サタルはこの夜、メルキドの空が広いことを初めて知った。これまでこの城砦都市の空を見上げた時、居並ぶ建造物たちはその煉瓦からなる偉丈夫然とした身体を張り、まるでそんなことをするのはよせとでも言うかのように、己の視界を遮っているような印象を受けた。しかしこのメルキドで一番高いと言われる宿の、特等からの眺めはどうだろう。これまで威圧的に感じられた建物たちでさえ、縮こまっているように感じられる。

「どうです、アレフガルドの夜も悪くないでしょう?」

 涼やかな声が背後から響く。サタルが振り向くと、語りかけた主ことガライが己の傍に据えられた椅子へ腰を下ろすところだった。

「うん。とても綺麗だと思うよ」

「メルキドの皆さんも、この部屋の昼間は格別だって言います。でも、夜はダメだって」

「無理ないよなー」

「そうですよねえ」

 メルキドの夜景と対面し座る男達は、互いの台詞に頷き合う。

「皆さんは夜が来るたび、また明けなくなったらと恐ろしくなるそうです」

「普通はそうなんじゃねえの?」

「そうなんでしょうか」

 ガライは首を傾けている。切れ長な瞳に似合う長く形の良い眉は、やや端が下がりがちになっていた。

「昼はいいんです。この部屋に来て、日のもとで黄金に照り映える街並みの美しさや、石畳を闊歩する人々の足音、声、馬の蹄に耳を傾けてくれる人がたくさんいてくれますから。だけど、夜は全くいない。ボクはそれがとても寂しい」

「だから、ガライみたいな人は珍しいんだって」

 サタルは傍に置かれていた数多揃うガライのハープのうちの一つを引き寄せながら、先程己が言った台詞を少し言い換えた。

「ガライは俺たちが光を取り戻すまで、太陽を見たことがなかったんだろ?」

「どうなんですかねえ。覚えてませんね」

「そんな時代に生まれておいて、それでも夜が好きなんて言えるの、なかなか凄いんじゃねえ?」

「そうでしょうか。でもボクくらいの世代の人間は、光自体よく知りませんでしたから。案外、夜闇には慣れてるものですよ」

 ガライが涼しげな声色で言うのを聞きながら、サタルはハープを弄ぶ。彼の出身地にあるものを改造したというそれは、グランドハープのようなペダルがなくとも弾くことができる上に、ちょうど持ち運ぶのに手軽な大きさだった。しかも赤子ほどの大きさしかないにも関わらず、信じられないほど多彩な音色を奏でるのである。

「あなたこそ珍しいでしょう。光の世界の住人でありながら、このような景色を好むなんて」

「元々上の住人だからこそ、暗闇がそこまで怖くないんだよ。それに俺、眩しいのももちろん好きだけど、真っ暗な夜空の仄かに輝く月や星を見てるのも、気持ちが安らいで好きなんだよな」

 サタルがそう返すと、ガライは我が意を得たりと言わんばかりに繰り返し小刻みに頷く。

「やはりあなたには、きちんと音楽を学んでもらいたいですね。あなたの気質は、ボクたちに通じるところがある。ボクたち詩人は、移ろいを愛するんです。音色にしても景色にしても、時にしても」

「ガライがそう言うから、本当は大好きな恋人のところに一刻も早く行きたいのに、こうしてここに来てるんだろ」

「先程約束もなくいきなり来て、『女子会にカノンを取られた』と泣きついてきた構ってサンは誰ですか」

 聞こえないふりをしてサタルはハープを奏でる。しかしガライは気にするそぶりも見せず、笑顔のままで話題を戻した。

「あなたの作詞のセンスは、下手を通り越していっそイタいほどですからね。せめて音楽で頑張ってください」

「そんなに俺の作詞ひどい?」

「ひどいです。文章は普通にスラスラと書けるのに、何で詩を書こうとするとあんなに力むんですか」

「格好良くしたいじゃん」

「『盛れば可愛くなるデショ』みたいな、ピチピチギャルの卵のようなことを言うのはやめてください」

 サタルは鼻歌を歌っている。彼が次の音のため遠い弦へと腕を伸ばした拍子に、その胸元で見慣れぬ光がちらついた。ガライは目を丸くする。

「おや。あなたがロザリオを身に付けるなんて、珍しい」

 指摘すれば、サタルはああと思い出したように頷いて、何気なく言った。

「故郷でね、父の葬儀を済ませてきたんだ」

 ガライは口を噤んだ。

 サタルの父と言えば、アレフガルドでもその上でも名高い勇者・オルテガである。ガライは職業柄、アレフガルドの人々が口にしてきた彼についての噂を一通り耳に入れてきた。またいまわのことも、眼前の男から聞いていた。

「アリアハンの城にも誰にも知らせず、身内だけでひっそりとやってきたよ。幸い、そういうことを執り行える人には困らなかったし」

 勇者はハープから目を逸らさないまま、うろ覚えの曲を奏で続ける。

 ポロン、ポロ、ポロン。

 途切れがちな旋律にしばし耳を傾け、ガライはそっと囁いた。

「よろしければ、オルテガ様の人生についてお聞かせ願えませんか?」

 サタルがハープから目を転じた。こちらを見つめる瞳を見据え、ガライは臆さず言い募る。

「これからあなたの物語を歌い続ける人間として、あなたを導いた人のことを、少しでも知っておきたいのです」

 勇者はやや考え込むそぶりを見せたが、ガライは退かなかった。

 ガライは心の底、魂の髄から歌を愛する吟遊詩人である。吟遊詩人にとって他人の人生は尊重すべき歌であり、それを誰彼構わず歌って聞かせるような真似は決してしない。

 眼前の男だって、自分の流儀は知っているはずだ。だからこそ、己の正体を隠すための手段として、ガライに己の歌を歌わせることを選んだのではないか。

 こちらの譲らない気配を感じ取ったのか、サタルは諦めたように首を横に振った。

「俺も伝え聞いた話だから、うまく話せるか分からないよ?」

「構いません」

 ポロン、ポロ、ポロン。

 竪琴を爪弾きながら、サタルは虚空を眺める。

「じゃあ、俺が生まれる前の話からしようか。ギアガの大穴が空く前、父がまだ旅をしていて、世界がもう少しだけ明るかった頃のこと――」

 ポロン、ポロ、ポロン。

 つたなく旋律を辿る弦の音色と共に、英雄の記憶が零れていく。

 

 

 

 

***

 

 

 

「もしや、あなたはアリアハンのオルテガ殿ではありませんか?」

 聞きなれぬ女の声がした。若い男は驚いて辺りを見回す。

 森の入り口には彼の他に、座り込むホビットが一人、地に伏した山賊が六七人いる。しかし頬を腫らしたホビットは己を見上げたまま一瞬たりとも口を開いていなければ、山賊たちも男が一人残らずのしてしまったために、口を利くことなどできるはずがない。他にいる命あるものと言うと、背後に佇む木々と足下の草原くらいだ。女などいるわけがない。

「ああ、上です。上」

 だが、また先程の声が聞こえる。男はその言葉通り頭上を見上げ、太い眉を跳ね上げた。

 いつの間にか、木の枝に一匹の白猫が乗っている。

「おっと、私としたことが。助けていただいたにも関わらず、お礼もなしにお名前をお尋ねしてしまいましたね。これは失礼いたしました」

 しかもその白猫は、琥珀の瞳を彼にしかと向けたまま三つ口を動かし、はっきりと先程から聞こえている女の声で、そのように喋った。

「この度は、連れを助けてくださりありがとうございました。私はソーニャ。あちらは連れのダモンです」

 猫は続けて口を動かしながら、「連れ」の語を発する時にちらりと視線を男から逸らす。彼がその目が動いた方へ頭を回すと、視線の延長線上にいるホビットが僅かに頭を下げた。どうやらダモンとはこのホビットのことらしい。そしてこのホビットがちょうど猫の言葉に合わせて動いたということは、今聞こえている女の声も幻聴ではないのだ。

「ね、猫……?」

「おや。もしや、喋る猫に会うのは初めてですか?」

 ソーニャというらしい猫は丸い一対の琥珀を一層丸くし、木の上から男を覗き込む。琥珀の中に、男の驚きを隠さない凛々しい顔立ちと、岩山のごとき隆々とした身体が映り込む。

「驚きましたねえ。あなた、魔法の資質はあるでしょう? なのに、猫に話しかけられたことがないのですか」

「無理もないさ」

 ダモンが口を開いた。彼は山賊たちにいたぶられていた時も呻き声一つ上げず、また男がそれを蹴散らす間も、蹴散らした後も一声も発しなかったために、男は今彼の声を初めて聞いた。意外と若く、張りのある声だった。

「人間は今や独自の文明を築きすぎ、大地に耳を傾けることを忘れてしまった。神に近い理性、創造力を持つのは、この世界において自分達しかいないと思っているんじゃからな」

「おお、そういえばそういう噂でしたね。町に住む猫たちが嘆いていました。今の人間には浪漫がないと」

「まあ、それにしても猫の猫かぶりは今に始まった話ではないからな」

 ホビットは会話する己と猫を信じられなそうに眺める男を、好奇に満ちた眼差しで見つめる。

「それにしても、アンタみたいな人間は珍しい。アンタ、わしがホビットに見えておらんのか」

「いえ」

 予想外の質問に男は口ごもったが、正直に答えた。

「ホビットにしか、見えませんが」

「何故わしを助けた。人間はわしらを、好いてはおらんだろう」

 ホビットが問いかけると、男は離れていた太い眉根をキリリと寄せて言った。

「種族など関係ありません。ただ、あの大人数がたったの一人を取り囲んで、理不尽に嬲っているのが納得できなかったのです。あの状況だったなら私は、たとえ嬲られているのが人間だろうとホビットだろうとエルフだろうと、構わず介入したでしょう」

「ふむ。オルテガ殿は噂に違わず、公明正大で情に厚いお人柄のようですね」

 白猫は二度、その小さな三角の顎を上下に振る。頷いているようだ。

 男は再び困惑した。確かに己の名はオルテガ、出身地も先程言い当てられた通りである。しかし、何故この猫はそれを知っているのだろう。

「あの……どうして私の名を?」

「その出で立ち、身をなす土の匂い、そして猫の噂をもってすれば、すぐに分かります」

 ソーニャは答えながらしゃんと首を伸ばし、礼儀作法の徹底した淑女のごとく姿勢を正す。

「猫の噂は風より速く、広く伝わるのです。たとえば私は、アリアハンを発った時は仲間を三人連れていたはずのあなたが、どうして今一人旅をしているのかも知っていますよ。五日前、アッサラームの町で別れてしまったのですよね?」

「そ、その通りです」

 オルテガは息を飲む。しかし同時に別れ際の情景が蘇ってきて、彼は精悍な目もとをしかめた。彼と一緒にアッサラームまで旅してきた仲間たちは、予定では共にアッサラームを発つはずだった朝に、置手紙一つを残して姿をくらましたのだ。

「よりによってイヤァな話、引っ張り出して来るなあ」

 オルテガの顔を見たホビットが、白猫を見上げて言った。

「これだから、魂八つまで生き延びる化け猫は性悪でいけねえ」

「オルテガ殿に不快な思いをさせてしまったことは申し訳なく思いますが、その言い方は感心しませんね。その化け猫に普段、散々世話をかけている若造は誰ですか」

 猫はつんとして言い返す。

「さきほどだって、私が少し獲物を狩りに行っている隙に人間に囲まれてしまったじゃないですか」

「う、うるさいわ! わしらレンジャーは、大人数を相手取るのが苦手なんじゃ!」

「職業ではなく、あなた個人の実力の問題でしょう。あなたは、レンジャーはレンジャーでも初級の初級。まだ、戦士と盗賊の合いの子のようなものではないですか」

 ソーニャの台詞にはオルテガの知らない単語が含まれていたが、ダモンには分かるらしい。彼はぐうの音も出ないと言った顔つきで、白猫を見上げている。

「まったく、これだからホビットは育ち方の要領が悪くていけません。オルテガ殿、よく覚えておいてください。我々猫は生まれて半年もたたないうちに乳離れしますが、コイツらは五年もかけて乳離れするのです。五年ですよ? 信じられますか?」

「それは種の違いってやつじゃろうが! おい、聞いとるのか!」

「オルテガ殿、騙されないでくださいね。ホビットはハイハイ歩きの幼児でもなければ、大抵このような喋り方をするのです。人間の感覚からすると壮年や老人の口調に思えるでしょうが、現にコイツの年などあなたより下も下、成人したてのようなものです。だからそう、畏まって接する必要はありませんよ」

「はあ」

 ぴょんぴょんと跳ねて抗議するホビットに対し、猫はすまし顔を保っている。会話だけならばいがみ合っているように聞こえるが、二人とも心の底から激怒しているわけではないらしく、表情や動作の端々からどこかじゃれ合いのような空気が漂っている。彼らは相当、親密な間柄らしい。オルテガは、少し彼らが羨ましくなった。

「おや? オルテガ殿、怪我をしておいでですね」

「え?」

 自分の身体を見下ろす。ソーニャの言う通り、腿に細く赤い筋が走っていた。

 そういえば、ならず者たちを蹴散らした際に軽く槍が掠った覚えがある。大した傷ではないので、すっかり忘れていた。

「私の方は大したことありません。それより、ダモンさんが」

 山賊に手ひどく暴行されたのだろう。ホビットの顔には大きな青痣が浮いており、狩人らしい毛皮のベストやズボンも擦り切れて泥まみれになってしまっている。衣服の下にも、表向きには分からない傷がたくさんあるに違いない。

 猫はひらりと木の上から飛び降り、彼らを見上げ一言唱えた。

「ベホマラー」

 すると、オルテガの腿の傷とダモンの顔に浮いた青痣とが、みるみるうちに癒え始めた。オルテガは驚いて己の腿、傷があった個所を触る。しかし傷の形通り裂けていたはずのズボンの切れ目からは、乾いた血の痕以外、傷の存在を匂わせるようなものは消え失せていた。

「私は魔法の心得がありましてね。なあに、猫ならそう珍しい話ではありません。ところで、オルテガ殿はこれからダーマ神殿に向かわれるのではありませんか?」

「ええ」

 オルテガは頷く。彼女の言う通り、これから北上してダーマ神殿へと向かう予定だった。

「ふむ。奇しくも私たちもダーマに用がありましてね。よろしければお供させてもらえませんでしょうか」

 オルテガは、また仰天した。こんなに気安く共に旅をしないかと誘われたのは、成人なりたてのほんの一時以来――つまり、四年ぶりである。

 彼が黙っている一方で、ソーニャはさらに誘いの言葉を重ねる。

「私はこの通り魔法でしたら多少のお役には立てますし、ダモンもまだまだ未熟ではありますものの、盗賊としての技量と槌さばきの腕前は確かです。きっと、あなたばかりにお手間をかけさせることにはならないと思いますが」

「いい、んですか?」

「こっちが提案してるんだから、悪いわけないだろう」

 ダモンが頷く。オルテガは一人と一匹の顔を見比べる。どちらも、本当に好意で言ってくれているらしい。彼は、屈託なく破顔した。

「願ってもないです。よろしくお願いします!」

 


 

 

 

 

 

 

「調子はいかがです?」

 オルテガが破壊された建物の残骸を神殿の外れ、森の手前に放り投げていると、声をかけられた。オルテガは目を眇める。既に時刻は宵の口。視野は煤をまき散らしたように不明瞭だったが、焦りも警戒もしない。何故なら、声の主に十分な心当たりがあったからだ。

 夜闇のヴェールを纏い始めた森、暗がりに溶けていく木々の隙間から、一対の琥珀が現れる。猫の瞳だった。

「何ともないですよ、ソーニャ殿。あなたの回復呪のおかげです。ありがとうございました」

 ソーニャはその白くしなやかな肢体を伸ばすと、高く積まれた瓦礫をひょいひょいとのぼる。彼女がてっぺんに座れば、ちょうどオルテガと目線の高さがそろった。

「いえ。もっとも、あなた個人は私の回復呪など不要だったようですがね」

「とんでもない。あなたの回復なしでは、重傷者が三倍四倍になって、戦線が混乱したでしょう。助けられっぱなしでした」

 オルテガは眼前の知者へ、畏敬と感謝の念をもって頭を垂れる。

 彼らがダーマ神殿に到着してから一ヶ月と少しの月日が経過した今日、この地に魔物の大群が押し寄せてきた。これまでにも魔物が乗り込んできたことは度々あったものの、結界を突破されるほどの数が押し寄せてきたのは、数十年ぶりのことらしい。

 警備隊だけでなく、修業中の戦士や内勤の僧侶らまで戦線に参加せざるを得なかった。その人数、およそ八百。対して押し寄せた魔物の数は、推定で千二百を軽く超していたと聞いている。

 ちょっとした戦になった。久しく戦などなかった地で、かつ転職後の人間が大多数を占めるという不利な条件下で勝利を収めることができたのは、ひとえにこの白猫のおかげだったろうとオルテガは思っている。

 ソーニャは、高位の賢者なのだ。

「あなたのおかげで、多くの人間たちが命を長らえました。本当に、何とお礼を申し上げたらいいものやら」

「そこまでお礼を言われるほどの謂れはありませんよ、オルテガ殿」

 猫は、小さな頭を左右に振る。

「この平和ボケしたご時世、場所は永世中立を誓うこの都市国家で、あの数にたったの一日で勝利することができたのは、人間側にあなたの存在があったからでしょう。その名声、聞き及んではおりましたが伊達ではなかった。こう言うとまたあなたは傷つくかもしれませんが、まさに鬼神のごとき戦いぶりでした」

「鬼神のごとき……ですか」

 オルテガは表情が曇るのを自覚した。そんな己を、猫はただその大きな琥珀で凝視している。

 彼女は、オルテガが話してもいないのにこちらのことをよく知っている。己の、特にオルテガ自身の知らない彼について語った他人の噂話も。

 だからオルテガは、敢えて問うた。

「ソーニャ殿。戦う私は、そんなにも恐ろしいでしょうか」

「私は恐ろしいとは感じません」

 ソーニャは即座に、迷いなく答える。

「確かに、あなたはとても頑健で強靭だ。あなたの研鑽の結果でもあるのでしょうが、もともと生まれ持つ才も身体も、明らかに他と一線を画しています。しかし、あなたの心は明らかに弱い」

「弱い、ですか」

「ええ。特に情に脆い、という意味において」

 オルテガの瞳が瞬く。

 この猫自身も出会った当初に言っていたが、情に厚いというのはオルテガを賛美する者がなべて口にする台詞だった。弱きを助け強きを挫く、仁禮の道に生きる博愛の戦士。彼の優しさこそが最強の武器であると称されたことも、一度や二度ではない。

 だからこのような言い方をされたのは初めてであり、意外でもあった。

「そもそも人間の心は、我々猫やホビットなど、原則自然に生きている者に比べて格段に弱いのです。人間は、自然淘汰に耐え切れない。淘汰されることを嘆き、非常に恐れる。だから同胞の墓づくりから始めて、今日このような独自の文明を築き上げるまでに至ったのです」

 ソーニャは称えるでもなく謗るでもなく説き、オルテガの問いに答える。

「あなたがたの心の弱さ、情の脆さは最大の武器であり、急所であり、種の特性です。特にあなたは、いかにもその人間らしい心をしている。だからあなたは人間らしく弱々しい生き物であると、私には思えますが」

「でもヒトは、俺をとても怖がります」

 青年は寂しげに微笑む。

「現に仲間もそうでした。いや、そうだったらしいです」

 仲間たちの考えを、オルテガは最後まで直接本人達の口から聞くことができなかった。彼がそれを知ったのは、最後にパーティーとして泊まったアッサラームの宿で目を覚まし、枕元にぽつねんと置かれた手紙に気づいた後だった。

 その丁寧に丸められた羊皮紙には、ダーマに行って修業をしようと彼について来たが、もう己の職への熱意を失ってしまったこと、だからここで新しい道を見つけ出そうと思うこと、そして、そのために黙って旅をやめる我が儘を許してほしいということが、三人それぞれの筆跡と言い方で記されていた。

 オルテガはそれを読みながら、深い落胆の底に、やはりなと苦笑する己がいることを憎々しく感じた。

 彼も、薄々気付いていたのだ。アリアハンを出る時は、己同様輝かしい未来に輝いていた三対の瞳。それらの輝きが、次第に変化していったことを。

 最初は己の剣筋を見つめていた戦士の瞳が。次に、己の操る天雷を映す魔法使いの瞳が。最後に、己の最高位回復呪の結果を見据える僧侶の瞳が、次第に翳っていった。

 彼らは何を思っていたか。手紙を読んで、オルテガはそれまで認めたくなかった事実を認めざるを得なくなった。

 仲間たちはオルテガの才に嫉妬し、そして自らの器に絶望したのだ。

「しかしあなたは、人間と楽しそうに語らう」

 ソーニャは慰めにオルテガの台詞を否定するでもなく、不思議そうに尋ねた。己に不快な思いをさせた者達を何故、といった風の問いかけはまた彼女らしい、嫌味のない正直で純粋な疑問である。

 だからだろうか。オルテガは、するりと本音を口にすることができた。

「俺は人が好きだから」

 これまで胸の内だけに秘めてきた、嘘偽りのない言葉だった。

 オルテガは人間が好きである。そこに崇高な理屈も深い実感もない。しかし彼は、物心ついた頃から今までずっと、ただただ人間が愛しくて仕方がなかった。

 たおやかで思慮深い母と、寡黙だが剽軽な父を愛した。彼に懐いた近所の子供を愛した。彼を指南する度、その剣の早熟さに顔を青くした兵士らを愛した。刺々しい眼差しを向けてくる学友らを、畏怖や憐憫の色を隠さない大人らを、勇者だ勇者だと持ち上げる群衆を愛した。

 たとえ拳を向ける相手であろうと、オルテガの人間を慈しむ心は変わらない。これは彼にとって、不変の精神であった。

「世界中を旅して、たくさんの人間に会いたい。それが今の俺の願いです。俺はきっと、世界中の人間が敵に回るような事態になっても、きっと人間を嫌うことはできないでしょう」

「旅先に一人置いて行かれても?」

「ええ、それでも」

「いやはや。あなたは相当なお人好しだと思っていましたが、認識を改めなければなりませんね」

 猫の声は、ぐるぐるとくぐもって聞こえた。笑っている。

「あなたは変人だ。変質的なまでに、情け深い。それがあなたの最大の武器となり、最大の弱みとなるでしょう」

「承知しています。それでも俺は、一人でも多くの人に笑って欲しい。そのために己の身が滅びるようなことになっても、それは望んだこと。後悔はしないつもりです」

「あなたのようなへんてこで弱い人間を恐れるとは、人間はおろかなものですね」

 人間だからこそ、人間の規格が分からないのでしょうか。猫はそう嘯いて細い首を上向けた。瑠璃の天板に煌々と満月が輝いている。

「さあ、もうお眠りなさいオルテガ殿。ヒトの子はもう眠る時間ですよ」

 

 







「なーんであの爺さんは、もっと会いに行きやすい場所に住まないんじゃ!」

 声がネクロゴンドの洞窟に反響する。荒ぶるそれは比較的鈍いと言われる人間ことオルテガの耳にも響いたが、猫には意外と効かなかったらしい。涼しげな表情である。

「仕方ないですよ。知者は、世俗から距離を置くものです」

「都会に適応できんだけじゃろう! なあオルテガ!?」

 ダモンが同意を求めてくるが、オルテガはその人間と顔見知りではないため分からない。半笑いで応じることしかできなかった。

「まあ、でも、俺は意外とこの洞窟嫌いじゃないよ。もう一周くらいしても大丈夫かな」

「もう一周!?」

 ホビットは悲鳴を上げた。ひび割れて裏返っている。

「何考えたらもう一周なんて言えるんじゃ! こんな光も差さない、穴ぼこだらけ、魔物だらけのこんな場所をもう一周? どうかしとるのか? 狂っとるわ!」

「え……と、そんなに?」

「そんなに!」

 戸惑うオルテガを前に、ダモンは頭を抱えている。

「出会って云ヶ月……アンタとは打ち解けたと思っとるんじゃが、話せば話すほど感覚がズレすぎてていかん」

「ご、ごめんね?」

「謝って治る天然だとは思っとらんから、謝らんでええ」

「えっ、俺って天然ボケなの?」

「ワシに聞くなや!」

 短い指が、勢いよくオルテガを指す。

「ワシとて、ホビットの感覚が世界の中心だとは思っとらんわ。じゃがこれだけは言える。アンタはおかしい!」

「ま、まあ……そう、かな?」

「そこも!」

 繰り返し、大きく頷いている。

「普通こんだけツッコミ入れられたら、『違わい!』の一言くらい言うじゃろが。なーんで、言い返さないんじゃ! そんなんじゃ自分のこと、ちぃっとも分かってもらえんぞ!」

「ええー……?」

「お前、いい奴なのもええ加減にせえや。そんな非の打ち所のないいい奴やったら、好かれるモンも好かれんわ! 見てられん!」

「うーん、ありがとう?」

「褒めとらんッ」

 勢いよく頭を掻きむしる彼を見て、オルテガは心配になる。これは、洞窟に長く潜り続けた者に特有の『洞窟ハイ』になっているのだろうか。己が洞窟をもう一周などと言ったせいで、こんな状態になってしまったのだろうか。やはり早くここを出ないといけない。

 狼狽える人間と喚くホビットを、猫は愉しげに眺めている。

「まあまあ、何とも聞き苦しい濁声の赤ん坊ですね」

「誰がガキや!」

「オルテガ殿、気にすることはありませんよ。ダモンは口調こそこんな風ですが、貴方のことを気に入っているのですよ」

「だまらっしゃい」

「おや、ならば黙っていましょうかね」

 猫は言う。

「後ろから魔物が迫って来てますけれども」

「早よ詠唱せんかいッ!」




 

 




「やあ、見事な囚人ぶりですね」

 するりと鉄格子を潜ってきたソーニャは、後ろ手に縛られた人間とホビットを見て笑った。人間は破顔したが、ホビットは顔を顰めている。

「猫かぶりで難を逃れおって」

「能ある猫はニャンとしか鳴きませんからね」

 ソーニャは解錠の呪を唱える。枷が外れて地に落ちる前に、男達は手でそれを押さえた。

 ダモンが格子の外を伺う。見張り番は賢者の催眠に落ちたままだった。格子戸の外に出た二人と一匹は、他の牢を見て回る。どこにも人影がないのを認めたオルテガが、息を吐いた。

「良かった。他に被害者はいないんだね」

「そりゃあおらんじゃろ。盗賊団の噂を聞いて、酷い目にあっとる捕虜がおらんか確かめるためにわざわざ捕まるような阿呆なんぞ、な」

 ダモンが横目で睨む。オルテガは眉を下げた。

「悪かったよ。でも、巻き込むのは悪いから俺一人で行くって言ったじゃないか」

「阿保じゃろ」

「ごめんって。俺一人で行けば──」

「違うわ阿保」

「はいはい。そのくらいにしておいてくださいよ」

 二人の言い合いを、一匹が宥める。

「目当ての人物がいないことも確認できましたし、良しとしようじゃないですか。まあ、昔からあらくれが棲まう塔なんかにいるとも思えませんでしたけど」

 さっさと出ましょう、と促した時だった。

 俄かに廊下の向こうが騒がしくなった。曲がり角から声のする方を伺うと、眠る見張り番に盗賊団が群がっている。

 二人と一匹は、顔を見合わせた。

「どうする」

「うーん。他の人に危害を与えるなら、野放しにはしない方がいいと思うんだが」

 オルテガはしばし迷い、頷く。

「俺が交渉してこよう」

「待ちんさい」

 さっさと向かおうとする襟首を、ダモンが掴んだ。

「話が通じる思うとるんか?」

「でも、やってみないと」

「通じんかったら? 襲いかかってきたら?」

「素手はあんまり慣れてないから、殺さないようにするよ」

「そういう問だ──」

 ホビットは言いかけて、口を噤んだ。それから独り、こいつの場合そういう問題なんか、いやそれでええんか等と頭を掻きながらぼやいている。

 オルテガはふと、視線を上げた。喧騒が近づいている。

「言ってくるよ」

「おっ、待たんかい、おいッ」

 勇者は歩いて行ってしまう。残された一人と一匹は、角から彼の後ろ姿を目で追う。脱獄した囚人を前にした盗賊らの眦は、当然吊り上っていた。

「どうすんじゃ、あの阿保」

「ニャー」

「猫かぶりすなや」









「もうイカダは嫌じゃ」

「駄洒落みたいだね」

「うっさいわ!」

 高く丸い青天井の下、見渡す限りの大海原にぽつんと浮かぶ平方の板切れ。そこから上がった大声は僅かにイカダを揺らしただけで、すぐ潮騒に呑まれてしまった。

「俺は二人と旅が出来るだけで嬉しいから、全然気にならないよ」

「こいつ、前から思っとったが、バケモノなのに加えて頭まで沸いとるんかの?」

「心配ですね。変なものに好かれなければいいのですが」

 ダモンは足を組み替え、横で伸びている猫に向かう。

「もー、ええ加減舟買おうや。買うのが嫌なら小舟でもええから作ろ? なんでわざわざこんなちっさいイカダに拘るんじゃ」

 ソーニャは一つ、大きなあくびをしてから答える。

「舟じゃあのびのび寝られないじゃないですか」

「普通逆じゃろ」

「細かいことはいいんですよ」

 衣も食も魔法で足りているのに何が不満なのですか。足りるの基準がおかしいんじゃ。欲張りは破滅のもとですよオルテガを見習いなさい。猫とホビットは議論している。今日も今日とて繰り広げられる言葉の応酬の横で、オルテガはただ景色を眺める。

「海は広いなあ」

 だだっ広い海と空は、似た青なのに決して交わることがない。不思議なものだと思う。

 潮騒、猫の声、渡り鳥の囀り、ホビットの声。オルテガは目を閉じる。彼は生物のざわめきを聴きながら放心するのが好きだった。

「地に身を委ねるしかないのです。彼のもとへ辿り着くための方法は、もうこれしか考えられません」

「クソジジイーッ!」

 ホビットが憤怒している。男はふと目を開けた。

「その魔法使いはホビットなの?」

「まさか。あんなんが同族でたまるかい」

「ヒトであったはずですよ」

 ダモンは吐き捨て、ソーニャが答える。

「エルフやホビットのような種族は、どのような種のものであっても自然に溶け込み姿をくらまし、風に聞いてもなかなかその居所が知れないことが常ですが、ヒトでここまで住処をくらますことができる者は稀でしょうね」

「あのジジイ、昔から雲隠れだけは得意だったからのう」

「司る性らしいといえばそれらしい、しかし探す側としては骨が折れます」

 ソーニャの小さな三角の鼻が、ふすんと鳴る。

 彼等の捜す人物像は何度聞いても掴めない。以前ネクロゴンドで会った智者の方が、まだ分かりやすかった。

「前にネクロゴンドで会った方といい、今回のその方といい、二人が捜している人間には何の繋がりがあるのです?」

「本来ならばこのようなことは気安く教えてはならぬのですが、他ならぬ貴方ならばいいでしよう。雑駁に言いますと、彼等は六芒星の各点に属する精霊たちと特に親しい者達なのです」

 猫は説明する。賢者とは元来、六芒星と均一な距離を保つ者。だが『見立て』を行わなければならない場合、特に優れた六人の賢者を各精霊の代弁者とし、伺いを立てなければならない。

「今捜している賢者殿は、その中でも五芒星で言うならば一点、六芒星で言うならば二点を司る方なのです」

「一人が一つの点じゃなかったの?」

「その通りですが、この二点だけはそう称さねばならぬ理由がありまして」

 猫の髭がぴくりと動いた。その瞳孔が丸くなるのと、彼等の上へ俄かに黒い影が落ちるのは同時だった。

 オルテガは天を仰ぐ。大波が頭上へ降り注ごうとしている。

 悲鳴が水に呑まれた。

 


 

 

 




「オルテガ、起きろ」

 揺さぶられる気配で目が覚めた。噎せて跳ねる彼の背をダモンがさする。

「えらい目にあったの。じゃが、ようやっと目当ての場所に着いたようじゃぞ」

 背後に荒涼とした平野に佇む建物が見える。ログハウスである。

 戸を開けると、陽だまりの中で老人が座椅子を揺らしていた。その足元では小さな子供が積み木遊びをしている。

「ほう、ほう、いらっしゃい」

 老人は皺くちゃの顔で笑う。瞳孔の大きな瞳が細まり、黒い三日月のようになる。

「ご無沙汰しております」

「死にかけたぞクソジジイ」

 ソーニャが慇懃に頭を垂れ、次いでダモンが詰る。老人は朗らかに笑っている。

 これまで会った隠者の中では最も友好的だ。だが何となく──人好きのオルテガには珍しく──見つめ返すのが憚られて、オルテガは目線を下げた。子供は一心不乱に積み木を重ねている。形から察するに、家を作っているらしい。

「この子が六番目ですか」

 ソーニャが言ったのを理解したのか、子供が顔を上げた。オルテガは思わず声を漏らしそうになる。

 ふくふくとした頬に、東洋系らしい目鼻立ちの小さな子である。だがその瞳は白く濁っていた。

 子供は白眼を微動だにせぬまま、幼児らしからぬ滑らかさで首を猫の方に回した。

「老師殿。いや、お二人と言いましょうか。残るは貴方がただけです」

 ソーニャは今一度、老人を仰いだ。

「私とダモンを、世界樹の番人として認めていただけますか」

 


 

 

 

 



「時が来てしまったようです」

 猫が話している。

「私、ソーニャとこのダモンは世界樹の番人となる運命。ここでお別れです」

 森だ。南に四本の巨樹が見える。達者でなという硬い声。

 靴に散らされる砂利の音が、耳につく。

 




 




 廻る。

 掻き回される。

 渦巻く液体の、内側へ満ちる音。

 鼓膜の、奥の、奥まで入ってくる。

 耳鳴り。

 静寂。

 




 




 砂粒を洗う波の気配がしていた。

 声は突然降ってきた。

「もし?」

 囁くような女の声である。

「もし、勇者様。何処からいらしたの? もし? わたくしの声が聞こえますか? もし?」

 声が途切れる。

  


 

 

 

 



 手巾を絞る雫の落ちた拍子に意識が覚醒した。

 知らない寝台、知らない部屋に横たわっていた。窓越しの碧天が眩くて、オルテガは開けたばかりの目を細める。

 目が覚めたのねと見たことのない女が寄ってきた。紺の修道服を纏っている。

「ここはランシール。世界宗教の主たる神殿ですわ」

 シスターは言う。オルテガは気の抜けた返事をした。そうか、ランシールの神殿か。

「ランシール神殿!?」

 跳ね起きた。驚いているシスターをよそに外の景色を見る。確かにそうだ。絵画で見たことのある、世界宗教の聖地だ。

「そんな……まさか、こんな所まで流されたのか」

「運が良かったわね、お兄さん」

 シスターは彼の起き上がった隙に寝具を整えながら言う。

「ミスが口添えをして下さらなかったら貴方、海に投げ戻されていましてよ」

「ミス?」

 首を傾ける青年を、シスターは奇異なものに対する目つきで見る。

「貴方、ご存知でないのね。ミスというのはここの大神官のご令嬢──神の花嫁と呼ばれ、神殿の内外、それこそ世界中から人々の信仰を集める生き神様のことですのよ」

 


 

 

 




 囀る鳥の正体が分からない。

 療養生活を送るオルテガの目下の悩みはそれだった。療養生活とは言っても大したものではない。部屋でものを読んだり、中庭へ出て軽く剣を振ったり、その程度のことである。正直、頑健すぎて友人からバケモノ呼ばわりされていたオルテガにとっては寧ろ身体が鈍ってしまいそうなので早く暇したいところなのだが、どういうわけか出て行くことを許されない。日替わりでやってくるシスターに理由を尋ねても教えてもらえない。神殿の外へ出かけることや、食堂へ行って食事をすることさえも許されない。どれも理由は説明されない。分からないことだらけだ。

 だがオルテガは気にしない。この神殿の人間──ちなみにまだ会ったことがない──に命を助けてもらった恩があるのだ。恩人の言うことに従うのも、一つの恩返しだろう。オルテガは自他共に認める楽天家であるから、そんな風に考えて、目下の悩みは囀る鳥の名が分からないことくらいしかなかった。

 その日も中庭のベンチに座って噴水と花を眺めながら、そこらを行く小鳥の名を考えていた。ソーニャかダモンがいればすぐ教えてもらえたのだろうが、残念ながらどちらも今は樹海大陸である。

「なあ」

 急に寂しくなり、オルテガは眼前で石畳を突く小鳥に話しかけた。

「お前たち、話せないのか? 本当は話せるんだろ? なあ」

 しかし鳥は素知らぬ顔でちょんちょんと地を跳ねるばかり。それでも彼は辛抱強く話しかけた。

「どっちでもいいから、もし北の樹海の方に飛んでいくことがあったら伝言してくれよ。寂しくてどうしようもない、次はいつ遊びに行っていいかって」

「ふふっ」

 笑い声がした。オルテガのものでは断じてない、細く柔らかな声である。

 立ち上がった勢いに驚いた小鳥たちが飛び立った。辺りを見回すが、人の影は見えない。

「そんなに警戒なさらないで」

 まだ声がする。オルテガが右へ後ろへと振り返っていると、此方ですと声が誘う。オルテガは歩き回る。やがてとある壁の向こうから聞こえてくることに気付いた彼は、その部分だけが他の壁より薄くなっており、向こう側に空洞があることに気付いた。

「貴女は?」

「貴方の様子が気にかかっていた者です」

 声は答える。

「お天気が良かったから海辺に出たら、貴方が岸でぐったりしていらしたの。皆、びっくりしておりましたわ。一体、何がおありになったの?」

「ああ、それは……」

 オルテガは話した。使命を負った仲間達と北方の樹海で別れたこと。乗っていたイカダが嵐でやられたこと。オルテガも荒波に投げ出されたこと。

「これまで多くの試練に遭いましたが、流石に今回は駄目かと思いました。それがまさかこんな遠くへ流されて、しかも親切な方々に良くして頂いて……貴女も、流れ着いた私を助けてくださった方々のお一人なのですね。ありがとうございました」

「いえ、わたくしはそのような……それより、大変な目に遭われたのですね」

 お可哀想にと壁向こうの声は言う。オルテガは笑った。

「いやいや、なんてことありませんよ。もうお陰様で元気になりまして、今すぐにでもまた旅立てる程なのですが」

「それは、出来ないのでしょう?」

「どうして知っているのです?」

「神殿の規則です」

 壁向こうの彼女は言う。

「貴方は勇者様でしょう? ならば、この地を踏んだ以上試練の洞窟へ挑まねばなりません。しかし試練の洞窟は今、禁足期のため入ることが出来ない。だからですわ」

「なるほど」

 オルテガは納得した。そう言われてみれば、この地にはそのようなルールがあった。確かに、勇者として一度挑んでおくべきなのだろう。

「ありがとうございます。何も知らずにこの地を去るところでした」

「お役に立てて何よりですわ」

「御礼を申し上げなければ。失礼ですが、お名前は?」

「ああ、そうでしたわね」

 声は少し黙ってから囁く。

「それではどうか……ミシェル、とお呼びになってくださいまし、オルテガ様」






✳︎





「あれは左からヒメドリ、オーロリリー。あっちにいる鳥の名前は覚えてますか?」

「えーと、たしかバ……バオバオ鳥」

「いいえ、バフバフ鳥ですわ」

 無人の中庭で、小枝に止まった鳥、蒼穹を舞う鳥、草の上を跳ねる鳥。それらの名を、ミシェルは次々と呼び上げていく。

「ミシェルさんは鳥の名をよく知っている」

「お役に立てて何よりです」

 退屈なオルテガの軟禁生活に突如現れた声だけの隣人は、あっという間に彼の悩みを解決した。彼女は鳥に異様に詳しく、大抵の鳥は一目見るだけで分かるらしい。おまけに外の国から来た旅人に興味があるようで、野鳥観察だけでなく話し相手にまでなってくれる。

「オルテガ様は、どちらからいらしたの?」

「アリアハンという国です」

「アリアハン……」

 ミシェルは一音一音を確かめるように、ゆっくりと繰り返す。かつての世界帝国の名を知らぬなど、変わっている。だがオルテガは気に留めない。己と時を分かち合ってくれるだけで十分だった。

「アリアハンに行ったことはありますか?」

「ございません」

「そうですか。いい所ですよ。年中穏やかな気候で、人の性格は勿論、魔物も大人しいものです」

「きっと、素敵なところなのでしょうね」

 二人は語り続けた。鐘が鳴り、彼女がもう行かなくてはと言うまで。

「お話できて楽しかったです」

「わたくしもです。もしよろしければ、明日、また同じ時間に」












「はーい」

 独特のパターンで壁を叩くと返事が来た。オルテガの頬が緩む。

「待たせてすまない」

「いいえ、珍しいですこと。どうされたのです?」

「大神官様からの呼び出しで」

 大神官は何を語ったのかと彼女が尋ねる。オルテガは語られたことをそのままに語る。

「試練の洞窟へ入ることを許された」

「まあ」

 どのような試練が待っているのか、大神官は何も語らなかった。ただ一人で挑むのだとのみ告げた。

「そして、それが済んだら早急に出ていくようにと」

 石壁を眺めながらオルテガは呟く。

「大神官様は、私を厭うているように思えてならない」

「そうでしょうか」

 壁向こうの声は言う。

「貴方様は何もしてらっしゃらないはず」

「そうだとは思ってるんだが」

「ならば、貴方が負い目に感じることは何もないのではありませんこと?」

「そう、だろうか」

 オルテガは俯く。

「どうしましたの?」

「本当に、俺にできることは何もないのだろうか」

「と、仰いますと?」

「……大神官様をはじめ、神殿の皆は難しい顔をしているような気がして。俺にできることがあれば、して差し上げたいんだ」

 彼女はまた、まあと言って少し黙った。

「いつ発たれますの?」

「明日の昼だな」

「急ですこと」

 本当にまあ、まあ、急ですこと。

 ミシェルは繰り返す。

「さぞ不安でしょう」

「いや。俺はこれまで、ほぼ一人で旅をしてきた。一人で対処するという点では、何も変わりないよ」

「寂しくはないのですか」

「寂しい?」

 考えた。一番の仲間達は別の使命の道を歩いている。目的もいる場所も違うが、それぞれ目指すところがあり、励んでいる。会いたいとは思うが、今回の試練とは別だ。

 そう答えると、ミシェルは考え考え口を開いた。

「明日。鐘が鳴った時に、またお会いしませんか?」

「お勤めの最中では?」

「そうですね。ええ。お勤めの最中、ですものね」












 ──主なる神は仰った。我は光。聖なる天地より生まれし光輝たる神。我が眼は五穀への恩寵、我が声は雷霆の轟き、我が体は無限に広がる黄金の閃光。汝、仔等よ。我が腕に抱かれる、純真なる我が仔等よ。命を遵守せよ。汝に授けし自由は我が調和の中にある。汝の意志と理性が望む限り、我が恩賜を永遠に授けよう──

 大聖堂から響く聖典の警句を、分厚い扉で遮断した。唸るような声を背にして無人の廊下を辿る。

 麗らかな午前の中庭にやはり人の姿はない。オルテガは奥の石壁に近寄り、お決まりのリズムでそれを叩いた。ややあって声がする。

「まあ、オルテガ様。お勤め中でございましてよ」

「来てと言ったのは貴女だろう」

「そうですけれども。でも、本当にいらしてくださるなんて」

「他ならぬ貴女の頼みだから」

 壁向こうはしばし沈黙した。昨日から何故かよく黙る。オルテガは次の言葉を待つ。

「本当に、試練に挑むのですか」

「ああ」

「どうしても? 試練を受ける風習があることはお伝えしましたが、受けないという選択肢だってあったはず」

「私はこの地から出たい。貴女方に命を助けていただいた。その恩を返すためにも、外へ出て勇者の務めを果たし、人々の助けにならなければ」

 木陰が揺れる。樹に鳥が止まったのだ。変わった声色で囀るそれは、渡り鳥だ。オルテガの掌程度しかない翼で、信じられぬほど遠くへ渡るのである。

「貴女のお陰で、鳥にもだいぶ詳しくなった」

 三ヶ月、来る日も来る日もこの中庭で鳥の名を学んだ。楽しい日々だったと顔を綻ばせる。

「オルテガ様」

 最後にお願いがございます、と彼女は言った。

「その──ち、──し──に──かって──れませんか」

 彼女は何か願った。しかしその言葉は、突如轟と吼える風に攫われた。オルテガは眉を顰める。

「すまない。もう一度言ってもらえないだろうか?」

「いえ……これが、こうして会える最後になるでしょう。お別れする前に、どうか教えてください」

 オルテガは壁に手をついて身を乗り出した。今度は遮られることもなく、明瞭に聞こえた。

「貴方は最後まで、わたくしが姿を現さない理由をお尋ねになりませんでしたね。何故ですの?」

 オルテガは声の方を見つめた。依然として壁があるだけである。その向こうにいるだろう女人の姿など、見えるわけがない。

 それでも良かった。

「姿を見せないのには、何か深いわけがあるだろうと思っていた。貴方には恩がある。恩人の嫌がることをどうしてしようか」

「お優しい方」

 声は言う。

「本当にお優しい、情深い方」






 


 



「永遠不滅の、いと高き命に」




 

 

 



 


 洞窟の奥底には面が並んでいて、引き返せ、引き返せとしきりに喚いた。オルテガは迷いなく進んだ。その最奥まで行き、「勇気」を示すのが試練だった。

 洞窟は進めば進むほど、自然物の体から離れていった。人の手のものとは思えない精緻な鏡石の組み合わされた廻廊を、一人歩く。やがて、どん詰まりに何か細長い影が見えた。

 オルテガは眉根を寄せる。台の上に、修道女が座っていた。正教の十字を刻んだ背の高い帽子と、同じく衣を纏っている。

「よくぞいらっしゃいました。勇者オルテガ様」

 これが最後の試練ですと修道女は言う。オルテガはぎょっとした。声に聞き覚えがある。

「ミシェルさん?」

「そう名乗っておりましたわね」

 女はうっそりと笑った。松明に照らされた顔は、暗闇でも照り映えるような美貌であった。

「ごめんなさい、オルテガ様。改めましてご挨拶申し上げます。『ミシェル』は遥か昔に捨てた、言わば俗名。わたくしの本当の名はございません。人はわたくしをただ、『ミス』と──『主なるお方の処女神』と呼びますの」

 オルテガは立ち尽くした。

「そんな……そんな、馬鹿な。どうしてそのような方が、俺と、話すわけが」

「オルテガ様は、わたくしを疑うと仰るの?」

 ひどい。修道女は彼の目を覗き込み、唇を尖らせた。

「あんなに鳥の名を呼び合ったのに。貴方が昨日見た渡り鳥の名も、極北のオーロラに似た鸚鵡の名も、夫婦円満の鳥の名も、わたくしが教えたのに」

 ヒメドリ、オーロリリー、バフバフ鳥。

 どれも確かにミシェルが教えてくれたもの。あの古びた中庭には、いつだって人の影はなかった。彼と『ミシェル』の他、誰も知りようがない。

 オルテガは彼女を『ミシェル』だと認めざるを得なかった。

 しかし何故、その彼女がこんな所に居るのだろう。

「この地球のへその試練は、勇気を試すこと。その内容は挑戦者によって異なります。しかしその多くは、魔の者と戦い、仮面の恐喝に怯まずにここまでやって来るという形を取ります」

「ならば、私は」

「しかし」

 修道女の柔らかな声が遮る。

「貴方は特別な星の下に生まれた。最後の試練に挑む前に、わたくしの話を聞いてくださいませんか」

 オルテガは頷く。乙女は語った。




 『主なるお方の処女神』は、託宣によって定められます。わたくしが先代より主神の妻として認められたのは、物心つかぬ頃でございました。その時より、わたくしはただこの神殿の奥に在り、神の声を聞き、人々にその言葉を伝え、力を貸すことを役目として生きてまいりました。

 主神の言葉は様々でした。たとえば、どこぞの街のこの者を流せだとか、魔物を討伐せよだとか、罪人を隔離せよだとか。

 そんなある日、わたくしに神託が降りました。

 ──ここに旅人がやって来る。それを生かせばこの世界に災禍が訪れる。それを助けなければ、災禍はこの世界にはやって来ない 。

 わたくしはそれを大神官に伝えました。神託をこの世に伝えるのが、わたくしの役目でしたから。

 しかし、その直後でした。また別の託宣が、私の元へやってきたのです。しかしその声は、いつもの主なる神のものではありませんでした。優しい、女性のもののように思えました。

 ──あのお方が言った旅人を死なせてはなりません。その者を救えば、確かにこの世界に災厄が訪れるでしょう。しかし、それがゆくゆくは光を守ることに繋がるのです。光とは、この世界だけでない……

 声は途切れました。いえ、途切れたというより、激しい雷鳴に掻き消されたのです。

 あまりの凄まじい音に、わたくしは失神しました。神殿は大騒ぎになりました。このようなことはランシールの歴史において初めてで、大神官は即座に他の聖者、識者を集めて会合を開いたと聞きます。

 わたくしはその様子を見る事は叶いませんでした。その間、わたくしは夢幻の狭間を漂っておりましたから。わたくしは雷になり、呼ばれた暴風になり、雷嵐で裂かれた木になり、生じた炎になり、灰と共に地に沈み込み、地下を流れる水になり、大海の一部となり、陽の光を浴びてまた天の雲へと還りました。

 さまざまな声を聴きました。嵐を恐れる声、雷雨を喜ぶ声、炎を痛がる声、暖まって安堵する声、大水に押し流される声、大海の晴天を愉しむ声。

 人間の声も、エルフの声も、ホビットの声も、語を持たぬ者の声も聴きました。

 その末に、『聞こえない声』が語りかけてきたのです。

 ……『聞こえない声』はおかしい?

 その通りです。しかしあれは、聞こえないという以外に言い表しようのないものでした。それでも、『聞こえる』のです。聞こえたのです。存在しない声が。

 それは言いました。

 因果の車輪はひたすら巡る、と。

 わたくしは目覚めました。わたくしは「考える」ということを覚えておりました。

 大神官は旅人を助けぬことに決めたようでした。ですがわたくしは、わたくしだけは悩み続けました。

 主なるお方を疑うわけではございません。ですが、他の声を切り捨てられませんでした。どの声も、悪意ある声ではなかったから。

 主なるお方の声は聞こえ続けました。わたくしはあの夢を契機に、年を経るにつれて、神託に疑問を抱くようになりました。

 あの流された殿方はどうなったのでしょう。

 魔物はどこから来たのでしょう。

 罪人たちは、どこへ隔離されるのでしょう。

 主なるお方の加護から外れた者たちは、どこへ行くの?

 わたくしは? やがて生娘でなくなればあのお方の婢女としてお声をかけていただくことも無くなり、代わりに天に召されるというわたくしは?

 神の婢女でなくなったわたくしは、どこへ行くの?

 誰も教えてくれませんでした。父である大神官すら、馬鹿なことを言わないで信心せよと言いました。信じれば救われるから、と。

 わたくしはランシール神殿始まって以来の寵姫と呼ばれておりました。誰もわたくしの栄光を疑いません。わたくしの栄光を疑うことは、主なるお方を疑うことになるのですから。

 わたくしは一人悩みました。神託を伝えることに躊躇いを感じるようになりました。

 以前聞こえた二つの声が聞こえないかと思いましたが、いくら待っても聞こえません。そう言えば、主なるお方以外の声は聞こえぬのかと不思議そうに問うた研究者がいたことを思い出しました。そのお方も、後にお姿が見えなくなりました。

 わたくしは外に出たいと思うようになりました。しかしそれは禁忌。神の女はこの神殿の土地から出ることが出来ないのです。

 それでもわたくしには、一縷の望みがございました。

 いつぞやの託宣の旅人。彼は、わたくしが「助けられる」範囲へやって来るのです。彼は外の世界を知っている。きっと、わたくしの問いに答えてくれる。

 わたくしは再び神の鸚鵡に戻り、待つことにしました。




「ですからオルテガ様。わたくしは、貴方の来訪を心待ちにしておりました」

 乙女は紅唇を湿らせる。

「最後の試練が始まります。わたくしの問いに答えてくださいませ」

 勇者は知らず、身構えていた。神の妻は言う。

「この大陸から北の海を隔てた向こう側、ギアガ高地に巨大な虚がごさいます。あの下はどこへ繋がっているの?」

 オルテガの息が詰まる。

 ギアガの大穴──罪人を落とすという、大地にぽっかりと空いた恐ろしい暗黒の口である。

 しかし、繋がる先があるなど聞いたことがない。

 答えられない。嘘も吐けない。口の中が乾く。

「一度降りていって帰って来られた者はいない、謎の多い洞窟だ。俺の祖国はかつて世界帝国だった頃、どうしようもない悪人をあそこへ落としたというが、現在では落とされる者も滅多にいない。ただ時折、魅入られたようにあそこへ身を投げる者がいるという不可思議な噂がある」

 オルテガの声が沈む。

「申し訳ないが、俺が知っているのはそこまでだ。貴女の問いには答えられない」

 神の妻は、彼の顔を凝視していた。どんなに待っても答えが出て来ない。そう彼女も悟ったのか、やがて口を開いた。

「では、貴方が帰るための方法をお教えしましょう」

 オルテガは面食らった。

「あの、答えられなければ試練に打ち勝ったことにならないのでは?」

「誠実なお人」

 乙女は莞爾と笑う。

「何もわたくしは、この問答が出来れば試練に耐えられたと見なすとは言っておりません。そもそもこの勇気を試すという儀礼は、失敗しようと成功しようと、その方が勇気を振り絞って来たことに意義を見出すもの。変わりはありませんわ」

 オルテガは唖然とした。乙女はころころと笑って、しかしすぐに笑みを消した。

「この洞窟から出て神殿に戻ると貴方は捕らえられます。貴方は神託の旅人。大神官はそもそも助けず見殺しにする気でしたが、わたくしが助けてしまったからそう簡単に殺すわけには行かなくなってしまったのです。神殿内外に関わらず、わたくしを称える信者は多いですから、父も迂闊なことは出来ませんでした」

 しかし、この試練の時が唯一の契機。貴方を生かしては帰さないでしょう。

 優しい口調で語られる厳しい現実に、オルテガは狼狽する。いくら自分を害しようとしているとは言え、世話になった人々に剣を向けられない。

「逃げ切るしかないのか」

 どんな人数相手でも隙はある。どうにかして彼等を傷付けず、脱出するしかない。

 オルテガは覚悟を決めた。

「隠し通路がございます。お教えしますから、お使いください」

「ありがとう。貴女は?」

 乙女は微笑んで首を横に振った。

「わたくしはこれまでです。主なるお方の神託を裏切った婢女に、この先は望めません」

 そんな馬鹿な。オルテガの心中を余所に、彼女は手を取る。

「ありがとうございました、オルテガ様。わたくしは、束の間でも人の娘として『ミシェル』として扱ってもらえて嬉しかった」

 松明の火が、彼女のオリーブの瞳孔に映り込んできらきらと瞬いた。

「どうか、お達者で。最後に人間として、初めて助けられたのが貴方だったことを、わたくしは誇りに思いますわ」

「待って」

 オルテガの手に地図を押し込み、離れようとする細い腕をもう一度捕らえた。

「俺と一緒に来ないか」

「いけません。わたくしは神の妻。人間の追っ手だけでなく、神の手まで貴方に迫ることになります」

「関係ない。貴女を死なせることなんて出来ない!」

 逃れようとするも、細いやわな身体がオルテガの太い腕に敵うわけがない。すぐに絡め取られ、乙女は台座の上に倒れ込んだ。押さえつける男を、オリーブの潤んだ瞳が見上げる。

「どうしてお止めになるの」

「貴女には恩がある。救えたはずの命を後悔したくない」

「まあ」

 お堅い方。乙女は泣くように笑う。オルテガは問いかけた。

「他に、生き延びる方法はないのか」

 修道女は目を瞑った。その様は苦しげで、目を閉じているというより、開けないように必死で目許に力を入れているのに似ていた。

 彼女は目を瞑ったまま、緩く顔を背けた。

「一つだけ、両方から逃れるための方法があります」

 胸が浅く上下する。手に弱い抵抗を感じて、苦しいのかと掴んでいた手を緩めたオルテガは、下から伸びてきた細い腕が首に回ってからふと気付いた。法衣の下のレオタードはやけに柔い。

「オルテガ様」

 放り出した松明の爆ぜる音。

 夜空の色に濡れた髪の隙間から、朱い肌が透ける。

 「どうか、情けをくださいませ」


 


 

 

 





「変わってるけど、貴方のお嫁さん美人ねえ」

「あの子はいったい、どこから連れてきたんじゃ」

 老いた父母が言う。






✳︎






「あなた」

 妻が呼びかける。

「あなた、この子の様子がおかしいの」 



 


 

 





「主神の力じゃの」

 極北の賢者は言う。盲いた孤児が、妻の腹を視ている。

 「流石に儂もこればかりは隠せん」

 



 

 

 





 耳をつん裂く雷。

 魔法陣と外の光が交互に目を焼く。

 


 


 






 荒野に吹き荒ぶ風が鼓膜をねぶる。

 ぽつねんと置かれたちっぽけなおくるみ。

 我が子を抱くことも出来ず、泣く妻。

 彼は思う。これが神の妻を奪った罰なのか、と。











 因果の車輪がひたすら巡る。






 

 




「すまない、わかってくれ」

 子を助けるには自分一人でゾーマを討ち取るしかない。

 手を差し伸べたのが業だと言うならば、報いよう。彼等のためならば何でも出来る。

「俺は──」



────


──

 

 

 



 

***

 

 

 




 ガライは我に返った。

「ってわけでね。勇者オルテガは旅立ったらしいよ。その後の道中でも色々活躍はしたみたいだけど、そのあたりは俺もぼんやりとしか知らないから」

 若き勇者は吟遊詩人を見る。

「ためになった?」

「え、ええ」

 吟遊詩人は礼を言った。だが内心は穏やかでなかった。

 サタルが語る間、竪琴の音に合わせて妙な音が、場面が、複数頭を過ぎった。

 少年の口から語られた物語から想起するにしてはやけに詳細にすぎる台詞や場面が、まるで動く絵画のように。

(こんなことがありえるのか?)

 ガライはまだ何か話している勇者を眺めながら残像に耽る。




 

 










✳︎✳︎✳︎







 夜半の王国に風が吹いた。風はそっと家々の間を通り過ぎ、ある民家の窓を開く。

「あなた。サタルの立派な姿、見たでしょう?」

 女が一人語っている。灯りの落とされた居間には、食卓を挟むようにして置かれた二つの椅子がある。それ以外には誰もいない。

「わたし、とても嬉しいの。ずっと近所のお母様方から息子の巣立ちは寂しいものと聞いて参りましたけど、わたし、ちっとも寂しくなかったわ。だってあの子、とても幸せそうだったでしょう?自分を認めることができるようになってきて、さらにお友達やガールフレンドまでできちゃって。わたし、この上なく幸せだったわ」

  溌剌とした口調は、女の実年齢に比べて遥かに若々しい。まるで花の盛りを迎えたばかりの少女のようだった。

「もちろんそれだけじゃなくてよ。その立派になった息子が……あなたをこうして、連れて帰ってきてくれたんだもの」

    夜半の空に溶けるかのような睫毛が伏せがちになる。

「今だから言うわね。恥ずかしいから、誰にも言わないで」

  一目惚れだったの。色味を抑えたルージュが初々しく呟く。

「海岸に倒れるあなたを見て、自分の使命や疑問が、瞬く間に飛んでいったわ……とは言っても、わたしはそれでしか生きてこなかったから、すぐに戻ってきてしまったのだけれども。あなたを捨てるなんてとんでもない、と思ったの」

 ひっそりとした独白。やがて熱を帯びていく。

「あなたは罪な人だったわ。わたしは他にお縋りする方も、お縋りしたいと思う方もいなかったのに、あなたはわたしをちっとも見てくださらない。どんな託宣にも心が動じなかったわたしが、あの時は初めて人間を憎いと思ったものよ」

  もちろん今はそんなことないわと微笑む。

「それでも、そんなあなたでもお慕いしたいと思ったのよ。婢女としてでも構わないから、あなたのお側に置かせて欲しいと……生涯あなた様に添いたい気持ちは、今でも変わりません」

  女は目を上げた。空の椅子の、そのやや上を。

  まるでそこに見つめるべき何かがいるかのように。

「わたし、とても嬉しいんです。死んでしまっても、亡骸を縁にちゃんと帰ってきてくれたのね。嬉しい。ずっと不安だったの。もしかしたら、帰ってきてくれないんじゃないかって」

  高窓から月光が射し込む。女の双眸は、無数の星を散りばめたがごとく俄かに煌めいた。

「だけど、帰ってきてくれた。しかもこうして、生前より密に!」

  銀の光が空の椅子を丸く照らし出す。煌めく瞳孔の中に髭面の壮年がくっきりと映り込んだ。

「貴方のことを分かるのはもうわたしだけ、わたくしだけなのですね。やっとわたくしだけのオルテガ様になってくださったのですね!」

 女の口元が綻ぶ。

「わたくしは、とても嬉しゅうございます。ずっとずっとお待ちしておりました。話したいことがたくさんあるの。語り尽くせるかしら。……」

 







20180617 了