清廉な朝の光差し込む、リッカの宿屋。そこへ正面の扉を開け、黒い影が一つ入って来る。

 影こと武闘家カノン、首にかかったタオルで額の汗を拭きながら、人影のないカウンターへと歩み寄る。

 

カノン「誰かいる?」

ルネ「いるわよ」

 

 カノン、ぎょっとして振り返る。いつの間にやってきたのか、背後に魔女が佇んでいる。

 

ルネ「お稽古? 精が出るわね」

カノン「……こんな朝早くから、何をしてたの?」

 

 この魔女が日の昇り始めたばかりの早朝に起きてくるとは、珍しい。そう思ったカノンは訊ねる。ルネはにこりとして答える。

 

ルネ「小説が書けたわ」

 

 驚くカノンの隣をすり抜けて、ルネは鼻歌をうたいながらカウンターに腰掛ける。

 

カノン「小説って、キラナたちと一緒に本にする予定の?」

ルネ「そうよ」

 

 カノン、記憶を呼び起こす。

 

カノン「一昨日あたりに、まだ全然書けてないって言ってなかった?」

ルネ「そうね。でも、できたのよ」

 

 ルネ、さらりと答える。

 

ルネ「文庫本にしておよそ五十ページ。密通モノだけど読む?」

カノン「いや、いい」

 

 カノンは間髪入れず答える。ルネ、更に訊ねる。

 

ルネ「一応、十八歳未満も大丈夫な内容だけど?」

カノン「いいから」

ルネ「残念ねえ。あなたの旦那なら絶対喜ぶのに」

カノン「あの変態と一緒にしないでくれる?」

 

 カノン、無益な会話を続けないために話題をすり替える。

 

カノン「徹夜したの?」

ルネ「そうよ」

カノン「締め切りは一週間以上先って言ってなかった?」

ルネ「締め切りは関係ないわ。新鮮な素材を手に入れたら早く味わうのが同人というものよ」

カノン「野菜か」

 

 カノンはツッコミを入れる。だが情緒のない言葉も何のその。ルネは双眸を細めて唇を綻ばせ、夢見るような表情を浮かべる。

 

ルネ「出会いは教会だったわ」

カノン「聞いてないんだけど」

ルネ「聞かせてあげる」

カノン「いらないんだけど」

ルネ「今よりもう少し暗い、日がまだ山の稜線から出て来ない時刻のことだったわ」

 

 ルネ、うっとりとして語り出す。カノン、首を横に振って仕方なしに一個離れた椅子に座る。

 

ルネ「私は何となく目が冴えたから、教会に出かけたの」

カノン「適当すぎる」

ルネ「昼間ずっと寝てたから、何となく早く太陽が見たい気分だったのよね。教会自体に興味はないけど、ステンドグラスの光は好きだし」

カノン「もうちょっと規則正しい生活しなよ」

ルネ「そしたらそこに、二人の男と一人の女の子がいてね」

 

 それが密通トリオか。

 カノン、既に聞きたくない気持ちでいっぱいだが、一応この妄想世界の住人である旅の仲間として、万が一犯罪行為をしていたことを告白したら自白させようと思い耳を傾ける。

 

ルネ「男の一人は実益にしか興味を持たない系統の顔立ちをしたつまらなそうな男だったけど、もう一人はなかなかにロマンの分かりそうな優男だったわ。多分、傭兵と吟遊詩人ね。女の子の方は髪が短くてズボンにチュニックっていう男の子みたいな雰囲気の服を着てたけど、チュニックの胸がぱつんぱつんになるくらいモノがデカいから、快楽堕ちが似合いそうな感じ」

 

 聞きたくない。

 カノンは切実にそう思ったが、ルネは知ってか知らずか語り続ける。

 

ルネ「優男と女の子が何か話してたわ。これから今日一日どうするかとか、何時ごろ返って来るかとか、そういう話をしてた。多分二人は夫婦なのね」

カノン「ふーん」

ルネ「優男は顔立ちに似合う、穏やかな話し方をするの。一方で女の子は無垢な目で彼を見上げて、雛鳥みたいに頷くのね。彼の目にはそんな彼女が、さぞかし可愛らしく映ってるのでしょうね。慈しみの籠った微笑みで『行ってきます』って言う彼。そしてそれに心の底からの笑顔で『いってらっしゃい』と応える、幼女のような妻――眩しいくらいだったわ」

カノン「アンタとは正反対だね」

 

 カノン、相槌と抵抗を兼ねて刺してみるが効果はいまひとつのようだ。

 ルネは何も聞こえない様子で喋る。

 

ルネ「優男は出ていったわ。後に残される幼妻と傭兵。二人は扉の向こうに優男の背中が消えるのを、じっと見つめてた。幼妻は先程と同じ笑顔を浮かべて、ただ彼の背中を見送るの。でも傭兵は違ったわ。無表情で食い入るように……まるで、その姿が消えるのを一刻でも早く見届けたいとでも言うかのように、睨み付けていた」

 

 ルネ、突如椅子を倒して立ち上がる。カノンはびくりとして倒れた椅子とルネとを見比べる。

 

ルネ「旦那の姿が見えなくなって、男女が二人。女は少し離れた所に佇む男を振り返って言ったわ。『さ、帰ろっか』って。何の含みもない素直な親しみの浮かんだ表情で、彼を見るの」

 

 カノンが倒れた椅子を起こしてどかす。途端、ルネはつかつかと辺りを歩き回り始める。

 

ルネ「すると男は言ったわ。『お前、気付いてないのか』って。女は躊躇いもなく、『何のこと?』って聞くの」

 

 ルネはだんだん感情が高ぶってきたのか、話題の人物に合わせた身振り手振りを加え始める。ヒールが大きく床を鳴らし、彼女はぴたりと立ち止まる。

 

ルネ「男は静かに、大股に歩み寄って女を見下ろす。女は何の感情もなく、彼を見上げる。

  二人の間は前腕一本分程度。赤い絨毯の上、その向こうにはゼニス十字。

  向かい合う二人は見つめ合って……やがて、先に目を逸らしたのは女の方」

 

 ルネ、それまで立っていた位置の向かい側に移動し、身体の向きを返す。気持ち声を高めに、訴えかけるように語る。

 

ルネ「『ねえ、帰ろうよ』。彼女はそれまでの無邪気な様子から一転してそう、蚊の鳴くような声で訴えたわ。でも男は、その願いを聞いてくれない」

 

 ルネ、また身体を翻して強い男の口調と弱い女の口調を交互に繰り出す。

 

ルネ「『お前、俺が気付かないとでも思ってるのか』。

   『何のこと言ってるのか、分かんないよ』

   『とぼけるな』

   『やだよ。ねえ、怖いよ』

   『俺を見ろ』」

 

 ルネは手を伸ばす。

 

ルネ「男は彼女のふくよかな二の腕を、両肩を掴んで俯かせ、自分は片膝をつきその顔を覗き込む。女の大きな瞳は見開かれ、頬が強張っている」

 

 ルネは男と同じポーズを取り、虚空を見上げる。その黄金の虹彩が開いている。

 

ルネ「『認めろ。お前は、俺と同じように気付いている。だが……あいつに気付かせていいのか?』

ルネ「女は震え出した。男の鋭い瞳は、そんな女の震える身体の動き一つ見逃すまいとするかのように彼女を見据えて――その時、彼の髪が真っ赤に燃え上がったの」

ルネ「もちろんそれは、錯覚だったわ。朝日が差し込んできて、彼の髪を照らしたのよ。つまらない暗い髪色の男だと思ってたけど、朝日に照らされるとあんな赤毛のような紅色になるのね。その紅が、男の虹彩にも映りこんで、まるで瞳に映る女への情熱に恋焦がれているかのような……背徳的で美しい光景が、私の前に広がったのよ」

 

 ルネは跪いた姿勢のまま、胸の前で両手を組む。

 

ルネ「誰もいない教会、清らかな朝の日射し、見つめ合う二人の男女――美しい倫理への叛逆。あの後は二人の世界。そう判断した私はその場を立ち去って、部屋に戻った。それからあの光景を焼き付けるべく筆を取り」

 

 ルネ、言いながら背中に手を回して胸の前へ持ってくる。

 

ルネ「一晩かけて完成させたものがこちらになります」

カノン「料理かっ!」

 

 カノン、ルネの胸の前に現れた冊子を見て思わずツッコミを入れる。

 しかしルネは、満足そうにただ微笑んでいる。カノンは、何故自分以外にコイツの話を聞く者がいなかったのだろうかと、現状への理不尽を思う。せめてもう一人くらいいてくれたら、この展開への理不尽を分かち合えただろうに。無念である。

 

ルネ「さあさあ、読むわよね? ねえ?」

カノン「読むわけないだろっ! あたしアンタの書くもの読むと、二三日もやもやするんだから!」

ルネ「そんなに私の書いたモノで心を動かされてくれるなんて、嬉しいわ」

カノン「褒めてない! 褒めてないっての! 寄るなっ!」

 

 持ち前の反射神経を活かして逃げまくるカノン。彼女を追うルネ。

 そんな二人の奇妙な珍騒動を聞きつけた者が、カウンターの中から現れる。

 

ナイン「何ですか、何事ですか?」

ルネ「あらマスター、いいところに来たわ」

 

 顔を出した少年に、ルネは手にした本を差し出す。

 

ルネ「私の書いた新しい話なんだけど、ちょっと読んで意見を聞かせてくれない? ちなみに密通モノよ」

ナイン「姦通ですか。いいですね、人間の劣情を扱った作品には興味があります」

 

 ナインは眉一つ動かさずにそう言って、ルネから冊子を受け取る。ナインは冊子をパラパラとめくる。

 

ナイン「性交渉はないのですね」

ルネ「あら、欲しかった?」

ナイン「人間の発情と感情の結びつきには興味がありますから。姦通を扱った小説はその点分かりやすく書かれていることが多いので、僕のような初心者にも理解しやすいのです」

ルネ「あなた、面白いこと言うわね」

 

 ルネとナインの密通トークは続く。カノンはうんざりして立ち上がり、そのまま去ろうとする。だが寸前、自分がカウンターに立ち寄った本来の理由を思い出し、振り返る。

 

カノン「ねえ、水ちょうだい?」

 

 窓の外からは、明るい小鳥のさえずりが聞こえ始めていた。

 

 

 

 

 


 一方その頃、セントシュタイン某所の宿屋。

 ある一室に二人が正座、一人がそれを見下ろす形で立っていた。


ガライ「何でもっと早く、言ってくださらなかったのですか」


 見下ろす男こと吟遊詩人ガライ、常とは別人のような冷えた声色で言う。

 対する正座する男と女、傭兵アレフとロトは、微妙に眼前の男から目を逸らしながら言う。


アレフ「いや、その……」

ロト「だって、本気で怒ったガライさんって怖いし……」

ガライ「当たり前ですっ!!」


 ガライが声を荒げ、二人は肩を跳ねさせる。


ガライ「どこに他人の旅袋で、極上のカビを培養する人がいますかっ!」


 ガライ、勢いよくクローゼットを開け、中身を指差す。中には、物がたくさん詰まっているには不自然な、綺麗な球の形に膨れた袋が転がっている。

 するとロト、それまでの萎れっぷりを忘れたかのごとく立ち上がり、キラキラとした瞳で歓声を上げた。


ロト「わあっ、すっごーい!」

ガライ「すっごーい、じゃありません! 昨日は袋を持っていくのを忘れたから今日こそは、と思って探してみたらこれですよ!? 久しぶりに本気で悲鳴を上げて喉が痛くなった僕の気持ちが分かりますか!?」

ロト「だってガライさん、いつも竪琴弾いてるじゃん! 植物にはいい音楽を聴かせるとよりよく育つっていう噂聞いたら、ガライさんの竪琴パワーで極上のカビが秘宝のカビに進化するかもって思うでしょっ? 気になるでしょ!?」

ガライ「思いませんし気になりませんっ! 僕の竪琴は進化の秘法じゃないですから!」

アレフ「ま、まあ落ち着けよガライ」


 アレフ、咳払いをして言う。


アレフ「コイツも、もっと早くよそうと思ったらしいんだ。だが元々あった潔癖症と知的好奇心が激しくせめぎ合ってだな、気付いたらこんなに日が経っちまって……」

ガライ「よく言いますよ! 僕は知ってるんですよ? ロトちゃんがこんなことをする気になったのはあなたのせいでしょう!?」


 アレフ、目を横に泳がせる。


アレフ「知らねえなあ」

ガライ「すっとぼけないでください。僕はアインツさんから聞いてるんです。あなたが極上のカビを使った極上チーズでチーズインハンバーグを作るって言ってたって!」

アレフ「チッ」

ガライ「舌打ちしたいのは僕ですっ!!」


 ガライ、髪を振り乱して怒りながら竪琴を構える。


ガライ「こうなったら、僕が浄化しますッ! ええ、やってやりますとも!」

アレフ「やめろガライ、落ち着け! せめてその前に、俺に暴かせてくれっ!」

ロト「やめてガライさんッ! そんなにしたら壊れちゃうぅ!」


 一同、すったもんだの大騒ぎになる。

 ちょうどその時、部屋の前へ宿の主人の奥方がやってくる。朝食が出来たことを告げようとし、中から聞こえてきた騒ぎに口を噤む。


奥方「んまっ。こんな朝から……」


 奥方は静かに首を振り、若いっていいわねえと呟きながらその場に背を向けた。






20170218