【刀】末世パロ④




◆薬研医院

 薬研藤四郎は医者である。
 無論その姿かたちは、精々年配に見積もっても十代半ば程度にしか思われぬ少年のものだ。だが医者なのだ。信じられないかもしれないが、医師免許も持っている。
 何でお前はそのなりで普通に働けているのか。以前尋ねてみたところ、この鷹揚な短刀は例の童らしい屈託なさと童らしからぬ肝の据わりようを感じさせる笑みを浮かべ、
「それだが、俺っちにもよう分からん。いち兄の所で血糊飴の実演をするのに飽きたからやってみることにしたんだが、まさか本当になれるとは」
 何でもやってみるモンだなとあっけらかんとして言うから、元織田の刀剣で一番まともそうに見える男だが、案外そうでもないのかもしないと長谷部は思った。
 さて、そんな薬研は自分の病院を持っている。その名も薬研医院。全くもってその通りの捻りのない名前だが、これが侮れない。薬研医院はその来るもの拒まず去るもの追わずの経営方針と奇特なメンツのせいか、非常に患者層が広い。小さい病院であるために市井の患者こそ少ないが、他方面に融通が利くためにーーそう、たとえば一般の病院ならば診察だけでは済まされないものを診てくれたり、それを黙っていてくれたりするためにーー一部の患者から頼られ莫大な診察料を得ている。
 分かりやすく言おう。薬研医院は闇医者であった。医師免許こそあるが、扱う患者は社会の日陰に生きる者ばかり。だから実質闇医者であるし、本人もそれを断言している。
 そんな薬研は公安課お抱えの解剖・分析医でもあった。
「よう、ご両人。変わりないか?」
 長谷部と日本号が訪ねて行くと、薬研は診察室で手術道具を洗浄しているようだった。サスペンダー付き短パンにカラーシャツ、その上に羽織った白衣はかつての内番着と全く同じだが、今ではこれが立派な戦衣装となっているらしい。白衣にはまだ赤さの残る茶褐色の斑点が散っていた。
「一週間前に会ったばかりなのだから、変わらないに決まっているだろう」
 また自明のことを聞いて、と思いながらも長谷部は至極当然の答えを返す。薬研はいつ会ってもこの質問をするのだ。
 すると、はたして長谷部の考えたことを察したのか。薬研は眉を持ち上げ、悪戯に笑った。
「これだから旦那はいけねえなあ。変わってないことを確認したくて聞いてるんだ。あんた、それじゃあおなごにもてねえぞ」
「構わん、余計なお世話だ」
 長谷部は眉間に皺を寄せる。隣でにやにやと笑う日本号を殴ってやりたいが、一旦無視することにした。薬研は肩を竦め、指先で白衣を引っ張ってみせる。
「俺は商売がこれだからな。この質問が挨拶と同じようなモンになっちまってるんだ。ちと煩いように感じるかもしれんが、勘弁してくれや」
「承知している」
「悪ぃなあ。だがそれだけ真面目に体調を答えてくれりゃあ、医者冥利に尽きるってもんだぜ」
「聞いたかお前。これこそ完璧な男の受け答えってヤツだ」
「黙れ日本号」
 長谷部は今度こそ日本号の脇腹に肘鉄を喰らわせた。硬い。あまり入った感触がない。次はもう少し強くしてみよう。長谷部は速やかに反省して、本題を切り出す。
「それより薬研、先日のものはどうなった?」
「ああそうだった」
 薬研は菫の双眸をやや開いて、椅子をくるりと回す。診察室の奥、きっと裏方になっているのだろう戸に向かって声を張り上げた。
「おーい、宗三。アレ取ってくれや」
「僕は貴方の細君ではないのですが?」
 引き戸の奥から宗三左文字が現れた。相も変わらず骨と皮ばかりだろうに何処か婀娜な雰囲気を醸し出す痩躯は、薬研同様羽織った白衣を閃かせながら、透明な容器に入った拳大の物質を手にこちらへ歩み寄る。長谷部は反射的にその袋に目をやる。
 あれこそ、先日長谷部達が薬研に鑑識をお願いしたものだ。薄く黄緑がかった灰色の、一見して芸事において花を刺す土台として使われる給水スポンジに似ている謎の物体である。資料室の奥に積んであったちめただのゴミとして捨てようかとも考えたのだが、あの物質が押収された事件が事件だったために一応解析してもらうことにしたのだ。
 しかしあんなに厳重に包まれてくるということは、頼んだ甲斐があったということか。薬研の隣に腰掛け問題の物を膝上においてから、長谷部の視線を受け止めた宗三は口を開いた。
「またとんでもないものを持ってきましたね」
 常に諦念に似た響きを含む宗三の声に、珍しく感嘆の情が薄く滲んでいる。
「これは人魚の肉ですよ」
「人魚の肉?」
 長谷部は思わず問い返した。
「あの、食べたら不老不死になるという伝説のか?」
「そうですよ」
 あろうことか、宗三は肯定する。
「もっとも、大抵は食しても肉のもたらす力に体が耐えきれず即死しますけどね」
「おいおい冗談だろ?」
 日本号が笑った。だが宗三は微笑を浮かべ、残念ながら冗談ではありませんと囁き返す。
「見たところ無機物にしか見えませんから、遺留品としてなおざりにしていたところから察するに、おたくの鑑識官はこの物体自体を調べてはみなかったのでしょうね。幸運なことです。これは末世の人間には荷が重い」
 彼が話している途中に、薬研が棚からファイルを取り出して手渡す。宗三は細い指でそれを手繰り、ある一頁を開いて指し示した。
「実験しました。最初はこの塊の端切れをマウスにやってみたのですが、どのマウスも食べようとしませんでした」
 見開きのページに、ケージの中に置かれた小さな灰色の物体とマウスの写真が複数載っている。どの写真でも物体とマウスの間は遠い。まるでマウスがこの物体を忌避しているようだ。
「仕方ないので、ゴキブリを捕らえて食べさせてみたのです。その結果ーー」
 細い指が一頁捲る。そこに並んだ写真を見て、長谷部は無意識に口元を押さえた。
「この通り。最初は元気そうにケージの中で飛び回っていましたが、すぐに身体中に細かな白いものがびっしりと生えてきて、挙句死にました」
 最初の写真には、灰色の物体に接近した黒光りする昆虫が収められている。次の写真では物体は失せて、昆虫だけが宙に羽ばたいていた。ところがその次の写真から昆虫は飛ぶのをやめており、その後の写真では次第に体を細かな白いものが覆っていく過程が見て取れる。宗三の言う通り、最後には全身に白いものをこびり付かせて死んでいた。それも足や翅、触角といった身体に付随したものを撒き散らしながら。
(これは、死ぬ過程で足や翅が勝手にもげたのか?)
 気味が悪い。吐き気を覚えながらも、律儀な長谷部の目は白いものの正体を確かめようとする。
 その視線が最終的に定まったのは最後の一枚、昆虫の身体を拡大して撮った写真だった。
 昆虫を次第に覆っていった細かな白いものの、一つ一つの形が見て取れる。半円よりやや扇形に近い透き通った薄片だ。規則正しく重なりながら表面に生えている。
 この様には見覚えがある。だがしかし。宗三がこの実験に使われた物体を何と呼び表したかを思い出して、長谷部はゾッとした。
「このゴキブリの全身を覆っているのは、まさか魚の鱗か?」
「その通り」
 答えたのは薬研だった。キャスター付き椅子に寄りかかり、足を組んで手をひらひらとさせながら言う。
「俺っちもこの実験は見ていたが、この写真の通りだ。肉を食わせた途端こいつの表面に白い魚の鱗が生えてきて、ぐずぐずに身体がバラけて死んじまった。流石に肝が冷えたぜ」
「よく言いますよ。貴方はともかく、不動には見せるんじゃありませんでしたね。生えてきた鱗のせいでゴキブリの足がもげた途端、外に飛び出して行って吐きましたから」
 以来不動はこれに近づこうとしません、と宗三。なるほど、通りで今日は医院の残る一人の姿を見なかったわけだ。
 背後の日本号を見れば、苦々しい顔付きで写真を眺めている。首後ろを掻きながら、低く唸り頭を振った。
「その昔、人魚の肉を食べた子供が鱗を生やして死んだという話を聞いたことがあるが……偶然にしては気味が悪ぃな」
「偶然ではないんでしょうよ。これは人魚の肉です」
 宗三はきっぱりと言い放った。
「現代の科学では、この物質を構成するものを解析しきれませんでした。ですが、八百比丘尼伝説で知られるあの超常的な生命力を持つ肉でまず間違い無いでしょう」
「人魚なんて実在したのか?」
「付喪神がいるのだから、人魚だっていてもおかしくないでしょう」
 長谷部の問い掛けに、宗三は冷静に答える。それもそうだ。
「仮に人魚が実在しなくとも、それは大した問題ではありません。どうでもいいことです。問題は、ここに不死の力を持つ肉があることです」
 蒼碧のオッドアイが、長谷部達を凝視する。薬研もまた彼らを見つめている。
「どんな事件の遺留品なんだ?」
 詳しく聞かせてくれねえか、と肝の据わった短刀は静かに問うた。
 日本号が長谷部を見下ろす気配を感じる。長谷部は思案する。
 この物体が押収されたのは長谷部が今の部署に配置される以前の事件でのことだったが、ここに来る前に一通りその詳細は調べてきていた。だから話すべき内容は全て頭に入っている。
 だが、話すのに躊躇いがあった。とは言っても守秘義務など今更気にしてはいない。
 長谷部が今迷っているのは、語るべき事件の内容のせいだった。
「長谷部」
 日本号に呼ばれる。振り仰ぐと、巨漢は珍しく真摯に此方を見下ろしていた。
「こいつらなら大丈夫だろ」
「……そうか」
 そうかもしれない。元の主と共に焼けても尚、片方は失せたにも関わらず堂々と付喪神として顕現し、もう片方は屈折しながらも生きてきた刀なのだから。
 長谷部は語る覚悟を決めた。
「あれは、八年前のことだったらしい」





 都内某所に大きな屋敷があった。煉瓦造りの、明治初期に流行った洋館擬の豪奢な建造物のミニチュア版といった佇まいで、今は懐かしき古典主義に倣っているのが一目瞭然だった。
 この屋敷には由緒正しき御家柄の一族が住んでいた。かつてはいと高き方々とも縁を結ぶような家だったそうだが、次第に廃れていった。そして気付けば、年嵩の男一人だけが残る状態になっていたという話である。
 ちょうどその頃には近隣の住民も入れ替わりに入れ替わって、その屋敷の昔の由を知る者は誰もいなくなっていた。代わりに、家には新たな名前がついていた。
 ずばり、ゴミ屋敷である。
 最後に残った男は、何時の頃からか家にゴミを溜め始めた。近隣住民が気付いた限りでは、家の壁に添うようにゴミ袋を積み出したのが始まりだったらしい。家を囲うゴミは次第に時を追うごとに増えていき、やがて広い庭を埋め尽くすまでに至った。
 それまで仄かに漂ってくる悪臭に耐えていた隣人達だったが、遂にある冬の日、男の家に乗り込んだ。
 あまり外に出ることのない男だったが、流石に出入りのため玄関前にゴミを積むことはしなかったようだ。住民達が蠅のたかるゴミ山に辟易しながら玄関にたどり着きチャイムを押すと、果たして男は現れた。
 隣人達が男の姿を目にしたのは、この時が初めてだったという。汚い身なりをした白髪頭の瘦せぎすで、特に頰の痩けようといったら酷かったそうだ。当時男に会った人間の一人は、「二十世紀の某絵画において、己の顔を両手で挟んで叫ぶ男に、本当によく似ていた」と言っている。ただし決定的に違ったのは、このゴミ屋敷住まいの男の場合、両手で顔を圧迫しなくとも常に悲痛に叫ぶような細長い痩けた顔をしていたということだ。
 ゴミの山をどうにかしてもらえませんか。住民達が遠回しにそのような旨を伝えると、男は意外にも素直に頭を下げた。
『すみません。時間かかるかもしれないですけど、早くどうにかします』
 掠れて消えそうな細い声で男は繰り返し謝った。すみません、すみませんと謝るしおらしい男の様子に、どう文句を言ってやろうかと息巻いていた近所のご意見番でさえ口を噤んだ。男が謝る様子は、その貧相な外見と相まって哀れを誘った。だから近所の人間達は、その日はそれで下がることにした。
 しかしその後、ゴミが減ることはなかった。寧ろ増えた。広い庭の表面積を埋め尽くしたゴミ袋は、遂に縦に積まれ始めたのである。こうなるともうグラスの表面張力を試すようなもので、ゴミ袋は忽ち家の姿を覆っていった。最初に壁が見えなくなった。その次に屋根が。それまで申し訳程度に生えていた庭木も切られ、ゴミ屋敷は屋敷とは名ばかりのゴミ山と化していった。
 住人達は勿論、男に苦情を言いに行った。週に複数回行ったこともあれば、三日続けて出向いたこともある。しかしそれも次第にしなくなった。何故なら、男は何回会っても同じような対応しかしなかったからだ。
『すみません。時間かかるかもしれないですけど、早くどうにかします』
『すみません、迷惑かけて。本当にすみません』
『僕も早く何とかしたいんですけど、もう少しだけ待って下さい。本当にすみません』
 男は枯れ木の如き体を何度も折り曲げて、枯葉の擦れ合うような声で繰り返し囁いた。申し訳なくは思っている様子である。だがゴミくらい捨てに行けばいいだけだろうに、全くそうするそぶりを見せない。まともな人間の様子ではない、もしかしたらこの人は何かの病気なのかもしれない。腹を立てていた住人達は徐々に男に対して気味の悪いものを感じ始め、近付かなくなったのである。
 勿論気味が悪いのは男の様子だけではない。男の出すゴミも、次第に異様な空気を醸し出し始めた。
 最初は透明なビニール袋に生活ゴミを入れているだけだったようだが、縦に積み始めた頃から袋の色が黒に変わったのだ。何とは知れないがぎっしりと中の詰まった黒い袋が堆く屋根さえ隠して山の如く積まれていくのは、非常に気色悪い景色だった。臭いだけでなく視界でまで汚染されていく様で、やはり屋敷の近くに寄る者は減った。
 こうして屋敷の周りには、人が近寄らなくなった。隣家の者は悉く引っ越した。隣でなくとも出て行く者もいた。そんな調子だったから、このままずっと、あの屋敷はゴミを蓄えていくのではないかーーそのように思われた時期もあったが、そうはならなかった。何故ならば、屋敷の悪臭が耐え難いまでになっていたからである。
 そう。何よりも堪え難かったのが、ゴミから漂う悪臭だった。腐臭と称せばいいのか、それとも刺激臭と言うのがいいのか。どちらとも言えないのだが、とにかく嫌な臭いなのである。ゴミ処理場や浄化槽掃除の比ではない。腐った蛋白質なのか野菜なのか、何だか知らないが臭う。甘ったるく鼻の粘膜にこびりついてくる上に全身の毛穴を抉じ開けて染み込んでくる、突き刺すようなえげつない臭い。冬かそれより前から溜められていたゴミは、一夏を越えようとする頃には反射的に喉元から吐瀉物がせり上げそうになる程に醸造され、これは犯罪としてもいいのではないかと、屋敷から五キロ離れた場所に位置する自治体役所の職員にさえに思わせるものに仕上がっていた。
 季節は巡り、晩夏。住人さえ諦めた現場に、遂に役所の人間が足を伸ばしてきた。彼等は異様な屋敷の景観に度肝を抜かれた。
 訪れる者のいなくなった屋敷は、戸を黒いゴミ袋で閉ざしていた。つまり屋敷は二階建ての建築に匹敵する、全くの黒いゴミ袋の小山と化していたのである。
 この時点で彼等は最悪の事態を察知していた。清掃業者を呼び寄せてどうにか侵入経路を作り、埋もれた玄関口を発掘し、その鍵が閉まっているのを抉じ開けて、古い金属の扉の隙間から湿った粘つく腐乱臭が流れ出してきても、ゾッとはしたがああやはりなとも思った。
 しかし中に一歩足を踏み入れて、自分達の予想した最悪の事態はまだ「最悪」でしかなかったことを悟った。
 屋内に入り込んだ職員がまず覚えたのは違和感だった。玄関には靴が一足だけ揃えて置いてある。長い廊下は真っ直ぐで左右には所々に燭台が据えられている。だがそれだけで、ゴミが全く無いのだ。
 ゴミ屋敷というのは往々にして、内側までゴミが溢れているものである。それが全く見当たらない。
 職員達は懐中電灯で廊下を照らしながら進もうとして、何気なく照らしたものに悲鳴を上げた。
 床一面に文字が書き連ねてある。うねるような文字は黒いペンキで書かれているらしく、印刷された書体に慣れた彼等には解読出来ない。しかしその黒々としたおどろおどろしさだけは、肚の底に染み渡るまで伝わって来た。
 職員達は怯えながらも、住人の姿を求めて彷徨った。左右均等に立つ燭台の太い赤蝋燭には、一度も火をつけた痕跡がない。なるべく足元を見ないよう、振り返らないようにしながら先へ進む。家は全く傷んでいない。大切に使い込まれたことがわかる宮殿様式の豪奢な壁模様の発色からも、欠けていない板チョコレートのような形をした扉の形からも、それが察せられる。
 しかしおかしな家だ。電球が一つも無い。電球を填める装置はあるのだが、一つも填まっていない。家の周りはゴミで塞がれているから、懐中電灯で照らさなければ完全なる暗闇である。おまけに臭い。異臭は次第に強くなっている。
 扉はなべて鍵がかかっていて入れなかった。だがくねくねと折り曲がる廊下の突き当たり、一際大きな扉だけは開いていた。役人達はおそるおそるその、観音開きの戸を開け放った。その向こうを照らしてーー懐中電灯の白い光の中に、ある程度予想していたが、反面予想を裏切られた景色が現れた。
 広い長方形の部屋である。天井に豪奢なシャンデリアを吊るしたこの部屋には、床一面を相変わらずのたくるような黒い文字で覆われてこそいるものの、明治の迎賓館を思わせる洋の趣がある。明るいもとで見れば壁の金細工や掛けられた静物画の素晴らしさ、居並ぶ甲冑像や飾られた仏蘭西人形に息を飲んだことだろう。だが侵入者達は、誰もそれを見なかった。懐中電灯の照らしたものは、それだけの衝撃がもたらした。
 部屋の中央、シャンデリアの真下に何かが倒れこんでいる。近寄って行けば、五体がある。腐乱した人間の死体だった。一日二日程度しか放置されたものとは思えない、本来なら土に溶け出すだろう身体である。ボロ布のような服越しにも分かる崩れた痩身から、この家の主人だと知れた。絶望を叫ぶようだった顔は、命が失せて久しいせいか相好も崩れ、悪魔が大口を開けて嘲笑っているようだった。かつての彼を知る隣人達が見たら、きっと平身低頭していた頃の彼とは別人のようだと言っただろう。
 壮絶な死に顔に通報どころか呼吸も忘れていた職員達だったが、その黒く染まった胸元を見た一人が声を上げた。
 ねえ、とその職員は切り出して、少し躊躇ってから続けた。
 胸、完全に穴が空いてない? と。
 彼女の言う通りだった。彼の胸元は、綺麗にくり抜かれたように筒状の穴が空いていた。それを見た職員達は本当だ、と口々に言った。この傷が死因で間違いなさそうだった。その後、また別の一人が言った。
 でも、一体誰が?
 また別の一人が言った。
 誰がって、本人だろう?
 すると問いかけた人間が答えた。
 でも、ナイフも銃も見当たらないよ?
 職員達は見回してみた。その通りだった。主人はただ大の字になって、寝転んでいるだけだった。
 他の人間達が口々に言う。
 じゃあ他殺? 誰が? どうして?
 その時、最初に口を開いた人間が、震える唇で言った。

 待って。この完全にゴミに呑まれてる上に鍵の閉まった家に、誰が、何処から入り込んでくるって言うの?

 この一言が、職員達の平常心でいようという心がけを決壊させた。
 彼等は早足に、もつれ合いながら逃げ出そうとした。しかし観音開きの扉を飛び出して、彼等は正真正銘の恐怖の叫びを上げた。
 懐中電灯はまたしても知らなければ良かった現実を暴いた。彼等が行きに燭台に立つ蝋燭だと思っていたものーーそれらは全て、歪な笑みを浮かべる血に染まったこけし人形だったのである。
 長い長い廊下に並んだこけし達は、薄く開いた目の隙間から、彼等をずっと凝視していたのたった。





「ということで、どうにか正気を取り戻した職員の通報でやっとこの屋敷に捜査が入った。主人は死後およそ一ヶ月、大して屋敷内の埃の積りよう、それから出口を塞いでいたゴミの状態からして、二ヶ月は人が出入りしていなかったものと特定された。そこまではただの密室殺人なわけだが」
 ずっと話し通しだった長谷部は、ここでやっと口を噤んだ。唇を舐めて湿らし、声を更に低める。
「それより不可解だったのは、屋敷を囲っていたゴミの中身だ」
「何ですか、勿体ぶらないでください」
「勿体ぶってなどいない……黒いゴミ袋の中身は、ほとんど人形だった」
 宗三の唇が、薄く開いたまま止まった。常ならば間抜け面だと嘲笑うだろう長谷部も、流石に口元を引き結んでいる。
「でも貴方、その屋敷は臭いが酷かったって」
「ああ、その通りだ。事件の記録にそうある。当時を知るどの事件関係者や住人に尋ねてもそう答えられた。だがあの後、一つ一つ開けていった袋の中身は、ほとんど臭いのしないはずのものだったんだ」
 初期に捨てられたものは、普通の生活ゴミだった。此方については確かに酷い臭いがしたという。
 だがそれ以外の、黒いゴミ袋の中に入っていたのは、ほとんどが臭いのしないものばかりだった。蝋や木で出来た人形の腕、足、胴体、頭、髪。どういうわけか部位ごとに分けて捨てられていたそれらは、全く腐敗臭などするはずのないものばかりだった。
 だが、屋敷の周囲は臭った。主人一人の死体が運び出されても、なお。
「その場所は、どうなったんだ」
 すっかり真剣な面立ちになった薬研が問う。長谷部は首を横に振った。
「今もまだ変わらずにある。もっともゴミは全て運び出されたらしいがな」
 その時主人の身体の下から見つかったのがこれだ、と長谷部は宗三の持つ灰色の物体を指した。宗三は己の膝に乗ったものを見下ろし、ぽつりと呟いた。
「終わってませんね」
 何のことか、全員が分かっていた。
 長谷部が腕組みをする。
「十中八九、何かの儀式だろう。主人の遺体からは心臓だけが見つからなかった。凶器もない。しかもまだ、あの屋敷周辺には人が寄り付かない状況が続いているという」
「その男がきっと何らかの宗教にハマってたんだろうっていう、そんな適当な考えでこの事件は公安の専門部署に投げられて、宙に浮いたまま未解決事件に仲間入りしちまった。だが、仏の丁度心臓の下に隠されていたこの塊が人魚の肉だっつう話なら」
 日本号はちらりと長谷部を伺う。同時に彼を見上げていた長谷部と視線がかち合う。二人は頷き、長谷部が膝を叩いた。
「この事件、放ってはおけんな」
「その屋敷は何処にあった?」
 薬研が急に立ち上がって、デスクの一角から冊子を引っ張り出した。地図である。彼は首都近郊の図をすぐ開き、長谷部が該当箇所を指差すのを見て何やら考え込んだ。
「もしやと思ったが、やっぱりそうか」
「何だ、どうした」
「いや。以前似たようなゴミ屋敷の事件を聞いたんだ。だが場所を聞いて確信した。同じ事件だったんだな」
 薬研は一人得心がいったように頷き、長谷部を仰いだ。
「詳しい奴に繋げるかもしれん」
「なに? 誰だ」
「あの人だよ。丁度この、隣のシマに神出鬼没な爺さんがいただろ?」
 長谷部は少し考え込んだ。それから何かに気付いたようで、げ、と漏らして顔を歪めた。
「まさか、奴か?」
「おう。他にそこまでの情報通、いないだろ?」
 薬研は地図を折り畳み、にやりと笑った。
「情報は少しでも多い方がいい。ついて行ってやるよ、きっと良い夜になるぜ?」


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書いてる話が長引けば長引くほど
「長ぇんだよ!バッキャローが!!」
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