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20140609 管理人 拝

 

       

 

 







 実験が好きだった。繊細さが求められる緻密な作業は、こちらが心さえ配れば誠実な結果を返してくれる。そうして得たデータを記録分析して、一つでも真実の欠片を集められると安心し、胸が躍ったものだ。

 真実は常に変わらないもの。私たちが気づいていないだけで、確かにそこにある普遍。

 ずっと、私が生まれる前から、父や母がいた頃から、永遠に在るものは在るのだと、信じていた。






 「真実」に深くヒビを入れたのは姉の死だ。あの明るい笑顔はもう見られない。優しい声も聞けない。不死の薬など開発する意味がない。以降、贖罪のための実験ばかり続ける日が続いた。

 しかし、自分の「真実」を壊したのは別のものだ。あれは何だったのだろうと宮野は今でも考える。時か運か、はたまたあの男か。全てだったのかもしれない。

 その日も贖罪の実験をしていた。APTX4869のレシピがなかろうと、解毒薬ができるならばそれに越したことはないので、暇さえあれば開発に取り組んでいた。「灰原哀」と名付けられたあの頃の彼女がやっていたことと言えば実験か、そうでなければ放っておくと危険なことになりそうな世話のどちらかだった。たとえばわんぱくな子供たちと負けないくらい成長期などこぞの腹部を管理したり、またはラブコメとミステリー間の往復で忙しい男に押しつけられた物品の解析をしたりといった具合に。

 灰原は新しい糸口を探して、過去の実験記録を読み返した。

 はじめはデータばかりを追っていた。それがいつの頃からか、複数の実験記録を比較しているうちに目が違うところへ逸れていった。

「■■■■年、四月十六日」

 二つの用紙を見比べる。明らかに違う実験。それも同日にやった記憶は一切無い。

 日付を間違えたのだろうか。次の用紙をめくり、その次の用紙をめくり──手が止まらなくなった。

 めくるたび違う実験が出てくる。これでも真摯に科学に打ち込んできた方だと自認している。いつどのような仮説を立て、どのような手順を踏んで、どのような実験を行っていこうとしたか、全て覚えている。

 その記憶が、実験の行われた順番に間違いはないと言っている。しかし記録の日付がおかしい。

 行った実験の件数は優に千を超えている。だが実験の行われた年が、すべて変わっていない。■■■■年。また■■■■年。その次も■■■■年。どれを見ても■■■■年。

 皆同じ年だ。

「どういうこと……」

 漏れた声が震えた。手に力が入らなくて、実験記録が床に散らばった。一面に広がる白い紙に、見慣れた自分の筆跡が延々と書き連ねている。

 ──■■■■年。

 私はどうかしていたのか。灰原はこれまでを──この邸にやって来て、実験に取り組んできた日を思い返した。どこか妙な記憶は無いか、全ての記録の年月を書き加えるような、気が狂っていたに違いない日を探した。だが何も見つからなかった。在るのは愛しい記憶。以前の半生に無いほどに生き生きと過ごしてきた日々の、思い出だけだった。

 たった一年でこれだけの実験数を、天才発明家とはいえ、市井の民間人の家でこなせるわけがない。こんなにたくさんの思い出が、たった一年であるものか。

 ──私はいつ、ここに来た?

 いても立ってもいられなくなり、実験室を飛び出して階段を駆け上った。

「博士ッ」

「うわっちぃ!」

 阿笠博士はリビングで珈琲をすすろうとしていたところだった。飛び上がるようにして少女を見て、マグを机に戻した。その陰に愛らしい皿がもう一枚ある。

「な、なんじゃ哀くん。ワシはドーナッツなぞ食べようとしとらんぞ!?」

「今は西暦何年?」

 博士はきょとんとして答える。

「それは、■■■■年じゃろう」

「じゃあ私がこの家に来た日は?」

「ワシの脳みそを試しとるのか? 哀くんが来た日を忘れるわけないじゃろう」

 福々しい、丸い肉を蓄えた口元が笑って言う。

「■■■■年の、■月■日じゃな」









 

 この世に科学で証明できないものなどない。一見不可解な現実でも、より研究すれば新しい普遍の法則を秘めているものなのだ。

「灰原、ぼちぼち汁粉食いたいって博士が言ってるぞ」

 扉を開いた江戸川が、刹那目を丸くする。大きな目に映ったのは、壁に所狭しと貼り付けられた人体の成長データか、マウス達の成長記録か、それとも部屋の外周を何重にも取り巻く、砂時計の群れか。テレビに映るアイドルの顔が、砂時計にいくつも映り込んで分身した。情熱的に歌う彼の喉の色が、部屋も赤く染める。

「うわ、すげえな。いつの間にこんなの作ったんだ」

 自分の背丈の五倍もあろうかという地球儀状の砂時計を見上げ、感嘆の声を挙げる江戸川を一瞥し、さあねとだけ返してPCの画面に目を戻した。ソフトは狂い無く稼働しており、部屋中の砂時計の回転数が、もうすぐこの装置を設計してから一年が経つことを示している。厳密にはあと、三分五十六秒。

 実はこの部屋の外、屋敷の屋上にも二つ設置してある。どちらもこの部屋の装置とは別の動力源で動いており、片方はソーラーパワーと電波の併用、もう片方はこの部屋の装置と設計は同じだが、別個体となっている。

 つまり、この部屋の時間と公共の電波の示す時間と、そしてこの部屋の外の時間とを比較することによって、時間の経過を比較しようという心積もりなのである。

 現段階で、どの装置にも故障は見られない。

「なあ灰原」

「キッチンに用意してあるわ。あたためるくらいできるでしょ。先にやっててちょうだい」

「何だよ。そんなに手が離せねえことやってるのか?」

 アイツらも待ってるのに、と江戸川は呆れている。少年探偵団の皆には申し訳ないが、これだけは譲れない。

「カウントダウンライブの終わり、見てから行きたいのよ」

「ったく、しゃーねーな」

 江戸川は戸を閉めて上がっていった。

 あと十三秒。十二、十一……三、二、一。

 砂時計がひっくり返る。

『ハッピーニューイヤー! 新しい年もよろしくな!』

 アイドルが叫んでいる。テレビ画面にネオンが踊って西暦を表示する。

 ──■■■■年。

 灰原はPCのモニターを見た。設定した三つの時刻測定装置、全てが■■■■年一月一日零時を指していた。

 砂時計は回り続けている。回転数が一つ、また一つとPC上にカウントされていく。

 ■■■■年が、また始まる。









 時の実在を確かめることは難しい。宮野であった頃から、自らの専門は薬と医、化の領域だと考えてきた。だからこのような問題は、本来門外漢なのだ。

 それでも自分なりにできる方法で、時間の経過を確かめようとした。生体の変化である。たとえば人間の細胞は絶えず生まれては死にを繰り返しており、一年経つ頃にはすっかり別の細胞の塊へと変貌している。

 APTX4869に狂わされた自分の体は参考にならないので、博士の健康管理と称して博士のデータを取った。それからついでに機会をうまく作って少年探偵団の皆と、それから人間だけでは心許ないのでマウスでも記録を取ってみた。

 結果、どれもきちんと変化していた。そうなるとおかしいのは人間の認識、つまり宮野の認識か。

 たとえば、西暦を示す言葉が全て同じ「■■■■」年に聞こえてしまうとか。

 灰原はラボで一人、鼻を鳴らした。まともな生活を送ってきていないことは自負しているが、そこまで狂っていないはずだ。大体狂っていたとしたら、自分ではもう何も確かめようがないのでお手挙げである。

 馬鹿馬鹿しい。■■■■年が繰り返されたところで何なのだ。それより重要なのは、手元の生体データだ。

 もう一度入念に、見直した。どう見ても、変化はしているが「変化していない」。ひとしきり全身の細胞が生まれては死んでいった結果、全く同じ形に生まれ変わっている。幼い少年探偵団だけでなく、阿笠博士もだ。老人がここまで変わらないとは考えられない。

「つまり」

 灰原は無機質な壁に向かって確認した。

「物質的にも精神的にも時間的にも、ある一定期間を私たちは繰り返している。そのある一定期間というのは、通称『■■■■年』という一年間で、私を除いた人間は恐らくその一年を繰り返していることに気づいていない。更におかしいのは、一年を繰り返しているのに、降り積もる時は──時というものがあるならばだけれど──新しく、増え続けているということかしら」

 記録をさらってみた結果、もうすでに二十回を超えるほどに春夏秋冬を繰り返し過ごしているのだが、周囲がそのことに疑問を感じている風はなかった。少年探偵団は一向に進級しないこともクラス替えがないことも、自分が年を取っていないことも気づかない。あの江戸川コナンこと工藤新一でさえそうなのだ。

 工藤新一の恋人、毛利蘭もそうである。彼女はもう四十歳になっていてもおかしくないのだ。なのに高校二年生のまま、帰ってこない思い人を待ち続けている。その身辺はいわずもがな。

「何よ、これ」

 いつからだ。

 いつからこうなっていた?

 いつかの雨の日、死ぬつもりで自身の開発した薬を飲んだ。あの日まで、時は正常に作用していた。

 ──そんなはずはない。

 本当に『宮野志保』が消えたあの日が起点か? その頃の記録は、『灰原哀』の手元にはない。

 ──『工藤新一』のAPTX4869投与結果を、「不明」から「死亡」に書き換えたのはいつだ。

 実験マウスの一匹が若返ったのは、いつだ。

 ──嘘よ。

 灰原哀こと宮野志保の頭脳は優秀だ。彼女はデスクの一つを開けた。一番奥に、クリアファイルが一つ。

 挟まれているのは色あせた新聞記事だ。おびただしい文字の中心に一枚の写真、大きな眼鏡の少年が、縋る少女を背に負いながら、横たわる女を見下ろしている。

 長い黒髪。横顔は──その顔が優しい顔をしていたことを、灰原は知っている──決してこちらを振り向かない。

 灰原は記事の斜め上を見た。

 ■■■■年と記してあった。

「いやあっ」

 頭を抱えて崩れ落ちた。足がもう立たず、上体を起こしていられなくて、額を床に打ち付けた。

 ずっと今のままでいいと思った頃があったのも事実だ。放っておけない優しい博士と、無邪気な子供達と、気障ったらしくて憎たらしい誰かと、ずっと一緒にいられたらと思ったこともあった。

 でももう、堪えられない。

「どうして今更──」

 何故時が進まないのだ。

 己が薬を盛られた青年が少年になった。その頃からちょうど「時が止まっている」。

 『宮野志保』を殺して、『灰原哀』は生まれた。『灰原哀』は暖かい人々に囲まれて生きている。優しい博士と、無邪気な少年達。天使のような少女は恋人の無事を祈り続け、その恋人は天使を欺き続けながら傍にいて、彼女に応えられない自分を歯がゆく思っている。

「いや……ッ」

 『宮野志保』は、自分のせいで他人が不幸になることを望んだわけではない。彼女が望んだのは変わらないもの。記憶にない両親が心血を注いだ実験と、自分を愛してくれる姉がいれば、どこで生きていくことになってもいいと思っていた。

「助けて、お姉ちゃん……」

 口にしてから、姉は自分のために死んだのだということを思い出した。









 灰原哀は死ぬことにした。ラボに一人閉じこもって、カプセルを口に含む。瞬く間に襲ってくる激痛が、今自分の身体は隅々まで破壊されているのだと教えてくれた。

 視界がブラックアウトして、気付いたら床に倒れていた。目の前に伸びた手は記憶より長くしなやかな、十八歳のものだった。

「あ、哀くん……?」

 予想通り、彼女の姿を見た阿笠は動揺した。かぶりを振ってみせる。

「いいえ、彼女はもう死んだわ。でもまだ、彼女の仕事が一つだけ残ってるの」

 それから江戸川を呼ぶようお願いした。本当ならば自分の身体に問題が無いことを完全に確かめてからがよかったのだが、彼が一ヶ月阿笠邸に来ないなんて考えられない。だから先に言ってしまった方がいいだろうと考えたのだ。

「灰原?」

 宮野の姿を見た江戸川は、あっけに取られた顔をした。

「灰原哀は死んだのよ、江戸川コナン君」

 対する宮野は眉一つ動かさず、先程阿笠に言ったのと同じ台詞を繰り返した。

「貴方の身体を元に戻す方法を教えるわ」

 APTX4869は毒の検出されない毒薬だ。それを中和しようとしても限度がある。

 ならば、文字通り毒をもって毒を制してやったらどうか。幼児の形に縮みきった生体は、それでも中和すれば元の体という形状を覚えていた。だから、その元の形状でいずにはいられないような毒を与えてやればいい。

「今投薬から三時間が経つところだけど、経過は良好よ。でも三ヶ月は経過観察しないと不安ね。本当ならば一年は見たいところなのだけど」

「オメー、一人で無茶しやがったな」

「あら、貴方だっていつもそうじゃない」

 江戸川の眉が吊り上がり、声が低くなっている。宮野は済まして答えた。

「忘れたの? 貴方は被害者で私は加害者。貴方が私を心配する理由は無いわ」

「灰原……!」

「違うわ。貴方だって、最初は私を責めたじゃない。毒を作る気なんてなかったとは言え、そして盛ったのが私ではないとは言え、今でははっきり認められる。私は罪人よ。蘭さんのためにも、貴方はまず私の提案を聞くべきね」

 恋人の名前に、少年は固まった。

 分かりやすい人。宮野は内心笑って、続けた。

「三ヶ月、私は自分の経過観察をする。これで何も大きな副作用が現れず、このままの身体でいられるならば……貴方にこの薬を渡そうかと思うの」

「本当か?」

「貴方は晴れて工藤新一に戻れるわ。だけどこのまま戻れば、当然すぐに組織の手が貴方にかかることになる」

 だから、選択して。宮野は声を落とした。

「三ヶ月後、工藤新一として真っ向から彼らと戦うか、江戸川コナンとして水面下の攻防を続けるか……貴方次第よ」







 三ヶ月経っても、宮野の身体に変化はなかった。薬の開発に成功したのだ。

 江戸川コナンは自身に薬を投与して、工藤新一に戻った。ひとしきり喜んだ後、彼はいよいよ動き出すべく、阿笠邸を後にした。

「哀くん。何もここまで無理することは無かったんじゃないかのう」

「志保よ。いいえ。彼はきっと薬を取りに来るわ」

 江戸川に話をした日、宮野は帰っていく小さな背中を見送った。その背中に、少年らしからぬ気迫が宿っているように思われた。

「蘭さんを危険な目に遭わせないために、なんてずっと言って来たけど、本当のところはもう焦れて仕方が無かったのよ。彼、犯罪者を追い詰めるの、好きでしょう。彼らをとっちめたくて仕方ないはずだわ。工藤家には多くのコネクションと資産がある。更に彼個人の知り合いも強力だわ。それを全て駆使すれば、蘭さんや毛利さん、貴方を匿うことは勿論、更に組織と互角に渡り合うには十分なくらいのはずよ」

「そうかのぉ」

 なおも不安そうな博士に、宮野は頷く。

「ええ。私の知る限り、江戸川コナンという少年にはそれだけのポテンシャルがあったわ」

 彼の相棒として生きてきた『灰原哀』と、かつて組織の一員であった『宮野志保』と。両方から見て、彼には優れた力があった。

 この止まった時に留めておくには勿体ないと感じるほどの、未来があった。

 宮野は『灰原哀』の部屋に飛び込んだ。彼女のものは、今日の日のために大方始末してある。あとは最低限のものを詰めた鞄を一つ持つだけでいい。

 鞄を掴んで、阿笠邸を大股に横切る。阿笠のついてくる気配を背中に感じた。

「どこ行くんじゃ」

「 出て行くのよ。安心して。薬の予備とか必要そうなものは地下のラボに置いてあるから」

「哀くん」

 ドアに手をかけた瞬間、阿笠が言った。

「だから私は志保だって──」

「ワシの養子にならんか」

 振り返ると、彼のまっすぐな目とかち合った。

「何を、言って」

「ワシは哀くんにご飯を作ってもらえて幸せじゃった。ちと厳しすぎることもあったが、あれも愛情のエッセンスみたいなものじゃろ? つらくはなかったんじゃよ。日本が嫌ならばアメリカでもいいから、また一緒に住んでご飯を作ってくれんかのう?」

「馬鹿言わないで。私は宮野志保よ。貴方のかわいがっていた工藤新一を、害した人間なのよ」

「知っとるよ。志保くんは哀くんじゃし、哀くんは志保くんじゃろう」

 いつもは厳しい言葉を浴びせればすぐ怯む老人が、一向に怯まない。

「新一も可愛い孫みたいな奴じゃが、あ──志保くんもそうじゃ。呼び慣れんから哀くんと呼んでしまうこともあるじゃろうが、志保くんも可愛い、ワシの孫のような子じゃ」

 宮野の瞳孔が、初めて僅かに揺れた。阿笠は優しい眼差しのまま、彼女に近寄る。

「新一も、もう君に罪をどうこうなど、思ってないはずじゃよ」

「駄目」

 やっとのことで、それだけ絞り出した。

「私は別に、彼に義理立てしてるわけじゃないわ。博士のメタボだって手に負えないし、もううんざりなのよ。嫌なの。ラブコメ探偵に振り回されるのも、組織から逃げ隠れするのも、子供達の面倒を見るのも、博士のメタボも」

「そうじゃったか」

 博士はしょぼくれるような仕草をした。宮野は再び背を向ける。

「哀くん」

 早く出て行かなくてはならないのに。呼び止められると、どうしても足が止まってしまう。

「また、顔を見せると約束しとくれ」

「……悪いけど、その女の子はもう死んだのよ」

 今度こそ振り返らない。宮野はドアを見つめたまま言った。

「そういえば、その子から伝言を預かってたわ」

 取っ手を握る手に力がこもる。

「今までありがとう、博士。大好きよ」

 返事が聞こえる前に外へ飛び出した。半ば駆け出すようにして路地を行く。見知った景色が遠ざかっていく。早く遠くへ。今ならば皆の目は元に戻った工藤新一と、組織打倒に向いている。『灰原哀』を知る者がいない場所へ行って、お節介な人間の手が伸びる前に、『宮野志保』として死にたかった。

 宮野は走る。今日のために用意しておいたパンプスが足を締め付けて痛い。『宮野志保』は動きやすい運動靴なんて履かないのだから仕方がない。子供じゃあるまいし。

「いったいわね、もう」

 宮野はぼやいた。鼻声になった。









 意外と警察の施設っていうのも、過ごしやすいわね。

 宮野志保は、何の模様もない壁紙を眺めている。自ら命を絶つ場所を求めて米花町を離れたはいいものの、海に辿り着いたところで所轄の警察官に保護されてしまった。そのため今は、どうやって脱出しようか考えているところである。

 他人に手間をかけさせずに死ぬのは、非常に難しい。組織にいた頃は死んだ後の始末など全く心配したことがなかった──死体の処理など燃えるゴミと同程度の扱いだ──から、『灰原哀』として死ぬことを決めた後、『宮野志保』としての死に方を検討して困ってしまった。この国では法律によってどれだけ基本的人権が守られているのかを思い知らされた。宮野は誰にも、それこそ事件に敏い米花町の誰かが気づかないように自分に片をつけたいのである。たとえ自分の知らない人間であっても、迷惑をかけるようなことはしたくない。日本はどんなに人気の無いところであろうと、誰かの所有地だ。そこで命を絶ったら所有者に損害をもたらすことになる。

 ならば外国は? 飛行機で脱出して、渡った先で命を落とすというのはどうだろう。

 絶対邪魔が入る。

 宮野には残念なことに、妙な確証があった。阿笠邸の隣には、約束に縛られた男が住んでいる。その男の管轄は、まさに国外なのである。万が一うまく飛行機に乗れて、彼の所属する国と親しくない国に飛べたとしても、恐らく彼はうまく口実をつけて宮野を追ってきて、仲間から得た情報で宮野の居場所を正確に掴み、捕まえるだろう。合衆国は何十年も前から衛星で地球の表面を把握し続けている。さらに力業は彼らのお家芸だ。

 だから目立つ髪と瞳の色を簡単な仮装でごまかし、在来線を乗り継いで海を目指した。海に出て、日本国に属さない沖に出てしまえばいい。それが人生の大半を組織で生きてきた十八歳に思いついた、精一杯だった。

 ──十八年の人生にしてはそれなりにものを知ってるつもりだったけど、やっぱり知らないことはまだまだあるのよね。

 宮野は自虐の笑みを浮かべた。偏りのある人生だったことは承知している。世間慣れしていないという一言で片付けるには、宮野の境遇は特殊すぎた。

 宮野を保護した所轄の人間は、どうも他からの指示で動いているようではなかった。単純に深夜に海辺を徘徊していた宮野を訝しく思い、善意で保護した様子だった。身元を聞かれたが、適当に名前をでっち上げて、彼氏と喧嘩して家を追い出された二十五歳ということにしておいた。自分が『宮野志保』であるとわかるようなものは何も持っていない。さすがの名探偵も、都から遠く離れたこんな鄙びた土地で保護されている二十五歳に目はつけまい。

 何はともあれ脱出だ。宮野は格子のついた小さな窓を仰ぐ。夜陰が薄くなりつつある。もうすぐまた警察官が様子を聞きに来るだろう。どうにか出られるようにしなくては。

 宮野が思案を巡らせていると、戸が開いた。つられて動いた宮野の目が丸くなる。入ってきたのは、この辺りで見かけそうに無い、上質なスーツをまとった初老の男だった。

「宮野志保博士でいらっしゃいますか」

 男は慇懃に尋ねる。宮野は眉根を寄せた。

「名前、おまわりさんに聞いたでしょ」

 動揺していることを悟られてはならない。あくまで宮野は今、彼氏に追い出された二十五歳の女なのである。

 男の後ろから、この所轄の人間が入ってくる様子は無い。それが余計に、宮野の預かり知らない何かがこの男を形取って現れたようで嫌だった。

「失礼しました。私、こういう者です」

 男は名刺を差し出した。「警察庁科学警察研究所 中達守」とある。

「刑事さん?」

「研究職ですよ。貴方もよくご存じでしょう」

 すっとぼけた答えを返したのに、大真面目に訂正された。よく知っている。警察庁の研究機関だ。

「ただ、今回貴方にお声かけしたのは、この肩書きが理由ではないのですが」

 男は名刺を裏返した。おもむろに懐からライターを取り出し、名刺を炙る。宮野は思わず身を乗り出して、表面に浮かび上がった文字を眺めた。

「特殊存在、保護財団?」

「ええ。『財団』とだけ呼ぶ人間も多いですが」

 宮野は男の目を凝視した。男も凝視し返してきた。

 何者だろう。宮野の直感は、間違いなく研究者の目だと告げている。

 それも、日を浴びることを望まない研究者の目だ。

「安心してください。きちんと政府の承認を得て活動している財団法人ですよ。それも日本だけではありません。アメリカ、ロシア、フランス、中国……多数の国家に認めていただいています」

 そう言われると、かえって怪しみたくなる。

「宮野博士は、恐らく米花町にお詳しいのではないですか」

「だから、名前」

「あの町は変わっていますね。かなり犯罪が多いのに、住んでいる人間はあからさまに荒れている風も無い。しかも事件が発生しても、容疑者が逮捕されないことが無い。西暦が■■■■年のまま、関わる人間が年を取らないのも奇妙です」

 背筋が凍った。

 時が止まった米花町を異常だと感じている人間──『灰原哀』だった頃には、出会ったことが無かった。

「貴方は、何者なの」

「貴方と同じ科学者ですよ。研究対象を言うと、なかなか信じてもらえないことが多いのですがね」

 中達博士は苦笑した。組織で生きてきた宮野の目をしても異常性の見つからない、くたびれた笑みである。

「私の専門は心理学です。特に認知の問題について研究していまして、近年はヒトの認識に著しく影響を及ぼす事物を対象にしています」

 一度持論を語り始めると止まらなくなるのが研究者の常である。中達は穏やかながら熱を込めて話し続ける。

「たとえば、米花町。あの町は犯罪件数が異様に多いのに、住人のQOL評価値は総じて日本自治体の平均値を大きく上回っている。■■■■年が本当に一年だとするならば、一秒に一人が死んでいるのに、です。彼らがそのように答える理由をご存じですか?」

「さあ」

「眠りの小五郎の存在です」

 今度こそ、動揺が表に出ていないか不安になった。中達に気にした様子は無い。

「彼が必ず事件を解決してくれるから、殺人犯が野放しにならず、罪は必ず裁かれると信じているのです。更に毛利探偵以外にも、米花町には探偵が多く見受けられる、と。そうそう。近年は住人が最も信頼している探偵は眠りの小五郎ですが」

 手を打つ仕草に、わざとらしい気配は無い。

「■■■■年以前は、高校生探偵工藤新一が一番だったようです。彼は全国的にも注目されていた探偵でしたね。そう言えば、本来の、本当に最初の■■■■年でしたか。彼が高校生探偵として最も知られるようになり、そして失踪したのは──」

「貴方、何が目的なの」

 もう正体がばれることを気にしている場合では無かった。宮野志保は中達を睨みつけた。中達は素朴に首を傾ける。

「目的も何も。私は財団の命によって、貴方を勧誘しに来ただけです」

 そういえばまだお見せしていませんでしたね、と中達は手に提げていた鞄の中を漁って一冊のパンフレットを取り出した。パステル調の研究施設が映る表紙には「特殊存在保護財団」の名が記されている。

「財団の目的は、人類の把握しきれていない存在を知ることです。人類は文明を持つ前から、それこそ人類がこの地球上に形を持った二十五万年前から『未知』を恐れ続けてきました。科学の発達した現在でも、いや、科学の発達した今だからこそ、我々が把握できていない存在は確かにある。その存在を明らかにし、人類の存続のため保護、もしくは対処していくのが、我々財団の役割なのです」

「つまり、非科学の存在を研究するってこと?」

「科学的であるか否かだけが尺度の全てではないのですが、まあそのようなものです」

 オカルトくさい。

 そんな宮野の思いが顔に出ていたのか、中達は苦笑いした。

「貴方のような優秀な科学者には受け入れがたいでしょうが、世には現在分かっている視点からだけでは理解できないものがたくさんあるのですよ。そしてそれが我々の命を脅かすことも往々にしてあるわけです」

「科学のスタートが宗教だということくらいは、承知しているわ」

「それは結構なことです。神の御業を物質的かつ論理的に解明しようとしたのが、原初の科学者たちの動機です。彼らは真摯な宗教家だった」

 中達は著名な科学者の名前をいくつか挙げた。

「それに比べてしまえば、我らの研究はなかなかめざましい成果をあげられていないかもしれませんが、地球市民の生活はある程度守れているはずです。私達は未知の存在を確認し、その危険性を測り、必要とあらば捕獲収容します。そして対処法を考え、彼らとの共存の道をできるだけ探っていくのです」

「物騒な気配がするわね。私は捕獲収容されるの?」

「まさか。貴方には研職についていただきたいのです」

 財団の職員は、身柄を財団に押さえられる代わりに、衣食住が恒久的に保証される。職員はレベル1から5までランク付けされており、レベル1は危険な任務に実験的に放り込まれる元死刑囚などが多く、レベル5は財団の戦略において重要な位置を占める職員となる。仕事内容は、施設職員か対外職員かで大きく異なる。施設職員は特殊存在の収容された研究施設で働く。施設の管理をする収容専門家、技術者、警備担当の他、対象の研究をする研究員などがいる。一方対外職員はエージェントと呼ばれ、特殊存在を発見、調査して財団に報告するのが常である。

 中達はそのように説明して、宮野にはレベル4の研究員としての席を用意したいと言った。「比較的危険の無い職ってことかしら。それにしても元死刑囚を採用してるなんて、貴方の組織、ますますきな臭いわね」

「だから、国家の認可を得ていると言ってるじゃないですか」

 男はなんてこともなさそうに言う。その「国家の認可を得て」「元死刑囚」すら「採用」しているところがきな臭いのだ。

「貴方の所属していた烏丸グループよりは、貴方を大切にすることをお約束しますよ。私達は不必要な血を流すことは望みません」

 宮野は何も言わず、視線だけを注ぐに留めた。中達博士は自身の胸に手を当てた。

「国際的に怪しい団体を警戒するのも我々の役割です。烏丸グループもその一つです。貴方のご両親があそこに籍を移された時は、大変なことになったものだと思いました」

「貴方、随分お喋りなのね」

「私達の提示する条件を、貴方はきっと承諾なさると確信していますから。悪くない話のはずです。貴方の衣食住は何一つ不自由ないようにします。研究にさえ励んでくだされば、行動の制限もありません。勤務地は日本支部がよろしいでしょうか」

「どうして私に目をつけたの」

「貴方が米花町に住んでいたからです」

 依然として中達の受け答えはよどみない。

「あの町は財団の研究対象の一つです。あの町には犯罪を発生させやすくさせる何かがある。そのくせ住人の意識はいたって健康です。そのメカニズムを探ろうと財団は何度も職員を派遣してきたのですが」

 中達は、心底残念そうに肩を落とした。

「多くの職員が、あの町で暮らすうちに、事件に巻き込まれて帰らぬ人となりました。それもエージェントであるからという理由によって殺されたのでは無く、ことごとく全くもって別の刑事事件に巻き込まれて死んだのです。そのため、財団内ではあの町は最上位クラスの危険度を持つものとして扱われて、今ではあらゆる調査が中止されています」

「それは気の毒ね」

「ですから、あの町にいても殺されることのなさそうな人間を研究員にしてしまえば、研究が捗るだろうと財団の上位委員会は考えました。そして貴方に白羽の矢が立ったのです」

 宮野は鼻を鳴らした。

「殺されることがなさそう? よく言うわ。あの組織にいた人間がまともな死に方をしないこと、組織を監視しているなら知っているでしょ」

「そうかもしれませんが、あの町にいる限り貴方は問題ないはずです」

 中達は言う。

「なんと言っても、工藤新一君の友人なのですから」

 取り戻し掛けていた調子が、一気に崩れるのを感じた。

「工藤? 彼は、死んだはずよ」

「財団では、彼は910せ_8510という番号でファイリングされています。『迷宮なしの名探偵』と名高いですよ。何と言っても、彼は行く先々で事件にかち合って、必ず解決する。その性質はかなりの幼少期からあるもののようです」

 極秘ですよ、といって彼は再び鞄から一枚の紙を差し出した。それは何か、データベースをコピーしてきたもののようだった。




────



『特殊現象管理ファイル』


【整理番号】 910せ_8510


【管理状態】 収容の必要無し


【取扱手引】

910せ_8510の収容は現状不可能である。これまで3回身柄を拘束したが、完全な密室であったにも関わらず、脱出された(詳細は実験記録参照)。現在は職員監視下のもと、81か_4869で生活している。


レベル5の職員は決して910せ_8510に接触してはならない。万が一接触してしまった場合は、極力理性的に振る舞うことを心がけ、早急にその場から離れる。その際、周囲に気を配り、身の安全に細心の注意を払うこと。


 

【詳細】

910せ_8510は身長176cm、黒髪の日本人男性である。日本では◼︎◼︎◼︎◼︎という名で全国的に知られている私立探偵である。


910せ_8510は19◼︎◼︎年5月4日に生まれた。父親は小説家の◼︎◼︎◼︎◼︎、母親はもと女優の◼︎◼︎◼︎◼︎◼︎である。

910せ_8510は、幼い頃より父の影響で「シャーロックホームズ」シリーズに強い関心を抱き、ホームズのような探偵になりたいと憧れ、独自の「修業」を積んできたという。鋭い洞察力と平均から外れた量の知識を持ち、五感で察知した「謎」に極めて過敏に反応し、「推理」する癖を持つ。


910せ_8510の身辺では、1週間に1〜4回の頻度で刑事件が発生する。そのうちの99%は910せ_8510の「推理」によって解決することになる。


この「推理」による事件解決頻度は高く、その原因は未だ解明していない。…………





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「彼のことは幼少期から観察しています。何せ、比較的平和な日本で、やたらとトリッキーな事件に高確率で関わる少年がいると、財団では話題でしたから」

 財団の目と耳は、各国の至る所にあるのです。中達は言う。

「更に私達は烏丸グループを監視して長いですから、当然貴方の幼少期の姿も知っています」

 お分かりですね。

 宮野は無理矢理頭頂部に糸を括り付けられた操り人形の如く、顔を上げた。もう、取り繕っても益が無いのは明らかだった。

「貴方達、工藤君にも何か……」

「いいえ。少なくとも今と、ここ数年は何もしていません」

「ここ数年?」

「貴方が江戸川コナンとなった工藤少年と出会う以前に、彼の拘束を試みたことが五度ありました」

 宮野は目を見開いた。中達は肩をすくめた。

「つまり、工藤君が六歳、八歳、十歳、十二歳、十四歳の時ですね。何も手荒なことはしていません。何せ、完全に四肢を捕らえて、完全な密室に閉じ込めたにも関わらず、脱出されてしまったそうですから。しかも、彼の拘束に関わった者全てが、警視庁に捕まる始末です」

「何というか……それはすごく、彼らしいわね……」

「そうなんですよ。それが工藤新一君が財団の考える特殊存在であるとされる理由の一つです」

 中達は先程示した紙の一部を指した。

「彼は自身の見つけた『謎』を必ず『解決』する。確率は極めて低いですが、彼が『解決』できなくても、彼の身辺の名探偵に準ずる誰かが、彼の目の前でそれを『解決』してみせてくれる。彼の察知した『謎』は、個人情報であろうと刑事事件であろうと、どういうわけか全て名探偵にしか解けないトリッキーな難事件として解き明かされてしまう筋道を辿るのです」

 状況が状況で無ければ、笑いたいところだ。何せ、『灰原哀』として見てきた彼の様子はまさにその通りだったのだから。 

「ちなみにそういう工藤君の『性質』のせいで、未だ財団はその原因や特性を探れていません」

「まさか」

「ええ、それも貴方に探っていただければと思っています」

 宮野は額に手を当てた。

「……どうせ知ってるんでしょうけど、私は昨夜、ちょうど米花町から出てきたところなのよ」

「ええ。何も直接接触して情報を得てくれとは申しません。遠巻きに観察するだけでいいのです。貴方も気になるでしょう、工藤新一君」

「まあ、 そうね。実験対象として、ね」

 嘘では無い。現に宮野志保が工藤新一に接触しようとした切っ掛けは知的好奇心に等しいものだったのだから。

 現在の宮野自身は、彼に対する思いをどう形容したらいいのか分からないが、それを言う必要は無い。

「ならば、契約しましょう。貴方は財団で好きに過ごせる。さらに、よく知った米花町で、工藤新一の研究もできる。勿論別の特殊存在について研究していただいても構いません。実際お願いできたらありがたいと、我々も考えています。米花町と工藤新一の研究は、ほぼ貴方の独断で行うものになるでしょう」

「貴方も米花町を研究してるんじゃなかったの?」

「私は実地調査はできませんから」

 あの町では私はモブなのでたやすく死にます、と中達は大真面目に言う。

「断ったら?」

「あの町で危うく命を落としかけた職員は多数います。彼らが、米花町および工藤新一君を完全に財団の支配下に置けないか、本格的に動き出すでしょうね。それが失敗すれば、最悪破壊命令が下されることもあります」

「そんなことできるの? 貴方達、どうせ社会の表には出られない団体なんでしょ?」

「ええ。記憶処理技術が確立しているので、お陰で未だ表に出ずに済んでいます」

 宮野は溜息を吐いた。

「貴方、性格悪いって言われない?」

「職務に忠実だとは言われます」

 こうして宮野志保は、人生二度目の自殺に失敗した。










 宮野は特殊存在保護財団の研究員となった。財団はさすが国家権力に認められているだけあって、宮野が望んだ偽の戸籍も表向きの肩書き──科学研究所の職員である──も宮野が研究員として正式に登録されたその日に手に入った。

 宮野が配属された研究所は、サイトー81XXという収容施設兼研究所である。都内にあるが米花町からは遠く、周辺には財団関係者が住むのみなので、知り合いに会う恐れも無い。

 財団は快適だった。所属する人間はどうも皆訳ありなのか、互いに深く干渉しない。だからと言って干渉を嫌うこともしないため、ほどよい距離で接しやすい。

「命のかかる仕事ですからねえ」

 一ヶ月ほど過ごしてみた感想を言うと、中達はまったりした口調で頷いた。彼は宮野を財団に引き入れ、表向きの席も手配した窓口のような人間だからか、時折彼女を気に掛けて声を掛けるのである。

「私もそうですが、色々な仕事をしている人間ばかりですし、過干渉も不干渉も仇になるのでしょう」

「ふうん」

「このサイトー81XXも今のところ平和なようですが、財団の扱うオブジェクトは基本的に『未知』のものばかりですから、比較的安全だとされていたものがある日突然大変危険であることが分かり、そのサイトが一晩にして地獄絵図に変わることもあります」

「実際にそうなったことがあるのね」

「はい。無害だと思っていた書物のオブジェクトがあったんです。その本を持った人間の興味に従って見たい内容を見せてくれるだけというものだったんですけど、それが実は食人アイテム系のオブジェクトでして、気付いた時にはそのサイトの四分の一区画の人間が全滅していました」

「あら。その本、一冊なんでしょう? 随分やられたのね」

「それが、本が繁殖してたんです。食べた人間を苗床にして、新しい本を生んだんです」

「寄生虫みたいだわ」

「ええ、実際寄生生物に近い生態なのだろうという話です。駆除に随分手こずって──何せ本を見た人間は中毒のようになってその本を見続けてしまうので──私のところにまで認識災害を防ぐための助言要請が来ました。どうにかしてサイト一つの全滅で抑えましたけど、それから長い間、本を読むのに必要以上に緊張しましたね」

「余計なお裾分けありがとう」

 宮野は席を立った。財団食堂は今日も満席である。施設に箱詰めになっている職員が多いせいか、食事のバリエーションが豊富で味もいいのが嬉しい。

 カラになったサンドイッチのパックを捨て、定食のトレイを返した中達が歩み寄ってくるのを出口で待つ。

「で、用件は?」

「お探しだったものです」

 中達は菓子屋の手提げを渡した。宮野は受け取って、ちらりと中の箱を見る。

「よく見つけたわね」

「前の副業が情報関係だったので」

「恐ろしい時代になったわ」

 二人は宮野のラボに入った。すぐ目の前に広がるのは、ミーティング用の空間である。中央に置かれた広い机に、菓子箱の中身を広げる。

「まだ全てに目を通していないから断言はできないけど、米花町の不老化現象は全国規模に広まっているみたいね」

 入っていたのは、紙の束である。■■■■年前後の全国のあらゆる年齢層が受けた健康診断の結果や、身体データが記載されている。宮野はその一つひとつを見比べて、頷く。

「でも、米花町ほど極端ではないかしら」

「ええ。しかし認識災害は■■■■年以後、全国に広がっていっています」

「そうね。毛利小五郎の名前がマスコミ経由で広まるのとほぼ同時だわ」

 つまり、工藤の影響ということだ。

「工藤新一君の時が退化したのに合わせて、世間も年を取るのをやめたかのようですね」

「でも、私の開発した薬にはそこまでの効力は無いはずよ」

 人体一つを若年齢化するのがいいところである。

 中達は考え込んでいる。宮野は彼を見上げた。

「まさか、私の薬が特殊オブジェクトだなんて言わないわよね」

「言いません。それより私は今、薬を投与された対象が偶然『工藤新一』となってしまったからではないかと考えていました」

「え」

「つまり、オブジェクト『工藤新一』は強力な認識障害作用、もしくは現実改変能力を持っているのです」

 中達は相変わらず笑みの一つもなく、真摯な表情である。

「どういうこと?」

「認識障害というのは、五感を持つものの認識に一方的かつ大きな影響を与えることです。現実改変能力は、現実を思うがままに変えてしまう力のことです」

 そう前置きして、中達は続けた。

「工藤君ももしかしたら、周囲の人間の認識に大きな影響を与えたり、または自分の思うように現実を変えてしまう力を持っているのかもしれません」

「そんな」

 宮野の口が思わず開いた。

「彼はそんなこと、言ったことないわ」

「この力は、本人が意識していないことの方が多いのです。まず、人間にこのような力を持つ者がいること自体、相当珍しいのですが、彼もそのケースの一人なのかもしれません」

「だとしたらとんでもないことよ」

「ええ、全くです」

 中達は顎に手を当てる。

「認識障害ならまだしも、これが現実改変能力ならば恐ろしいことになります」

「どうなるの?」

「彼はまず、意識の無い状態で財団に監禁されるでしょう」

 彼は至極冷静に、恐ろしいことを口走った。聞いていた宮野の方が動揺してしまう。

「そんなこと、あるの?」

「ええ。過去にも現実改変能力を持つ人間はいました。彼らの多くは非常に財団に協力的でしたが、それでも本人にも制御しきれない能力は、危険以外の何物でも無かった」

 中達は沈痛な面持ちになった。もしかしたら彼は見たことがあるのだろうかと宮野は考えた。

「意識は、人間には制御しきれない。だから永遠に眠らせざるを得なくなった」

「なら、工藤君ももしそうだったら……」

「はい。しかし、それは仮の話です」

 確かめなければならない。彼がそのような目に遭う前に。

 宮野は決意を新たにした。

 時計を見ると、もうすぐ宮野の薬科実験の時間だった。二人は机上に並べた資料を片付け始める。

「そういえば、ついに烏丸グループとの抗争が始まったようです」

「そう」

 宮野にはそれしか言えない。もう『灰原哀』の仕事は終わった。手を引くべき所は心得ている。工藤ならばうまくやり遂げるだろう。

 中達もそれ以上は言わず、別の話を切り出してきた。

「それから、貴方に行ってほしい仕事があると上位委員会から依頼が来ています」

「どんな」

「移動する薬物があるそうなんです。その正体を見極めて、できれば捕獲してほしいと」

「私、銃くらいなら使えるけど、肉体労働は専門外よ」

「承知しています。だから優秀なエージェントを一人つけます」

 中達は一枚紙を差し出した。宮野は受け取って何気なく目をやり、硬直した。そのまま数秒、紙を凝視したまま微動だにしないので、中達が眉根を寄せて顔を覗き込む。

「宮野博士、どうされました?」

「ど、どうされましたじゃないわよ!」

 宮野は声を荒げて、見ていた紙を彼の前に突き返した

「こ、これは契約違反だわ! 私、工藤君を除いて顔見知りとは十年は仕事に関われないようにしてほしいって契約書に書いたわよね? か、彼は──」

「そのはずはありません」

 中達は宮野の震える手から、紙を取った。そして、自分の鞄からまた別の書類を取り出し、横に並べてみせる。

「彼は貴方の挙げた接触禁止者リストの中に、名前がありません」









 その日の宮野志保は落ち着かなかった。

 サイトー81XXのミーティングルーム36は、宮野の足で十分もない所にある。そこが例のエージェントとの待ち合わせ場所だった。

 彼の情報は、中達にひとしきり見せてもらった。財団に登録するための書類も、戸籍謄本も、写真も確認した。その情報を信じていいならば、宮野志保からは恐れるべき敵が一人減ったということになる。

 ──でも、いくら何でも、タイミングがよすぎるわ。

 宮野は逃げ出したい気分に駆られた。だが、今更どこに逃げるのだ。そもそも自分など別に今更どうなってもいいと思って、それより米花町の友人達のために、この財団に入ったのでは無かったか。常に人類の『未知』と隣り合わせのこの職場ならば、今度こそ『宮野志保』として死ねると思って。

「分かってるわ」

 宮野はラボを出る前に独りごちる。理屈では分かっている。だが長かった組織からの逃亡生活は、最早生存本能と強く結びついてしまっていて、理屈抜きで自分を逃げ出したくさせるのだ。

 今度こそ。宮野は気持ちを固めて出かけた。ミーティングルーム36まで、迷い無い足取りで向かった。

「こんにちは」

 部屋にはとっくに電気が付いていて、腹を括って入室すれば、間違いなく見たことのある顔が笑っていた。癖の無い蜂蜜の髪に加え、鼈甲飴に似たつややかな肌に彫られた顔立ちは柔らかく整っているのだから、何も知らない女ならばそれこそ見ただけでときめきを覚えるような菓子の如き男である。だが宮野が現在覚えるのは、寒気だけだった。

「バーボン……」

「これが本当に正式な『初めまして』になりますよね?」

 その男は胡散臭いまでに爽やかに笑って、片手を差し出した。

「どうも。私立探偵安室透ことバーボンあらため、公安警察の降谷零です」

 公安警察の、降谷零。

 中達に見せてもらった資料が本当ならば、彼は本当に『降谷零』という名を持っているのだ。そしてこれは他でもない、彼の本当の名なのだ。

「そういうことだったのね」

 差し出された手を見下ろして、呟いた。

「組織の内部情報や、江戸川君や私のことをこの組織にリークしたのは、貴方でしょう」

 バーボンが目を丸くして、手を下ろした。一層幼い印象になった顔を、宮野は睨みつける。

「私が米花町から逃げ出した夜にやけに早く巡査に捕まったのも、財団の人間が私の所にやって来たのも、財団に所属せざるを得なくなったのも、貴方が仕組んだことなんじゃないの?」

「随分、僕の能力を高く見てくれているんですね」

 男は目を細めて、首を横に振った。

「でも、残念ながら違いますよ。確かにあの晩、君の足跡を一番早く捕らえたのは僕だろう。何て言ったってここは日本なんだから。FBIより僕が早くて当然だし、発信器をつけていない、それも他でもない君を、コナン君が追えはずがない」

 バーボンは組織の中でも穏健派で知られ、どんな相手にも甘ったるい笑顔で丁寧な口調を崩すことが無いと聞いていた。しかし今の彼は、故意かもしれないが、棘交じりの口調で話しているように感じられた。

「けれど、僕が部下を派遣するよりも、僅かに財団の方が手が早かった。彼らはよほど、米花町と工藤君に興味があったようだね。後から僕も所属させてほしいと頼んだら、一も二も無く受け入れてくれたよ」

 そして、もう一度手を差し出した。 

「組織にいた人間というだけで信じられないかもしれないけれど、僕が公安警察だっていうのは本当だ。証明しようにも、公安に君を連れて行くわけにはいかないから難しいけど──」

「構わないわ」

 宮野はその手を取った。細い外見に反して意外としっかりした手を握りしめて離すと、彼の青い目が再び丸くなった。宮野は眉をひそめる。

「何でそんなに驚くのよ。手を差し出したのは貴方じゃない」

「いや、だって、君は小さかった頃も本当に警戒して近づかなかったから」

「あら。貴方にはまだ私が小さな女の子に見えているのかしら」

 眉を上げ、首を傾げて顔を覗き込むと、降谷はいやいやと否定した。 

「あの頃は、私がシェリーだとバレれば、周りにみんなに危害が及ぶと思ってたから。今の私は失うものが無い。だからまさに今、怖いもの知らずって感じなのよね」

 笑ってやると、降谷は丸くしていた目をようやく戻した。そして何故か、苦笑いを浮かべたのである。

「そうか、困ったな」

「は?」

 半眼になっていたのだろう、降谷は慌てた様子で違うんだと首を振った。

「いや、君の笑顔があんまり先生──ああ、エレーナさんにそっくりだから……」

「え?」

 今度は宮野が目を丸くする番だった。