現代パロディ「破滅の恒星」

 青い光が消え去った後は、暗褐色の空が余計重苦しく感じられた。不健康な血液の如き空の全面には黒紅の雲が薄くかかり、流れるわけでもなく斑に淀んでいる。それに対して目の粗い岩でできた大地の方は、長いこと雨風に晒されて色褪せてしまったかのような蒼褪めて丈の短い草が見渡す限りを覆っていた。

 なんて生気がなく、不吉そうな場所なんだろう。おまけにこの空気の生ぬるく、肌にまとわりつくような湿り気ときたら! 確かにこんな世界に生まれてからずっと住んでいたら、自分達の温かな日差しが降り注ぎ色が鮮やかに匂い立つような世界は、きっと天国に見えることだろう。侵略したくなるわけである。

 だがそんな死んだような世界にも生物はいる。言うまでもなく、魔物と呼ばれるものである。さすがに魔界と称されるだけあって出てくる面子はいかめしいものばかりだったが、全てアレフが一掃した。サタルは漆黒の雷が錯綜する後ろで、呑気に口笛を吹いていればいいだけだった。

「いやあご苦労さま! あと少しだね」

 アレフがもう九度目の敵襲を退けきったのを確認してから、魔界の地図を眺めつつサタルはそう声をかけた。 

 ロトが用意した旅の扉を出てから一つ小さな丘を越えた先に盆地があり、そこに地獄の帝王がいるダンジョンがあるらしい。もうじき丘を越えるところである。頂につけばきっと、目指す場所がはっきりするだろう。

「ああ」

 先を行く男は短く答えた。つっけんどんな短い二音の響きからは、「これ以上お前と話したくない」という意思がありありと伝わってきた。だがサタルは敢えて更に声を明るくして話しかけた。

「遂に神話にもその名を残す、あの地獄の帝王とご対面かあ! 楽しみだね!」

「…………」

「どのくらい大きいんだろうな。文献や過去の記録を辿るとブオーンにも匹敵するらしいよ?」

「…………」

「あれ、ビビってる? 急に喋らなくなっちゃったけどもしかしてビビってるんですか?」

「…………」

「返事がない。ただの屍のようだ」

「うるせえッ!!!」

 アレフは遂に吠えた。振り返った米神に青筋が浮かんでいる。だがサタルはそれを見て莞爾とした。

「なーんだ、死んでなかったのか。残念」

「てめえはいっつもイチイチイチイチうるせえんだよ! ここに着く前から下らねえこと話しかけ続けてくるし戦闘中に野次は飛ばして来るし――」

「野次? 応援してただけなのになあ」

「てめえの口はマグロか! 喋ってねえと死ぬのか!」

「そうだったらずっと話し続けてくれるの?」

「そんなことするくらいなら天使に『今すぐ一人迎えに来てくれ』って頼むわ!」

「君が天国に行くの? よしなよ、ケルベロスの方が似合ってるよ」

 般若の如き形相になったアレフの全身から、バチバチと黒が放電した。彼も能力者の例に漏れず、感情の高まりと能力が繋がる性質らしい。サタルは躱そうとも逃げようとも考えずに冷静に分析した。彼の能力は意志のコントロールが効く方で、彼自身は仕事にプライドを持ち社長の命令には忠実に従う。ならば命令を達成するために必要な自分を害することは、いくらこれまで挑発してきたことが溜まっていてもよほどのことがなければまずありえない。ついでに言うと、この男がこれくらいのことでは他人を殺さないのは分かりきっている。

「てめーみてえな薄汚い狗に言われる筋合いはねえ!」

 案の定口汚く言い返してきただけだった。サタルは唇の弧が深まった。なんて善良な民間人だろう。

「君達国民のために毎日一生懸命働いてるっていうのに、その言いぐさは酷いな。誰のおかげでこの国の安全が守られてると思ってんの?」

「頼んでもいないのに恩着せがましく言うんじゃねえ」

 アレフは眉間に皺を濃く刻み、日に焼けて筋張った人差し指でサタルを指さして吐き捨てる。

「何度でも言ってやる。お前ら――特にお前みたいなのに俺達の税金が使われてるのかと思うと、虫唾が走る」

「気が合うね。俺も君達みたいな飛び込まなくてもいい危険にわざわざ自分から飛び込みにいくような国民を守らなくちゃいけないのかと思うと、棺桶を贈ってあげたくなるよ」

 男達は睨み合う。アレフの敵対心を露わにした険しい双眸に、己の睨んでいるとは言えないようなにこやかさを満面に湛えた顔が映る。色素の濃い焦げ茶の瞳に浮かぶのが真摯な怒りなら、色素の薄い青の瞳に浮かぶのは嗜虐的な愉悦である。どうしてこうも正反対なたった二人で、この戦いに挑むことになったのだろう。サタルは運命の女神の導きを可笑しく思った。

「社長の術式がねえと、教団も止められねえくせに」

 アレフが押し殺したような声で言う。自分達の行動を暗に揶揄されたことに腹を立てているのだろう。サタルはうっすらと目を細めた。

「フーガはそう言ったみたいだね。でも何も、こういう形にしなくても良かったんだよ?」

「どういう意味だ」

「魔界への扉を、キレイに閉ざしちゃわなくても良かったってことさ」

 凛々しい眉を寄せたまま、アレフは不可解なことを言う男を見つめる。

彼は知らないだろう。彼ら紹介所が声をかけてくる前に十課が魔界の扉と時空間に関する情報をどれだけ集めて回ったのか、またその結果どんな手段が集まったのか、そしてその手段がどうしてフーガに選ばれなかったのかなんて、聞いているはずがない。

 でも聞かせてみたら、それはそれで楽しそうだ。

「聞きたい?」

 サタルは試しに囁いてみる。この男が好奇心に負けて、神話の禁断の小箱を開けるのを見てみたい。知らなくてもいい、知らない方が良い定理を知り彼の世界が音を立てて崩れるのを眺めてみたい。それは純粋な好奇心だった。

「興味ないな」

 しかし、アレフはあっさりと断った。まあそうだろう、とサタルは大して落胆もせず思う。それでも残念そうに首を横に振って見せた。

「なんだ、つまらないな」

「お前の言うことに耳を傾ける暇はない」

 彼は苛々しているようだった。やらなければならない大仕事を目の前にしているのに、くだらない話を持ち込まれてたまったものじゃないとでも言いたいところなのだろう。だが

それでも、仕事に忠実な副社長の双眸は逸らされることなくこちらに向いていた。

「俺はお前が嫌いだ。仕事でもなければ、顔だって見たくねえ」

 視線を外すことのないまま、アレフははっきりとそう告げた。サタルの口の端が意図せず持ち上がる。

「嬉しいこと言ってくれるね。俺も君が嫌いだよ」

 さらりと口走ると、アレフはやや瞳を見開いた。これまであくまでも友好的な笑顔で戯れているような素振りを見せていたから、意外だったのだろうか。だがこの際、彼が驚いていようがいなかろうがどちらだっていい。サタルは食べ物の好みを話して聞かせるように、愛想よく語る。

「俺はね、強者が嫌いなんだよ。特に君達みたいな才能の塊って感じの、高い能力があるばっかりに何でも自分達の思い通りを叶えてしまう、叶えられると思っているような連中とは関わり合いになりたくないな。別に好きにしてくれていいけど、俺に影響を及ぼさないところでやってほしい。そう、たとえば壊滅させたい相手ができた時とか」

 アレフの眼光の鋭さが増した。その怒気が今にも肌を刺して来そうだ、とサタルは思った。

「てめえはよっぽど、この仕事から俺達を外したいらしいな」

「まあまあ。こんなこと言ったって、どうせ今更帰らないだろう? ちょっと決戦に挑む前に、腹を割って仲良くお喋りしていこうよ」

「真面目に戦う気、あるのか?」

「あるから腹を割ろうって言ってるんだろ」

 淀んだ魔界の空気に、辛く乾いた剣呑な気配が滲みだす。二人の男達はこれから肩を並べて戦わなければならないというのに、歩み寄る姿勢が全くなかった。彼らはまさに水と油だった。自分達が溶け合わないことは分かっていて、そして混じり合う必要がないことも理解していた。

「勿論君達の働きには感謝してるよ。民間人にしては手際がいい。実力もある。これだけスムーズに光の教団の壊滅にこぎつけられてエスタークのもとへ出向けるのも、君達の協力あってこそだろう。感謝はしている。けれど、もう君達とは仕事をしたくないな」

「こっちだって、もうするかよ」

 アレフの唇は言葉を吐くと、堅く一文字に引き結ばれる。その台詞忘れるなよ、とサタルは小さな笑みを保ったまままた口を開く。

「大切な人がいるのはいい。守りたい仲間がいるのも結構なことさ。でも自分達の世界に比重を置きすぎていて、それ以外を軽く扱うところは感心しないな」

「説教のつもりか?」

「まさか。難癖をつけてるんだよ」

 黒いスニーカーの爪先が地面をコツコツと叩く。アレフは不快さを露わに舌打ちした。まだ黒い稲妻は現れていないが、いつ現れてもおかしくない。 

「その手の文句なら散々聞いた。今更てめえに言われるまでもねえ」

「俺が君達みたいな天才を嫌う理由を教えてあげようか?」

「結構だ」

「天才は時として世界を壊すからだよ。人が踏み込んではいけない領域に踏み込んで、人の世界にあってはならないものを持ち帰って来てしまう。史上最高の天才と名高い大魔女バーバレラを知ってるだろう? 彼女の生み出した究極五芒星呪文は、先進魔法都市カルベローナを瞬きするほどの間に消し去ってしまった。あれはこの世にあってはいけないものだったんだよ」 

「何が言いたい」

「俺は君達を危険視している」

 向かい合う男達の前髪が、衣服の裾が軽く脇へ流れた。風が吹いたのだ。全てが停滞しているような魔界では、非常に珍しいことだった。

「はっきり言って危険分子だ。君達の可愛いヒーローズだってそうさ。普段正義のヒーローだ救世の英雄だと人々から崇められている正義感の強い人々が、ちょっと踏み外すっていうのが一番危ないんだよ。そこに強い感情が加わると、目も当てられないね」

「俺達が踏み外していると?」

「外していないと思ってるの?」

「お前らよりはな」

「俺達は人の道にいなくても、感情で刃を振りかざすことはしない」

 アレフは鼻を鳴らして唇の片側を吊り上げた。彼にしては珍しい、明らかなせせら笑いだった。

「お前らが感情で武力を振るわない? 自分の巻き起こした炎で生物が燃えるのを見て快感を覚えるような奴が、他人の魂を傷つけて平然と笑っている奴がいるような公安十課が?」

「それは行動に伴う感情だよ。行動の判断に感情が入ることのないよう、俺達は日々細心の注意を払っている」

「信じられねえな」

 日に焼けた精悍な顔立ちが歪んだ。サタルは短く笑い声をあげて、話題をもとへと戻す。

「世界を股にかけて世界中の人達の願いを叶えて、確かに君達はスーパーヒーローみたいだね。超人的だ。正直嫉妬するよ。だけど、スーパーヒーローだって無垢な子供を殺せばただの殺人者だ」

「俺達はそんな大層なものじゃない。そんなこともしない」

 アレフの口調は静かだが、一つ一つの言葉を叩きつけるようだった。それに対してサタルは、どうかなと挑発するように笑いを含んだ声を返した。

「君達が望みを叶えるために利用した公安十課ってところはね、国に飼われているただの猟奇的な狗じゃない。国という曖昧な概念を守るためなら他人を騙しても記憶を弄っても身体や魂を拷問しても、勿論、それこそ人殺しをしても合法的に認められる機関なんだ。所属は公安警察だけど、実際は軍隊に近い。そんな俺達に力の行使を認めさせたその着眼点は大したものだよ。けれど、やったことは八つ当たりと一緒だな」

 わざと焚き付けるような言葉を選べば、アレフの双眸に暗い炎が燃え上がった。焦げ茶が空のせいで赤錆色に見えるから余計そう感じるのだろう、とサタルはどうでもいいことを思い微笑んだ。

 もっと怒れ。たとえ戦闘の記憶を消されようと、公安十課の名とその非人道的な行為のおぞましさ、そして普遍的害悪への嫌悪感は忘れるな。この件で覚えた痛みを伴う感情を忘れるな。 

 そして、もう二度と近づくな。

「てめえが人の形をしてなければ、その口利かせられなくしてやるのに」

 煮えたぎる溶岩を押しとどめるような低い声で、アレフは囁く。サタルは軽やかにどこ吹く風といった調子で笑ってやる。

「怖いなあ。俺と仕事を交換してもらいたいくらいだよ」

「黙れ」

「黙れないよ。だってもう目的地が見えそうだからね」

 彼らの視界における空の面積が広くなっていた。もう、丘の頂につく。地獄の帝王が眠ると言う摩訶不思議な洞窟まで、あと少しだ。

  「あーやっと着いたー」

 ずっと道を切り開いてくれていたアレフより先に小走りで頂へ辿り着いたサタルは、大きく伸びをして眼下の景色を眺める。登って来た丘は山とは言かないまでもなかなかの高さがあり、見晴らしがいい。いや、相変わらず陰鬱な景色ではあるのだが、これまで切り立った岩肌に囲まれて長いこと進んで来ていたので視界が開けているだけマシだった。

 まず目に付くのは灰をまぶしたような模糊とした黒色を纏う山である。すそを長く伸ばし悠然と佇む姿には動物どこか木の一本すら自生している様子は窺えず、所々から立ちのぼる湯気に似た煙から、あれが生物の住むことができない死の火山であることは明確だった。その死の火山の足下には大きく窪んだ盆地が広がっている。錆びた銛のような樹木が立ち並び、さながら冬季の寒々しい北海のようだった。

 サタルは寂々たる不気味な森をよく眺めようとして、目を疑った。波打たない樹木の海の中央に、茶褐色の兜のようなものが浮かんでいた。いや、浮かんでいるのではない。あれは頭だ。それもかなり巨大で、頭を乗せた硬そうな筋肉に覆われた昆虫めいた身体と比べると、その足下に生える木々が爪楊枝のように見える。両脇には片手剣が二本、突き刺さっている。

「あれは何だ」

 ややあって追いついたアレフが問う。サタルの脳内で資料で見た姿と目前の未確認物体の姿が寸分たがわず重なり、思わず口元の笑みが引き攣った。

「地獄の帝王だよ」

「はあ?」

 アレフはその巨大な生物を凝視する。それは森の中央に位置する毒沼に胡坐を掻いていた。いにしえのジパングを闊歩していた鎧武者の被っていた兜に似た頭はやや俯いて、一対の瞳は閉じられている。僅かに開いた口から、時折地鳴りのような音が響いてくる。

 彼は、鼾をかいて寝ているのだった。

「奴は地底の奥深くで眠っているのではなかったのか?」

「俺もそう聞いてたんだけどなあ。ばっちり表に出ちゃってるよね」

「おい」

 睨まれても、サタルはへらへらと笑うだけである。

「まあ、眠ってくれているならいいさ。そのまま永久の眠りに落ちてもらおう。この距離で行ける?」

「届くが息の根止めるには確実じゃねえ。近づいた方がいいだろう」

「はーい。じゃあ、ドラゴラムよろしく」

「……まさかとは思うが、乗っていく気じゃねえだろうな」

「え、乗せてくれないの? こんな軽い人間を? ケチだねー」

「ぜってー乗せねえ」

 舌打ちをしたアレフの周囲に、黒き稲妻の力が噴きだす。サタルはすぐに距離を取った。たちまちのうちに男の姿があった場所に、漆黒の巨竜が現れる。竜の険しい眼差しが自分に向くのを認めて、サタルは声を張った。

「君は上手く寄っていって、至近距離で一撃浴びせなよ。俺はここから狙うから」

「届くのか?」

「俺を誰だと思ってるの?」

 アレフはそれ以上何も言うことなく、力強く翼を羽ばたかせて飛び立って行った。黒竜の姿がぐんぐんと小さくなっていくのを見送りながら、サタルは両手の親指と人差し指を合わせ窓を作り、その中にエスタークの姿を収める。地獄の帝王はよく眠っている。 

 彼は時代すらも危ういほどの太古の昔、進化の秘法を己に施し魔族の王として世界を征服しようとしたらしい。しかし当時まだ生きとし生ける者達と共に暮らしていた天の神々によって、長い戦いの末魔界の底に封印されたのだという。

 彼の眠りは封印の副作用なのか、はたまたかつての大戦の傷を癒すためのものなのか。明らかではないが、意識がないならそれに越したことはない。今畳みかけてしまうに限る。

 サタルはアレフがエスタークに接近していく距離を測り、精神をエスタークへと集中し始める。

 何も魂の力を物理で叩きこんでやらなくたっていい。直接、内側から壊れてしまうよう仕組んでやればいいのだ。人外相手にもこれまで幾度となく繰り返してきたことで、簡単な仕事のはずだ。

 なのに、どうして胸騒ぎがするのだろう。

 サタルの意識が現世から離れていく。彼は物質の檻から解き放たれ、現世に重なる霊界を彷徨っていた。朧げに靄が漂う、距離も方角も分からない虚ろな空間に無数の光が見える。あれは魔界に生きる生物達だ。魔物も動物も、こうして見れば変わりなく魂の形をしている。一つ他と離れて眩く輝いている一等星のようなあれは、アレフのものだろう。エスタークの魂は、彼とさして離れていない場所にあった。 

 それは、光とも闇ともつかぬ塊だった。光と呼ぶにはあまりに重く押しつぶすような圧迫感があり、闇と呼ぶにはこちらを焼き尽くすような強い波動を放ちすぎている。

 サタルはこのような魂の持ち主が何と呼ばれるかを知っていた。伝説は本当だったらしい。帝王は生物の域を超えてしまったのだ。

 サタルはその、長く見つめていたら己の魂が霧散してしまいそうな、目視に耐えない生命に手を伸ばす。薄靄がかかった世界で、エスタークの生命がある箇所だけは黒の絵の具やタールで塗り潰したような異様な威圧感を放っている。指の先が、塗り潰された闇の端に触れる。薄皮の中に、不思議な弾力に満ちた液体とも個体ともつかない物質が詰まっているのに似た感触がした。

 眠っているとは言え、帝王の夢に入り込むことは自殺行為に近い。狙い目はアレフが攻撃を仕掛けた時だ。衝撃で僅かでも意識が揺らげば、夢の世界は崩れて少なくとも瞬殺されることはなくなる。

 サタルは息を潜めて目標を凝視する。呼吸など許されなそうな暗黒は、生命のさざめきを感じさせない。言葉など存在しなかったかと思わせるほどに黙している。

 眠りはよほど深いらしい――そう思った直後だった。

 薄皮の向うから、ぎょろりと一対の目玉がこちらを見返してきた。黙していた暗黒が、途端に極彩色に波打ち始める。

 ――違う、眠っていたんじゃない。 

「まずい、引けッ!」

 咄嗟にアレフの魂へと呼びかけて正解だった。雷を落とそうとしていたアレフは瞬時に後退した。

 エスタークの両目が開く。その開眼に合わせて、空に見えぬ波動が走った。木々はざわめき、鳥達は喚き声を上げながら一斉に飛び立つ。しかし飛び立った傍から強い波動に苦しみながら、きりきり舞いで落ちていく。地表のあちらこちらから魔物の雄叫びが聞こえる。火山の頂きから、ひときわ濃い狼煙が立ちのぼった。

 魔界が目覚めたのだ。サタルは黒いドラゴンの姿を目で追った。彼は衝撃派をどうにか和らげたようだった。

「アレフ、聞こえるか」

 彼の魂に精神の糸を繋ぎ、直接語りかける。するとすぐに憎まれ口が聞こえて来た。

「気味悪いことすんじゃねえ」

「我慢してくれよ。俺だって好きでこんな真似をしてるんじゃないんだから」

「お前、アイツに何かしたのか?」

 事態が予想外の方向へ向かおうとしていることを察しているらしい。アレフの問いかけに、サタルは帝王の動きを警戒しながら答える。

「何も。どうも帝王閣下は、最初から目覚めておいでだったようだよ」

「エスタークはずっと寝てるって話じゃなかったか?」

「そんなこれまでの経緯なんて俺が知るわけがないだろう? 魔界に行って無事帰って来た人間は、もう百年単位の長い間いなかったんだ」

 帝王が緩慢な動きで立ち上がる。右足が、左足が地を踏むたびに、世界が悲鳴とも歓喜ともつかない叫声を上げた。頑丈な籠手に似た両の手が、片手剣を掴む。サタルは警戒に双眸を眇めた。

「でも、これだけは分かるよ。エスタークはただ眠っていたんじゃない。夢の世界でこの魔界と同調して更なる進化を遂げ、力を蓄えていたんだ」

「言ってる意味が分からねえ」

「分からなくていい。とにかく、寝ぼけてるところを叩く計画は駄目そうだってことだけ分かっといてよ」

 巨大な武者の口が大きく開き、咆哮が轟いた。先程のものとは比べ物にならない衝撃が、世界を揺らした。木々は倒れ、魔物達の断末魔が木霊する。霊界に繋げたサタルの断片が、無数の魂が肉体との繋がりを強引に断ち切られる気配を感じた。俄かに活気づいた魔界は、活気づけた主によって早くも地獄絵図へと変わろうとしているようだった。

「何でだ、奴は魔族の王じゃないのか?」

 ブラックホールで難を逃れたアレフの声が聞こえた。その時、サタルの頭に鈍器で殴られたような衝撃が走った。

『誰だ……我が眠りを妨げようとする者は……』

 肺に詰めた空気を搾り取られるような重苦しい声。地獄の帝王の声に間違いなかった。彼の声からは彼を封印した神々への憤りはおろか、彼が統べたはずの魔物への愛着、征服を企てた世界への執着など微塵も感じられない。突如彼の意識へと紛れ込んだ不快への、純然とした怒りだけが伝わって来た。

 そしてその不快の正体を彼が悟っていることも、身に迫って感じられた。 

「アレフ、嬉しいお知らせだよ」

「言わんでも分かる」

 苦々しい声が答える。帝王の大きく裂けた眦は、宙を舞う見慣れぬ黒い竜を執拗に追っていた。

「奴は、俺を敵として認識してるようだな」

「俺のこともね」

 サタルは帝王がアレフを目で追いながらも、自身にも意識を集中させていることを感じ取っていた。身に余る光栄だ、とサタルは皮肉に考えた。

「エスタークは記憶喪失らしい」

「なに?」

「伝説でエスタークは進化の秘法を用いただろう? そしてそれは、聞くところによると失敗したらしい。ここからは俺の推測だけど、彼は永遠を手に入れた代わりに刹那を失ってしまったんじゃないだろうか」

「分かりづらい話を聞いてる暇はねえ」

「帝王に理屈は通用しないってことだよ。彼は自分を害する者は誰であろうと殲滅するつもりだ」

「それくらい、最初から覚悟している」

 アレフの声は緊迫こそ孕んでいるが、恐れは感じられない。サタルは微笑んだ。

 前線に出て戦うなんてしばらくぶりだ。戦慄と興奮が背中合わせに、理性の統制のもと呼吸を整え出すのを彼は感じていた。

「君がメインで攻めるといい。俺がサポートしよう」

「そんな遠くにいて、できるのか?」 

「できなかったら言わないさ」

 好きにしろ、とぶっきらぼうな返事がくる。帝王はまだアレフを視線で追い続けている。不気味な沈黙。その沈黙の内に秘められた攻撃意欲が強まっているのをサタルは知りながら、もう一つ協力者に問いかけた。

「最初の契約の時に、君達の生命の安全の保証はしないって約束したの、覚えてる?」

「ああ」

「俺は君が万が一死にそうになっても、自分にメリットがなければ助けないよ。だから君も、俺が死にそうになったら見捨てるといい。と言うか、ほっといてくれ。君に助けられるなんてぞっとする」

「言われるまでもねえ」

 ならば良し。サタルは晴れやかな笑みを浮かべた。胸の内に怖気づくような恐れはなく、やはり自らが戦いの宿命に身を置く者であることを、彼は呆れと共に感じ取っていた。

 

 

 

 

 

 エスタークは今まで戦ってきたどんな魔物より、無論人間より強かった。 

 アレフの攻撃と両立しながら維持できる最大のドラゴンの姿より、帝王の身体は少し大きかった。その大きさからは信じられない二振りの剣を俊敏に操って、彼は攻めてきた。アレフは爪とブラックの力を上手く用いて捌いていたが、目覚めたばかりであるはずの帝王は寝ぼけるということを知らないようで、火力はどんどん強まっていくばかりだった。

 エスタークの奈落の如き口から、純白に輝く吹雪が迸る。足下の森が樹氷へと変貌し、ブラックホールで凌いだはずのアレフでさえ、熱い自らの鱗が冷やされるのを体感した。

 息を吐く暇もなく、二本の剣が真上から落ちてくる。疾風を纏い落ちてくる白刃を燐と輝く青い光が遮り、その隙にアレフは長い尾のリーチを利用してエスタークの足下をすくった。巨体がよろける。

「ちょっとー。しっかりしろよヒーローブラック」

 アレフが渾身の力を籠めてエスタークの胸を爪で抉りながら叩き飛ばした時、サタルの呑気な声が聞こえた。アレフは思わず彼のいるだろう小高い丘の方角を睨みつける。

「うるせえ! 文句つけるならてめえがやれ」

「やだよ。俺そんなに大きくなれないし、肉体労働は好きじゃない」

 正直なところ、アレフはエスタークより先にこの口ばかりよく回る協力者をぶちのめしたくて仕方なかった。だが彼の補助はちょうどアレフが欲しいと思った時に、まさに心を読んだような気持ち悪いほど的確なタイミングでなされるので、彼がいないと困るのも事実だった。

 それでも、腹が立つものは立つのである。

「まあそれより、困ったね。頑丈すぎてキリがないよ」

 サタルの声につられて、アレフはエスタークの方を窺った。エスタークは剣を支えに立ち上がり、再び大きく口を開いていた。

 開いた暗黒に火の粉が舞った。アレフは漆黒の雷を駆る。灼熱の炎を雷が弾き返す。だが、相殺がなされた直後に星々を衝突させたような爆発がアレフの目の前を襲った。

「うん、やっぱり覚醒が予想より速いね」

 協力者が最大位爆発呪文に巻き込まれたというのに、国のガーディアンは納得したような感想を漏らしている。アレフは思わず竜の咽喉で怒鳴った。 

「おい、補助は任せろって言ったのはどこのどいつだ!」

「作戦変更しよう」

「聞いてんのか!」

「エスターク討伐はやめる」

「はあ!?」

 アレフは思わず大声を上げた。

「ここまでやってきて、正気か?」

「俺達の第一の目的は光の教団の壊滅だろ? で、それにプラスして教祖の首の確保とエスタークが地上に影響を及ぼす事態を防ぐということがあったわけだ」

 サタルは飄々と語りながら、アレフへの剣の猛襲を己の光で防ぐ。アレフは光の防御に一瞬だけ惑った敵の腕を取り、一本背負いに投げ飛ばした。大地が悲鳴を上げ、アレフはジゴスパークを浴びせようと片手を挙げかけてぎょっとする。エスタークは投げられた体勢から受身を取って跳ねるように起き上がり、反動をつけてアレフの頭めがけて剣を繰り出してきた。咄嗟に首を捻るが耳に切れ込みが入り、エスタークの巨体を正面から受け止める形になる。

「だけど、君も分かってるだろう。コイツは目覚めてからどんどん強くなっている。まるでかつての戦闘の記憶が蘇ってきているかのようにね」

 記憶喪失だと言ってなかったか? 倒されないよう踏ん張りながら、自ずと頭にそんな疑問が浮かぶ。それを聞いてサタルが答える。

「俺は魔族の身体には詳しくないけど、魔物も含め生物は一般的に脳より身体の方が物覚えがいいんだよ。知識は忘れても、感覚は忘れない」

 気楽そうな声が、脳内に淡々と響く。

「このままだと、俺達はコイツに殺される」

 それは、アレフもひしひしと感じていたことだった。

 太陽のないこの世界では時の経過は感じられないが、既にアレフの中では何時間と過ぎ去ったような感覚があった。既に竜の姿を保つには相当な集中力が要るようになっており、一方でエスタークの動きにはまだまだ疲労の影は見られなかった。

 疲れで淀み始めた脳内に、腹立たしいほど涼やかな声が響く。

「君はその調子で、アイツを殺す勢いで暴れててくれ。その隙に俺が何とかする」

「何とかって――」

 アレフは呻いた。エスタークが急に頭を伏せ、頭部の両脇に聳える立派な角で頭突きをしてきたのだ。

「こっ……の野郎!」

 毒づきながら両手で己の肩に刺さった角を掴む。エスタークが空いた両手で、我武者羅に斬りつけてきた。アレフの輝く黒曜石のような鱗が、血飛沫とともにはらはらと舞い落ちる。頭を抑えられているのに、何という馬力だろう。だが傷ついていく肉体と圧倒的な強さを誇る敵、そしてじわじわと迫りくる絶望的な状況を前にして、アレフの闘志が激しく燃え上がった。

 鉤爪がエスタークの角にきつく食い込み、耳障りな不協和音を奏でる。己を傷つける巨大な二本の刃を、なけなしのブラックホールで闇の侵食のもとに吸い込もうとする。はたして刃は、片方の半ばまでを残して綺麗に消え去る。無茶苦茶に暴れる手足を無視して、アレフは鋭利な爪の生えた足で蹴りを入れる。エスタークの下半身が浮いた。その瞬間を逃さずアレフは角を掴んだまま上体を捻り、獲物の体を険しい岩と有害なガスで荒れる火山へと押し付けた。

 反動は感じなかった。獲物がもがくことによって己が体に走る激痛も、自覚する余裕なんてなかった。ただ彼の頭の中にはこの巨悪を打ち倒し、彼を待ついくつもの笑顔のもとへと帰ることしかなかった。

 彼は殴った。何度爪で切り刻んでも強力な雷で焼いても、水が泉より湧き出して来るが如く、あるいは屍に湧く蛆の如く、生命の枯れることを知らない怪物を、殴って殴って殴りつけた。敵の頭が火山にめり込んでも、己の拳や顔が浴びた金剛石の氷嵐で凍っても、相手の息の根を止めようとするのをやめなかった。技を使う暇もなく、彼は黒き怒りを纏った拳を振るい続けた。

 四肢に自分の意志とは違う震えを感じて、ふとアレフは我に返った。彼の視界いっぱいに、彼の手によって火山の山腹に押し付けられたエスタークの顔が白目を剥いているが映っていた。いつの間にコイツは意識を失ったのだろう、とアレフは他人事のように思ってから、魔界の大地が激しく上下に揺れていることに気付いた。

 アレフはエスタークから手を離した。山にめり込んだ帝王はずり落ちることなく、その場に留まった。彼は気を失っているようだったが、眠っているようにも見えた。

「おい、どうなったんだ?」

 エスタークの意識にも通じているはずのサタルに、アレフは尋ねる。だがいつもならすぐ返って来るはずの腹立たしい声がない。嫌な予感がした。

 火山に眠るエスタークの顔が、やけに赤い。それでアレフは顔を上げた。山の頂から、融解した金属のような白熱が四方へ向けて飛び散っていた。

 ぼろきれのような翼を懸命に動かして、アレフは飛び上がった。彼がいた場所を、エスタークが伏す場所を怒涛の勢いで溶岩が覆っていった。目が覚めるような強風に多すぎる流血で逆に火照った身体が冷やされて、アレフはやっと火山の猛る声を耳にした。

 エスタークはどうなったのだろうか。作戦は成功したのだろうか。アレフは事実を聞けそうな者のもとへと羽ばたく。負傷した身体でも、すぐに見覚えのある丘へ辿りつくことができた。

 頂の開けた場所に、アレフは舞い降りる。地面に足が着く前に、耐え切れずドラゴラムを解く。人間の姿に戻ったアレフは、常以上に険しく眉根に皺を刻んで辺りを見回した。目的のものはすぐに見つかった。エスタークとアレフの戦いを見るのにちょうど良さそうな木の一本に、ダークスーツの男が寄りかかって眠っている。その整った寝顔は至って安らかで、アレフは足音を荒げて歩み寄る。

 ふざけるなと怒鳴る代わりに、一発文字通り雷でも落としてやろうか。そう思った時、立っていられないほどに地面が揺れた。満身創痍のアレフは思わず膝をつく。反射的に顔を上げて、彼は眠っているはずの男がこれほどの揺れでも目を覚まさず、命のない物質のように脇へ崩れ落ちるのを見た。

「おいッ」

 膝をついたまま更に這い寄ってみれば、サタルは息をしていなかった。遠目に見て安らかに見えた顔には、安らぎも苦悶も浮かんでいない。意志を持つ者どころか、顔を動かす生命を持たない者の表情だった。

「し、死んだのか?」

 つい、アレフは尋ねてしまう。だが腹の立つお調子者らしい返事はなく、遠くで火山が猛る声だけが聞こえる。真偽を確かめるために、スーツから現れている手首へ手を伸ばす。

 ひやりとした肌に触れた――そう認識した刹那、アレフの意識は暗闇の中へ引きずり込まれていった。

 

 

 

 目を開くと、懐かしい光景が広がっていた。幼い頃に駆けまわった児童養護施設の庭に、彼は佇んでいた。

 見覚えのある子供達がきゃいきゃいと騒ぎながら駆けていく。その中には勿論、紫の髪をした大柄な子供も混ざっていた。茶髪の不機嫌そうな子供の姿は、まだ見えない。

 SICURAのシュミレーションに、いつの間にか巻き込まれたのだろうか。首を傾げるアレフの耳に、子供たちのバラバラな会話が届く。

「今日は何して遊ぶ?」

「私パトリシアごっこがいいー」

「俺ヒーロー! ヒーローがいいもんね!」

「パトリシアなんてダサくてやってられるかよ!」

「そこまで言わなくたっていいじゃんっ」

 泣きそうな少女の声。アレフは知らず知らず苦笑していた。そう言えば、子供たちは何をして遊ぶかで揉めることもあったっけ。そんな時、決まって年長のリウレムかアレフが仲裁に入ったものだった。

 案の定、リウレムが興奮気味の子供達を宥める言葉が聞こえ始める。それからやや遅れて、嫌というほど聞き覚えのある声が聞こえた。

「こら。お前ら、何やってるんだ」

 子供達が揃ってこちらを振り向いた。彼らはふっくらとした顔を嬉しそうに綻ばせて、声を揃えて呼んだ。

「アレフィルド!」

 全身の血が、音を立てて凍りつくのが聞こえた気がした。

 立ち尽くすアレフの眼下から、どこから生じたのか幼い少年が背を向けて駆けていく。無造作な焦げ茶の髪にどことなく生意気な雰囲気、着ている服も含めて間違いなく自分のものだ。少年は子供達のもとへ辿り着き、二言三言何か言う。彼らは長閑に笑った。少年は近くにいた少女の頭を撫で、歩み寄って来たリウレムと何やら言葉を交わす。だが、彼らの声は急に水中に潜ってしまったかのように聞こえづらくなっていた。

 少年がこちらを振り返る。

 彼には顔がなかった。

「どうした、アレフィルド?」

 少年の顔には何もついていない。鉛筆で乱雑に塗り潰されたようになっている。それでも、アレフの耳には彼の声が聞こえた。彼の声であるはずなのに、どこかのっぺりとした響きがあった。

 自分の声は、こんな声だっただろうか。

「何をそんなに驚いているんだ。俺はアレフィルドで、お前もアレフィルドだろう?」

「違う!」

 反射的に叫び返していた。少年よりずっと低い大人の声が虚ろに木霊する。声変わりする前の少年の声に比べてずっと安定しているはずなのに、己の耳に戻って来た木霊はやけに頼りなかった。

「じゃあ、お前は誰なんだ?」

 顔を塗り潰された少年はそう問いかける。彼は子供の頃の自分にしては、やけに落ち着きすぎている。いや、それとも自分はそんな子供だっただろうか。

「俺は、アレフだ」

「アレフ? アレフィルドと何が違うんだ」

 動揺が明らかな己に対して、少年は背筋が薄ら寒くなるほどに沈着だった。だから、すぐに「違う」と言い返せなかった。

 彼が狼狽する間に、少年は子供達と肩を抱き合って背を向ける。どこかへ行ってしまう。その小さな背中達に手を伸ばして駆け出そうとした途端、景色ががらりと変わる。今度はもっと記憶に新しい場所だった。

 人材紹介所のオフィスルームである。

「お前がアレフでアレフィルドなら、俺だってアレフィルドでアレフだろう」

 自分の席に、幼い頃と変わらない無造作な焦げ茶色の髪をしたラフな仕事着の男が腰かけている。己の姿をした彼が、椅子を回してこちらを向く。その顔はボールペンでぐちゃぐちゃにかきまぜられていた。

「何の違いがある? アレフがアレフィルドを否定するなら、アレフィルドがアレフを否定してもいいだろう。そもそもどちらが大元だか、お前は忘れたのか」

 男は立ち上がる。黒く潰れた顔を見て、彼は己の顔を思い出そうとした。しかし何となく思い出せる顔立ちは、細かい顔のパーツの位置や形がどうも違うような気がする。彼は己の顔に触れようとした。だが、触れようとした手がないことに気付いた。ぎょっとして見下ろすと、自分の足どころか身体のどこもかしこもが無かった。

「お前は、誰だ?」

 塗り潰された男が訊ねる。彼は喉を震わせて答えようとした。けれど、喉がない。

「アレフィルドさんっ」

 明るい女の声がした。男が振り返る。隣の部屋から、ロトが顔を覗かせていた。

「あのね、クライアントから連絡があったんだけど」

「分かった、今行く」

「アレフィルドさん、ロト姉ちゃん」 

 今度は廊下に続くドアから、ロレックスが顔を見せた。彼は呆れたように笑っている。

「まったく、こんな朝から仕事かよ。頼むから朝飯食ってからにしてくれよ。身体壊されたら、できる仕事もできなくなるんだからな」

「ごめんごめん」

 ロトがぺろりと舌を出して、別の仕事部屋に向かおうとしていた男の腕を取る。

「ほら、アレフィルドさん! 続きは食べてから、ね?」

「仕方ないな」

 男はロトに引かれて、ロレックスの消えたドアへと入っていく。その向こうには、リビングで腰掛けるアインツとケネスの姿も見えた。

 待ってくれ。

 お前が「アレフ」なら、俺は――

「馬鹿かお前はッ」

 突如、力強い手が腕を掴んだ。彼が驚愕して振り返ると、明ける間際に燃え上がる夜空のような双眸に己の顔が映り込んだ。

「何で入り込んできた。放っておけと言っただろう!」

 サタルは聞いたことのない激しい口調で詰問する。その目に映る己の顔を見て、彼は己がアレフであること、掴まれた腕の感触で自分が存在することを思いだし、言葉にできぬ安堵を覚えた。

 サタルはアレフが言い返すこともできないのを見て取ると、ゆるゆると溜め息を吐いた。

「まったく、君のお人好し具合はもしかしてフーガより上なんじゃないか? 普通、決戦前に『勝手に死ね』って言ってきた奴の安否なんて心配する? 信じられないよ」

「誰も、てめえの安否なんて心配してねえ」

 やや弱々しくも憎まれ口を叩くと、やっと人心地ついた気がした。アレフは自分がエスタークと戦っていて、息をしていないサタルの脈を確かめようとしていたことを思い出していた。

「これは一体、どういう事態なんだ」 

「もしかしてここに来るのは初めてなのかな?」

 サタルの口元が愉快そうに吊り上がった。優男は大仰に片手を広げ、優雅に一礼して見せる。

「ようこそ、精神世界へ。とは言っても、俺のではないけどね」

「精神世界?」

 アレフは周囲を窺う。いつの間にか、周囲の風景は見慣れたオフィスから荒涼とした砂漠に変わっていた。空は魔界のように不吉な赤ではなく紺色で、病んだような白い月が浮かんでいる。高くまばらに聳え立つ石柱が足下の粒の粗い砂に濃い影を投げかけている、何とも寂しい光景だった。

「魂を持つ者なら、誰しも心の中にこんな風景を持っているものなのさ。でもエスタークの場合、混沌としててこの形に整えるのが大変だったけどね」 

 精神世界について、サタルはまともに説明する気がないらしい。だが、何となくアレフは自分がどこにいるのかを察し始めていた。

「ここは、エスタークの……」

「内部世界だよ。随分寝やすそうになってるだろう?」

 サタルは誇らしげに言うが、アレフにはそうは思い難い。というか、寝るとはどういうことなのだろう。

「ついてきなよ。せっかく帝王の幻惑の霧から守ってあげたんだから、その分働いてもらわないとね」

 サタルは軽い足取りで歩き始めた。アレフはその後に続こうとして、自分の足が持ち上がらないことに気付き驚く。彼の足は、砂袋でも括り付けられたように重くなっていた。

「ああそうか。慣れないから歩けないのか」

 聳える岩の向うへと回り込もうとしていたサタルが、走って戻って来た。彼は普段のように身動きができている。理屈は分からないが、妙に悔しい。

「男の手を引くのは嫌だなー。本当余計な手間かけさせないでくれよ」

「お前のせいだろ!」

 アレフが声を荒げるのと、サタルがルーラと唱えるのが同時だった。転瞬、彼らは寂れた鉱山の前に立っていた。

「ここがどこか知ってる?」

 問われて、アレフは頭を巡らせる。こんな毒沼の所々湧いた鉱山の町なんて、今時聞いたことも見たこともない。ずっと昔の、産業革命の時代のようだ。

「これはきっとアッテムト鉱山だよ。エスタークはここにいたことがあるのかな?」

「それがどうした」

 アレフが無愛想に尋ねると、サタルはつまらないなあと肩を竦めた。気障な仕草が似合うのは認めよう。しかし、この右も左も分からない状態で勿体付けられると苛々する。

「このアッテムト鉱山はエスタークの心の中心、最後の防壁の象徴だよ。これを君のバカみたいに強い力でぶち壊してくれ」

「てめえ、それが他人にものを頼む態度か」

「早くしないと、お互いもとの体に戻れなくなるよ?」

 僅かにアレフの眉が跳ね上がるのを見て、サタルが微笑んだ。

「俺はまだ自分の体に三割くらい魂を残して来てるから戻りやすいけど、君は丸ごと引きずり込まれちゃったみたいだから、今頃君の体は仮死状態だろうね。このまま離れ続けたら、離体に慣れてない君の体はあとどれくらいで本当に死んじゃうんだろうね?」

「本っ当に性格悪ぃな」

「君がお人好しすぎるだけだと思うけど」

 アレフはひくつく米神を抑えて――これだけでも腕が重くて疲れる――片手をかざした。指先から漆黒が滲み出て、鉱山の岩で硬く閉ざされた入口を覆う。濃い闇が鉱山の扉を侵食すると、闇が晴れた先にぎょろぎょろとした一対の目玉が白く浮かび上がった。 

「ヒュプノスよ。その慈悲の御手を、哀れな子の瞼へ――」

 サタルの囁き声が聞こえる。それを聞きながら、アレフは瞼がどうしようもなく重くなるのを感じていた。彼は自分でも気づかぬうちに、暗闇の中へ泥のように落ちていった。

 

 

 

 アレフが目を開けると、そこはロトが開けてくれた魔界へ通じる旅の扉の前だった。重い地鳴りは聞こえず、荒涼とした砂漠が広がっているわけでもなく、彼は自分がもとの世界へ帰って来たことを悟った。

 身を起こすと呻き声が漏れる。身体のあちこちに激痛が走った。身体をさすりながら隣へ視線を移すと、ダークスーツの男が倒れ込んでいる。その背中が微動だにしないのを見て、アレフは呟いた。

「今度こそ、死んだか」

「勝手に他人を殺すなよ」

 サタルが身動ぎをした。いてて、とらしくない声を上げる。彼はうつ伏せから仰向けに体勢を変えると、目の上に腕を当てて大きく息を吐いた。胸がしきりに上下している。外傷こそないが、消耗しているようだった。

「意識がない誰かさんを誰が運んでやったと思ってるわけ? 薄情にもほどがある」

「全ての災いのもとが馬鹿言うんじゃねえ」

 アレフが悪態を吐く。サタルは素知らぬふりで腰の辺りを探って携帯電話を取り出すと、怠そうにダイアルして耳元に当てた。

「もしもし。討伐失敗したけど、エスターク片づけてきたよ。で、お願いなんだけど誰か迎えに来てくれない? 俺達ちょっと……身動き取れそうになくて、さ」

 

 

 

長かった……。「絶望ビリー」書きやすかったです。ありがとうございました。

もっと精神世界を書いてみたかった気もする。難しかったです。

十課シリアスめっちゃ疲れますが彼らを書くのは好きです。