HQでⅥパロ-2話⑤

 

 

 

「さて、と。お待たせしました」

 本題に入りましょうか、とモニワは柔らかく切り出した。場の空気が俄かに張りつめる。

モニワは先ほどまでのせわしなさなど微塵も感じさせない鷹揚な手つきで、作業着の懐から書簡を取り出した。

「こちらが、アオバ城砦衛兵部隊さんからウチ宛てにくださったお手紙ですね」

 蜜蝋を押された封筒から一枚の紙を取り出し、卓上を滑らせてオイカワらに差しだす。そこに書かれている内容は間違いなくこちらが出したものと一致しており、オイカワは頷いた。

「はい、間違いないです」

「くどいようですが確認させてください」

 モニワは卓上の書簡を手で示しながら、オイカワたちの顔を凝視して尋ねる。

「そちらのご要望は、真実の鏡製造の依頼――そして依頼主はアオバ城砦都市そのものではなくアオバ城砦衛兵部隊であり、依頼先はダテ工業都市ではなくダテ工業都市衛兵部隊である、と。ここまで、確かに相違ありませんね?」

 ゆっくりと、一語一句を噛み締めるように発音する。彼の人の良さそうな丸い目はどこまでもまっすぐで、笑みを消したオイカワの瞳孔を覗き込んでも揺るがなかった。

 ――ふぅん。頼りなさそうだけど、ちゃんと隊長の顔もできるんだ。

 これは、予想していたよりずっと有意義な交渉ができそうだ。オイカワは胸中で独り言ちて、莞爾と笑みを浮かべる。

「ええ、その通りです」

「ならば三つ、お伺いしたいことがあります。よろしいですか」

 オイカワたちは頷いた。モニワは、慎重に問う。

「一つ目。何故都市ではなく、衛兵部隊の皆さんが主体の依頼となっているのでしょうか。真実の鏡がどういうものか、皆さんだってご存じでしょう? アレは神代の昔、大神が始祖にその製法を教えたもうたという真視の鏡に由来するものだという伝承がまことしやかに伝わっている、超一級の魔道具です。その製造法は国家機密、個人での所有は固く禁じられ、都市が所有するにしても都市名義での申請が必要だったはず。製造するならば、正式な製造許可証を持って、都市名義で申し込むのが普通でしょう。それを何故、このような形で依頼したのでしょうか?」

 モニワは「正式な」の語句を強調して、アオバ城砦衛兵部隊メンバーの顔を見回した。彼らが先を促すような視線を返したのを認めると、浅く息を吐いて続ける。

「二つ目。何故ウチに頼むんですか? 工業都市は全国どこでもあるでしょう。ウチであるにしても、どうして衛兵部隊に? いくら俺たちが魔法工学の都市を守る衛兵部隊だからといっても、物を作ることが本業じゃないことくらい分かってますよね? 職人を紹介して欲しいというのならば、考えますけれど」

「三つ目の質問は、何でしょう?」

 マツカワは答えず、ただ先を訊ねる。モニワの丸い目に燻るような光がちらついたのを、オイカワは見逃さなかった。

「皆さんは、造った真実の鏡を魔王と対峙するために使うのだということでしたね? ですが、残念ながら俺は魔王がどんな存在か知りません。どうしてそれと真実の鏡を用いて皆さんが対峙しなくちゃいけないのかが、分からないんです。だから事の次第を、一から教えてほしい」

「一から、全部?」

「もちろん。だって、そのくらいのコトでしょう?」

 とぼけて問い返したオイカワに、モニワは柔らかい口調は保ちながらも笑みの欠片も見せずに答える。

「本来ならば、これは引退した俺が口を出すべきじゃないことくらい承知してます。ダテ工業都市衛兵部隊は、もうこの後輩たちのものです。俺は隊長じゃないし、出身者であるというだけで隊員かどうかさえ微妙なところです。だけど」

 元隊長は大きく息を吸って、吐いた。吐息は深く長く、出し切る瞬間に震える余韻を残して消える。

「だからこそ、黙って見てられなかった。だってこの依頼が本当に、この文面通り嘘偽りないのだとしたら」

 声が揺らいだ。卓上の書簡に置かれたモニワの拳が、白い羊皮紙に皺を作る。

「アンタらはウチの部隊に、国家造反の罪を負わせようとしている……そういうことになるじゃないですか」

 オイカワとモニワの視線が、正面からかち合う。純朴そうな顔立ちの中、小さな瞳孔は今度こそ間違いなく怒りを露わにしている。オイカワは己の唇の端が、知らず吊り上がっているのを自覚した。

 そう、その通り。彼が指摘する通りなのだ。

 オイカワたちが一年前挑んで敗れ、そしてこれからまた立ち向かおうとしている敵は、夢の世界という幻想郷を創りあげられるほど、幻術に長けた存在なのである。全てのまやかしを暴くという真実の鏡がないと、前回のごとくまた魂を夢の世界に飛ばされてしまう。だからかのアイテムを手に入れなければならず、またそのために、どうしても連合国家の法を掠めざるを得ないのだった。

「さっすが元主将クン。コトの重大さが、よく分かってるみたいだね」

「ダテコーにアンタみたいな人がいるなんて知らなかった。意外だな」

 てっきり売られた喧嘩は拳で買うって言われるかと思ってたけど。マツカワがそう言いながら、モニワの左右を見やる。フタクチもアオネも、眦を吊り上げ敵意を剥き出しにしている。モニワは自嘲するような笑みを浮かべた。

「俺は魔工技師だから、あんまり前線に出なかったんですよ。仲間に庇ってもらって、後方で魔道具を使った支援や防具の整備をしているばっかりの人間だったから、まともな戦力じゃなかった」

 フタクチがムッとして何かを言いかける。だがモニワは彼の口を掌で覆って、卓上の書簡を反対の手で取った。

「これはまだ、衛兵部隊以外の人間には見せていません。ですが上に見せれば、すぐあなた方がウチに共犯を持ちかけてきたことを証明するための証拠になるでしょうね」

 モニワは紙をひらひらとそよがせる。脅されている。地味な見た目の割に、よく分かってるじゃん。膝の上で握ったオイカワの掌が湿ってきた。額も俄かに熱くなり、発汗しているのが分かる。しかし同時に、脊髄と脳をゾクゾクと痺れるような興奮と快感が駆け抜けていくのを感じていた。

 こちらが危険なことを持ちかけていると知りながら、モニワはこの案件を秘匿してオイカワたちを招き入れ、脅しかけてきた。

 これはつまり、あちらもこちらに対して益を見出しているという事実の証明だ。

 予想外の危機の訪れと予定調和の予感に、オイカワの心はきりもみしつつも踊るようだった。

 ――まっつん、うまくやってよ?

「悪かった。騙そうとしたわけじゃないんだ」

 オイカワの心の声に応えるように、マツカワが口を開いた。

「いっぱいいっぱいなのはこっちも同じでね。まどろっこしい手なんて打ってられなかったんだ」

 肩を竦め、参ったと言いたげに首を横に振る。

「アンタの言う通り。俺たちが持ちかけようとしているのはアンタらにとっても俺たちにとっても、相当危険なことだ。だからその紙も、アンタらの関心を引いてここに入るために形にしたけど、本当ならばない方がいい」

「じゃあ」

 モニワは短い言葉で、暗に要旨を口にするよう催促する。マツカワは両膝に肘をつき、組んだ手の甲に顎を乗せて告げた。

「取引をしたい」

 客間の中を視線が交錯する。そのどれもがつついたら火傷しそうな導火線めいた緊張を孕んでいたが、両者共に引き下がる気配はまったくない。

 マツカワはその思案するような姿勢のまま、向かいのソファーに腰掛ける中央のブレインを窺う。

「俺たちはある理由から、真実の鏡が欲しい。その理由はこれから話すから、受けるかどうかはそれを聞いて考えてくれ。代わりにアンタらが鏡を造るのを手伝ってくれれば、俺たちは自分の懐がすっからかんにならない限りで、アンタらが欲しいものをやる」

「たとえば?」

 モニワが冷静に問う。マツカワは首を捻った。

「協定と言いたいところだが、形が残るものは後々まずい。資金も同じ理由で駄目だ。だから消費できるものがいいだろう。そうだな……資源、とか?」

 元隊長の吊り上がっていた太い眉が、マツカワの提案を聞いた途端微かに緩やかな弧を描いた。こちらの読みは当たったらしい。食いつきは良さそうだ。

彼は口元を引き締めたまま、首を縦に振る。

「それなら、検討します。乗るかどうかはあなた方の話を聞いてから、ですよね?」

「そう。じゃあ、聞く?」

「聞きます」

 マツカワは依然として茫洋としているのか鋭いのか分かりづらい眼差しを、虚空に漂わせる。こればかりはオイカワもハナマキも覚えていない話なので、彼に語ってもらうより他にない。

「そもそもはね。ウチの都市にいた、ある魔族がやらかしたことだったんですよ」

 彼は唐突に語り出した。ダテコーの三人は面食らっている様子である。無理ないなとオイカワも思う。自分も既にここへ来る道中で聞かせてもらったが、その時もマツカワの語り出しはこんな風に突拍子もなく、かつ井戸端会議でもするかのような軽い調子だった。

「去年の、春の大会予選よりちょっと前くらいだったかな。アオバ城砦にあった二つの宝、夢見の雫と真実の鏡を用いて、その魔族はある実験をしようとしたんですわ。その実験がどんなモンかって言うとね――」

 夢見の雫は、アオバ城砦にその入り口を封じられている魔窟・夢見の洞窟の奥深くに湧き出でる夢見の泉から汲むことのできる水である。それを摂取したありとあらゆる生きとし生ける者に己の望む夢を見せてくれるという、使いようによっては毒にも薬にもなり得る精霊界の生薬だ。

 一方の真実の鏡は、先程モニワの話にもあったように神話の時代に起源を持つと伝えられる伝説の代物で、この世のあらゆる事象における真の姿を現実に映し出すことができるという、破魔の神具だった。

 この対照的な効能を持つアイテム二つを、その魔族はこともあろうに融合させようとしたのだという。

「まあこんだけ正反対のはたらきを持つ強いアイテムが、くっつくわけないだろ。反発してぶっ壊れるのがいいところで、普通のヤツなら途中で諦めるだろうな。なんだけど、そいつある意味ヤバいヤツでな。研究して研究して、ついに自分の魂を繋ぎにして、見事融合させちゃったんだよね」

「じ、自分の魂を?」

「マジキチじゃないスか」

 瞠目したモニワの声が、裏返った。フタクチも台詞こそ茶化すようだが、声と顔は呆気に取られている。アオネでさえ、口を引き結んだまま目を丸くした。

 オイカワはホントありえないよねえと相槌を打ちながら、それとなく尋ねる。

「でも、理論上は可能なんじゃない? 魔族の魂って精霊に近いし、形も変化しやすいんデショ? 多くの魔族が持ってる変身能力もこれに由来するんだよね? なら、その要領で合成獣に化けるみたいに他のモノとモノに魂を宿して変化することができれば、合体させられるってことだろ?」

「理屈で言うのは簡単だけど、それって物凄く大変なことだよ」

 顎に手を当てて考え込むモニワは、あまりにも動揺しているのか敬語を付けるのを忘れてしまっている。顔色も、心なしか白いようだ。

「過去にも魔族の魂を使った新生物や新兵器の開発をやった例はあるんだ。でもどれも失敗したか、取り返しのつかない事態になって……だから魔族の魂を使った配合実験は、禁じられるようになった」

「取り返しのつかない事態って、どんな?」

 ずっと黙っていたハナマキが、久しぶりに声を上げる。彼の三白眼は相変わらず沈着なままで、その視線に平静を思い出したのか、モニワはもとの調子を取り戻して答えた。

「俗に言う、『悪魔憑き』みたいなモノが生まれてしまったんです」

「悪魔憑き……強い憎悪を持つ魔物や上位の魔族を殺した時に、相手の怨霊に取り憑かれちゃうっていうやつだよね」

 オイカワは書物で得た知識や耳にした噂を思い出す。悪魔憑きになった者は強大な力を手に入れる代わりに、ヒトの心や自我を失ってしまうという話だ。時折力の強い魔族を殺しても自我を保っていられる者もいて、そういった人種は悪魔憑きとは見なされず英雄として崇められ、人々から多種多様な栄誉ある呼称で讃えられる。ドラゴンスレイヤーだとか、英雄王だとか、あとは勇者とか。

「ただの悪魔憑きならまだマシなんですけど。完全に怨念の塊みたいな危険な精霊になっちゃったり、その実験が行われた場所が呪われちゃったり、伝染病みたいに複数の生物に乗り移ることもあったりして、そうなると手がつけられないんだそうです」

「じゃあその夢見の雫と真実の鏡を合体させちゃったっていう魔族も、相当ヤバいことになったワケなんですか?」

 フタクチが訊ねると、モニワは顔を歪めて首を振った。

「相当どころじゃないんじゃないか? だって魂と物質の融合に加えて、自分の魂を使ってるんだぞ? 正気の沙汰じゃない」

 それからマツカワを見やって、恐る恐る問いかける。

「その魔族は、どうなったんです?」

「俺にもよく分からない」

 マツカワはかぶりを振る。

「そのあたりのことは、どうにもよく思い出せないんだ。けど、実験が終わった直後からだったと思う。急に、街の人間が眠ったまま目覚めなくなった」

 ちょうどその頃、眠り病が流行り始めたのだ。アオバ城砦を起点として、各地からみるみるうちに生気が失せていった。

「調査していくうちに、俺たちは夢の世界っていう生物の夢が集まった世界がこの世に創られたことを知った。それでやっと、アイツが何をしたのかを悟ったんだよ」

 マツカワの口調に、苦々しいものが混じる。

「アイツは自分の魂を土台にして、夢見の雫を真実の鏡に流し込み、夢を真実にしようとしたんだ。真実を具現化するはずの真実の鏡は夢見の雫が見せる夢を具現化するようになった。これでアイツがへっぽこ魔族だったら、術は本人にかかるだけだったんだろうが、ヤツはなまじ力が強かった。その影響は全国に広まって――人々の魂を吸い寄せる魔族の魂からなる夢の世界と、それを統べる魂の持ち主こと魔王が生まれた」

「俺たちはその魔王になった魔族をよく知っていた。こうなった以上、アイツを知っている俺たちがヤツを倒すしかないと思った。だから四人でアイツを倒す計画を立てて、戦いを挑んだ」

 そして、負けた。

 そこから先は、繰り返しオイカワたちが聞いてきた内容だった。魔王に敗北した自分たちは、肉体と魂を引き離され、魂を夢の世界に飛ばされてしまったこと。マツカワは既に肉体を取り戻すことができたが、オイカワたち三人はいまだ肉体の行方を掴めないこと。自分たちは今、夢の世界で作られた仮初の記憶のまま、元の身体に戻るべく魔王攻略を目指して旅をしていること。

マツカワの語るうちに、いつしかダテコーの三対の瞳は敵対心を放り投げてしまっていた。それぞれ色合いは多少異なるが、どれも驚愕と疑心と困惑とが顔を見せては引っ込んでぐるぐると巡っている。

「ちょっと雰囲気違うなと思ったら、そういうワケだったんスか。アオネも生体反応が薄いって言ってたし」

「え、そんな。オイカワ君、記憶なかったの?」

 フタクチとアオネは改めてこちらを観察している。モニワはおっかなびっくり、向かい合うオイカワを覗き込む。オイカワは苦笑した。

「そうみたい。今までみんなが夢の世界って呼ぶ場所にいて、そっちが本当の現実だと思ってたから、記憶があるのかないのかもよく分からないんだよね」

 ダテコーのみんなの名前は、夢の世界と被ってたから分かったけど。正直に言えば、モニワは納得したように頷いた。

「そんなわけで、俺たちは魔王と対抗するために真実の鏡が必要なんだよ。ウチの街にあったのは、夢の世界に化けちゃったからな。新しいのが必要なわけだ」

マツカワがそう締めくくって、視線が彼に集中した。こちらを見つめるモニワを見据え、彼は問う。

「どうする? 俺たちに協力してくれれば、資源集めにも協力するし鏡造ってくれたことも黙ってるし、ついでに上手くいけば世界がもとに戻るぞ」

「もとに戻っても、また争いの絶えない世界だろうけどね」

 重そうなマツカワの瞳が、僅かに開かれた。モニワはへらりと笑う。

「この世界は、魔王が夢の世界を創ってヒトの魂を征服しちゃう前から物騒だったからな。むしろ、魔王が台頭してから静かすぎるくらいだよ。街の外も、中も」

 太い眉を下げて屈託なく破顔してから、ほのかな笑みをちらつかせたまま顔を俯かせた。素朴な顔立ちに薄く影が落ち、もともと決して大きくはない体躯がさらに小さく映る。

「俺は、あんまり戦場が好きじゃない。魔法工学は好きだけど、戦争のために使われる魔法工学はキライだ。でも、それよりずっと、魔道具の動く音や人の声のしない街の方が嫌だな」

「モニワさん、アンタ何言って」

「聞いてくれフタクチ、アオネ」

 その気になれば掻き消せるような、穏やかな声だった。だがフタクチは口を噤んだ。アオネも硬直してしまったように、丸く小さな先輩の背を凝視している。

「お前らも知ってるだろ。ウチの街ももう六割近い住人が眠り病にかかっていて、街が停止してるんだ。魔道具を動かすためのエネルギーが足りない、造るための資源が足りない、作り手も働き手も目覚めなければ、防衛軍だってもう結構な数のメンバーが眠っちゃってる。今はまだ、魔物達もなりを潜めているからいい。でもこのままいけば、この街は遠からず終わりを迎える。そうなる前にどうにかしたい。そのための方法が転がり込んできたなら、取る行動は一つだ」

 頭を上げる。影を取り払い、凛として背筋を伸ばす元隊長の横顔に、後輩たちは息を飲む。

「取引に応じます」

モニワは毅然として告げた。オイカワが不敵な笑みでもって応える。

「いいね。じゃあ、『魔法使いの杯』を交わそうか」

 その言葉を合図に、ハナマキがポーチに利き手を差し込む。中から出てきたのは親指の先程度しかない小さなグラスと、薬指程度の丈しかない小瓶だった。

 ハナマキは小瓶のコルクを抜き、その細い口を唇へつけないままに傾ける。中からどろりとした紅褐色の液体が一筋溶けだし、薄い口唇の中へと零れた。

 すぐに小瓶の傾きを戻して、ハナマキはコルクを閉める。仄かに色付いた口の端を赤く濡れた舌でちろりと拭い、大丈夫そうだねと笑った。

「これ、知ってる?」

 グラスをオイカワとモニワの前にそれぞれ差しだしながら、彼は尋ねる。モニワはこくりと首を縦に振る。

 魔法使いの杯とは、古くから伝わる約束の儀式だ。ある特別な約束をしたい二人が薔薇の花弁と葡萄酒に触媒を混ぜて煮詰めた『魔法使いの酒』を飲みながら精霊言語で誓いを述べ、腹の底を共有するのである。

「約束を守れば、酒は祝福を授けてくれる。けど約束が守られなければ、体の中がこの酒と同じようなグズグズのドロドロになって、死ぬんだろ」

フタクチが大きく目を見開く。モニワは笑って杯を掲げた。

「いいよ。このくらいの方が破られる心配もしなくていいし、心置きなく仕事できるから」

「おっ、カッコイイね。俺には負けるけど」

 同級の隊長二人が軽口を叩きあっている間に、ハナマキが羊皮紙へと先程取り決めた約束事を書き留めた。精霊言語で書かれたそれをオイカワとモニワは確認して、内容に間違いないことを認める。

「≪誓約の精霊よ。今ここに生まれた新たなる誓いを聞きたまえ≫」

 ハナマキが詠唱を開始した。羊皮紙に刻まれた文字が、パラパラとアイボリーに輝きながら浮かび上がり、紙を離れてコルクの外された小瓶の中へ飛び込んでいく。全ての文字が吸い込まれきると、暗い赤褐色だった小瓶は明るいロゼに煌めいていた。

 ハナマキはそれを、オイカワとモニワが手にした二つのグラスに注ぐ。グラスに薄紅が満ち、同期の隊長たちは硝子同士を触れ合わせてから一気に煽った。

「≪誓いを立てし者よ、名を名乗れ≫」

「≪青き木の一葉、オイカワトオル。同胞イワイズミハジメ、マツカワイッセイ、ハナマキタカヒロを代表して、我らが杯を干す。誓い果たされぬ時は、この血肉赤き薔薇酒とならん≫」

 オイカワがまず名乗る。流暢な発音にハナマキは頷き、次にモニワに向けて語り掛ける。

「≪誓いを立てし者よ、名を名乗れ≫」

「≪硬き壁の一石、モニワカナメ。同胞カマサキヤスシ、ササヤタケヒトを代表して、我らが杯を干す。誓い果たされぬ時は、この血肉赤き薔薇酒とならん≫」

「――――ッ!」

 声を上げそうになったのを、フタクチは懸命に堪えた。精霊言語での誓いを邪魔すれば、術者も誓う者も精霊からの裁きを受けかねない。そうは分かっていても、彼の色味の失せた綺麗な唇は、音もなくどうしての四文字を形どった。

「≪精霊は聞き遂げた≫」

 ハナマキがそっと紡ぎ、締める。

「何で」

 アオネがモニワを見下ろして、愕然と呟いた。直後、フタクチが低い位置にある胸ぐらを掴んで揺さぶり始める。

「モニワさん話が違いますッ! 俺たちも一緒にやるって言ったじゃないですかッ!」

「落ちつけって! 別にお前らに手伝ってもらわないわけじゃないよ」

「何でですか! 俺たちが未熟だからですか、世話がかかるからですか!? 俺たちは全員で鉄壁なんじゃないんですか!?」

「何だよ、手がかかるなんて今更だろ」

 モニワはおかしそうに笑っている。取り乱した後輩の手を襟から外し、なだめるように軽くその手を叩いた。

「そうじゃなくて、お前らが『全員で鉄壁だ』ってずっと言ってくれるからだよ。不作揃いだって言われる俺たちを、引退しても慕ってくれて、認めてくれる。普段絶対言わないけど、カマチもササやんもすごく嬉しがってたんだ」

 だからこれは、俺たちからのちょっとしたお返し。

 そう言って、モニワは顔を歪めた二人の後輩の頭をくしゃりと撫でた。

「お前らは外敵から街を守ってくれ。俺たちも、街を守るために頑張る。頼んだぞ」

 モニワはソファーから立ち上がり、あとはカマチたちが起きた後にと告げて部屋を出ていった。客室にはオイカワたちアオバ城砦の三人と、鉄壁の中核たちが残される。

 フタクチの握り締めた拳が、ソファーを抉った。綺麗な顔立ちは激情に堪えるかのように歪なまま、押し殺した声を絞り出す。

「馬鹿じゃないですか……俺たちが、誰のために戦ってると、思ってッ……!」

 拳が、もう一度柔らかいソファーを叩く。その隣のアオネは俯き、微動だにしない。

「そんなに心配しなくても、俺たちは――」

「別に心配なんかしてません。自分に腹が立ってるだけです」

 オイカワが声をかけると、ぴしゃりと言い返された。フタクチは顔を上げる。唇が泣き笑いのようにひしゃげた。

「いつだってそうだ。いくら頑丈な防具でも壊れる時は壊れるし、危険に晒されない戦場なんてあるわけがない。そんなの、子供だって分かることです。それでもあの人は、自分の万全に整備した防具を身に着けて出ていった後輩が両腕を失って帰って来たのを見て『ごめんな』って泣くような、どうしようもないヒトなんです。そんなどうしようもない泣き虫のクセに、先輩ぶって見せるんですよ」

 馬鹿です、ホント馬鹿ですよ。そう繰り返し罵る彼の目元は、乱雑な言葉では隠し切れないほどの敬愛と憤りと口惜しさで潤んでいる。

     その瞳が、キッとこちらを睨んだ。

「あの人たちに何かあってみろ。魔界の果てでも追いかけて行って、たとえこの身体が人間でいられなくなったとしても、その心臓ぶっ潰してやる」

 肝に銘じておくよ。そう返しながら、オイカワは故郷の後輩たちのことを思い出していた。

 

 

 

(続)