力に体が耐えきれず即死しますけどね」
「おいおい冗談だろ?」
 日本号が笑った。だが宗三は微笑を浮かべ、残念ながら冗談ではありませんと囁き返す。
「見たところ無機物にしか見えませんから、遺留品としてなおざりにしていたところから察するに、おたくの鑑識官はこの物体自体を調べてはみなかったのでしょうね。幸運なことです。これは末世の人間には荷が重い」
 彼が話している途中に、薬研が棚からファイルを取り出して手渡す。宗三は細い指でそれを手繰り、ある一頁を開いて指し示した。
「実験しました。最初はこの塊の端切れをマウスにやってみたのですが、どのマウスも食べようとしませんでした」
 見開きのページに、ケージの中に置かれた小さな灰色の物体とマウスの写真が複数載っている。どの写真でも物体とマウスの間は遠い。まるでマウスがこの物体を忌避しているようだ。
「仕方ないので、ゴキブリを捕らえて食べさせてみたのです。その結果ーー」
 細い指が一頁捲る。そこに並んだ写真を見て、長谷部は無意識に口元を押さえた。
「この通り。最初は元気そうにケージの中で飛び回っていましたが、すぐに身体中に細かな白いものがびっしりと生えてきて、挙句死にました」
 最初の写真には、灰色の物体に接近した黒光りする昆虫が収められている。次の写真では物体は失せて、昆虫だけが宙に羽ばたいていた。ところがその次の写真から昆虫は飛ぶのをやめており、その後の写真では次第に体を細かな白いものが覆っていく過程が見て取れる。宗三の言う通り、最後には全身に白いものをこびり付かせて死んでいた。それも足や翅、触角といった身体に付随したものを撒き散らしながら。
(これは、死ぬ過程で足や翅が勝手にもげたのか?)
 気味が悪い。吐き気を覚えながらも、律儀な長谷部の目は白いものの正体を確かめようとする。
 その視線が最終的に定まったのは最後の一枚、昆虫の身体を拡大して撮った写真だった。
 昆虫を次第に覆っていった細かな白いものの、一つ一つの形が見て取れる。半円よりやや扇形に近い透き通った薄片だ。規則正しく重なりながら表面に生えている。
 この様には見覚えがある。だがしかし。宗三がこの実験に使われた物体を何と呼び表したかを思い出して、長谷部はゾッとした。
「このゴキブリの全身を覆っているのは、まさか魚の鱗か?」
「その通り」
 答えたのは薬研だった。キャスター付き椅子に寄りかかり、足を組んで手をひらひらとさせながら言う。
「俺っちもこの実験は見ていたが、この写真の通りだ。肉を食わせた途端こいつの表面に白い魚の鱗が生えてきて、ぐずぐずに身体がバラけて死んじまった。流石に肝が冷えたぜ」
「よく言いますよ。貴方はともかく、不動には見せるんじゃありませんでしたね。生えてきた鱗のせいでゴキブリの足がもげた途端、外に飛び出して行って吐きましたから」
 以来不動はこれに近づこうとしません、と宗三。なるほど、通りで今日は医院の残る一人の姿を見なかったわけだ。
 背後の日本号を見れば、苦々しい顔付きで写真を眺めている。首後ろを掻きながら、低く唸り頭を振った。
「その昔、人魚の肉を食べた子供が鱗を生やして死んだという話を聞いたことがあるが……偶然にしては気味が悪ぃな」
「偶然ではないんでしょうよ。これは人魚の肉です」
 宗三はきっぱりと言い放った。
「現代の科学では、この物質を構成するものを解析しきれませんでした。ですが、八百比丘尼伝説で知られるあの超常的な生命力を持つ肉でまず間違い無いでしょう」
「人魚なんて実在したのか?」
「付喪神がいるのだから、人魚だっていてもおかしくないでしょう」
 長谷部の問い掛けに、宗三は冷静に答える。それもそうだ。
「仮に人魚が実在しなくとも、それは大した問題ではありません。どうでもいいことです。問題は、ここに不死の力を持つ肉があることです」
 蒼碧のオッドアイが、長谷部達を凝視する。薬研もまた彼らを見つめている。
「どんな事件の遺留品なんだ?」
 詳しく聞かせてくれねえか、と肝の据わった短刀は静かに問うた。
 日本号が長谷部を見下ろす気配を感じる。長谷部は思案する。
 この物体が押収されたのは長谷部が今の部署に配置される以前の事件でのことだったが、ここに来る前に一通りその詳細は調べてきていた。だから話すべき内容は全て頭に入っている。
 だが、話すのに躊躇いがあった。とは言っても守秘義務など今更気にしてはいない。
 長谷部が今迷っているのは、語るべき事件の内容のせいだった。
「長谷部」
 日本号に呼ばれる。振り仰ぐと、巨漢は珍しく真摯に此方を見下ろしていた。
「こいつらなら大丈夫だろ」
「……そうか」
 そうかもしれない。元の主と共に焼けても尚、片方は失せたにも関わらず堂々と付喪神として顕現し、もう片方は屈折しながらも生きてきた刀なのだから。
 長谷部は語る覚悟を決めた。
「あれは、八年前のことだったらしい」





 都内某所に大きな屋敷があった。煉瓦造りの、明治初期に流行った洋館擬の豪奢なミニチュア版といった佇まいで、今は懐かしき古典主義に倣っているのが一目瞭然だった。
 この屋敷には由緒正しき御家柄の一族が住んでいた。かつてはいと高き方々とも縁を結ぶような家だったそうだが、次第に廃れていった。そして気付けば、年嵩の男一人だけが残る状態になっていたという話である。
 ちょうどその頃には近隣の住民も入れ替わりに入れ替わって、その屋敷の昔の由を知る者は誰もいなくなっていた。代わりに、家には新たな名前がついていた。
 ずばり、ゴミ屋敷である。
 最後に残った男は、何時の頃からか家にゴミを溜め始めた。近隣住民が気付いた限りでは、家の壁に添うようにゴミ袋を積み出したのが始まりだったらしい。家を囲うゴミは次第に時を追うごとに増えていき、やがて広い庭を埋め尽くすまでに至った。
 それまで仄かに漂ってくる悪臭に耐えていた隣人達だったが、遂にある冬の日、男の家に乗り込んだ。
 あまり外に出ることのない男だったが、流石に出入りのため玄関前にゴミを積むことはしなかったようだ。住民達が蠅のたかるゴミ山に辟易しながら玄関にたどり着きチャイムを押すと、果たして男は現れた。
 隣人達が男の姿を目にしたのは、この時が初めてだったという。汚い身なりをした白髪頭の瘦せぎすで、特に頰の痩けようといったら酷かったそうだ。当時男に会った人間の一人は、「二十世紀の某絵画において、己の顔を両手で挟んで叫ぶ男に、本当によく似ていた」と言っている。ただし決定的に違ったのは、このゴミ屋敷住まいの男の場合、両手で顔を圧迫しなくとも常に悲痛に叫ぶような細長い痩けた顔をしていたということだ。
 ゴミの山をどうにかしてもらえませんか。住民達が遠回しにそのような旨を伝えると、男は意外にも素直に頭を下げた。
『すみません。時間かかるかもしれないですけど、早くどうにかします』
 掠れて消えそうな細い声で男は繰り返し謝った。すみません、すみませんと謝るしおらしい男の様子に、どう文句を言ってやろうかと息巻いていた近所のご意見番でさえ口を噤んだ。男が謝る様子は、その貧相な外見と相まって哀れを誘った。だから近所の人間達は、その日はそれで下がることにした。
 しかしその後、ゴミが減ることはなかった。寧ろ増えた。広い庭の表面積を埋め尽くしたゴミ袋は、遂に縦に積まれ始めたのである。こうなるともうグラスの表面張力を試すようなもので、ゴミ袋は忽ち家の姿を覆っていった。最初に壁が見えなくなった。その次に屋根が。それまで申し訳程度に生えていた庭木も切られ、ゴミ屋敷は屋敷とは名ばかりのゴミ山と化していった。
 住人達は勿論、男に苦情を言いに行った。週に複数回行ったこともあれば、三日続けて出向いたこともある。しかしそれも次第にしなくなった。何故なら、男は何回会っても同じような対応しかしなかったからだ。
『すみません。時間かかるかもしれないですけど、早くどうにかします』
『すみません、迷惑かけて。本当にすみません』
『僕も早く何とかしたいんですけど、もう少しだけ待って下さい。本当にすみません』
 男は枯れ木の如き体を何度も折り曲げて、枯葉の擦れ合うような声で繰り返し囁いた。申し訳なくは思っている様子である。だがゴミくらい捨てに行けばいいだけだろうに、全くそうするそぶりを見せない。まともな人間の様子ではない、もしかしたらこの人は何かの病気なのかもしれない。腹を立てていた住人達は徐々に男に対して気味の悪いものを感じ始め、近付かなくなったのである。
 勿論気味が悪いのは男の様子だけではない。男の出すゴミも、次第に異様な空気を醸し出し始めた。
 最初は透明なビニール袋に生活ゴミを入れているだけだったようだが、縦に積み始めた頃から袋の色が黒に変わったのだ。何とは知れないがぎっしりと中の詰まった黒い袋が堆く屋根さえ隠して山の如く積まれていくのは、非常に気色悪い景色だった。臭いだけでなく視界でまで汚染されていく様で、やはり屋敷の近くに寄る者は減った。
 こうして屋敷の周りには、人が近寄らなくなった。隣家の者は悉く引っ越した。隣でなくとも出て行く者もいた。そんな調子だったから、このままずっと、あの屋敷はゴミを蓄えていくのではないかーーそのように思われた時期もあったが、そうはならなかった。何故ならば、屋敷の悪臭が耐え難いまでになっていたからである。
 そう。何よりも堪え難かったのが、ゴミから漂う悪臭だった。腐臭と称せばいいのか、それとも刺激臭と言うのがいいのか。どちらとも言えないのだが、とにかく嫌な臭いなのである。ゴミ処理場や浄化槽掃除の比ではない。腐った蛋白質なのか野菜なのか、何だか知らないが臭う。甘ったるく鼻の粘膜にこびりついてくる上に全身の毛穴を抉じ開けて染み込んでくる、突き刺すようなえげつない臭い。冬かそれより前から溜められていたゴミは、一夏を越えようとする頃には反射的に喉元から吐瀉物がせり上げそうになる程に醸造され、これは犯罪としてもいいのではないかと、屋敷から五キロ離れた場所に位置する自治体役所の職員にさえに思わせるものに仕上がっていた。
 季節は巡り、晩夏。住人さえ諦めた現場に、遂に役所の人間が足を伸ばしてきた。彼等は異様な屋敷の景観に度肝を抜かれた。
 訪れる者のいなくなった屋敷は、戸を黒いゴミ袋で閉ざしていた。つまり屋敷は二階建ての建築に匹敵する、全くの黒いゴミ袋の小山と化していたのである。
 この時点で彼等は最悪の事態を察知していた。清掃業者を呼び寄せてどうにか侵入経路を作り、埋もれた玄関口を発掘し、その鍵が閉まっているのを抉じ開けて、古い金属の扉の隙間から湿った粘つく腐乱臭が流れ出してきても、ゾッとはしたがああやはりなとも思った。
 しかし中に一歩足を踏み入れて、自分達の予想した最悪の事態はまだ「最悪」でしかなかったことを悟った。
 屋内に入り込んだ職員がまず覚えたのは違和感だった。玄関には靴が一足だけ揃えて置いてある。長い廊下は真っ直ぐで左右には所々に燭台が据えられている。だがそれだけで、ゴミが全く無いのだ。
 ゴミ屋敷というのは往々にして、内側までゴミが溢れているものである。それが全く見当たらない。
 職員達は懐中電灯で廊下を照らしながら進もうとして、何気なく照らしたものに悲鳴を上げた。
 床一面に文字が書き連ねてある。うねるような文字は黒いペンキで書かれているらしく、印刷された書体に慣れた彼等には解読出来ない。しかしその黒々としたおどろおどろしさだけは、肚の底に染み渡るまで伝わって来た。
 職員達は怯えながらも、住人の姿を求めて彷徨った。左右均等に立つ燭台の太い赤蝋燭には、一度も火をつけた痕跡がない。なるべく足元を見ないよう、振り返らないようにしながら先へ進む。家は全く傷んでいない。大切に使い込まれたことがわかる宮殿様式の豪奢な壁模様の発色からも、欠けていない板チョコレートのような形をした扉の形からも、それが察せられる。
 しかしおかしな家だ。電球が一つも無い。電球を填める装置はあるのだが、一つも填まっていない。家の周りはゴミで塞がれているから、懐中電灯で照らさなければ完全なる暗闇である。おまけに臭い。異臭は次第に強くなっている。
 扉はなべて鍵がかかっていて入れなかった。だがくねくねと折り曲がる廊下の突き当たり、一際大きな扉だけは開いていた。役人達はおそるおそるその、観音開きの戸を開け放った。その向こうを照らしてーー懐中電灯の白い光の中に、ある程度予想していたが、反面予想を裏切られた景色が現れた。
 広い長方形の部屋である。天井に豪奢なシャンデリアを吊るしたこの部屋には、床一面を相変わらずのたくるような黒い文字で覆われてこそいるものの、明治の迎賓館を思わせる洋の趣がある。明るいもとで見れば壁の金細工や掛けられた静物画の素晴らしさ、居並ぶ甲冑像や飾られた仏蘭西人形に息を飲んだことだろう。ここは人形屋敷だったのだ。
だが侵入者達は、誰もそれを見なかった。懐中電灯の照らしたものは、それだけの衝撃をもたらした。
 部屋の中央、シャンデリアの真下に何かが倒れこんでいる。近寄って行けば、五体がある。腐乱した人間の死体だった。一日二日程度しか放置されたものとは思えない、本来なら土に溶け出すだろう身体である。ボロ布のような服越しにも分かる崩れた痩身から、この家の主人だと知れた。絶望を叫ぶようだった顔は、命が失せて久しいせいか相好も崩れ、悪魔が大口を開けて嘲笑っているようだった。かつての彼を知る隣人達が見たら、きっと平身低頭していた頃の彼とは別人のようだと言っただろう。
 壮絶な死に顔に通報どころか呼吸も忘れていた職員達だったが、その黒く染まった胸元を見た一人が声を上げた。
 ねえ、とその職員は切り出して、少し躊躇ってから続けた。
 胸、完全に穴が空いてない? と。
 彼女の言う通りだった。彼の胸元は、綺麗にくり抜かれたように筒状の穴が空いていた。それを見た職員達は本当だ、と口々に言った。この傷が死因で間違いなさそうだった。その後、また別の一人が言った。
 でも、一体誰が?
 また別の一人が言った。
 誰がって、本人だろう?
 すると問いかけた人間が答えた。
 でも、ナイフも銃も見当たらないよ?
 職員達は見回してみた。その通りだった。主人はただ大の字になって、寝転んでいるだけだった。
 他の人間達が口々に言う。
 じゃあ他殺? 誰が? どうして?
 その時、最初に口を開いた人間が、震える唇で言った。


 待って。この完全にゴミに呑まれてる上に鍵の閉まった家に、誰が、何処から入り込んでくるって言うの?


 この一言が、職員達の平常心でいようという心がけを決壊させた。
 彼等は早足に、もつれ合いながら逃げ出そうとした。しかし観音開きの扉を飛び出して、彼等は正真正銘の恐怖の叫びを上げた。
 懐中電灯はまたしても知らなければ良かった現実を暴いた。彼等が行きに燭台に立つ蝋燭だと思っていたものーーそれらは全て、歪な笑みを浮かべる血に染まったこけし人形だったのである。
 長い長い廊下に並んだこけし達は、薄く開いた目の隙間から、彼等をずっと凝視していたのたった。





「ということで、どうにか正気を取り戻した職員の通報でやっとこの屋敷に捜査が入った。主人は死後およそ一ヶ月、大して屋敷内の埃の積りよう、それから出口を塞いでいたゴミの状態からして、二ヶ月は人が出入りしていなかったものと特定された。そこまではただの密室殺人なわけだが」
 ずっと話し通しだった長谷部は、ここでやっと口を噤んだ。唇を舐めて湿らし、声を更に低める。
「それより不可解だったのは、屋敷を囲っていたゴミの中身だ」
「何ですか、勿体ぶらないでください」
「勿体ぶってなどいない……黒いゴミ袋の中身は、ほとんど人形だった」
 宗三の唇が、薄く開いたまま止まった。常ならば間抜け面だと嘲笑うだろう長谷部も、流石に口元を引き結んでいる。
「でも貴方、その屋敷は臭いが酷かったって」
「ああ、その通りだ。事件の記録にそうある。当時を知るどの事件関係者や住人に尋ねてもそう答えられた。だがあの後、一つ一つ開けていった袋の中身は、ほとんど臭いのしないはずのものだったんだ」
 初期に捨てられたものは、普通の生活ゴミだった。此方については確かに酷い臭いがしたという。
 だがそれ以外の、黒いゴミ袋の中に入っていたのは、ほとんどが臭いのしないものばかりだった。蝋や木で出来た人形の腕、足、胴体、頭、髪。どういうわけか部位ごとに分けて捨てられていたそれらは、全く腐敗臭などするはずのないものばかりだった。
 だが、屋敷の周囲は臭った。主人一人の死体が運び出されても、なお。
「その場所は、どうなったんだ」
 すっかり真剣な表情になった薬研が問う。長谷部は首を横に振った。
「今もまだ変わらずにある。もっともゴミは全て運び出されたらしいがな」
 その時主人の身体の下から見つかったのがこれだ、と長谷部は宗三の持つ灰色の物体を指した。宗三は己の膝に乗ったものを見下ろし、ぽつりと呟いた。
「終わってませんね」
 何のことか、全員が分かっていた。
 長谷部が腕組みをする。
「十中八九何らかの儀式、それも俺達のようなただの実戦刀が深入りすると思わぬ害を被ることになるだろう案件だ。主人の遺体からは心臓だけが見つからなかった。凶器もない。しかもまだ、あの屋敷周辺には人が寄り付かない状況が続いているという」
「その男がきっと何らかの宗教にハマってたんだろうっていう、そんな適当な考えでこの事件は公安の専門部署に投げられて、宙に浮いたまま未解決事件に仲間入りしちまった。だが、仏の丁度心臓の下に隠されていたこの塊が人魚の肉だっつう話なら」
 日本号はちらりと長谷部を伺う。同時に彼を見上げていた長谷部と視線がかち合う。二人は頷き、長谷部が膝を叩いた。
「この事件、放ってはおけんな」
「その屋敷は何処にあった?」
 薬研が急に立ち上がって、デスクの一角から冊子を引っ張り出した。地図である。彼は首都近郊の図をすぐ開き、長谷部が該当箇所を指差すのを見て何やら考え込んだ。
「もしやと思ったが、やっぱりそうか」
「何だ、どうした」
「いや。以前似たようなゴミ屋敷の事件を聞いたんだ。だが場所を聞いて確信した。同じ事件だったんだな」
 薬研は一人得心がいったように頷き、長谷部を仰いだ。
「詳しい奴に繋げるかもしれん」
「なに? 誰だ」
「あの人だよ。丁度この、隣のシマに神出鬼没な爺さんがいただろ?」
 長谷部は少し考え込んだ。それから何かに気付いたようで、げ、と漏らして顔を歪めた。
「まさか、奴か?」
「おう。他にそこまでの情報通、いないだろ?」
 薬研は地図を折り畳み、にやりと笑った。
「情報は少しでも多い方がいい。ついて行ってやるよ、きっと良い夜になるぜ?」




◆バー「party knight」

 歓楽街の喧騒からやや外れた廃ビルの狭間に、洒落た店が一軒。夜闇に塗り潰された高層建築よりくすんだ漆黒の店構えは、ややモダンにすぎるようにも窺える。だが、飾り窓から漏れる暖かな黄金の光は奇抜な店の外見と調和して、華やかながら心の和らぐ不思議な魅力を店の全景に漂わせていた。
 この店の前を通る茨道の女達は皆、その暖かな輝きで瞳を染め、うっとりと艶めかせる。反対にならず者風の男達は顔を顰める。時たま通る忙しげな仕事人達でさえ、この奇妙な店の前ではせっかちな歩調を緩めた。
 ままならぬ世に荒んだ身体、錆ゆく心。店の看板で踊る蜂蜜のネオンは、毎晩その見る者の視線を引き込むような渦巻く文字で屋号を甘く謳い、疲弊した人間を魅せる。煌々と輝き点滅する「party knight」の十一字は、まるで魔法の呪文でもかかっているかのように人目を引いた。
 しかしその晩看板の下をくぐった小柄な男は、看板には見向きもしなかった。そもそもまだなだらかな喉の線と言い、短パンから覗く太腿の白さと言い、彼はまだ男には程遠い少年としか言えぬ外見をしている。だが菫色の双眸に宿る光が理知的過ぎるせいか、或いはその細く小さな全身から漂う気配が子供にはほど遠いせいか。彼はどうも、子供と呼ぶには難しいのだった。それこそ後ろに続く煤色の髪をした背の高い男より、余程年上のように感じられてしまうのである。
 そんな少年は、黒い手袋を嵌めた手でノブを捻る。まず彼らを迎えてくれるのは賑やかなドアベルの音。次に軽快なジャズと、懐かしい声。
「いらっしゃい――おや?」
 モノトーンの調度で統一された店内の奥。カウンターの向こうに、抑えられた照明の下でも輝くような美男が佇んでいる。莞爾と微笑む端整な顔は小さく、がっしりとした広い肩幅と分厚い胸板だけを見れば相当ガタイの良い方であるはずなのに、締まった腹筋と長い脚との均整が絶妙であるためか、全くむさ苦しさを感じさせない。しかし寸分のゆるみもなく着込んだシャツと汚れ一つないウェイター衣装は、抜かりなくその恵まれた体躯から色香を引き立てている。鴉の濡れ羽の如き髪と金の瞳孔からなる対照の艶やかさ、使いようによっては痛々しさを覚えさせるに違いない眼帯の存在を自然に馴染ませているこの男は、まさに伊達男と称するに相応しかった。
「よお燭台切、邪魔するぜ」
 薬研が片手を挙げて慣れた仕草でカウンターにつき、長谷部がそれに続く。伊達男は整った目元をつと見開いていた。丸くなった瞳は、外見からは意外な程に純粋な驚きを宿している。
「長谷部君が来るだけでも珍しいけど、薬研君と二人だなんてもっと珍しいね」
「ああ、野暮用があってな」
「後から日本号の旦那も来る予定だから、承知しといてくれ」
「オーケーだよ。二人とも何飲みたい?」
「俺はいつもの。長谷部は?」
「熱燗で頼む」
「君達ね……いや、いいんだけど。別にうちは洋酒オンリーってわけじゃないからいいんだけど」
 何やらぶつぶつ言いながらも、燭台切はすぐさま迷いのない手つきで背後に居並ぶボトルを抜き取り支度を始める。
 その間に薬研は周囲の状況を窺う。好都合なことに、店内にはあまり客がいない。遠く離れたボックス席に一グループ座っているだけで、この分ならば会話に気を遣い過ぎずとも平気だろう。
「おおっ?」
 その時、背後からまた一つ懐かしい声が投げかけられた。薬研がそちらを向くと、ちょうど伸びてきた手が薬研同様周囲の観察をしていた長谷部の肩を叩いた所だった。バシンと強めの音が鳴り、長谷部が噎せる。だが声の主は気にしない。
「長谷部じゃねえかあ! 元気にしてたか!?」
「お前は相変わらず派手にやっているようだな、太鼓鐘」
 長谷部が半眼になって睨んだ頃には、既に利発な少年は蒼髪を跳ねさせて余所を見ている。快活な短刀は、大きく円らな瞳を店の反対側で給仕する色黒の美男子に注いで呼びかけた。
「おーい伽羅ぁー、長谷部が来たぜぇ? こっち来いよー」
「慣れ合うつもりはない」
 色黒の男こと大倶利伽羅は決まり文句を返す。慣れ合うつもりはないと言いながらも此方に聞こえる声量で返事をするのだから、この刀も変わらないようだ。太鼓鐘は唇を尖らせた。
「ちぇー、伽羅はしょうがねーな」
 しかしそう言いながらも、大して気にする様子は無い。また後でな、と太鼓鐘は長谷部に手を振りながら銀盆片手にさっさと大倶利伽羅のもとへ駆けて行ってしまった。
「まったく、あいつらはいつも忙しないな」
「それは君達が来てくれたからだよ」
 呆れた調子で長谷部が言う。燭台切は苦笑して訂正した。
「貞ちゃんも伽羅ちゃんも、いつも格好良く給仕してくれてるんだよ? 最近は日と時間を決めて、お客さんの前で演奏もしてくれるようになったんだ」
「そうだぜ。ありゃあなかなか見事なもんだ」
 一聴してみる価値はあるぜ、と薬研はフォローに回る。薬研は長谷部とは違い、この店の常連であるために店のことにも彼らの働きぶりにも詳しい。「party knight」は個人経営の小さなバーだが、料理人兼バーテンダーである燭台切光忠の料理と酒の腕前、ウェイターの太鼓鐘と大倶利伽羅による質の高い給仕とサービス、そしてなかなか姿を見せない敏腕オーナーの手腕により、善男善女が集まりづらい立地条件にも関わらず良い客層を得られていた。収入の方も上々だ、とオーナーが得意げに言っていたのも記憶に新しい。
(さて、そのオーナーだが)
 薬研は居並ぶボトルの影、裏方に繋がる隠し戸を横目で窺って、やはりこちらを見ていた長谷部に首を横に振ってみせる。
「鶴丸国永は、いつ帰る?」
 氷の満月を浮かべ琥珀の海を湛えたロックグラスと、慎ましい白磁の御猪口に徳利のセットをカウンターへ滑らせた燭台切に、長谷部がおもむろに問う。燭台切は微かに首を傾けて答えた。
「さあねえ。鶴さんは気紛れだからなあ。二ヶ月くらい前から音沙汰ないよ?」
「二ヶ月!?」
 長谷部は驚きからか立ち上がった。キッと藤の瞳で薬研を睨むが、そんなに責められたって困る。肩をすくめて見せると、今度は言葉で責められた。
「何が良い夜になる、だ。不在ではどうしようもないだろう!」
「おっかしいな。いち兄の話じゃあ今日って話だったんだが」
「待って、何で一期さんが鶴さんの帰る日を知ってるんだい? 普通僕達の方が先に知ってるはずだよね?」
 燭台切が食いついた。此方も、心なしか顔つきの真剣みが増している。
「この間いち兄のところに鶴丸の旦那がひょっこり顔出して、商売の話の中で今日あたり帰るって言ってたって聞いたんだ。だから今日ならいるだろうって長谷部を連れてきたんだが、違ったんだな」
「嘘でしょ……一期さんの所行くなら、何でうちには帰って来ないんだろう?」
 愕然とした後頭を抱える燭台切を見て、何だか知らないが地雷を踏んだらしいと薬研は察した。この伊達男が業務中にこうして思い悩み狼狽える姿を見せるなんて、平生では全く考えられないことなのである。
「鶴さん携帯持ってるんだから一回でも連絡くれればいいのに、この二ヶ月全く何も言ってこないんだよ? 電話にも出ないしメールしても届かないし、鶴さんが行きそうな場所をあたっても全く居所が掴めなくて――いや、でも鶴さんはいつも鶯丸さんに伝えればいいことを僕に言ったり僕に言えばいいことをにっかりさんに言づけたりにっかりさんに言えばいいことを歌仙君に言ったりするからいつものことだと思ってたけど、そんなに遠くない所にいたのに連絡を全くしないなんて――まさか遂に、遂に隣の」
「しょ、燭台切」
 本格的に狼狽え始めた燭台切に、長谷部がおろおろとしながら声をかけた。常ならば逆だろうに、珍しいこともあるものだ。薬研は一人、カウンターに腰掛けて燭台切の出してくれた酒を傾けながら彼らの様子を観察している。
長谷部が言葉に迷いながら詫びる。
「鶴丸についてはその、大変なところ事情も知らずに尋ねて申し訳なかった。俺達でも協力できることがあればやるから、代わりに今すぐ一つだけ教えてくれないか?」
「ああそんな、長谷部君は何も悪くないからいいのに。ごめんね、気を遣わせて」
 燭台切は動揺する彼の様を見て、却って落ち着いたらしかった。すぐ常通りの紳士然とした物腰を取り戻し、格好悪いところを見せちゃったなと苦笑して、まだ立ちっぱなしだった長谷部に座るよう促した。
「それで、聞きたいことって何だい?」
「お前達には直接関わりない話だとは思うのだが」
 長谷部は件のゴミ屋敷の話をした。ただし、口にしたのは屋敷の所在、事件の起こった日、そこで主の遺体が発見されたということだけである。その上で、その屋敷について何でもいいから知らないかと尋ねた。
「事件については知ってるよ。有名なゴミ屋敷でもあったからね」
 燭台切は答え、顎に手を当てて回顧する。
「でもあくまで、知ってるのはお隣としての噂話だけだからね。残念ながら力にはなれそうにない」
「そうか。ならば仕方ないな」
「あ、待って。そう言えば鶴さん、変なこと言ってた」
 肩を落としかけた長谷部は、突如はっとした風の燭台切の声に頭を跳ね上げた。
「何だ?」
「その事件が起こった後の頃だったと思うけど、にっかりさんがうちに来たんだよ」
「にっかり青江か」
 長谷部は瞠目した。にっかり青江には、まだ今世において出会えていない。
 燭台切は頷いた。
「にっかりさんは今、腕のいい御祓い屋として引っ張りだこなんだよね。霊媒師でもあるから、祓って欲しいものがある人や話したい死者がいる人に人気でね」
「何だと?」
 長谷部が薬研を窺う。薬研はその通りだと肯定した。
「あいつには俺も一度だけここで会った。どこを根城にしてるのかも掴めねえが、ここにだけはたまに来るって話だぜ」
「確かに、奴に会えれば」
「そういうことだ」
 にっかり青江の協力があれば、あの正体の知れない儀式が関わっている事件の糸口が掴めるかもしれない。薬研と長谷部は頷き合い、長谷部が燭台切に向き直った。
「それでどうした?」
「にっかりさんはそのゴミ屋敷のことで、何か聞きたいことがあったみたい。僕はちょうど接客中だったから、鶴さんと二人で話してるのをきちんとは聞けなかったんだけど」
 燭台切はここで、躊躇うように言葉を切った。そう言えば長谷部も例の事件について話した時似たような仕草を見せたことを、薬研は唐突に思い出す。
「聞こえてきた単語がこう、現代的じゃあなくてね。あとでにっかりさんが帰ってから鶴さんに何の話してたか聞こうとしたんだけど、はぐらかされちゃったから気になってたんだ」
「何が聞こえてきたんだ」
「ハンコンと、マカルカエシ」
 長谷部の顔色から血の気が失せた。その白い横顔を目にして、ああだからこの男は自分達に聞かせるのを躊躇ったのかと合点がいく。
「へぇ。ハンコンとマカルカエシ――『反魂の術』と『死反玉』か」
 薬研が自分達にも馴染む形で言いなおすと、燭台切はそうだと思うと同意した。
 反魂の術は、某古書にある西行法師の伝承で有名だろう。高野山中にて人恋しさに襲われた西行は、人骨を一通り揃えて密法の秘術で人を造ろうとした。しかし作法を間違え、会話さえ出来ない失敗作を造ってしまったという。
 一方死反玉は、古神道において饒速日命が天津神から授かった十種の神宝の一である。使者をも蘇らせるという強力な勾玉だ。
 薬研はあくまで戦場育ちの刀であるから、この二つをどういうつもりで鶴丸とにっかりが口に出したのかは分からない。だが、一般に知られるその二つの共通項と例の事件、そして彼の元へ持ち込まれた人魚の肉と思われる代物。これらを照らし合わせれば、長谷部がどうしてこの事件を追ったのかを推察することは出来る。
「なあ」
 長谷部の耳元に唇を寄せる薬研を、燭台切は訝しむように眺めている。だが薬研も長谷部も気に留めなかった。それどころか今この瞬間、店内のあらゆる音――気だるげなサックス、店員の会話、心地よいドラムの鳴動、客の囁き声、グラスのかち合う透明な響き――が、彼らの周囲から遠ざかっていた。
 此方を映す藤紫の瞳孔を見つめ、薬研は囁く。
「あんたもしかして、あの館の主は人間を造ったんじゃないかと考えてるな?」
 長谷部は黙していたが、やがて皮肉気に口の端を吊り上げた。
「お前、その察しの良さならいちいち体調を訊ねる必要はないだろう」
「ところがどっこい。生憎、そういかねえから医者って商売は成り立ってるのさ」
「ねえ、何の話を」
 燭台切の問いかけは、店の反対側から上がった悲鳴のせいで中途に途切れた。
 悲鳴の主は、ボックス席の女性だった。まだ成人を迎えたばかりと窺える彼女はよく見ると震えている。席から離れた彼女は、前に立つ少年の背に隠れるように身を縮めていた。
「おいおい兄ちゃん達、いけねーぜぇ?」
 少年こと太鼓鐘は彼女の席についている男達を見据え、歯を見せて笑った。その手は、男達の一人の手首を捉えている。
「こんなもんをお嬢さんのグラスに入れちゃあ駄目だろ」
 太鼓鐘が掴んだ腕を揺らすと、男のカッターシャツの袖口から白い物が落ちた。ひらりと揺れ落ちたのは、白い粉末の入った小袋である。それを見止めた燭台切の片目が鋭くなる。
 カッターシャツの男の向かいに座る金髪の青年が小袋を掠め取ろうとした。しかしその前に控えていた大倶利伽羅が素早く奪い取る。即座にその袋を破り、中身を小皿に撒けて鼻を近づける。
「睡眠薬だな」
「あーあ、やっぱりなあ」
 大倶利伽羅の判定を聞き、太鼓鐘は大きな溜め息を吐いた。
「兄ちゃん達さあ、男だろ? 男なら小細工しねえで、格好良く真正面から勝負しようぜ?」
「言いがかりだッ」
 金髪の青年が非難の声を上げる。彼のシルバーリングがじゃらじゃらとついた指が、太鼓鐘を指す。
「このガキが今サトシに持たせたんだ、俺達は何も悪くねえ!」
「そうだ、警察呼ぶぞ!」
 手を掴まれていないもう一人の男が言った。明らかに顔に合っていない大きさの眼鏡と跳ねすぎている黒髪パーマの癖が強すぎて、いまいち決まり切っていない。
「いや、警察いるんだが」
 隣の長谷部が小声で呟いたので、薬研は噴き出しそうになるのを懸命に堪えた。抑えた口からブフッと殺しきれなかった吐息が漏れたが、幸い事件が起きている席には届かなかったらしい。
「長谷部君」
 しかしその薬研も、燭台切の温もりの失せた声に笑いを消した。彼の片目は、先程までとは別人のような冷やかさで男達を凝視している。
「悪いんだけど、ここは僕らの縄張りだから。落とし前、つけさせてくれないかな」
「構わん」
 長谷部はすんなりと了承した。
(賢い判断だ)
 薬研は内心で頷く。長谷部は堅真面目だとよく揶揄われるが、実際のところ誰も本当の意味で彼を堅真面目だとは思っていない。へし切長谷部は元来、主命の遂行のためならば手段は選ばない男なのだ。そしてその彼にとって法制度は主命ではなく、今公安警察として名乗ることはデメリットでしか有り得ない。
 燭台切がカウンターから出た。長谷部は御猪口を傾けながら、薬研は頬杖を突き足を組んで高みの見物と決め込むことにする。
 男達はまだぎゃんぎゃんと吼えていたが、威圧感さえ覚えるほどに整った容姿をしたバーテンダーが近寄って行くと、まるでスピーカーの音量ツマミを捻られたように声がだんだんと萎んだ。燭台切は太鼓鐘の手を離させ、彼の前に立つと男達を見下ろした。
「食事中のマナーを知ってるかい?」
「は?」
 客に対するものとは思えぬ口の利き方に、一瞬男達は気色ばむ。だが燭台切が卓上のカンパリソーダを指すと、彼らは口を噤んだ。
「他人の食べ物には手を出さない。色のついたカクテルにこっそり薬を溶かして飲ませようとするなんて、人としてのマナーから外れているよ」
「てっめぇ、それが客に対する態度かよ!」
 手首を掴まれていた男ことサトシが立ち上がり、喚いた。だが燭台切は振り返ると、女性に微笑みかけた。
「君、大丈夫?」
 女性は一転して優しくなった燭台切の眼差しを受けて、恐る恐る頷いた。燭台切はにっこりと笑う。
「怖い思いをさせて悪かったね。こういう手合いには気を付けるんだよ。さあ、貞ちゃんと伽羅ちゃんは送っていってあげて」
「おい、何勝手に――」
「おっけー! じゃ、お嬢さんエスコートするぜ!」
「ふん」
 女性を囲んでいた男らが文句を言うのも無視して、太鼓鐘と大倶利伽羅はさっさと女性を連れてカウンター脇に姿を消した。裏手に回り、裏口から安全な場所まで逃がすつもりなのだろう。
 男達は追いかけようとしたが、燭台切にすぐさま押し戻されて座席に尻餅をついた。怒りで顔を真っ赤に染めた金髪が吠える。
「覚えてろ、他人様の事情に土足で踏み込んで来やがって!」
「ああ、よく覚えておくよ」
 燭台切はすっと金色の眼を細めた。女性が姿を消した途端急激に温度を無くした伊達男の表情に、何故かは分からないまでも男達は凍り付く。
「ただ君達も覚えておいた方がいいな。この店はね、ただのバーじゃないんだよ」
 燭台切は優しいな、と薬研は勝手口を見やってしみじみと思う。女性に見なくてもいい場面を見せないよう配慮し、男達に女性の前で恥をかかないようにさせてやるのだから、全くもって偉い。
 燭台切の広い背中の向こうで、男達はみみっちく身を寄せ合っている。薬研からは見えないが、燭台切はとても穏やかな、だが全く血の通っていない声で説く。
「社会には社会のマナーがある。一方で無法者には無法者の流儀がある。そしてこの歓楽街界隈では、他人の飲食物に許可なく違法な薬を盛ることは禁止されている」
「お、俺達には関係な――」
「関係あるさ。ここは歓楽街なんだから」
 男の某かがどうにか絞り出した涙交じりの反論も、すぐ潰されてしまう。燭台切は、物分かりの悪い教え子を諭す教師のような口調で窘める。
「いいかい? ここでは法は君達を守ってくれない。何て言ったって、無法者の世界なんだから。ただ無法者社会には、法より重い流儀がある。そしてここの流儀を作っているのは、この店だ」
 男達は怯えてこそいるが、何を言われているのか未だ理解できないようである。滑らかで艶のある男の声が、懇切丁寧に言葉を継ぎ足す。
「分かりやすく言い換えようか。この歓楽街の頂点に立つのは、この店のオーナー――極道伊達組組長、鶴丸国永だ」
 それから最後に、相手の顔色の変化から己の犯した罪への理解度を確かめようとするかの如く、ゆったりと言った。
「そしてその彼が不在の今、ここの流儀を司り制裁を行うのはこの僕。伊達組若頭、燭台切光忠になるわけだよ」
 これが、刑執行の合図となった。
 男達の無様な悲鳴を聞きながら、いい社会勉強だがツマミが欲しいなと隣で長谷部が呟く。その通りだと薬研も思ったので、カウンターに入り込んでバックヤードから「party knight」お手製イカの燻製を一杯引っ張り出してきた。先日燭台切が作った新商品である。炙り加減と弾力が程よくて、酒が進む美味さなのだ。薬研がゲソをしゃぶりながら長谷部にも一本差し出すと、彼も美味いなとまた次の一本に手を伸ばした。
 薬研と長谷部が勝手にカウンターを探り、イカ丸々一杯で熱燗を二本、焼酎を一本干した頃、騒がしかった店内が静かになった。燭台切は気絶した男達を放り一旦カウンターに戻って来て、薬研と長谷部の狼藉の跡を見て止めるとあっ、と声を上げて眉を吊り上げた。
「そのイカ食べるなら声かけて欲しかったなあ。折角それに合う新しいお酒を紹介しようと思ってたのに!」
「すまん。指導中に水を差しては悪いと思ってな」
「美味かったぜ」
「君達ねえ」
 伊達男は、仕方ないなあと溜め息を吐く。つい先刻までの若頭ぶりが嘘のようである。
「もう、この始末が終わるまでちょっと待っててくれよ? オススメのお酒を紹介するまで、まだ二杯目に手を付けたら駄目だからね」
「おう」
 薬研は軽く返事をして、荒縄を持ってきた燭台切が男達を手際よく縛るのを眺めながら話しかける。
「最近やっと静かになったと思ってたら、とんだ馬鹿野郎が来たなあ」
「そうなんだよ。ここには余所の組の鉄砲隊か交渉員くらいしか騒動起こす人間は来ないはずなんだけど、極稀にこういう素人が来るんだよね」
 伊達組は現在、都内任侠連中の間でも注目度ナンバーワンの組なのである。組長である鶴丸国永は世間の荒波渡りの上手い策略家兼神出鬼没の情報屋としても知られ、その下に連なる子分達は皆美形の腕利き揃いと来ている。規模の小さな組ではあるが、その筋の通って人情味溢れる流儀に惹かれる者は多く、配下となりたがる者や組織が続々と増え、今ではこの歓楽街一帯を彼等の支配下に置いていた。
「無法者の流儀は法も情も血も夢もない分、破った者への制裁は厳しいんだけど、カタギの人たちってそれを意外と知らないんだよね。困っちゃうよ」
 世間話をしながら、男達を荒縄で雁字搦めに縛った燭台切は三人をいっぺんに両肩に担ぐ。その巻き方を見て、薬研はああ海に行くんだなと思った。脚をセメントで固められていない分、まだマシだろう。だが先程痛めつけられた部位は大分染みるかもしれない。
「店番頼むよ」
「分かった」
 長谷部が出ていこうとする燭台切を見もせずに答える。伊達男は器用に三人を担いだままドアノブを捻った。扉が開き、晩秋の寒々しさが室内に吹きすさぶ。正面に向き直った燭台切は、直後叫んだ。
「なっ、何これぇ!?」




◆鶴の恩返し

「さーけーはーのーめーのーめー」
 乱痴気騒ぎをBGMに、黒田節を歌いながら悠々と夜のネオン街を背にする大男が一人。言うまでもなく日本号である。
 彼は今まさにネオン街を抜けてきたところだったが、何もこの時間まで遊び呆けていたわけではない。残業をしていたのだ。日中、不注意で長谷部の仕上げた書類にほうじ茶を零したのが原因である。だが彼の機嫌は、決して悪くはなかった。
 月夜の闇に微睡むビルの合間を、子守唄にしては男臭い黒田節がたゆたう。日本号は何も、歌と名のつくものをこれしか知らないわけではない。ただ酒を飲むとなった時口を突いて出るのが、決まってこの歌なのである。
 早く浮わついたアルコールの香りを嗅ぎたい。日本号は下水と廃ガスの入り混じった路地裏の匂いから気を逸らそうとして、ふと気付いた。
 微かだが、嗅ぎ慣れた臭気がする。
 視界の端を闇より黒い漆黒が過ぎった気がして、日本号は咄嗟にその場から飛び退いた。彼の足があった地面に留紺の光を纏う何かが叩きつけられ、更にそれを不気味な縹色に輝く刃が貫いた。
「はっはァッ!」
 すぐさま距離を取りその掌中に本体を呼び起こした日本号は、眼前にゆらりと立ち塞がった巨大な影を見て笑った。つい、普段はあまりしない獰猛に歯を剥き出した笑み方をしてしまう。
 だって仕方ないだろう。
「時間遡行軍なんざ暫く見ねえと思っていたが」
 その声に応えるように、天から留紺の雪が降ってきた。かつて時を駆けていたのだろうその雪は、命の名残を煌めかせながら塵と化す。
「よりによって、久方ぶりの戦の相手が検非違使か!」
 バラバラと降り注ぐ塵を作った張本人だろう時の役人は、手にした大太刀で煩そうに塵を振り払う。此方を凝視する縹の瞳孔を睥睨し、日本号は挑発した。
「いいぜ、かかって来いよ。天下三名槍を恐れねえならな!」
 その台詞を解したのか。検非違使は正面から打ち込んできた。
 上段に振り上げられた大太刀、その軌道、左右に迫る壁、余白。紫紺の双眸は瞬時にそれらを見て取ると、身を屈め前方へと飛び込む。
 唸り声をあげて空を薙いだ刃が男のこめかみを削ぐ。鮮血が散る。だが日本号は止まらず、下から穂先を払い上げた。鋭い薄刃は硬き鎧を裂き腱を断ち、過たず深く刻まれた傷に耐えなかった太い片足が折れる。日本号は勝気に口の片端を歪ませ、降り抜いた刃の切っ先で地に突き、本体をバネにして宙へと舞い上がった。
 巨大な図体と巨大な得物の叩き出す破壊力は恐ろしい。だがこうした敵の放つ高威力の攻撃は、大概にして振りが遅い。ましてやこの狭い路地で、敵として機動に優れる日本号を選んでしまっては、自ら己の首を締めてもらいに来たも同然だった。
 ごとり、と湿った音を立てて首がアスファルトを転がる。噎せ返る程に濃厚な血の香り。瞬く間に敵の頭上を取り命を狩った日本号の刃は、斃れる死体の頚から流れるのと同じ黒い雫を滴らせた。穂先の吸った生血が、それを見下す双眸を鮮烈な赤に染め上げていく。
「足りねえ」
 零した声は息一つ切れていないのに、ひどくがさついていた。
 基本的に、時を駆ける者は隊を組む。刀剣男士も時間遡行軍も検非違使もそこは変わらない。
 となれば。不意に視界に影が差す。そのこめかみを伝う血と同じ色をした瞳が天を仰ぎ、高層建築の四角い頭から飛び降りる異形の影を三種、映した。
 日本号は先へ駆けだした。落ちてきたものを一度に処理するには、この場所は少々狭い。さして高くはないが、折角の一張羅を布屑に変えたくない。そんな時は三十六計逃げるに如かず。幸い日本号は目的地によく足を運んでいるために、この辺りの地理には通じていた。
 二股四つ角三叉路五叉路。歪曲して複雑に絡み合う道を正確に、記憶にある通りに辿る。走り続ければ、自然と練度や機動の差で追手同士の距離が離れる。それを利用して曲がり角を過ぎる度に待ち伏せ、一体ずつ敵を仕留めた。
 最後の五叉路で殿の槍使いを屠る。一息ついて辺りを見回せば、目的地はすぐそこだ。細い路地を二三抜けた先に、ビルの狭間に紛れ込んだ一軒のバーが見えた。どうやら無事たどり着けそうだ。
(だが何故、いきなりこいつらが出てきたんだ?)
 日本号は足下に伏す異形の役人を眺めて思案する。
 最近は時間遡行なんて全くしていない。時間遡行軍に会ったのも何年ぶりだろうというくらいである。現代にも時折遡行軍が現れるとは聞いたことがあったが、日本号自身は刀剣男士としての自覚を得てから全く会ったことがなかった。
「ま、酒の席のネタにするか」
 日本号は独り言ち本体を担ぐと、点滅する蜂蜜のネオン眩い看板目指して歩み寄る。店に近づくにつれ暗闇が遠ざかり、その軒先を目と鼻の先にして淡い安堵を覚えた時だった。
 やけに冷たい風が、ひやりと頬を撫でてきた。そちらを一瞥した日本号は、己のまさに目と鼻の先を刃が過っていったのに気付いた。
(え?)
 視線だけで刃の先を窺う。何度も目にしてきた検非違使の長が、そこに佇んでいた。
 気配なんて微塵も感じなかった。耄碌したか、いやそんなことを言っている場合ではない。日本号は身を引きながら本体を翳して凶刃を遮る。甲高い金属音が耳に痛いが、同じくこの音を聴けば黙っていられないはずの店内から誰かが出てくる様子は無い。
「おいおい。正三位様に無体を働くたァ、いい度胸じゃねーか」
 毒づきつつ、さり気なく店から敵を遠ざける。刺突を躱しに躱して敵の動きの癖を読み、見切った瞬間に得物を突き出した。僅かに捻りを加えた日本号の一撃は同時に繰り出されて来た敵刃の威力を相殺し打ち負かして、喉元を突き持ち主ごと跳ね飛ばす。そのまま追撃しようとした日本号は、背中に熱い衝撃を受けてよろめいた。
「くっ、そがッ!」
 振り向いた先を睨んだ赤い双眸は、予想していなかった光景に見開かれる。
 彼のすぐ背後には薙刀の役人が一体。その後に、検非違使の小隊が丸々一個控えていたのだ。
(何だ、何だこれは)
 いくら己の偵察値が低いとはいえ、これは奇妙だ。何故気配もなくこんなにも検非違使が現れる? そして何故、バーの中にいるだろう刀剣男士共は、こいつらの気配に気付いて出て来ないんだ。
 悩んでいる暇はない。低空を薙ぐ薙刀を飛び上がり躱して突き殺し、新たにやって来た太刀を下げる役人が刀を鞘走らせる前に殺し、反対側から突撃してきた鎧武者を石突で殴る。
 押しては寄せる波の如き敵陣をさばくのに、日本号は必死になった。こうなっては衣装の傷など構ってはいられず、本体を振り回して奮闘する。
 しかし、やはりおかしい。
(何で敵の数が減らねえ?)
 日本号は既に四体を殺した。だが戦いながら己の周囲にいる敵を数えてみるに、減っていないのだ。六体の検非違使に包囲されている。
 足元には確かに自分が屠った身体が四体ある。となると、やはり増えているのだ。
「キリがねえなッ」
 必ず何か原因があるはず。日本号は目を凝らそうとしたが、入り込んだ汗と血が視界を遮る。目を拭った腕に、新しい傷口が刻まれる鋭い痛みが走った。即座に得物を向けるがもう遅い。
 思いがけず迫っていた鎧武者の穂先が、目の前で輝いている。その落ちくぼんだ眼窩から放たれる眼光が、その長い業物と共に至近距離から日本号を射抜こうとしていた。
 あ、やべえ。存亡の危機が差し迫っているはずなのに、日本号の頭は拍子抜けするくらい冷静に己の死を見つめる。
(殉職って二階級特進だよな? あいつ、怒るだろうなあ)
 酒ばかり飲んでいる貴様が、何故俺より上位になるんだ。そう言って怒る相棒の顔が浮かんで、死ぬ前に思うのがそれかよと日本号は苦笑した。
「あれ、日本号じゃねえの?」
 だが日本号の頭は、いつまで経っても貫かれなかった。それどころか、ここで聞くはずのない呑気な声が聞こえる。
 からん、と眉間を貫こうとしていた槍が落ちた。我に返った日本号の視界、その中央。鎧武者の喉元から突き出た細長い刃が、月光のもと冴え冴えとした輝きを放っていた。
 武者が崩れ落ちる。その向こうに佇んでいた男を一目見て、日本号は開いた口が塞がらなくなった。
「御手杵!? お前、何でこんな所に」
「あー後ろ後ろ!」
 御手杵は問いに答えず、日本号の肩越しに迫っていた薙刀を弾き飛ばした。日本号も身体を返して、迫っていた敵を蹴散らす。御手杵と並んで得物を駆使しながら、再び先程と同じ問いを投げる。
「お前、こんな所で何してる」
「決まってるだろ、喧嘩だ」
 御手杵は大真面目に、抽象的に過ぎる答えを返す。だが日本号の表情を見て納得していないことに気付いたのか、自ら言葉を付け足した。
「同田貫とこの辺りに住んでる顧客を訊ねに来たんだが、色々あってこの辺りの歌舞伎者と喧嘩になってあれこれしてるうちにはぐれちまったんだよなあ」
 通信機持たせてるはずなのに繋がらねえんだよ、これだから全く、と御手杵は愚痴る。それを聞いて、日本号は彼の相棒に通信機不携帯の癖があることを思い出した。
「はっ、前と変わらず喧嘩稼業に勤しんでるようで、なにより、だッ」
 日本号は言いながら、迫って来た太刀の役人を一突きにする。黒いジャンバーが翻り、その胸ポケットから光沢のある手帳が覗いたのを御手杵は見た。勿論その拍子に刻まれた紋も見逃さない。
「しっかしあんた、本当に警察官になってたのか」
「らしくねえってか?」
「まさか。あんたらしいよ」
 御手杵は一度牽制代わりの突きを喰らわせてから後方へ下がり、へらりと笑った。
「どこで暮らそうとどこに籍を置こうと、あんたは日ノ本一の槍。矜持も名誉も、その名を冠するあんたの中にはいつだって備わってるんだからな」
「おっ、分かってんじゃねえか」
「だから西でそれなりの良いとこのお坊ちゃんだったはずなのに出奔してようが、それなりに良い商社で正社員になれたのに辞めて大陸で危ねえ商売始めちまってようが、こっちに帰って来ても俺みたいなのと一緒に繁華街で暴れてようが、首都高で暴走族とデスチェイスしてようが、下町でチンピラから金巻き上げてようが、警察入って一応公僕名乗ってるクセにまったく僕感がなかろうが、日本号様は日本号様なんだろ」
「おいこら。銃刀法違反で逮捕すんぞ」
 味方が増えたお陰か、敵の波が切れた。その隙に日本号も一度下がり、余計なことを言う知己を睨む。だが御手杵はしれっとして銃刀法は廃止されてるだろと言い返してきた。やはり知っていたか。こいつもすっとぼけているようで、戦ごとに関しては抜け目ない。
「どっちにしろ、この状況じゃ逮捕も何もねえけどな」
 ぼそりと呟いた御手杵の言う通りだった。
 暗がりに縹色の火の玉が一対、また一対と灯る。それらが暗闇から彷徨い出て店の灯りに照らされると、途端に検非違使の輪郭を露わにするのだった。
「湧いて出て来るみてえだ」
「どうなってるんだ、これ」
「俺が知りてえよ」
 会話を続けながらも、二人は周囲への警戒を怠らない。店の前以外は、なべて闇である。それもただの宵闇にしては不自然な暗さだ。
「都会の夜って、こんなに暗かったか?」
「いや。そんなことはねえな」
 御手杵も日本号も、異常な気配を感じていた。
 そう、彼らは重油に浸したような闇に包まれていた。この重く見通しのつかない闇には覚えがある。
「俺の勘違いじゃなければ」
 御手杵の人の良さげな顔立ちが、警戒に引き締まっている。
「これ、昔検非違使が出る時に必ず起きた時空の歪みに似てないか?」
「俺も今、ちょうどその可能性を考えていた」
 日本号はすっかり元の紫紺に戻った双眸を眇め、思い起こす。
「最初俺が一体目の検非違使に出会した時、こんなに暗くはなかった。こうなったのはこの店の前に来てからだ」
「罠か?」
「だろうな。恐らく検非違使が出現するための時空の歪みが断続的に続いてるんだろう」
 互いに得物を構えながら、躙り寄る敵と背後に神経を尖らせる。
「背後からは何も来ねえから、あの正面の方の暗がりからだけ湧いて出るのかもしれねえよ?」
「いや分かんねえぞ。そう見せかけて、背後から急にぶすりってな」
「うええ。俺は刺すしか能がねえから、そうなったら頼むぞ」
「馬鹿野郎、それこそお前の専売特許だろ刺せよ。つかまず、お前の方が索敵得意だろうが」
「得意じゃねえよ。あんたが苦手すぎるだけで」
「言い争っている場合ではないぞ」
 突如、太い声が割って入った。その方を返り見た二槍は、現れた姿を目にし同時に破顔する。
「蜻蛉切! 久しぶりだな!」
「今世では初めましてになるのか。無事で何よりだ」
 暗闇から進み出た三名槍最後の一本は、日本号に破顔を返した。一方、御手杵はとぼけた顔で尋ねる。
「あれ、あんた追っかけて来てくれてたのか」
「同田貫殿が通信機を忘れたようだったから、届けに来たのだが」
 温和な槍は、すぐさま武者らしい目つきでその先の敵を見据えた。
「思いがけない事態に巻き込まれているようだな」
 自分も助太刀しよう。即座に穂先を敵に向けた生真面目な槍に、日本号は肩を竦める。
「そりゃあ有難いがね。この状況、力任せじゃあどうにもならねえぜ? 何たって、検非違使が無限に湧いて来るんだからな」
「その状況をどうにかするための方法を聞いてきたのだ」
 西と東の槍は顔を見合わせた。御手杵が神妙に問う。
「蜻蛉切。あんた何を知ってるんだ? 俺達は今、どうなってる?」
「すまないが詳しい話は後だ。急いては事を仕損ずるが、悠長にしていても面倒なことになる」
 外で検非違使達の動きを止めてくれている者がいる。敵の前だから仔細は明かせないが、彼がこうして尽力してくれている間にどうにかしなければならない。
 そう説く蜻蛉切は真剣な面持ちである。確かに現在、検非違使達は店の前の灯りから退き、闇に潜んでいる。蜻蛉切とて偽者ではなく、感じる神気は彼自身のものだ。そして蜻蛉切は偽りを嫌う武士である。日本号と御手杵は彼を信頼することにし、先を促した。
「すでに察しているかもしれないが、ここは今検非違使が出現する時空の歪みに捕らわれている。これから解き放たれるには、検非違使が出現する一瞬にだけ放たれる光を穿たなければならない」
「その光ってあれか。日の出みたいなやつか?」
 かつて出陣先でさんざっぱら見た光景を思い返し、御手杵が首を傾げる。蜻蛉切は頷いた。
「その通り。検非違使の一個小隊を観察した結果によると、我らの時間遡行と同様に隊員全員が同じ光の元から姿を現しているらしい。その光の元が時空の歪みの根源なのだろう、だからそこを突けば状況の打開に繋がるはずだ、と聞いた」
「なるほどな。やってみる価値はあるな」
 日本号が担いでいた本体を両手持ちにする。躊躇いの色が濃かった表情から迷いが消え、真直ぐな瞳は検非違使達のその向こうを凝視している。
「俺がその歪みの元を狙う。お前らは検非違使をぶっとばせ」
 「ゴーグルは持っているか?」
「無けりゃあ名乗り出ねえよ」
「何でそんなの持ってるんだ?」
「そりゃあお前、こういう身だからな」
 日本号はゴーグルと共に己の警察手帳も取り出して開き、身分証を見せる。途端蜻蛉切も御手杵も、納得した顔で頷いた。
「ああ、それで素性をすぐ隠せるようなものを持っているのか」
「あんたの外見じゃすぐバレるだろ」
「うるせえな」
「俺達にバラしちゃっていいのか?」
「あ? 別に問題ねえだろ。俺達三名槍なんだからよ」
 日本号は断言した。理由として至極当然、と言いたげなその口調に、御手杵も蜻蛉切も思わず笑みを零す。
「そうだな、我らは三名槍だからな」
「えー、いいのかよ公安警察? ぬるくねえ?」
「いいだろ。お互い、裏できな臭ぇことやってるからな。お前らが俺の素性を漏らせば、俺は御手杵がこの前のアパート焼失大量バラバラ殺人事件の真犯人だってことを捜査一課にリークするし、それを蜻蛉切が匿ってることもバラす」
「うわっ、公安汚ねー! お前だって昔散々あんなことやってたくせに」
「むう、自分も巻き添えか」
 日本号は意地悪く眉を吊り上げ、御手杵は唇を尖らせ、蜻蛉切は渋い顔をする。だが刹那繕った表情は崩れ、三人は揃って悪童めいた笑みを浮かべた。
 警備員、軍人、警察官。職も違えば置かれた環境も違えど、そんなことは今に始まったことではない。三名槍は昔から一つ処に集まったことなど無く、性格、戦術、嗜好、能力、どれ一つとしてぴったりと重なるものがなかった。だがそんな自分達だからこそ、三名槍の呼び声に気負いを感じ、誇りを抱いて生きていけるのだ。
 「天下三名槍」は、これを誰かが三本に言うと必ず其々否定するのだが、実質三本にとって運命共同体に近い概念だった。
「じゃあ各々方、やるか?」
 御手杵が張り切る。
「三名槍が揃ったら、戦うもんらしいからな」
 日本号は不敵な姿勢を崩さない。
「そうだな」
  蜻蛉切は穏やかに微笑む。
 三本の切っ先がかち合った。高く澄んだ和音を奏で、御手杵と蜻蛉切が、日本号が駆け出した。
 それと時を同じくして検非違使達も動く。御手杵と蜻蛉切が我先にと先陣を切る敵らと斬り結ぶ。日本号はそのやや後で、ゴーグル越しに目を光らせていた。
 狙うは敵が現れる発生の光。だが一体目が出てきた段階で突き込むのは、思慮に欠けている。自分の辿るべき道を、隙を見極めねば。
「どうした、近寄れんかッ!」
 蜻蛉切が吼える。猛々しい三河武士の周囲には、既に二体が伏せられている。御手杵の方も二体目にかかっているから、もう部隊の半分が消された計算だ。もう次の戦士が出てきてもおかしくない頃合い。
 そう計算した日本号の目が、闇の奥で輝く光を見つけた。光は最初一点に生じ、それから左右に切れ込みが走るように細く広がる。御手杵が称したような暁に似て、あまり明るくはないが眩い。
 本体を、いつもより気持ち水平に構える。紫紺の瞳は検非違使が出現する度瞬く輝きを見つめ続け、やがて己の穂先とそれを繋ぐ線しか映さなくなる。
 御手杵と蜻蛉切は敵を屠り続ける。二人が合わせて六体目を倒しきった時、日本号は柄を握る力を強めた。
 己の刃の先に、一筋の「道」が見える。
(掴んだ)
 目標を捉えた。そう自覚するより速く、日本号は拓けた道に己の本体を滑らせる。
 ぴた、と時が止まった気がした。
(ああ、これはいける)
 日本号は確証を感覚で掴み取った。己の意のままに身体が動く時、理想に適う攻め方が出来た時、世界は止まって見える。
 青い穂先はゆっくりと直線状の「道」を辿る。道の先にはまだ何もなく、辿り着く所は目視出来ない。だが日本号の穂先だけは知っている。
 導かれるままに滑る槍は、永遠に滑り続けるかのように思われた。だが何事にも終わりは必ず来る。
 刃のその僅か髪一筋の先。そこに瞬間、ぽっと火が灯った。
 日本号はそれに、切っ先でそっと触れる。
 紅い光が破裂した。そう認識した時には空間に亀裂が入るのを感じた。世界が急速に廻り始めた。日本号にとって永遠にも感じられた時間は、実際には一秒にも満たなかった(他二人はこの時の彼の刺突を「疾風迅雷の如し」と称した)のだが、これを境に生ける検非違使共は散り散りに逃げ出し、宵闇は透き通る天鵞絨の如き柔らかさを取り戻して天に星々が帰ってきた。現世は元ある姿を取り戻したのだ。
「上手くいったんだな」
「うぃー、やっとか」
 いつも似たような調子で喋る癖のある御手杵の声にさえ感嘆が滲み、日本号も疲労の濃い溜息を漏らした。酩酊した時によく出る声だが、今回だけはただの疲労困憊の表れとしか取れないに違いない。
「素晴らしい一撃だったぞ、日本号!」
 蜻蛉切が上気した顔で褒め称えてくる。まあなと返そうとして、その前に彼にこの知識を与え送り出した人物の名を問わねばと思い出した。
「蜻蛉切、お前の言ってた」
「待たせたな」
 日本号の台詞に、軽やかな男の声が被った。
 聞き覚えが、非常に聞き覚えがある。
 思わず口を噤み声の主を探した日本号の眼前、バー「party knight」の屋根の上から白い影が舞い降りた。黒いシャツに細身の白スーツ。それと同色の髪と肌に、満月に似た金色の眼。
 ああ、なるほどな。隣で何か悟ったらしい御手杵の平坦な呟きが耳に入ったが、日本号はそれところではない。
「鶴丸のジイさん!」
「いやあ、巻き込んで悪かった」
 儚げな風貌の優男は、しかし外見に反する軽快で小気味良い明朗な口調で話し始めた。
「実はここの所ずーっと時間遡行軍につけられててな。面倒だから今日ここに帰ってくるという情報を流して、つけて来る連中を一網打尽にしてやろうと思ってたんだが」
 ここで彼は、呆れとも簡単ともつかぬ吐息を漏らした。
「まさか検非違使が来た上に、奴さん、間違えてきみ達をターゲットだと認識するとは! 偶然とは言え済まなかった」
 しかも罠を張られるとは思わなんだ。鶴丸はそう言ってからからと笑う。
「人避け建物避けの陣を張ったのは良かったんだが、歪みの解除に手間取らされてな。蜻蛉切が来てくれたからこの時間で済んだが、そうでなかったらもっとかかっていたかもしれん。まったく。俺については兎も角、こういう驚きは勘弁して貰いたいものだな」
「そりゃあ俺の台詞だよ!!」
 日本号は叫んだ。
 だがその声は、不幸なことにちょうど沈黙を保っていた店の戸口から現れた燭台切の「何これぇ!?」という叫びと被った。更に続けて不幸なことに、燭台切が長らく失踪していた組長を発見した安堵から即座に駆け寄り高練度高打撃力と歓喜の念を比例させて背中を叩いたせいで、鶴丸国永は崩れ落ちて動かなくなった。そのために日本号が巻き込まれた理不尽を直接彼に訴え事情説明を聞けたのは、丸々半日が経った後のことになる。
 しかし、禍福は糾える縄の如し。根っからの自由人のように見えて律儀な鶴丸は、日本号にきっちり借りを返した。このお陰で日本号は、珍しく相棒に「まあ何だ。こう言ったらおかしいのだろうが、助かった。今日はよく休め」とぶっきらぼうな礼と労いの言葉を受け、久々に二槍と無礼講を楽しむことが出来た。
 果たして、日本号の溜飲は下がったのか。それについては、あれからも「party knight」前の路地で時折黒田節が聞こえるとだけ言えば、十分だろう。




◆駄菓子本舗粟田口

 同田貫正国には、己が迷子であるという自覚があった。どこをどういったものか、ならず者等を一人残さず追うことに拘りすぎたせいで、いつの間にか周囲の景色は雑然としたオフィス街から寂しげな下町へと変わっていた。
 ここはどこだ。同田貫は首都で暮らし始めてそれなりに長いが、この景色にはあまり覚えがない。
 そもそも東京は生き物のように変化し続ける都市であった。かつては莫大な数の住人を糧にして様々に衣替えするが如くその姿を変えていたが、近年は事情が変わってきた。
 切っ掛けは科学技術を駆使した世界戦争だった。戦禍は国の社会構造を、倫理観を、人々の暮らしぶりを手酷く捻じ曲げた。首都にも深く刻まれた傷痕は、終戦から三十年経った今も全く癒えない。何故ならば国家の財が尽きたからだ。資本主義に依存しきった社会が、財源無しに立ち直れるわけがない。元々資源のないこの国が巻き返せるわけもなく、貧困から倒産に失業が相次いで失踪者が急増する。そうなれば都心には、彼らが残して行った空っぽのビルや無人の家屋が、まるで行き場を失った幽鬼の群れさながらに立ち尽くすことになったのだった。
 だから今の東京の景観は「変化し続ける都市」であることに変わりはないものの、かつてとはその形態が異なる。言うなれば、生ける屍の都市になったのだ。失踪者が減らず廃屋の増える一方で、どうにかこの鉄骨地獄で生き延びようという人間が入って来ては落ちぶれ、露頭や廃屋を根城と定めては人間として生活するために畜生の所業を繰り返す。ごく一部の可もなく不可もない市民は、安全第一芋虫よろしく身を縮めて暮らしている。だから発展的な変化などし続けるはずもない。
 そうした暗澹たる都市の現状をつらつらと述べあげて、何が言いたいのか。つまるところ、急激に変化し衰えていく東京の景観を、同田貫はいちいち覚えていられないということだ。東京は狭いとよく言われるが、それでもちっぽけな人間には広い。生活圏外の場所など覚えていられるわけがない。
 御手杵に訊ねるにもどこかに行ってしまった。更に同田貫は通信機を忘れていた。もはや相棒と合流するのは、今彼らが根城代わりにしている蜻蛉切の家にでも戻らない限り不可能だろう。そもそも蜻蛉切の家がどちらにあるかもわからない、という問題もあるのだが。
(まあ、駅でも見つけりゃどうにかなるだろ)
 幸いなことに、同田貫は生きて戦が出来ればいいタイプの刀剣男士だった。だから迷子になったという自覚こそあったがさして困りもせず、とりあえずあてずっぽうに歩いて帰ることを決めた。
「しっかし、シケた町だな」
 同田貫はぶらぶらと歩きながら独り言ちる。茶色い木の肌をした家々が行儀よく隣り合う街並みは、強いて言うなら寺町に似ている気がする。道幅も狭いがオフィス街の路地裏とは違い、どこか懐かしい情緒がある。それだからこそ、所々の軒先に吊るされた提灯の破れ目や曲がった表札が哀しい。
 もう深夜にも近い時刻であるせいか人影は全くない。かろうじて人が住んでいるらしい家屋の灯りも消え、冷たい月あかりの下、動く者は自分以外にいなかった。
 いないと思っていた。
「同田貫」
「うおッ!?」
 突如脇から第三者の声がして、同田貫は反射的に刀を抜きながらバックステップを踏みつつそちらに向き直った。だが狭い軒脇で蠢いた人影が月光のもと輪郭を露わにするなり、同田貫の肩から力が抜けて目が丸くなった。
 そこにいたのは白髪に赤い隈取、顔の下半分を黒いマスクで覆う青年だった。
「鳴狐じゃねえか!」
「ややっ! これはこれはお懐かしゅうございますねぇ同田貫どの!」
 鳴狐の肩の後ろから、ひょこりと小さな顔が現れる。御供の狐だ。狐は小さな口を開閉させて甲高い声で喋った。同田貫は眉を跳ね上げる。
「お前、現世でも喋れるのかよ」
「左様でござりまする! 鳴狐とわたくしめは一心同体。鳴狐が刀剣男士であり続ける限り、わたくしめもまた共にあるのでございます!」
 よく喋る。同田貫が面白半分呆れ半分でその口がぱくぱく動くのを見つめていると、鳴狐にすっと手を引かれた。
「寄って行こう」
「おい、ちょっと待てよ」
 鳴狐は同田貫の制止も聞かず、狭い軒の間を潜り抜けていく。寄って行こうって何だ、寄るって何だ、俺はまだ返事してねえぞ――抗議していた同田貫は、細道を抜けて急に視界が開けるなり、言葉を忘れた。
 急に、時空を超えたのかと思われるような懐かしい景色が広がっていた。退廃的な世紀末の街並みが失せ、小さな庭とこじんまりとした木造家屋が現れた。これまで見た下町のものにそっくりの古風な佇まいだが、手の入りようが違う。庭には雑草一つなく、柿の木が一本と同田貫の知らない花が花壇やプランターに植えられている。玄関の引き戸は昭和に流行った木の枠に曇り硝子の使用で、綺麗に拭き上げられている。屋根瓦も苔生していなければ、玄関先に下げられた剥き出しの丸い電球も煌々と夜の闇を丸く切り抜いて塵一つない石の玄関先を照らしていて、一見して、暮らしそのものに時間を割いていた昔の暮らしぶりをしている家であることが察せられた。
 玄関の上、正面に大きく看板が掲げられている。日に晒された跡こそあるが雨風の汚れはあまりないそれには、「駄菓子屋本舗粟田口」とある。
 手を引かれるままに、同田貫は玄関を潜った。ガララとレールを走る振動に、板硝子が木枠に擦れる音。その先にはまた、時代錯誤な風景が現れた。
 現代ならあまり考えられない柱の多い店先には、所狭しと菓子が並べられていた。それもただの菓子ではない、所謂駄菓子である。棚に並んだ小さなカラーバスケットいっぱいに、近ごろとんと見かけなくなったものが溢れている。十円チョコにきなこ棒、麩菓子にラムネ、小さなお札チョコもあれば大きく膨らんだカルメまである。店の隅の冷蔵ケースには、あの薄緑にビー玉を浮かべたサイダーの瓶や粉ジュースが。柱には赤や黄の網に入れられたビー玉やおはじきがじゃらじゃらと、天井には翼竜の玩具や紙風船が吊るされている。
「只今戻りましたぞ!」
「おかえりぃ~」
 お供が甲高い声を張り上げると、一段高くなった畳の向こうから軽い足跡が複数聞こえてきた。すぐに暖簾の下に細い脚が三組現れ、暖簾から童の顔が三つ覗く。
 同田貫は彼らの顔を見て、予想は出来ていたがこれまた懐かしいのが来たなと思う。やって来たのは粟田口短刀、厚と乱と秋田の藤四郎三振だった。
 三振はそれぞれ鳴狐らに何か声をかけようとしたようだったが、その後ろの同田貫を見てぽかんと口を開いた。驚愕一色に染まっている彼らを眺め、同田貫は内心首を傾げる。そんなに自分がいるのは珍しいだろうか。
「……同田貫?」
「同田貫さん! 同田貫さんだ!」
「いちにぃー! キツネがタヌキ拾って来たー!」
「待て誰が狸だ! おい!」
 厚が疑わしげな声を上げたのを皮切りに、秋田が叫び始めた。次いで乱が短いスカートを翻して兄を呼ばいながら奥へ戻って行く。声を荒げかけた同田貫は、しかし明らかに童等より重い足音が足早に迫ってきて、しかもその主が思いの外早く暖簾を潜って破顔したので、毒気を抜かれてしまった。
「同田貫殿!」
 まるっきり本丸にいた頃と変わらぬ内番着で現れた粟田口の長兄は、懐かしいですなと嬉しそうにはにかんだ。




「厳しい時代になりました」
 一期一振の溜め息が、手にした湯飲みの茶を揺らす。
 迷子になったと伝えたところ、彼はでは一晩泊まっていかれると良いでしょう、なに連絡ならば我が家の電話をお使い下さいと快く申し出てくれた。それを受け入れて早速蜻蛉切の家に電話したが留守だった。また明日かけ直せばいいだろうと受話器を置き、座敷へと上げられて茶を振る舞われ今に至る。
 茶の間に一期一振と二人きり、差し向かいで菓子と茶を嗜む。鳴狐は短刀達の寝るのに付き添うため、姿を見せなかった。
「私と鶴丸殿、鶯丸殿、江雪殿は、縁ありまして今世で刀剣男士として目覚めたばかりの頃、近隣におりました。私達は色々なことを話し合いました。何故我等付喪神が審神者のもとに顕現されていないのか。何故この人の体だったはずのものは、我等が覚醒した途端かつてのような強靭さを取り戻したのか。そして何故、生まれ変わるにしてもまた付喪神としての自我と神格を持ったまま顕現されたのか……」
 淡い色の髪が、左右に揺れた。
「分かるはずがありませんでした。それでも我等は、審神者無しに人間を基として我等が顕現されたことを考えると、どうにもこれは天の意なのではないかという推量をするに至りました」
「江雪殿は、今度こそ乱世を鎮めよということではと言いました。鶯丸殿は、これまでとは様子の異なる敵が現れたからではと言いました。鶴丸殿は、人から我等が切り離されたということは何か人をも敵に回さねばならぬ事態が起きるのではないかと言いました」
「どうして現世にこのような形で在るのかを確かめるため、私達は生活の方便を成り立たせながら情報を集めることにしました。江雪殿は和睦を追求するため信仰の道へ、鶯丸殿は知識と知恵を求めて学術研究の道へ、鶴丸殿は人の動きが気になるからと社会の裏道へ入りました。たまに連絡を取り合っていますが、未だに答えは出ていません。耳に入るのは、人の世の如何に荒れ果てたかということだけです」
 同田貫は一期一振が話す間、その顔を見つめていた。よく喋る割に、ずっと俯いたままだった。
「同田貫殿は、この状況をどう考えているんですか?」
「俺は何も考えちゃいねえ。少しでも長く、武器として生きようとしてるだけだ」
「勇ましいですな。羨ましい」
 垂れていた首を上げて控えめに微笑む太刀の、色素の薄い瞳が笑みを形取っている。同田貫は細まったそれから視線を逃さずに問うた。
「あんたはどうなんだ?」
「私ですか?」
「あんた、まだ自分の考えは一つも言ってねえだろ。何で自分がここにいるか、その様子なら考えたことがねえわけじゃねえんだろ?」
 一期の瞳孔が左右に揺れた。唇を開いて、何か言いかけてやめて閉じ、しかしまた開く。それを何度か繰り返していたが、やがて彼は意を決したように居住まいを正して言った。
「私は……罰当たりを承知で言いますならば、今度こそ我等が自らの心のままに戦うためではないかと思いました」
 決然とした表情をただ黙って眺め、同田貫は続きを促す。
「私はかつて歴史を守るための戦いに身を投じていた頃から、思っていたのです。正当な歴史を守るという建前はまだ良しとしましょう。ですが、誤った歴史の必須条件というわけでもないのに散ることを余儀無くされる命に納得が出来なかった。だから私は、この現世で散ることを余儀無くされる命のない歴史を作れと、そういう命を帯びて我等は顕現されたのではと考えています」
「その『散ることを余儀無くされる命』ってのは、あんたの弟達のことか」
 膝の上で握り締めた手に浮く筋が、僅かに跳ねた。それを見逃さず同田貫は言う。
「別に俺ァ軽蔑はしねえよ。俺は刀ってのは武器なんだから強くありゃあいいとは思ってるが、戦や人斬りを好めとは他人に言わねえ」
 それからにやりと笑って続けた。
「それとも何だ、俺にぶった切って欲しかったか? 『散ることを余儀無くされる命に市井の人間や時間遡行軍は入らねえのか、薄情者』って?」
「……これは失礼しました。見透かされていましたか」
 一期は苦々しいものを滲ませて、微笑んだ。
「同田貫殿の言う通りです。自由になる身体を得て、私は自分本位などうしようもない付喪神になってしまいました。私は弟達を再び失うことが恐ろしい。その反面立派に経験を積んで一人でやっていけるだろう彼等を、己の管理下から外すことを恐れる自分を情けなくも思うのです」
 今度はもう、顔が俯向くことはなかった。一期一振は首を左右に振る。
「他の皆さんはもっとこの件を本来の、もっと大きな次元で考えているのに。私と来たらまず第一に考えるのは身辺のこと。『過去を守るだけでなく、この現世をより良く作る』などと大義名分を申しても、私の中にあるのは弟達のこと、私の親しい人のことばかりなのです」
「だから葛藤して、俺にぶった切って欲しくなったわけだ」
「申し訳ない」
「構わねえ。だが、意外だったな」
 あんたはそういうこと、思ってても黙ってるのかと思ってた。
 同田貫は正直に言う。一期一振自身もまた、私もかつてならこのようなことは言わなかったでしょうなと同意する。
「私は現世に生まれ、つくづく思ったのです。他者に命を捧げる絶対服従の忠誠とは、なんと楽な行為であったのかと」
 あの頃は全ての行動の動機を審神者に原因付けられていたから。一期はかつてを振り返る。
「刀剣男士と名乗ってはいても、私は貴方のような確固たる自分の信念がなかった」
「俺達は刀なんだから、戦うために使われてなんぼだろ」
「そうなのです。私達は刀です。だからこそ……何故心など宿してしまったのかと疑問に思う」
 一期一振は、羽織るパーカーの胸元を掴んだ。ヒビ割れたような皺が寄る。同田貫の眉間にも皺が寄る。
「戦は心がなきゃ出来ねえよ」
「意外なことを言いますね」
「ああ? そうかァ?」
 同田貫は乱雑に頭を掻く。こういった問答は苦手だ。
「戦ってもんは頭使うだろうが。あんたみたいにそもそも何で今目の前にいる奴と戦うのかってところから考える奴は多いし、俺みたいな野郎でも敵の太刀筋くらいは読む。そうすりゃあ質はどうでも頭を使ったことになる」
 一期一振は真摯に聞いている。同田貫は唸りながら言葉を絞り出す。
「アー、あんたが何を悩んでるのか俺ァ分かんねえけどよ。目の前にあるもんに接しようとして、初めて俺達はてめえに心があることを自覚するだろ? だから、あんたの戦の動機が弟だろうがなんだろうがいいんじゃねえの? 寧ろ会ったこともねえ奴のために軽く命かけられるような野郎の方が、俺は信じらんねえな」
 一期一振はしばし何やら考え込んでいるようだった。
「私は貴方を見くびっていたようです」
「アア?」
「貴方の質実剛健は、確かなものであったと」
「そーかい」
 同田貫は煎餅の袋を開け、一枚を噛み砕いた。
「戦は強けりゃいいんだ。あんたは強い。それでいいだろ」
「ははは、光栄ですな」
 一期一振は笑った。ここに来て初めての軽やかな笑みだ。
「私は近頃、全く本体を使っていないのですが」
「俺みたいな実践刀は合戦場で如何に人を斬るかしか考えねえが、戦は刀を使って人を斬るのが全てじゃねえ」
 目に見えぬものを斬る者もいる。霊を斬る、信念を宿した相手を切る、刀を抜かず斬る者もいる。
 あんたも刀は使わねえでも戦ってるだろ、と同田貫は煎餅を咀嚼しつつ言う。
「だからな。結局俺達はてめえの手に血が付いてても付いてなくても、何かしら殺めてるもんなんだぜ。他人にしろてめえにしろ、同じようにな」
 柱時計の針が子の刻を指そうとしている。一期と同田貫は就寝支度をする前に、風呂に入ることにした。
 風呂場に案内して貰いながら、灯りの落ちた駄菓子屋の店先前を通る。暗い中、玄関の曇り硝子差し込む月明かりにぼうと浮かび上がる駄菓子達は、まるで発掘されるのを待っている宝の山のようだった。
「この御時世でも、菓子屋で食って行けるもんなんだな」
「貧しさを知る人々にこそ、このような店は長く愛して貰えるのでしょう」
 暖簾を分けて店内を眺める同田貫に、一期一振は言う。
「安価な菓子で少しでも安らぎを得られるならばと商売を始めたのですが、これが意外にも客足が切れません。最近では鳴狐殿に遠くまで菓子の調達や発掘をお願いできるほどの余裕も出来ました」
「ほー」
 同田貫は改めて店内を見渡す。棒つきキャンディ、ココアシガレット、ドロップの缶、スーパーボール、昆虫採取キット、バターケーキ。色とりどりの駄菓子に玩具の山。
「よく分かんねーが、この店はあんたらしいと思うぜ?」
「同田貫殿には敵いませんな」
 一期一振は笑った。





◆ある山の神社

 罪を犯した時に穢れが発生する。穢れは「気枯れ」とも言われ、生命が枯れて死に近づくこの状態は新たな罪を生むとも言われる。だから穢れに侵された者は共同体への参加やいと尊き神域への立ち入りを禁じられた。罪は他者に移ることはないが、穢れは火や食を通じて伝染し、罪を犯していない者をも巻き込み汚染するからね。これが触穢と呼ばれるのは知ってるよね?
 穢れは汚れとは違い、永続的に蓄積するものだ。だからこそ禊や祓をしないと清められない。だけど祓はそもそも穢れを消滅させることと同義ではなかったという説は知っていたかな? ああ、誤解しないように言っておくけど私だって人よりは神事に通じてはいるがその道理を全て理解してわけじゃない。人間が発達の途中で無意識に筋肉を使いこなしていく癖にその筋肉が何で出来ているのかを全くは知らないのと一緒さ。さて何の話だったかな、そうだ祓だ。祓は罪を犯した者が神へ償いをすることであったとも言われている。神は人智を超越した畏み敬うべき存在だ。それに罪を犯したことへのお赦しとお伺いを立てる。そして鎮めようと、そういうわけだ。原始の記憶を辿れば神というのは荒ぶる御霊であってそれを人が
「悪かった石切丸。悪かった、僕が悪かったよ」
 いつになったら終わるのか分からない話を遮るために詫びた。薄暗い床の上、厄祓いの式の中に座るこの身体はまだ立ち上がることが出来ないから、当然横座ったままでの謝罪になる。
「こんなになるまで無茶をして、結局君に手間をかけさせた。すまなかった」
 ところがこちらの意図はは先方にも伝わっていたようだ。見下ろしていた神主の唇の端が緩やかに吊り上がった。おっと、これは思いの外面倒だ。目尻に朱をはく切れ長の瞳は、笑っていない。
「神剣の明確な定義なんて聞いたことはないけれど」
 また語り始める。もしも第三者がこの会話を聞くならば、再び脈絡のない話に戻ったと思われるかもしれない。だがにっかりには分かる。石切丸はそろそろ、本題に切り込むつもりだ。
「私は一つの仮説として縁との関わりが一つの基準になっているのではないかと考えている。私達神剣は多くして穢れを祓う力を持つ。これは考えようによっては穢れの生じた人と罪の縁を切ることだ。そして同時に、今度はその人間が気が枯れないような罪との関係性を作っていけるよう、祝福を施してるんじゃないかな」
 石切丸の口元からは、とうに笑みが失せている。
「私は昔、君が神剣になれない理由として霊とはいえ幼子を斬ったことを挙げた。あれをあげたのには二つの理由がある。一つは子を斬ることは穢れに繋がるから。もう一つは、君が霊を『斬った』からだ」
「それは今世でも聞いて」
「何に深入りしようとしてるんだい、にっかり青江」
 青江の言い訳は、一刀のもとに切り捨てられた。
「君は斬ることは出来る。けれどまだ、祓うことは出来ない。だからくれぐれも軽率に斬るな、あまりに穢れを溜めると君の身に障ると言ったはずだけどなあ?」
「僕も承知してるよ」
「ああそうだろうね。だからこそ聞いてるんだ。そんなになるまで、何を斬ったんだい?」
 青江は自分の姿を見下ろした。
 彼の白い羽織には一目見てそうと分かる戦い傷が残っている。審神者のいない身体はかつてのように手入れをして治るようなことはないが、人間に比べれば治りは早い。神域に入ればよりその傾向は強まる。
 だが石切丸の言う「そんなに」とは、身体における外傷を指しての言葉ではない。
 青江の視界の端を、羽虫の群に似た影がよぎる。見下ろすと、床についた腕にそれがとぐろを巻くようにまとわりついた。筋の浮いた手首に、胡麻に似た斑点がみっしりとこびりついている。
 これらは、少し目の利く者でないと感じ取ることが出来ない。腫物祓いの刀が守護するこの空間でも今なお残る、青江の周囲を漂う黒霧。これこそが今度ばかりは石切丸を頼るまいと青江に思わせた原因の、残滓だ。
「ひどい臭いだよ。君が何故通報されなかったのか不思議なくらいだ」
「おや、そんなに僕の匂いが気になるのかい?」
「ああ。平泉から今剣が送ってきた、あちらに突如現れたという化物の臭いに似ている」
 青江は黙った。気を害してのことではない。石切丸はその間に語り始める。
「しばらく平泉に籠っていた岩融と今剣が、こちらに出てくるそうだ。なんでも、彼等のもとに都の臭いを帯びた化物がやって来たそうでね。全国を周遊し山に籠り、長らく人から離れていた彼等が都に下りてくるなんて余程のことだよ?」
「…………」
「その送られてきた化物の断片は、奇妙なことに朽ちながらにして生きていた。死んでいるはずなのに、指の先がぴくぴくと動いたんだよ」
「…………」
「何か起きているのか、知っているのかい?」
 青江は考える。何が起きているのか。自分はどこまで知っているのか。そして彼にこの件を、知らせていいものなのか。
「分からない」
 ややあって零した。
 無理だ。この蟲のような穢れに全身を侵されながら、この神域へと逃れる途中に悟ったことだった。この件は駄目だ、青江の処理能力範囲を超えている。自分一人の手ではどうにもならない。
「いつもは霊に出会せばある程度分かるのに、今度ばかりはまるで分からないんだ。自分が斬ろうとしているものが何なのか、何を考えているのか、どうして欲しいのか……斬っても斬られても僕には」
 台詞半ばにして青江は口を噤んだ。正面を凝乎と見つめる。石切丸もつられてそちらを見た。
 本殿の外。白障子の向こうに、一つの影。
「石切丸、俺だ」
 青江はいるかい、とその快活な声は尋ねた。




◆紙芝居屋の会話

「やまがなだらかになってきましたよ、いわとおし」
「そうだな、今剣」
「このぶんだと、あさってにはみやこにつくはずです」
「お前の鴉がそう言うなら、違いないな」
「だけどぼくは、みやこにくることがせいかいだったのかわかりません」
「…………」
「ぼくたちはできそこないのとうけんだんし。そうおもってできそこないならせめてたのしく、おもしろいおはなしでもして生きていこうとおもっていたのに。なぜいまごろ、あんなものがきたのでしょう」
「今剣よ。我等が行かずとも都には[[rb:同胞 > はらから]]がたくさんおる。じきに、全ては収まるところへ収まるかもしれんぞ」
「おさまるところが、はめつでないじしんはありますか?」
「そればかりは、俺には分からぬ」
「あの、かびときたないみずのにおいがするへんなものは、ひとのようでした。でも、ひとではありませんでした。おのやなたではきれませんでしたし、てっぽうだまをうけてもうごきました。ぼくたちがきって、やっとしずかになりました」
「まっこと、奇っ怪な妖だったな」
「ぼくたちがきらないとしなないものなんて、じかんそこうぐんしかいないとおもってました。でもあれはちがう。そこうぐんよりもっと、ずっといびつで、いやなものでした」
「…………」
「あれはなんなのですか。あれが、このよにうまれるべくしてうまれるものなのですか」
「今剣」
「あれは、どんなにはなしかけてもたべることしかかんがえていないようでした。あんな……あんな、ひとの……っ」
「今剣」
「ひとのずがいをわって、のうを……くちをわって、五臓六腑をすいつくすなんてっ……」
「今剣よ。落ち着け、大丈夫だ」
「おぞましい、おぞましい外道です!あんなものが、さだめるべくしてうまれたものだというのですか……っ」
「一度休もう、今剣。連日の歩き通しで俺は疲れた。お前も付き合ってくれ」
「……すみません。とりみだしました」
「はっはっは、構わん構わん!……俺もな、あれのことを思い出すと今でも鳥肌が立つ。それ、ここに座れ」
「ありがとう、岩融」
「……今剣よ。お前が無理に都へ出向く必要など、どこにも無いのだぞ? お前があれの正体を突き止めて、人間を守る必要など無い。お前だっていつも、近頃の人間は平家を語り聞かせても面白くないと言っているではないか」
「たしかにそのとおりです。まったくちかごろの子ときたら、与一すらしらないのです。へいけものがたりという名もきいたことがないうえに、よしつねこうもしらないときています。ぼくらのことも、だれもおぼえていない。どうしてここにぼくらがいられるのか、ふしぎなくらいです」
「全くだな」
「かみしばいをしていてもまえをすどおりしますし、たまにきく子がいても、ぼんやり宙をみていたり、はなしをまったくりかいできてなかったりします。まるで、おなじことばだけははなせるうちゅうじんにはなしをしているかのようです」
「驚かされたよなあ。いつの世も、人の子は何を考えているか分からんわ」
「でも、それでもみやこにはなかまがいます。ぼくらの本体がなくとも、ぼくらのそんざいをみとめてくれるきょうだいがいるのです。かれらになにかあったらとあんじることは、よけいなことでしょうか?」
「余計ではない。そのようなことは断じてないぞ」
「いわとおしも、しんぱいだといっていましたよね? いしきりまるや、どこにいるかわからないけれども、こぎつねや、みかづきが」
「ああ、そうだ。お前を案じるのと同じようにな」
「ならばいきましょう、いわとおし。ぼくはだいじょうぶ。いっしょにいきましょう」
「おうよ。では、参ろうか!」



「いわとおし」
「なんだ」
「ぼくは、いわとおしをおいていったりしません」
「…………」
「しませんから、どうか」
「分かっておる。何処までも、共に参ろうぞ」
「やくそくですよ」





「ふたりでいっしょに、いきましょう」

















【蛇】設定【足】

大雑把な設定。
主のいないこんな感じの彼等が、己の存在意義を見失ったり見出したりしながら迫る脅威と戦う世紀末が見たい。



◆喧嘩屋
・御手杵
 喧嘩と飯があれば大体生きていける。同田貫と組む前は、ソロだったり日本号と組んだりしてもうちょっとやんちゃしてた。
・同田貫正国
 喧嘩するために生きてる。御手杵の食費が半端なくて困る。そんなストレスも仕事で発散。充実した世紀末ライフを堪能中。

◆軍
・蜻蛉切
 陸軍大尉。暴力と性欲で荒んだ人間の多い軍隊の中で、随一かつ唯一無二の良識の持ち主。御手杵と同田貫の保護者でもある。

◆警視庁特殊急襲部隊
・長曾祢虎徹
 警部。実力は行動で示す方針は世紀末でも健在。
・和泉守兼定
 警部補。世紀末でも斬って殺すはお手の物。だが狙撃はノーサンキュー。
・堀河国広
 巡査部長。闇討ち暗殺狙撃補佐何でもやるよ兼さん!
・加州清光
 巡査部長。偵察も狙撃も、苦手なんだけどなー。やるけどね。
・大和守安定
 巡査部長。おお、殺してやるよ子猫ちゃん! 銃じゃなくて刀でな!

◆公安警察特殊犯罪対策室
・へし切長谷部
 警部。捜査一課時代に強盗殺人犯を隠れた金庫ごと圧し斬ったために左遷された。事件は自分から探し出すスタイル。
・日本号
 警部補。マルボウ所属時代に本物のヤクザよろしく上司に酒を強いたために左遷された。現上司のせいで事件には巻き込まれるスタイル。

◆薬研医院
・薬研藤四郎
 医者、解剖医。見た目は子供なのに医者。手術に麻酔は要らねえよ。漢なら猿轡で十分だろ。
・宗三左文字
 ブラックなところから転職してきた自称薬剤師。専門は新薬開発と漢方調合。鑑識官検屍官に必要なスキルはあらかた身に付けている。
・不動行光
 お手伝い。どうせ俺は麻酔なしでの手術も出来ないし毒薬も作れないダメ刀なんだ……。

◆バー「party knight」
・鶴丸国永
 オーナー兼情報屋兼以下略。最近燭台切が店の裏に畑が欲しいと言い出して困っている。
・燭台切
 料理人兼バーテンダー兼以下略。最近郊外の畑だけじゃなくて店でも野菜を栽培したい。
・大倶利伽羅
 ウェイター兼以下略。たまに厨房にも入るしギターも弾けるが馴れ合うつもりはない。
・太鼓鐘貞宗
 ウェイター兼以下略。やっぱりカッコよく給仕してえよな! ピアノ? 弾けるぜ!

◆駄菓子屋本舗粟田口
・一期一振
 社長。弟達と慎ましくも楽しい駄菓子屋商売を営む。家を出て行った一部の弟達と、近頃バイトを始めたらしい弟達が心配。
・鳴狐
 専務。様々なところへ菓子を探しに出かけることの多い放浪の営業マン。営業はお供がする。

◆山の神社
・石切丸
 神主。腫物かな? 来てくれれば私が斬って差し上げよう。青江は黙って右の頬と左の頬を差し出しなさい斬ってあげるから。

◆流れ者
・にっかり青江
 引く手数多の霊媒師。人気者は辛いよね。すぐみんな寄ってくるんだ。おや、お客さんの話だよ?

◆紙芝居屋
・今剣
 語り担当。本当は絵も描いてみたい。今剣が描いた紙芝居を見た子供は十中八九泣くというジンクスがある。
・岩融
 作画担当。子供は好きだが、最近の子供は暇さえあれば手元の薄い板を見つめていてちょっと怖い。




★ 世紀末においでよーー !