武闘家は、日の出より先かそれと同じ頃に起き出して、稽古をする。いつも念入りな準備体操から始まり、筋肉をほぐし、トレーニングをして、簡単な型をおさらいしているうちに朝食の支度をする時刻になる。朝食が済んだら旅の続きを辿る。

 だが、今日は野宿ではない。宿に泊まったため、いつもなら料理している時間の分、たっぷり稽古ができた。

 しかし、朝食を摂ってから困ってしまった。今日は滅多にない、全日フリーの日なのである。フーガが昔馴染みに会いに行く都合で、まだポルトガ王の命に従ってバハラタへ向かわないのだ。

 どうしよう、とカノンは考える。思考するうちに、足は宿の庭に向かっていた。そうだ、また修練をすればいい。外に出て魔物をいたぶるのは趣味じゃないから、今朝の続きを念入りにすればいいか。

 気を取り直してまた軽い柔軟体操、型の確認から一人稽古を開始する。精神を集中、実戦を仮想。だが周囲への警戒を怠ることはない。

「デートの約束、してたんじゃなかったの?」

 その気配を感じ始めたのが、太陽が頭を過ぎる前。日がきっかり真上へと移動した頃に、尋ねた。まだ技を練習している途中に声をかけたものだから、気配の主は驚いたようだった。

「気付いてたのか」

「当たり前だよ」

 蹴りを一つ、決めて振り返る。

「で? どうしたの。約束があったんでしょ?」

「うーん、ふられちゃった」

 そう言う割に、サタルの笑顔は屈託なかった。

「俺のこと、この辺りの人間だと思ってたみたいで。遠くからの旅人は嫌なんだって」

「そいつは気の毒に」

 勿論全くそう思ってない。だが相手はここぞとばかりにのってきた。

「そう。だから慰めてよ」

「かわいそーに」

「そうじゃなくって」

 デートしよう、と天気の話をするように彼は言った。

「何であんたの女でもないのに、そんなことしなくちゃならないのさ」

「デートは恋人じゃなくてもするものだよ。ね、どう? 随分長い間頑張ってたみたいだし、そろそろ疲れたんじゃない?」

 別に、と返す。疲れはさほどないが、空腹ではある。動くための燃料補給が欲しい。それを見抜いたか否か、サタルは更に提案した。

「じゃあ、デートじゃなくていい。昼飯食いに行こう!」

「デートがいいんじゃなかったの?」 

 女の穴埋めだから、一応女である自分を誘ったのではなかったのか。

「君と一緒に出掛けられるなら何でもいいさ。ねえ、ダメかな?」

 突っぱねるには、カノンは腹が減りすぎていた。

 

 

 







***




 昼は宿で簡単に済ませようと思っていたのに、あれよあれよという間に商業地区に連れ出され、人ごみをすり抜ける羽目になっていた。昼時だからか、口の中に唾が湧きだしてくるような香ばしい匂いが、そこらじゅうに漂っている。

 それなのに何で自分はこんなところにいるのだろう。カノンは納得できない思いで、鏡を見つめた。

「わああかーわーいーいー! すっげえ可愛い!」

 鏡の中には仏頂面の小柄な少女と、満面の笑みを浮かべた少年が立っている。カノンの視線はそのうちの少女、特にその服装に注がれた。

 スクエアに襟ぐりの開いたフリルブラウスの上に、花や蔓の刺繍が施された真っ赤な膝丈のジャンパースカート。ブラウスが純白であるせいだろうか、それともウエストが細く絞られているからだろうか。胸部の膨らみが奇妙に見える。

「ねえ、もっと嬉しそうな顔しなよ」

「うるさい」

 しきりに褒めるサタルを一言であしらう。何が可愛いだ。似合わない。おかしすぎる。自分が自分じゃないみたいだ。

 というかそれ以前に、何で自分はこんな所でこんなことをしているんだろう。飯屋に心当たりがあるからついて来てとコイツが言うから、その通りにしたはずなのに。いや、何でこうなった。

「すいませーん、これ買います」

 はあ? 思わず見上げれば、少年は眉を跳ね上げ、顔の前で手を横に振る。

「あっ、脱がなくていいから。そのまま着ていって。着てきた服は手提げに入れてもらえばいいよね」

「勝手に他人の服を触るな」

 試着室に畳まれた服に伸びた手をぴしゃりと叩く。引っ込めた手をひらひら揺らし、サタルは肩を竦める。

 店員が寄って来た。サタルは素早く自分の財布から金を渡して、やり取りする。カノンに口を挟ませるつもりはないようだ。

 またのご贔屓を! と愛想を振りまく店主を背に、サタルに連れられて店を出る。服を買った? 着替えさせられた? 何のために? カノンは隣の男に疑いの目を向けた。

「いつもこうやって、無理に引っ張りまわしてるわけ?」

「いや、大抵宿の部屋か、相手の行きたいところに行くね。土地勘ないから」

 サタルは颯爽と歩を進める。言葉のわりに、足取りに迷いがない。余計に怪しい。

「何を企んでるんだい」

「企むなんてひどい」

 女に服を贈るのは脱がせるためだという。やはり、そういう嗜好なのだろうか。

 問い質そうとした途端、紫のマントが右手に折れた。慌ててその後を追うと、今度こそ待ち望んだ光景の前に出た。

「ここでどう? 美味い処が集まってるらしいよ」

 直火で炙った鶏肉、色も形も様々なパン、野菜がゴロゴロと入ったグラタン、豪快な魚介のパエリア――様々な目玉商品を掲げる露店街に目が釘付けになる。腹の虫が騒々しく喚き始めた。

「好きなものを見つけて買ったら、ここに戻ってこようか」

 振り回された不満など忘れた様子できょろきょろと周囲を窺うカノンは、サタルがそんな自分を見ておかしそうに笑っていることには気付かない。ただこくりと頷いて、食事の誘惑のままに駆けだした。

 パーティーの金銭管理は主にフーガがしている。だがパーティー全体とは別にそれぞれ個人の財布も持っており、好きなことをする時はそこから費用を出す約束になっていた。

 カノンは、武器と防具以外でほとんど金を使わない。そもそもそれすら、ほとんど買う必要がない。だから個人の財布は、他の二人に比べて潤っていた。

 久々に金を出して、串焼き十本と野菜のコンソメスープ、白パンを三個買った。プレートを抱えて最初来た辺りに戻り、据え置きの簡素な机にかける。そう待たないうちに、サタルが戻って来た。

「カノンって、意外と食べるよね」

 そう言う彼の手には大きめの皿が一枚。トマトソースのかかった鳥肉のソテーと、細長くて黄色い紐状のものの集まりが乗っていた。

「何それ?」

「パスタっていうんだって。小麦粉を伸ばして切って茹でたもので、ロマリアからきた料理らしいよ」

 物珍しさからじっと覗き込む。サタルはスプーンを受け皿にその上でフォークをくるくると回し、麺を器用に絡める。それを口に入れて、彼は一つ頷いた。

「うん、初めて食べたけど美味しいな。食べる?」

 カノンが返事を躊躇ううちに、彼はまた麺をフォークに巻き付けて彼女の口元へと差し出した。反射的に口を開きかけ、はっとしてそっぽを向く。

「い、いらない!」

「なんで? 美味しいよ?」

 フォークがまた目の前に現れる。カノンはトマトソースの絡まったそれを見下ろしてからサタルの方をちらりと窺い、譲る気がないのを見て取ると、恐る恐る口を開き、間近にあるフォークの先を口に含んだ。

「どう?」

「……美味しい」

 だろ、とサタルは嬉しそうに微笑む。カノンが咀嚼して飲み込む間に、彼は再びパスタを彼女の口の前に差し出す。食いつこうとして、寸前で気付いた。

「じっ、自分で食べる!」

 彼の手からフォークを奪い取って噛みついた。顔が発火したように熱かった。何をトチ狂って自分は、当たり前のように他人の手から食べさせてもらおうとしていたのだろう。しかもよりによって、この男を相手に。

「全部は食べないでよ。俺のなんだから」

 対して少年は至って平然と、愉快そうに彼女を眺めている。空腹からの咄嗟の行動を、彼女は内心で猛然と恥じた。

「カノンちゃんとこうやって二人っきりでご飯食べるの、初めてだね」

 デートみたい、とサタルは目を細める。

 しつこい男だ。

「はいはい」

「適当だなあ。仮にも俺は君の旅の仲間なんだから、少しは大事にしてよ」

「そのまま返す」

 カノンはフォークの先を彼へ向けた。

「旅の仲間が鬱陶しそうにしてるんだから、自重しなよ」

「ごもっともだね。君もなかなか返しがうまい」

 サタルはカラカラと笑っている。まったく響いた様子がなくて、カノンはげんなりする。

 取り繕わなくていいのは楽だが、懲りない、読めない、気が合わない、の三拍子がそろって嫌になってくる。先程までは空腹に気を取られていたからまだ良かったが、腹が満たされつつある今、彼に気を向けざるを得なくなってきていた。

「俺と話すの、やだ?」

 やたら察しがいいのも、正直なのも、困りものだ。

 関係が拗れてフーガに面倒をかけるのは、嫌だ。

「そんなこと聞いて、どうすんの」

「君の反応がもらえるのは嬉しい。どんな答えが返ってくるのか、どきどきするよ」

 港町は晴天、広間の空気もからりとして明るい。海風がサタルの前髪を揺らすと、色の薄い瞳に光が差し込んで、元から愉快げな表情が更に煌めく。言っていることこそ妙だが、開放的な港町の空気に、雰囲気は合っているかもしれない。

「カルロスとサブリナって知ってる?」

 急にまた、別の話を切り出した。カノンはかぶりを振る。

「知らない」

「この町に住む、魔王の呪いを受けた恋人たちだよ。カルロスは日中、馬の姿になってしまう。サブリナは夜間、猫の姿になってしまう。動物になっている間は人語を話せない。二人は傍にいながら、会話すらできないんだ」

「災難だね」

「ああ、とんでもない不幸だ。片方を失うよりは幸福かもしれないけど、言葉を交わせないのは、切ないだろうな」

 サダルが空を見上げたので、カノンもそうした。みゃあみゃあ言いながら、ウミネコが青天井を泳いでいった。

「俺たちは同じ人間で、同じ言葉を話せる。でも、お互いの言葉や気持ちを分かってるかと言うと、そんなわけないんだよね」

 カノンは目を戻した。サタルもまた、彼女を見つめ返す。

「君は、服や恋にはあまり興味がない。武術とご飯は好き。そう?」

「そうだね」

「でも、好きなことをしていても、あまり笑わないね。どうして?」

 カノンは小首を傾げる。黙っていると、サタルがまた話し始めた。

「笑えばいいのに。君が思いきり笑うところを見てみたい」

「あたしは見せ物じゃないよ」

「そういうわけじゃないんだよ」

 カノンのトゲに気付いたか、サタルが申し訳なさげな顔をした。

 苦手な相手だが、傷付けたいわけではない。

「歪んだ顔のどこがいいの」

 カノンは、表情の変化しない方だ。いつでも仏頂面の上に吊り目がちで、怒ってなくても怒っているように見える、無愛想、生意気だと受け取られる。そんな自分の顔が好きではない。特に笑った顔などは、眦が下がらないのでキツい雰囲気が無くならず、口が小さくて端が少ししか持ち上がらないので、どんなに内心穏やかでも、挑発しているような表情になる。

 加えて、濃い黒髪なのがいけない。夜を煮詰めたようで、元から明るくはない表情が余計に暗く見える。

「何かに自分の顔が映り込むのを見ると、ぞっとするんだ。ガラスに映った自分の笑顔なんて、最悪だったね」

 俯いていた視線を上げる。サタルは真面目に話を聞いているようだった。お調子者の彼のことだから、てっきり誤魔化すように笑っているかと思ったのだが、予想外だ。

「笑ってれば楽しいと思ってるかと言うと、そんなこともないだろ。あんたはいつも笑ってるけど、心の底はどうか分からない。あたしはこの顔だけど、これでも何かを感じ取ってることもある」

 カノンはカップを口に運ぶ。紅茶が冷たくなっている。話しすぎたようだ。

「悪いね。楽しくない顔のやつと話してても、何も面白くないだろ」

「カノンちゃん」

 サタルが真摯なトーンで言う。

「自虐、良くないよ」

「そういうわけじゃない。本当に、自分の顔が嫌いなのさ」

「俺はね、君のいつもの澄まし顔が好きだよ。でも、だからこそ、澄ましてない顔も見たい。笑った顔、怒った顔、泣いた顔──君の言うところの歪んだ顔も、気になる君の一面なんだからすごく興味がある」

 サタルは、卓についていた指先を目元に当てた。同じ黒髪でも、長い指は白く、瞳は青い。夜明けのようである。随分印象が違う。

「カノンは、自分の嫌なものを醜いものって決めちゃってるんじゃない? 君の醜いと思うものを綺麗だと思う人もいる。もったいない、美しいものは無限にあるのに!」

 その場を抱きかかえるように、両手を広げるサタル。青空、白日、ポルトガの街並み、雑踏。確かに、麗かな午後の日射しに抱かれた世界は美しく思える。

「俺からすれば、君は綺麗だよ。寧ろ、君が何を気にするのか、分からないくらいさ」

 カノンは口の端が一人でに持ち上がるのを感じた。

 世界は美しい。

 だからこそ、自分が浮いて思えるのだ。

 ──あたしだって、あんたがなんでそんなことを言うのか分からないよ。

 この感覚、きっと彼には分からないだろう。

「なるほど。そう言って、いつも女を押し倒すわけね」

「え、え? あっ、違うって!」

 カノンが含み笑いで言った意図が、サタルには最初分からなかったらしい。だがすぐ思い至ったようで、慌て始めた。

「なんでそうなるかな! まだこの間のこと、根に持ってる? 悪かったよ、もうしないよ!」

「分かった分かった」

 サタルはカノンと違って、すぐ顔に出る。特に失敗したと思った時は、驚くほど素直だ。

「ありがとう」

 カノンが礼を言うと、不思議そうな顔をした。何のことか分かっていないらしい。気を遣われるのも何なので、正直に全て言わなくてもいいだろう。

「昼ご飯、美味しかったよ」

「ああ、ご飯か。こちらこそ。他人と食べると、余計ご飯が美味しいよな」

 カノンは立ち上がる。トレイに載せた食器が小刻みに触れ合い、ハミングする。

「また、誘っていい?」

 サタルも席を立ち、後を追いながら問いかけてきた。同じタイミングで海風がそよぎ、スカートが風に舞う。陽光が、優しく素足を包む。

「誰かに振られたらね」

「振られなくても付き合ってよ」

「アンタがそれでよければ」

 今朝のカノンならば断っていただろう。気の向かないことに構う趣味はない。だから着慣れない服も、気の合わない仲間も面倒だ。

 でも、たまにはトレーニング以外のことをするのも悪くないかもしれないと、今は思った。

「この服、洗って返せばいい?」

「何で返すんだよ。俺が持っててもしょうがないだろ」

「また、別の誰かとデートする時に着せるでしょ?」

 後ろの足音が止んだ。

 カノンは振り返る。サタルが、妙な顔つきで立ち尽くしていた。

「俺、そこまで人でなしじゃないよ」

「装備は使い回すもんだろ?」

 サタルの顔がますます妙になった。しかしそれ以上は何も言わず、また歩き始めたので、カノンも歩いた。歩きながら考えた。

 自分は、何かおかしいことを言っただろうか。















20200208 執筆完了



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