現パロ「久方の光のどけき春の日に」

 こうも暖かいと、起きていながらにして布団に包まれているのではないかと錯覚してしまう。布団に包まれていると、瞼は自然と重くなるものだ。ほかほかとした陽気の誘惑につられて午睡へと旅立ちそうになったスランは、洗われた子犬よろしく首を振って根城から飛び出した。

 どうして他の仲間達は、あんな微睡めと言わんばかりの空気の中にいて眠くならないのだろう。いや、他の仲間とひとくくりに言うと語弊がある。掻き混ぜコンビことテングとサタルは、堂々と仮眠を取る癖がある。問題はそれ以外だ。キラナは午後になるとよく欠伸しているものの、居眠りをしているのは見たことがない。課長のフーガはいつだって眠そうな顔をしているが、尻と椅子が合体するほどずっとデスクワークをしていても不思議と全く寝ない。アリアは欠伸の一回も漏らさず、ルネは黄金色の双眸を定期的にキャンドルに注いでさえいれば、機械仕掛けのようにキリキリと働く。

 そして今根城に残っているのは、女性陣のみだった。

 スランはエレベーターホールの方へと赴く。飾り気のない細長い箱のような空間に、上下する小さな箱が乗せた中身を吐き出していくための扉が、まるでコピーして機械的に貼り付けたようにいくつも等間隔で並んでいる。

 いつもなら右に左にせわしなく点滅しているはずの数字が、今日は大概留まっている。スランが前を通り過ぎると、やっと一つだけ緩慢に動き始めた。左へとのんびり流れていく光の数字を尻目に、彼はエレベーターホールの奥にある休憩室へと足を伸ばした。

 休憩室は、いつも箱詰めの公僕達のためにやや開放的な印象を抱かせる造りになっており、特に入ってすぐ目の前に広がる大きな窓に映る景色が、それを手助けしていた。スランは窓の前まで歩いていき、眼下を眺める。神秘庁舎のちょうど向かいは、大きな堀を隔てて巨大な庭園になっており、草花が色付く季節にはコンクリートジャングルに疲れた市民や、色彩の移ろいを楽しもうと言う観光客で賑わうのだった。

 首都一と言われる庭園と、雲一つない青い空。今日はなんといい天気なのだろう。硝子越しの眺望に一息吐いて、だがまだ肩に強張りが残っていることに気付いたスランは苦笑した。それでもここに来たばかりの頃は、皆が称えるこの絵を見ても息苦しさしか覚えなかった。この世界に、少しは慣れたということだろうか。

 不意に、スランは周囲に大海の幻を見た。彼は黒々とした海のただ中で小舟に乗り、船底に空いた小さな穴から徐々に滲む黒い水を眺めている。

 勿論、それは錯覚である。スランは黒い海ではなく、澄み渡った空を眺めている。それでも彼は叫びたくなった。だがその声は、出て来そうで出て来ない。慣れることは、そんな恐ろしさを感じさせた。

 彼はつり橋を渡っていく豆粒のような人をしばらくぼんやりと見下ろしていたが、やがて自分が何をしに来たか思い出して身体の向きを変えた。壁沿いに自販機が並んでいる。ぶらぶらとその列に近づいて、何を買おうかと考える。

 突如首筋にひやりとしたものが張り付いて、スランは跳ね上がった。

「うわあっ!?」

 これぞ悲鳴の典型といえるような声を上げてしまう。二人分の愉快そうな笑い声が上がった。

「びっくりした? びっくりしたね!」

「スランは期待を裏切らないなあ」

 赤と紫の縞模様をしたピエロとスーツの似合う目が覚めるような美男子という、閑散とした休憩室では目立ちすぎる二人組が背後に立っていた。同じ根城の住人である、掻き混ぜコンビことテングとサタルである。

 サタルは上機嫌な笑顔で、手にした「ファイトいっぱつ」の瓶をスランに差し出した。先程の首筋についたものの正体はこれだったらしい。スランは膨れ面で二人を睨み付けた。

「アンタら、本庁に報告じゃなかったんスか?」

「もうとっくに終わったよ」

「課長は?」

「ほら、今日は月の半ばでしょ?」

「ああ」

 スランは頷いた。差しだされた栄養剤を受け取る。手にしてもまだぬるくならないあたりが、今の季節らしい。

 彼は外へ目を移す。緑はいつの間にか、明るく目に痛いほど濃く茂っている。そう言えば、今日最終報告を終わらせたばかりの事件に手を付け始めた頃は、まだ葉すら出ていなかったのだったか。スランは春の到来と共に、長かった事件の終わりを実感した。

「なーんか、やるせないっスよねえ」

 何を思うでもなく、そう漏らした。

「こうやって誰も、俺達のことを覚えてなくなるんですよね」

 たくさんの人を傷つけ、時に殺めた。数えきれない魔物を屠った。憤怒、憎悪、恐怖、ありありと感情を浮かべる数多の顔、そこから注がれる温度のない視線。

 自分は今でも鮮明に思い出せる。なのに、もう事件に関わった者達の誰もが覚えていないなんて、未だに信じられない。

「殊勝だね。自分が何をやったか覚えていて欲しいの?」

 サタルが微笑んで、穏やかな口調で尋ねる。スランは肩を竦めて、首を横に振る。

「そんなわけないじゃないスか。覚えていて欲しくなんて、全くありませんよ。でも、忘れられていいもんだとも思えなくて」

「覚えているよ」

 スランは目を瞬かせた。サタルはもう一度、静かに繰り返す。

「覚えているさ。確かに、ルネは関わった人物の記憶は例外なく消す。だけど消えても記憶があったことに変わりはないし、きっとまだそこにある」

「何なんですか、それ」

「焚火が燃えた後は、炭が残るだろう? そういうことだよ」

 スランは僅かに瞠目した。カツンと靴音を響かせて、サタルは窓に向かう形で据えられた長椅子に腰を下ろす。空から注がれる光を浴びて、彼の白皙は仄かに青く輝くようだった。

「でも、もう二度と思い出すことはないだろうね」

「あれあれ? 君は前に言ってたじゃないか」

 テングが彼の隣に歩み寄り、上半身を折って顔を覗き込んだ。

「魂、精神、記憶、そういった形を留めない曖昧なものに干渉するのが君の力。記憶の復活、できるんでしょ?」

「え、そうなんスか?」

 思わず驚きの声を上げる。サタルは苦笑をして答える。

「できるんじゃないかな」

「マジすか。それ、上は知ってるんですか?」

「知らないよ。だってそう手軽にできるものじゃないし、まず俺にやる気がないからね」

 サタルは手に下げていた紙袋を脇に置いて、缶のプルタブを跳ね上げる。珈琲の香りが鼻に届いた。

「世の中には知らない方が良いこと、知らなくてもいいことがある。それを消してやるのも俺達の仕事さ」

「けど、きっといつか」

「葬った亡者が蘇ってくる時もあるかもしれない」

 丸くなりっぱなしの緑眼をサタルは見上げる。彼の口元には、依然として穏やかな微笑が浮かんでいる。常の好印象に過ぎる笑みとは違った表情に、スランは俄かに不安を覚える。

「紹介所のエンジニアも言ってただろう? 一度発生したモノはそう簡単には消えないよ。特に流れ出してしまったなら、余計にね」

「なら、何で消したんですか?」

 スランは声を強めて問いかけた。

「もし記憶を消されたこととか、消した記憶を思い出されたら大変ですよ? 社会が危ねえことになるかもしれないし、俺達だってタダじゃ済みません! 消された人達だって、いい気持ちなんてしませんよ! こんなことして、意味なんてあるんですか!?」

「大いにあるさ。フーガも言ってただろう? ある程度秩序が保てる」

 サタルは動じず、あっさりと答える。

「他にも記憶を消す理由なんていくらだって挙げられるさ。同じように、それに伴うリスクもメリットもデメリットも挙げられるよ」

「班長、誤魔化さないでください!」

「じゃあ、逆に聞こうか」

 サタルはコーヒーを煽って、一つ息を吐く。それから窓に映る碧空に似た双眸を、息巻く後輩へと向けた。

「意味があれば、記憶を消してもいいのかな?」

 スランは詰まってしまった。葛藤する彼の内心を見透かしたように、サタルは語りだす。

「スラン、君は他人の記憶を弄ることが普遍的に許されない行為であることを分かっている。だから、それを正当化するための理論が欲しい。違う?」

「そ、そんなわけじゃ」

「モラルなんて国や地域が変わるどころか、人間個人によって変わってしまうものなんだよ。なのに、その曖昧なモラルを優先しなくちゃいけないのか? 雲を掴むような話だな」

 サタルの声は聞き取りやすく爽やかで、変わらず波の立たない海のように温和だった。けれど語る内容は、言の葉で身を削り取るかと惑うほどに鋭い。

「あちらを立てればこちらが立たないんだよ。自分のやったことに無数の意味や言い訳を見出して、それに頼ってどうする? 俺達公安十課が優先すべきは、社会と国民の安全だ。それとモラルが重なるところもあれば、重ならないところもある」

 公安十課はいかなる時だって社会と国民の安全を優先する。だから、心のない国の始末屋なんて呼ばれる。そのあだ名を、チームを率いるフーガやサタルが気にする様子はいつだって見られなかった。

「記憶を消したこと、人を殺したこと、欺いたこと。そういったことの責任は勿論負うよ。記憶を消しても消しきれなかった分については、対処しよう。俺がこれまでにしたことが許せないと言うなら、許さなくていい。やがて俺達のような存在が不要な世界になって、世界が俺を裁くというなら従うさ」

 サタルの双眸は天へと真直ぐに向けられている。晴天の清らかな光のもとによく整えられた黒髪は柔らかく煌めき、秀麗な顔立ちは静謐な笑みを湛えている。あまりに整い過ぎていて、一枚の絵画のようだ。

 笑みを乗せた唇が、そっと開く。

「その覚悟があって、俺はこの仕事をしている。スラン、お前はどう思う?」

 スランは考えた。頭の中には言いたいこと、整理したいことがたくさんあった。彼は精一杯脳を整理して、言いたいことを短くまとめた。

「俺も……やらなくちゃいけないことなんだってのは分かってます。分かってるけど、自分がしてることが償えることだとは思えないし、嫌です」

「その憤りを忘れちゃいけないよ。それが社会や個人、君の大切な人を守る原動力になることも、往々にしてあるんだ」

「逆に、危険に晒すこともね」

 テングが付け足す。サタルは苦笑して立ち上がった。それから脇に置いていた紙袋を手に取り、スランへ明るく笑いかけた。

「あまり辛くて仕事に身が入らないなら、辞めたっていい。ただスカウトされてきた君を国がそう簡単に逃がすとは思えないから、その時は俺がいい場所を教えてあげよう。この国にはまず、戻ってこれないことになるだろうけど」

「どこにするの? グリンラッド?」

 テングが訊ねる。サタルは小首を傾げて彼を見下した。

「悪くないけど、ロンガデセオなんてどうだろう」

「ロンガデセオねえ。君がいた頃より治安悪くなってるんじゃない?」

「でも逆に義理堅い連中も増えてる気がするよ」

 サタルとテングは和気藹々と喋りながら、休憩室を出ていこうとする。だがその前に二人して一度振り返る。佇むスランに向けて、サタルが手招きをした。

「一緒に戻ろうよ。シュークリーム買って来たんだ。皆でお茶でも入れて食べよう」

「ほら、おいでよ」

 テングに促されて、スランは足を踏み出した。再び背を向けて歩き出す二人の背中に続く。休憩室を出る直前で、彼は再度振り向いた。電気の灯されていない室内と対比すると、窓の外は活き活きと輝いていた。あまりの眩さに、目を細める。

「サタル」

 珍しく真摯なテングの声が背中側から聞こえた。何、と返すサタルの声は軽い。

 班長の彼を呼び捨てで呼ぶのは、付き合いが長くツーカーの仲と言っても過言ではないテングくらいである。

「俺だけ、なんて言わないで。君とフーガに押し付けるなんて、僕達は望まない」

「大丈夫だよ、テンちゃん」

「僕は許さないよ。君の意志は何だって尊重するけど、僕を置いて行くことだけは、どんな理由があったって――」

 サタルの声が何事か答える。だが、遠くて聞き取れない。

 スランは自らの手の中を見下ろす。瓶の中に満ちた液体が波打ち、鈍く輝く。空いた方の手でキャップを捻り、茶色の小瓶を唇に当てて一息に飲みほす。空になった容器をゴミ箱に放り、スランは踵を返して駆け出した。

 午後の陽射しが、瞼の裏で瞬いていた。

 

 

 

人間の脳味噌から、何かが完全に消え去るということはないようです。ただ、思い出せないだけらしいです。

まあ科学的な話をしても似合わないと思ったので、なるべくサタルらしい言い方にさせてみました。彼は例え話が多い気がします。

タイトルはお分かりの方もいらっしゃるかと思います。紀友則です。


これで、とりあえず光の教団編は本当に一段落かなあと思います。お付き合いくださりありがとうございました。十課も、また書けたらいいなあ。