昼、リッカの宿屋は大賑わい。宿泊客と外からの客が次から次へとなだれ込み、客席が押し合いへし合いの大盛況となる。
その客の波がゆるやかになり始めるのが、おおよそピークから一刻半の後。宿の従業員ナインが皿洗いをし始めたその頃、一人の宿泊客がカウンターの彼のもとへやって来る。白銀の髪の賢者である。
アリア「あら、リッカさんもルイーダさんもいないのね」
ナイン「ただ今休憩中です」
アリアがカウンターに腰掛ける。ナインは彼女の前にメニューを置く。
アリア「凄い混雑だったから、大変でしょう」
ナイン「その通りでございまして、だから僕が早めに昼食を取ってからカウンターに入り、お客様が減ってきた頃を見計らって、お二人に休憩に入ってもらっているのです」
アリア「夜になると、もっとお客さんが増えるものね」
ナイン「はい。忙しい時間帯に不可欠なお二人に息を抜いてもらうとしたら、今しかありませんから」
アリア「本当に大変ね。私たち冒険者は朝早くから夜遅くまで対応してもらえるから大助かりだけど……二人とも、たまにはちゃんと休めてるの?」
ナイン「はい、そこは抜かりなく。大黒柱が折れれば終いなどという有様では、お客様にいつまでも長く愛していただける宿とは、なれませんから」
アリア「すごいのね」
ナイン「僕の経営手腕によるところではありませんが、恐縮です。ところで、何をお飲みになりますか?」
アリア「あっ、ごめんなさい。オレンジジュースをもらえるかしら」
ナイン「かしこまりました」
ナインは背の高いグラスにオレンジ果汁を注ぎ、グラスの縁にサボテンの花と身を添える。南国風の装いに仕上がったそれをアリアの前へ滑らせた頃、商人キラナが歩み寄ってくる。
キラナ「あれ、アリア。もうクエスト終わったの?」
アリア「ええ。カノンとルネは?」
キラナ「まだみたい。洞窟潜るって言ってたから、まだかかるんじゃないかな」
アリア「二人とも、好きよね」
キラナ「本当にね。あっ、マスター、私にもキラージャグリングちょうだい」
ナイン「こんな時間から、いいんですか?」
キラナ「今日はもうお仕事終わりだもの。それにこのくらい、ジュースと変わらないよ」
ナイン「またそんなこと言って」
そう言いながらもナインは手際よく支度を整えていく。
アリア「お仕事と言えば、今度の合同誌の原稿は進んでるの?」
キラナ「おかげさまで順調よ」
キラナはぐっと親指を立てる。
キラナ「このまま行けば、来週には濡れ場に入る」
アリア「ちょっと」
アリアは頬を赤らめ、辺りに目を配ってから口元に手を添えて囁く。
アリア「もうちょっと小さい声で言ってよ」
キラナ「はは、ごめんごめん」
キラナは軽く笑って謝る。それから悪びれたそぶりも見せず、悪戯な笑みを浮かべてアリアを小突く。
キラナ「騒がしいし、私たちの周りには人いないじゃん。そんなに気にしなくても大丈夫だよ」
アリア「そういう問題じゃないのよ」
キラナ「アリアは初心ねぇ」
アリア「キラナ!」
アリア、顔を真っ赤にして怒る。
アリア「もう、またそうやってからかって! キラナはもっと慎みを覚えるべきよ!」
キラナ「あーわかったわかった、悪かったって!」
アリア「分かってないっ」
プンプンと擬音が出そうな怒り方をするアリア。キラナは説教の始まる気配を察知し、急いで話題を変える。
キラナ「そう言えばっ! アリアは原稿進んでるの?」
すると、アリアは一転幸せそうな笑顔を浮かべる。
アリア「ふふ。実はね、順調なのよ」
キラナ「あれ? ネタに困ってるってこの間言ってなかったっけ?」
アリア「そうなんだけど、実は先日とっても素敵な現場を見たの」
ナイン「事件ですか?」
アリア「生臭くない事件よ」
少し残念そうなナインを尻目に、アリアは友人に目撃談を語り始める。
アリア「お昼時だったわ。私はインクを買おうと思って、カノンと一緒に商店街へ出かけたの。そしたらそこに、美男美女のカップルがいてね」
キラナ「スペック」
キラナ、妄想のための材料を簡潔に求める。アリア、待っていましたとばかりに答える。
アリア「ビターチョコレートみたいな髪をした男性と、飴細工のお人形みたいな、可愛いお嬢様よ。男性はしっかりした印象のキビキビした方だったけど、お嬢様の方は無邪気で屈託ない感じだったわ」
キラナ「ほうほう」
アリア「で、その二人が広場でベンチに隣り合って座っててね? ちょうどその時カノンが武器屋に行ってたから、私は少し離れた隣のベンチでクレープを食べながら、カノンの帰りを待とうとしてたんだけど」
ここでアリア、隣のキラナの方へ身を乗り出す。
アリア「そのカップルがね、すごいのよ」
キラナ、つられて声を低める。
キラナ「どうに?」
アリア「想像してみて」
キラナ「もうしようとしてる」
アリア「そっか。ごめん」
アリア、きょろきょろとあたりを見回してから声を潜める。
アリア「時刻は正午過ぎ」
キラナ「うん」
アリア「人通りが一番多くなる時間帯」
キラナ「うんうん」
アリア「そんな時刻の広場の、長蛇の列ができる人気のアイスクリーム屋の前にあるベンチに座って」
キラナ「うんうんうん」
アリア「つっつきあいしてるのよ」
キラナはアリアを見る。しかしアリアは、口を噤んで見つめてくるのみである。
キラナ「ん? なんて?」
アリア「つっつきあい」
アリア、復唱する。
言葉を失うキラナの前、アリアは急に拳を握って語りだす。
アリア「二人ともティーンズでもないいい大人なのに! つっつきあいよ!? アイスクリーム屋に並ぶ人たちがみんな見てるのに、彼女さんの方がやたら楽しそうに彼氏さんをツンツン指でつっつくの! で、彼氏さんはやめろよって言いたそうな顔してるんだけど言わないで適当に払ったりとかしてて……こう、構って欲しがる可愛い彼女さんと、面倒臭いって顔してるけど満更でもなさそうな彼氏さんっていう典型的な組み合わせっていいなって! 可愛いよね!?」
ナイン「そうですね」
黙っているキラナの前に出来上がったカクテルを差し出しながら、ナインが答える。
ナイン「そういう彼女か甘え上手なカップルは、性交渉不足になりづらいと聞きます」
アリア「やだもう、ナイン君ったら!」
アリア、頬を両手で挟んできゃっきゃとはしゃぐ。キラナ、ようやく言うべき言葉が見つかって口を開く。
キラナ「アリアって、意外とちょっとしたことでものすごく楽しめるタイプだよね……」
アリア「え、そうかしら?」
アリア、小首を傾げる。
アリア「でも、ここからが本当のトキメキポイントなんだから!」
キラナ「はいはい。なぁに? 彼氏が彼女の膝枕でお昼寝したとか?」
アリア「もう、違うってば!」
キラナのからかいにアリアはむくれるが、すぐまた目を輝かせて語る。
アリア「それでね? しばらくそうやって遊んでたら、彼氏さんが急に彼女さんの手首を捕まえてね? 立ち上がってベンチの背もたれに彼女さんを押し付けて、自分は彼女さんの膝の横に膝をついて覆いかぶさったのよ!?」
キラナ「ヒューっ、やるぅ」
キラナはぱらぱらと拍手する。
アリア「しかもね、その覆いかぶさった状態で顎クイもしたんだから!」
ナイン「顎クイというものについては聞いたことがあります」
ナイン、大真面目に言う。
ナイン「美男子が接吻をする対象の顎を指で軽く持ち上げる動作のことですね?」
アリア「そう、まさにそれだったの!」
キラナ「辞書に出てきそうな説明だわ」
アリア、胸の前で両手を合わせて乙女らしい嬉々とした口ぶりで語る。
アリア「ここのところしばらく新しいものを書こうと思ってなかなか書けなくて、恋人らしい濃いやり取りの小説ばかり読んでは詰まってたから、ああいう初心なやりとりって癒されるものなんだってことを久しぶりに思い出したわ! だからこの新鮮な気持ちを書くことにしたの。そしたら筆が進むようになって」
キラナ「へー」
アリア「やっぱり楽しくお話を書くには、実感って大事ね。気分転換に外へ出てよかった!」
キラナ「そうだね。作品が書けそうならよかった」
弾んだ様子のアリアに対して、どこか冷めた調子のキラナ。アリアは少し、白い眉を持ち上げて問う。
アリア「キラナ、バカにしてるでしょ?」
キラナ「アリアのことは馬鹿にしてないって」
キラナ、真摯な顔で首を横に振る。
キラナ「ただちょっと、それを眼の前で見せられたアイスクリーム屋の客の気分になっちゃっただけ」
一方その頃、セントシュタインのとある別の宿。一室にて、焦げ茶の髪の傭兵と金髪の姫君が語らっている。
ローラ「ねーアレフー。誰と浮気したんだっけ?」
アレフ「いい加減その話はよせ」
傭兵アレフはうんざりしたように言う。だが姫君ローラはにやにや笑いながら、アレフの首元を人差し指でつつく。
ローラ「面白かったなー、あの時のアレフ。朝帰りってやつ?」
アレフ「やめろ」
ローラ「土下座するアレフレッドさんを見下ろしてた時の、げっそりしたヒッドイ顔! しかも首に、ねえ?」
アレフ「やめろと言ってるだろ」
ローラ「ぷぷぷ。やめられないなー? だって、朝起きるなり二人が玄関に立っててだよ? アレフレッドさんが土下座して謝って、『俺はとんでもない過ちを犯してしまった』ってーー」
アレフ「おい」
アレフ、片手でローラの両頬を挟むようにして、ぶにゅりと掴む。ローラ、タコのように突き出された桃色の唇を尖らせる。
ローラ「むむぅ」
アレフ「いい加減にしろ。またあのアイスクリーム屋での事件を、再現されてえのか?」
ローラ「やってみればー? 自分だってあの後真っ赤になってたくせにぃ」
アレフ「なッ!? よく言うわ、お前こそーー」
ローラ「ちょっと、枕投げはないでしょ!? 暴力はんたーい!!」
二人は言い合いを始める。
痴話喧嘩が部屋の外へくぐもって響く。ちょうどその前の廊下をモップ掛けしながら通りかかった宿の主人は、女の高い声とギシギシという木の軋む音を聞いて、しみじみと呟く。
主人「うーむ。昼間から、お楽しみですなあ」
そしてまた、廊下のモップがけを再開するのだった。